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78年前の2023年8月6日,あの「鬼畜米英」軍のB29がヒロシマに原爆を投下,そのとき広島市には帝国臣民の朝鮮人たちも大勢いて犠牲になった

 今日は2023年8月6日である。広島市に対してであったが,78年前の同じ日に,当時は敵国だった「鬼畜米英」のあるB29が単機で襲来し,原爆を投下した。そのとき,広島市には帝国臣民であった朝鮮人たちも大勢おり,当然のこと,彼らのなかからもたくさんの犠牲者が出た。

 ※-1 朝鮮人被爆者の犠牲

 小林聡明(日本大学)「在韓被爆者救護をめぐる日韓交渉:1960s~70s -問題の『発見』から日韓間の合意成立まで―」『日本国際問題研究所 / 歴史系検討会論文集』は,冒頭でつぎのように書きはじめていた。

 以下に引用する文面についてはとくに,言及されている「被爆者の人数」に注意してほしい。いまだに,千人の単位でもって大きく幅を取った範囲でしか,その犠牲者数の推計がなされていないままである。

 いずれにせよ,これからも推計されたその人数が数名単位まで判明するなどといった事態は,絶対に起こりえない。そう指摘しておくべきである。なお,以下では朝鮮人=韓国人のつもりで,朝鮮人,韓国人と個別に書いてもいるが,ひとまず「朝鮮人=韓国人:韓国人=朝鮮人」である。

 『中国新聞』(2019年12月4日付)は,1979年に広島,長崎両市が刊行した『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店)では,広島市で2万5000人から2万8000人の朝鮮人が被爆し,5000~8000人の範囲で死亡したとの記述がみられるとしつつも,

 「犠牲者が多かったのは間違いないが,どれも確固とした根拠に基づく数字とまではいえない」との原爆資料館のコメントを紹介し,同館では具体的な推計値を示していないと報じた。

 さらに 2020年6月には,広島で投下された原爆によって1945年末までに死亡した朝鮮半島出身者の一部が,広島市の死没者調査から漏れている可能性が指摘されている。

 朝鮮半島出身被爆者の実態は,いまだ十分に明らかになっていない。日韓双方の社会に広がる朝鮮半島出身被爆者に対する無関心や在韓被爆者(韓国に帰国した被爆者)に向けられた韓国社会での差別が,少なくとも被爆者の実態解明を妨げる要因になっていた(前掲稿,1頁)。

 

 ※-2 疎外されてきた朝鮮人被爆者

 反核法律家協会セミナー報告文,崔 鳳泰「韓国人原爆被害者の権利闘争の現況と課題」『日本反核法律家協会』は,その冒頭の段落でこう記述していた。

  ☆ 韓国人被爆者はどのように形成されたのか ☆

 1945年8月6日,広島と8月9日,長崎に米軍が投下した原子爆弾により当時朝鮮人は被害を受けた。 その被爆者数は約7万人,うち死者約4万人と推定してきた。ところが,この規模は日本人被爆者総数約69万人に比べると1割以上になり,日本人死亡者約23万人に比べると死者6人につき1人以上になる

 Location    KABV  Deaths Survivors in Korea in Japan
 Hiroshima …… 50,000  30,000  20,000  15,000   5,000
 Nagasaki  ……20,000  10,000  10,000    8,000   2,000
 Total    ……70,000  40,000  30,000    3,000   7,000

 補注)KABV とは広島市と長崎市で被爆した朝鮮人の人数,「in Korea」とは事後,韓国(および北朝鮮)に帰国した人数。

広島市原爆投下による朝鮮人犠牲者・被害者

 約23,000人〔in Korea〕の被爆者が朝鮮半島(韓半島)に帰国した。その後,1948年に北緯38度以南には大韓民国が,以北には朝鮮民主主義人民共和国が作られると,被爆者の大部分は韓国に戻ったが,北朝鮮にも約2千人が帰還した。

 1950年韓国戦争が勃発し,戦争の惨禍を経験し,1953年の休戦になったが,現在も停戦状況は続いて分断になった状況のままである。

 韓国人原爆被害者たちは帝国主義と核兵器に象徴される20世紀,人類の十字架を背負った存在で,よく三重の被害者といわれていて,強制動員,被爆,放置の三重の被害者であると認識されてきた。

 なお,2021年12月31日現在〔で〕1,992人が韓国原爆被害者協会会員に登録されている。

 ※-3 本日,2023年8月6日『毎日新聞』朝刊の記事

 以下に,『毎日新聞』朝刊の記事現物を画像資料として紹介する。この朝刊は,朝鮮人・韓国人の被爆者のことを社会面でとりあげてはいるものの,※-2で言及したごとき「犠牲者・被害者の問題としての彼らの存在」に,直接触れた紙面作りにはなっていない。

4面の上部紙面
 
4面の下部紙面
この記事の上には
「色あせぬ広島 記憶『解凍』 
原爆で消えた街伝える 大学生 写真カラー化」
という見出しの記事が大きく掲載されている
この下の記事には2810人という数字が出ているが
その犠牲者数の全部かどうかは不詳

 この『毎日新聞』朝刊「全体」の構成というか意図らしくものが,広島に関連の原爆投下問題のなかで同時に発生していた「朝鮮人被爆者の現実」,いいかえれば,こちらの被爆者の存在がどのように発生していたのか,その事実を簡単にでも理解させてくれる解説はない。

 もともと,簡単にでもその付近の全容を教えよう・伝えようとする紙面の構成(編集)になっていないゆえ,当然のなりゆきであって,あえて期待するほどの要点ではなかったともいえる。ないものねだりはしないでおく。

