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「皇室・天皇家」が日本の社会を本当に象徴できているのか,民主主義国家体制のなかに生きる封建遺制の虚空さ

 ※-1「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という憲法条項の真偽

 はたして,「皇室・天皇家」が日本の社会を本当に象徴するのかと問われて本気で肯定できる人はいない。そこまで完全に断定したらいいすぎになるかもしれないが,そのように肯定する・できる人も大勢いるとも断わっておくことが,とりあえずは穏当な表現だと思われる。

 だが,民主政をいちおう採っているこの日本において,「封建遺制そのものである天皇・天皇制」は,いったいどのような存在価値があって,あるいは,特定の利害関係方面が潜在する(こだわる)がゆえに存続させられているのか。

 この国に生きている人は,いまいちど,自分の脳細胞をまともに揺らし動かし,その種のきわめて特殊な「自国の問題」を,根本からきちんと再考しておかねばなるまい。

 西田幾多郎の哲学風に表現してみるに,日本の天皇問題をめぐっては「皇室の今」が「今の日本」になりうるのか(?)と,あらためて問うてみるもよし。

 昭和天皇は,大正天皇がいなくなって天皇になったさい,1927年からの出来事としてだが,この裕仁が田植えをみずからおこなうことによって,皇室の要である「自身の存在価値」に,新たな意義を付加する工夫を試みた。

 たとえば,『産経新聞』の記事を材料にして説明する。これは,昨年2023年5月中の報道であった。いまの天皇徳仁が皇居内の田んぼで田植えをしたという出来事は,この時節になると必らず報道される「皇室関係の定番記事」であった。

ワイシャツーの袖がとても気になるのだが?
農作業をするかっこうにはみえない

 大昔,つまり江戸時代までであったら,天皇みずからが泥水をイジることになる田植えなど「不浄な行為」であるゆえ,絶対にありえないしぐさであった。土も自分の足で踏まないのが「天皇の神聖なる立場の振るまい」ではなかったのか?

 もっとも,上掲した『産経新聞』の記事に添えられた令和の天皇の写真はゴム長を履き,なんと長袖のワイシャツ姿のまま手植えをしている。足元は実は小さな出島のような場所が確保されており,ここから苗を植えていた。

 それでもって本当に田植えといえる農事を意味しうるのかといったら,いまどきは狭い棚田でもなければ必らず耕運機で田植えする時代に,この絵柄は,ありえないものだといわれかねない。

 以下に追加しておくのは,平成天皇,昭和天皇の田植え姿と,子どもたちが昔風に田に入って田植えをする光景の,それぞれ画像である。

徳仁天皇の父・平成天皇の田植え
徳仁天皇の祖父・昭和天皇の田植え
足元の出島風の足場に注目

昭和天皇の場合は長袖をまくり上げていた
はたして天皇各自がこの田んぼ全部に苗を植えたのかどうか
この種の報道は耳にしたことがない
群馬県沼田市・升形小学校田植え風景

元気な子どもたちでもあとで足腰が痛くなったよ
といわせるかもしれない1葉の写真である

 天皇がそれも昭和天皇がいまから1世紀近く前になるが,みずから田植えをおこないはじめたという行為は,天皇家内における以下に列記するごとき「宮中祭祀の主要祭儀一覧」を強く意識したものであった。これらはもちろん1月から順に並べてある。

          ◆ 宮中祭祀の主要祭儀一覧 ◆

     四方拝・歳旦祭
     元始祭
     奏事始
     昭和天皇祭(先帝祭)
     孝明天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
     祈年祭
     天長祭(天長節祭)
     春季皇霊祭・春季神殿祭
     神武天皇祭・皇霊殿御神楽
     香淳皇后例祭(先后の例祭)
     節折・大祓
     明治天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
     秋季皇霊祭・秋季神殿祭
     神嘗祭
     新嘗祭
     賢所御神楽
     大正天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
     節折・大祓