 もっとも第2次大戦中,旧大日本帝国は朝鮮人や台湾人(中国人)も強制的に仲間あつかいし,みんなで「1億火の玉!」になって「戦え!!」と号令していた。この事実に即していえば,その内訳は「日本人7千数百万人」プラス「朝鮮人2千2百万人」プラス「台湾人6万人」)で構成されていたのである。

敗戦直後に多くの朝鮮人が引き揚げたが,そのまま永住した者も大勢いた

日帝は敗戦した。自分たちだけもその後はたいそう大変な状況になったのだから,朝鮮人や台湾人のその後における生活のことなど,完全に放置してきた。1945年9月以降の日本(政府)は,どだい天皇陛下(裕仁氏の一族)からして「その程度の気持ち」でもってしか,当時を生きのびていくほかなかったともいえる。

 ましてや,朝鮮人の被爆者(死んだ者とそして生き残った者も含めて)のことなど,新憲法ができて公布されたところで,日本人側にはもう眼中になかった。しかも当時は,日本人側は彼らをやっかい者として以外,ろくに「みようとすらしない存在」として排斥し,差別することに熱心になっていた。

 ※-4 安田菜津紀「〈取材レポート〉被爆2世,女性として直面した複合差別-『韓国のヒロシマ陜川から」『Dialog for People』2023.2.26,https://d4p.world/news/20074/ から

 この安田菜津紀のレポートは,冒頭と後部から2箇所を抜き出し,引用する。原文に興味ある人はリンクをたどって読んでほしい。

 a) 2023年2月7日,被爆者の援護を定めた法の対象外となっているのは不当だとして,被爆2世が国を訴えていた裁判の判決が広島地裁でいい渡された。

 「不当な差別とは評価できない」などとして,原告の訴えは棄却された。被爆2世に対しては,厚生労働省が定めた要綱に基づく健康診断が実施されているものの,がん検診はそこに含まれず,各種手当の交付なども受けられない。

 判決中でも,放射線の遺伝的影響による健康被害の可能性が明確に否定されているわけではない。「研究途上」であるからと国が援護に踏み切らない間にも,被爆者同様,2世も高齢化していく。

 一方,原爆被害にくわえ,それ以前からの植民地支配に翻弄されてきた韓国人被爆者の次世代も,「線引きの外側」に置かれ,公的な支えを受けられずに生きてきた。

 ★「韓国のヒロシマ」陜川 ★〔という場所が朝鮮人被爆者が多く集まっていた都市として有名〕

  (中略)

 b) いまなお置き去りの2世たち

 そもそも韓国人被爆者を含めた在外被爆者支援は,障壁を取り払うまで,あまりに長い道のりを経なければならなかった。1974年,日本では「被爆者援護の法律は海外に暮らす被爆者には適用されない」という通達が出され,在外被爆者は「蚊帳の外」に置かれた。その後も,被爆者みずらの働きかけは続く。

 訴訟では国側の敗訴が続き,通達は2003年に廃止された。ところがその後も,受給権をえるためには日本に来て健康診断を受けることなどが求められた。「来日要件」を越えられない被爆者たちは,取り残されることになる。

 国は「裁判で敗訴したところだけをあらためる」という行為を繰り返し,在外被爆者が日本にいる被爆者と同水準の援護を受けられるようになったのは,戦後71年が経った2016年になってからだった。

 ところが「2世」にはいまなお,日本政府からも韓国政府からも援護や手当などはない。正淳さんは韓国政府が関心を払わないことにも,もどかしさを抱いてきたという。

 「私たち原爆被害者2世は,被爆の後遺症で苦しんでいるという事実じたいを認めてもらえないのです。2世であることを隠したがる人もいます。せめて韓国政府が認めてくれて,積極的に支援してくれたら,勇気をもてるのに……」

 (後略)(引用終わり)

〔本ブログ筆者の記述に戻る→〕 ところで,日本の原爆被害者2世も韓国の原爆被害者2世も,その被爆者・被害者の立場に,なんら違いはない。なぜなら,彼ら「たち」は同じB29が広島市に落とした原爆の被害者としては,完全に同じ境遇に置かれてきたからである。

 この程度の事実は特別にいうまでもないが,日本に残らず韓国に帰国した被爆者たちに対する「二重の差別」は,敗戦後史のなかで長くつづき,該当者たちを苦しめてきた。

 同じ帝国臣民の被爆者として,朝鮮人は最初,日本〔国籍〕人ではないといってその援助からは排除されていた。しかし,原爆の被害にあったのは,同じ帝国の臣民として広島にいたからであったのに,ずいぶんおかしな,つまり「差別のあつかい」をもろに受けてきた。

 敗戦までの日本で暮らしていた朝鮮人たちは,広島で浮浪していた人間たちではなく,それぞれに帝国日本のために植民地出身の人間として「労働力を提供していた」。日本が敗戦したのち,連合軍の支配統治が解かれるまでは,在日していた朝鮮人たちは『日本国籍の持主』であった。

 敗戦後史の当初から,朝鮮人たちはなお日本帝国の臣民でありながら,日本〔国籍〕人ではないかのようにもあつかわれてきた。サンフランシスコ講和条約が締結され実効になると,在日朝鮮人たちは一挙に,それも一方的に外国〔国籍〕人あつかいされることになった。それも法務省の官僚が出した「通達」をもって,そのように専断的に法的地位を変更されていた。国際法の常識など完全に無視していた。

 1945年8月6日,広島にいて原爆の被害にあって死んだ多くの朝鮮人も,たいそう気の毒であったが,被爆だけして傷害を被って生きのびてきた彼らは,その後,被爆手帳を給付されるまでには長い年月を要した。その長かった期間は,日本の政治・行政の「在日差別」邇対する〈酷さ〉も同時に意味した。

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