宮中祭祀


 この一覧をみてすぐに気づくのは「皇祖皇宗(クヮウソクヮウソウ)」に対する祭祀と,「季節」ごとに因む祭祀と,あとは祓いごとであった。天皇一族も人間であるから明日以降の未来に生きていかねばならないが,祭祀の性質がどこまでも過去志向であるという儒教的な事実ばかりが,この一覧からはよく伝達されてくる。

 この祭儀に1年中熱心にたずさわっているはずの「彼らの宗教的な立場」は,日本国憲法の冒頭からまさしく,こう規定されている。

  第1章 天皇

〔天皇の地位と主権在民〕 第1条 天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。

〔皇位の世襲〕 第2条 皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。

日本国憲法第1章

 こうなると,日本国憲法第1章は土台からして,日本国民たちの「信教の自由」を抵触(否定!)する条項そのものだ,という判断・解釈が生じて当然である。

 敗戦した日本をどのように始末していくかに関しては,GHQの大将〔否元帥であったが〕ダグラス・マッカーサーは,日本国憲法を帝国臣民たちに向けて準備し,これを押しつけたにさい,つぎのように「根幹から矛盾した指示3項目(を命令として)」を示していた。

ローマ数字Ⅰ,Ⅱ,Ⅲの見出しのみつぎに説明することになる

 1946年2月3日,マッカーサーが示したノート(メモないし原則)として提示された以上の3原則は,要するにこういう中身であった。

 「封建制廃止」の三原則を記した以下のごとき指針を示し,これに沿った憲法草案を作成するよう命じた。なお,( )内の追言は引用者の付加文言である。しかし,この3項目をみて,「あっと驚く爲五郎」(1969年の流行語)だという気分になる。

  Ⅰ「天皇制存続」(現在もつつがなく存続しえている)
  Ⅱ「戦争放棄」(安倍晋三君のおかげでいまでは戦争したい国に変身している)
  Ⅲ「皇位の継承は世襲である」(これも文字どおりであって,これとそっくりな政界事情が現在でも強固に持続している) 
 (⇒自民党には「世襲3代目の政治屋」がウヨウヨいて,もうしばらく経ったら「世襲4代目の政治屋」まで徘徊しだすが)(これは政治的に後進国であった日本の実体を端的に現わす)

 だが,以上うちのとくにⅠとⅢは,民主化を日本占領政策の基本路線に据えたアメリカ国務省側の,あきれるくらいに,そもあからさまに矛盾する項目の指示になっていた。

 なんといっても最大の矛盾(自家撞着)は「天皇位は世襲でよい」とした点にあった。昨今においてまだまだ,日本の政治に根深くはびこる「世襲3代目の政治屋」の政治公害的な悪影響は,あえて指摘するまでもないが,

 敗戦した大日本帝国大元帥であった天皇家の家督者に対して,この天皇家じたいの存続を許したマッカーサーは,きっと「損して徳とれ」の要領を発揮できたと大歓びしていたかもしれない。

 「損して得取れ」の意味は商売(商取引)にかかわる含意が第1義であるが,ともかく「一時的に損をしてもいいから,将来の大きな利益をめざして……」という要点にあった。

 「損して得取れ」とは,商売用語でとく使われ,投資の大切さを教える言葉だと説明されている。けれども,マックはハンバーガーを売る商売人ではなくとも,軍人出身の切れる頭脳の持主として,実際に旧大日本帝国の運命を上手にさばいたことになる。

 「封建遺制」としての天皇・天皇制を持続させ,しかもその「皇位の継承は世襲でよい」と規定させたのだから,こうなると「マッカーサー1人の勝手でしょ」といって済まされる問題ではありえなかった。敗戦国日本はしかし,このマッカーサーの方針にはむろん抵抗はしていたものの,結局押し切られた。敗戦国の現実,その悲哀であった。

 そして,1948年12月23日(当時の皇太子が15歳の誕生日)は,A級戦犯が絞首刑に処された時期にもなっていたし,日本国側の立場はともかく,マッカーサーのそうした占領政策の推進力に抗える気力が皆無であった。

 当時,天皇家の立場は,皇族たち(皇族と華族の人員)の大幅削減を余儀された結果,それなりに相当こじんまりした規模にまで縮小されたが,なんとか基本的にはサバイバルできていた。

 さて,前段にとりあげた話題「天皇の田植え」風景が,本来の農作業(農事)という観点からみた場合,きわめて特異な様相を呈していた。というのはそれは,裕仁天皇が自分の時代になって意図したかたちで,しかも,本来(?)の皇室的な伝統らしきものではなく,あえて構築・付加しようとしたがため,実際に演じてきたその姿はある意味,とても異様で,もとより「田植え」「そのもの」とはいいがたい「手植えの光景」となった。

 もう一度いうけれども,天皇自身が田植えをするなどいった行為は,「天皇自身がかかわる本来の作業などのひとつではありえなかった」のだから,あくまで,国民(臣民たちの立場)に寄り添うためのポーズ造り(演出)として,その田植えの〈まねごと〉を演出し,演技してきたに過ぎない。

 だいたい,ゴム長履いて,長袖の袖もめくらないで,土には指先以外はなるべく触らないでするような田植えである。毎年の5月,皇居内にしつらえられている田んぼでの「前掲画像」のごとき田植えのやり方を観ていると,

 いまでは通常,田植え機に乗って田植えをする時代に,なんとも時代がかったような,それでいて本当のところは,どの時代にもありえなかったような,つまり,前例などはいっさいなく,ただ皇居内において創られたその光景,昭和天皇自身の案出になった「その台本および脚色」は,しょせん「大向こう受け」を狙うところに当初の目的があった。


 ※-2 最近にみる朝日新聞記者の皇室論や憲法論は,なにをいいたいのか?

 なお冒頭でことわっておくが,この※-2から以下に記述する中身は,10年ほど以前(2014年2月18日)に,一度公表したことのある文章である。しかし,議論している内容としてはなんら陳腐化する性質ではない。もちろん必要な更新をくわえた記述となっている。           

 1) 「〈記者有論〉皇室と今 メッセージに込めた思いは」『朝日新聞』2014年2月14日朝刊16面「オピニオン」

 このオピニオン欄の執筆者は,朝日新聞特別編集委員 冨永 格(当時の肩書き)。

 最近(当時),朝日新聞でも,変な・妙な皇室論を,解説記事というか,へたをすると単なる「天皇家ヨイショ記事」のような体裁で,それもずいぶん気味(気分)の悪くなる〈文書〉を書く記者がいた。

 朝日新聞特別編集委員・冨永 格(ただし)が,2013年8月18日「〈日曜に想う〉やんごとなき遺産が輝く時」に書いた一文がその実例であった。

 冨永が書いたその文章からは,最後部3分の1ばかり引用しつつ,寸評をくわえていく。

 --人はみな平等と習った昔,皇室や王室の存在は不可解だった。いま50年前の自分を納得させるには,「ずっと前からあるんだよ」とでも説くのだろうか。権力欲をぎらつかせ,好きに振るまう独裁王朝も残る。対して,民主国家における「例外」は楽ではない。

 補註)「民主国家における『例外』」とはなにを指しているのか? 天皇家一族のことか。ならば,日本国憲法はその体系内に,その〈例外〉をかかえこんでいることになる。

 例外なら臨時であり,とりあえずのものであり,その場かぎりのものでありそうである。「例外」でなくなれば,それでは「楽になれる」というわけか?

〔冨永に戻る→〕 天皇も,あまたの国事行為や国際親善,宮中の祭祀(さいし)でお忙しい。「特別な家系」の存在理由は国それぞれだが,いまの皇室が体現し,内外に発するメッセージはなによりも平和だろう。両陛下は世代的にも,かの憲法とともに,戦後日本のシンボルといえる。

 補註)いつ・どこで・どのように,日本の天皇は「内外に発するメッセージ」として〈平和〉を唱えてきたというのか。憲法の規定である,それも国事行為関係の規定(形式・内容)に照らしてみて,このように主張するのは,つまり「戦後日本のシンボル=平和,天皇(?!)」という歴史認識(!?)において,わざわざそのように議論したのは,どだい奇妙な珍説の話法であった。

 「平和の国」の「日本の天皇」が,敗戦後からいままで「平和」を国内外に発信するという〈仕事〉は,はたして憲法や,これにもとづいてある宮内庁法の規定にそぐわしい行為たりうるのか。もっと,まともに突きつめて考えぬく余地がある。もっとしっかり現実的に考えねばなるまい。

 a)  いま〔当時〕のイラクの国内混乱状態に向かい「天皇が平和」を呼びかけたら,まだまだ止まない国内テロ行為が終わらせられるとでも,確言しうるのか?

 b)  隣国の世襲3代目のお坊っちゃま独裁者に対して,貴国の独裁政治は止めて,おたがい「平和にやろうよ」といったところで,いったいどうなる可能性がありえ,国交が回復できるみこみが期待できそうか? 

 おそらくだが逆に,日本帝国側に現在する「封建遺制:天皇制反対」というこだまが返ってくるのが,オチ(?)ではないか。あの国の独裁者の妹がいるが,このオネエちゃん,なかなかの強者であって一筋縄ではいかないレディである。もっとも妹であったから,異母兄のように殺されていないところが,絶妙なる兄妹の間柄を意味していたとも形容してみる

 c)  シリアの内戦状態について,この国の大統領に「内戦は止めて,平和にやりましょう」といったら,すぐにでも,あの悲惨な殺し合いを止めますという返事が,わが「平和の国の天皇」に対する答えとしてもらえる,そう請け合えるのか? 冗談にしかなりえない発想にもとづく口調は,せいぜいほどほどにすべてきであった。

〔冨永に戻る→〕 冷戦末期の1983年,英国はソ連との核戦争を想定して「女王の演説」を用意した。ナチスへの抗戦を呼びかけた父ジョージ6世のスピーチは映画にもなったが,このほど公開された草稿は,政府高官が机上演習の一環で作文したもの。エリザベス女王(87歳)はあずかりしらぬ内容らしい。 

 〈戦争の狂気がいま一度,世界に広がろうとしています。勇敢なわが国は再び生き残る準備をしなければなりません……〉

 むろん,これを読ませないのが政治や外交の責務である。浮沈を重ね,時代の荒波を乗り越えた「やんごとなき遺産」に,もはや争いは似合わない。その真価は,平和という薄あかりのなか中で,たとえば朝の食卓で,静かに輝いてこそだと思う。

 補註)ここまでいう(いえる)ならば,昭和20〔1945〕年8月以前,この国の天皇であった人物が,あの狂気の大東亜戦争の過程において,それも大日本帝国陸海軍を統帥する大元帥として,どのような発言および行動をしてきたか。あらためて,思いだしてみる必要もあったのではないか? 

 確かにそれもまた,「やんごとなき遺産」の歴史・履歴として,非常に重要な,欠かせない蓄積・記録ではなかったか?

 以上のように,ひたすら上っ面をなでまわすような「冨永 格」の発言に関する疑問はつきない。ものごとの一側面・一部分しかみようとしない編集委員の発言には,一驚どころか,腰が抜けるかと思うほどの稚拙・未熟さを感じる。

 歴史の現実,経済と政治の様相,軍事面の動静,このどれをとってみても,そのかけらにしか触れえていないような,しかもおまけにすぐさま「歯が浮いてきそうな」軽い論説になっていた。ここには,最近における新聞社幹部の質的劣化現象をみいだすしかない。

 補注)本ブログ筆者の記憶では,2014年ごろまでには,朝日新聞社の言論機関としての体力低質かという劣化が相当目立ってきた。

 つぎの「朝日新聞の早期退職募集に再び業界激震…デジタルで生き残れるのは日経だけなのか?」『ABEMA TIMES』2019年12月6日 18:08,https://times.abema.tv/articles/-/7031864 から関係する段落を切りとって紹介する。

本ブログ筆者が『朝日新聞』の購読を止めたのは2022年
いいかげん呆れるような記事が増えてきた時期であった

 2)「(記者有論)皇室と今 メッセージに込めた思いは」『朝日新聞』2014年2月14日朝刊16面「オピニオン」(社会部 島 康彦)

 こちらの「皇室と今 メッセージに込めた思いは」は,こう語る。

 皇室・宮内庁を担当し,天皇,皇后両陛下のお出ましに同行取材をしても,直接,質問することはできない。だからこそ,ご本人が発したメッセージの意味をしっかりと受けとめなければ,と思う。

 補註)以心伝心,アウンの呼吸,一を聞いて十をしる。こういうことが,天皇夫婦の言動に接するさいには,必須の基本姿勢になるということなのか?

 天皇陛下は昨〔2013〕年12月,80歳の誕生日前の記者会見でこう述べた。

 「戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,さまざまな改革をおこなって,今日の日本を築きました」

 補註)その最たる改革(民主化--ただし,もっとも肝心なところでは中途半端に終わっていた--)が,旧大日本帝国憲法を改定し,新日本国憲法を制定したことである。

 天皇家はその存亡が根本から問われた時代であったが,たまたま占領軍がソ連軍ではなくアメリカ軍であったことが「不幸中の幸い」の結論になっていた。皇族(王朝)そのものがとり潰されることはなかった。

 過去における人間社会の歴史を回顧すれば分かるように,あれだけの大戦争に敗北していたのに,よくも天皇一族が生き残れたな,と判断するのが正解である。

 もっとも,連合国軍の主体であったアメリカ軍は,敗戦した日本を占領・統治する都合上,「天皇を国際政治的次元で大いに政治利用することに決めた」(アメリカ側では「この結論」に至るまで,いろいろな意見が交わされていたが)。

 「天皇を裁判にかけて……」という意見も,もちろんそのひとつとして,強力に提示されてもいた。敗戦後におけるさまざまな改革は,日本から天皇・天皇制をなくさなかったことに焦点を合わせて,21世紀のいまの時期にまで関連させて,再考すべき歴史上の出来事が一挙に発生していた。

〔記事に戻る→〕 その2カ月前,皇后さまも自身の誕生日前に出した文書回答で「憲法」に触れ,明治憲法の公布前に民間有志が起草した「五日市憲法草案」を紹介。基本的人権の尊重,言論の自由など現憲法につながる内容が記された「世界でも珍しい文化遺産」と評した。

 補註)明治政府が採りいれる気などなかったどころか,これを目の仇のようにするほかなかった対象:「五日市憲法草案」を,皇族の美智子皇后が言及したことをきっかけに,いまごろにもなってから古証文のようにもちだしては,これを盛んにヨリ現代風に〈ヨイショ〉するという『明治史から現在までの〈前後の関係〉解釈論』は,たいそう理解しにくかった。

 天皇家の人びとの現在にとって,現憲法がどれほどすばらしい法律なのかに関していえば,実は,彼らの「皇族としての生き残り戦略」にとって,この憲法のあり方がまさしく,死活問題を意味してきた〈事実〉からして,まず最初にしっかり理解しておく余地があった。この事実に議論の出立点を据えねばならなかったのである。

 天皇家にとっての憲法をどのように位置づけるか,それが,自族にとって最良・最善のものたりうるように,この方途に向けて日本社会を誘導するためであれば,明治時代,現在の天皇の祖先が排斥・弾圧し,抹殺し・無化する対象でしかありえなかった「▽△▽憲法案」の良さを賞揚することもいとわなかった。

 正直な理解としてならば,すなおにそういっておく必要があった。悪意だとか善意だとかいった次元の問題ではない。彼らの立場・利害にとって,どのように現実的な利害が前提されていたのか,その基本を見失ってはいけない。彼らは彼らなりに自分たちに都合のよい解釈を開陳しただけである。

 彼らの政治的な現実利害の観点に即して観察するにせよ,われわれ庶民の平々凡々たる生活的な価値観から詮索するにせよ,歴史を観る視座がどこにどのように設営されるかによって,その「▽△▽憲法案」を評価する方法はおのずと質的にも異なってくる。

 歴史に対して冷静な立場からすべき認識は,しごく当然に要求されているるゆえ,その意味で「同じモノ」を観ていても,「感じようとするところ」の「生活感覚的な受けとめ方」に関していえば,「両者間」においては非常に大きな間隔(隔絶?)が生じていた。

 ここでいわれた「両者」間という字義は,もとは本質論的にだいぶ懸隔があった者同士における関係として捕捉されるべきであった。したがって奇妙にも,そうではなく逆に「もともと緊密であったかのようにすりかえられた要点」の受けとめに関してとなれば,前もって慎重に接する必要があった。

〔記事に戻る→〕 陛下は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めた明治憲法下で生まれ,物心つくころ,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とした現行憲法への「改憲」を目の当たりにした。

 補註)現在の天皇(ここでは平成・明仁天皇のこと)は,少年時代から自分は「天皇になる人間なのだ」という意識(いわゆる帝王になる気持・覚悟)を,強くもたされてきた人間である。

 つまり,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という旧憲法の時代精神にもどっぷりと,それもごく自然に漬かってきた人物が明仁であった点に関していえば,そうであったとしかいいようがなかった。彼は,幸か不幸かそのような運命に定められた人間として,敗戦後の世界を生きていくほかなかった人物である。

 だからこそ,つぎのように強調しておく必要もあった。これはけっして意地悪く指摘することではなく,なるべく,彼の抱く自分精神史の真意(本当の思い)に近づき,これを理解するための努力が,われわれの側においても意識的に傾注されねばならないことを強調している。

〔記事に戻る→〕 1989年,即位後初の記者会見で「終戦の翌年に学習院初等科を卒業した私にとって,その年に憲法が公布されましたことから,私にとって憲法として意識されているものは日本国憲法ということになります」と語った。

 お2人が会見や文書にこめた思いを周囲に語ることはないが,いま,ともに憲法に言及されたのは偶然だろうか。戦後70年を控え,十分な議論が尽くされぬまま現行憲法からの「改憲」の動きが加速しそうな状況と無関係とはいえないだろう。

 補註)天皇明仁(いまは上皇になっている)は,「自分の意思」を存分に語ることができていたのか? 語ってもいいのか? 個人的な意見・見解であっても,ふうつの人びとと同じように気軽に,政治的な発言をすることは許されていない。それが天皇の立場である。2019年に実現させた退位の問題に関してだけは,相当に意地を通して自分の意向を実現させていたが……。

 日本国・民統合の象徴である「人間の天皇」が,この国民の側を代弁して「おのれを語る」という事態は,日本国憲法について法哲学論的に考えても絶対的に自家撞着になるほかなかった「天皇の姿」である。

 なまじ「日本国・民統合の象徴」になったがために,かえって自由にモノをいう権利は,天皇には与えられていなかったはずである。しかし,彼に語れることがひとつだけある。それは「日本国憲法を守ります」という一事である。それはそうである。自分たち一族の存在理由であり,かけがいのない法律的な根拠を,まさしくこの日本国憲法は強力な足場として提供してくれている。

〔記事に戻る→〕 もうひと方,最近,メッセージを発していると感じるのが,皇太子妃雅子さまだ。

 〈悲しみも包みこむごと釜石の海は静かに水たたへたり〉

 今年の「歌会始」で雅子さまは,昨〔2013〕年11月に岩手県釜石市を訪れた際の心境を詠んだ。津波となって人々を襲った海が,いまはその悲しみを癒やすような穏やかさで目の前に広がる。自然への畏怖(いふ)と復興への願いを込めた歌だ。

 補註)雅子がこのように和歌を詠めば,これが歌う内容がどこかでか,実現し,登場することを期待してよい,ということなのか? このような期待はあくまで,ひとつの象徴的な意味あいしか発揮できまい。他者がそれをどのように受けとるか,受けとれるかなどといったところで,現実面においては「具体的にはなんら因果の生じえないそれ」ではなかったのか。

 このように考えこんでいくと,よけいに雅子という皇族の1人が,いったいなんのために・どういうわけで,皇太子の配偶者として生きているのか,その「日本国憲法的な意義」までもが,ますます分からなくなるばかりである。

〔記事に戻る→〕 雅子さまが長期療養に入って10年〔これは2014年時点の話である)。愛子さまの誕生以降は,家族など身近なテーマの歌が続き,内向きだと評されることもあった。

 補註)10年というとこれは「一昔もの期間」である。ふつうの家庭・所帯でこのような長期療養を要する家族が出れば,これはたいそうな負担となる。

 皇太子の妻の精神状態が「内向きだ外向きだといった次元」に収まりうるような「現実の話」は,庶民にとっては譬えがいいかどうか分からないけれども,なにか〈高嶺の花〉的な話題であるかのように聞こえていた。

 --ここから以下は,引用された記事からは離れていく記述となる。以上のような引用および言及の次元とは,明確に異なるかのような話題となっていく。だが,それでいて,とても悠長であると思えてくる,「皇太子の妻」(ここでは雅子のこと)が「内向き」だとかいったたぐいのこの話題が,日本社会に向けてこれぞとばかりやかましてく拡散されていた。

 補注)前後する記述は,どこまでも2014年2月時点のものであったので,ここで念のため。

 ところで,それまでの雅子は,皇族の一員としては以前より「アウト・ロー」たる覚悟をもっているようにうかがえなくはなかった。その人に「内向き」に映るものがあると外部の観察がみたところで,とりたててなにか重大な問題が,日本社会の側全体に潜在しているとは思えない。世間が週刊誌的に騒ぎ立てるのはどうぞお好きに,という印象であった。

 ただし,皇族たちは国家予算によって全面的に生計を支えられて,自分たちの十分に余裕のある生活をしている。象徴天皇をかこんで,この一族たちがどのような生活を「していなければいけない」のか,その「規則も決まりもない」なかで,

 冒頭で触れてみた『宮中祭祀』や『皇室行政』という〈私家専用のためのお仕事〉にもかかわっているというのだから,はたでは,とうてい理解できない苦労(心労)もあるものと推測する。

 だが,週刊誌的な関心の的にしかならない程度の彼らの生活実情であるならば,山折哲雄の発言ではないが,「皇太子殿下,ご退位なさいませ」(『新潮45』2013年3月号)という言上とあいなっていた。

『新潮45』2013年3月

 隣国のあの3代目独裁者を悪しきざまに罵るのもいいが,自国の「このなんというべきか,相当にもちゃもちゃした皇室内諸問題」,いったい,これをどのようにとりあげ議論を深めていけばよいのか? 皇室関係に関して,まさか言論の自由が「完全にない」わけでもあるまい。

 ここまで批評したところで,記事にもどってつぎの引用となる。

 『今年の歌には「被災者に心を寄せていくという強い意思を感じる」と歌の専門家はいう。体調の波を少しずつ乗り越え,雅子さまの視点もまたご自身や家族といった身近な所から,被災地,国民へと広がっているのを感じる。その思いも受け止めていきたい』

 補註)「国民へと広がっているのを感じる」「その思い」とは,いったいどういうものなのか? 分かったようで,実際は全然分かりにくい表現(独自の解釈)が語られている。

 その文句を単純に解釈すると,雅子はもっとご公務に励めとでも,いいたいらしい。しかし,そういう方向が実現していったら,この国のどこかにおいて,なにかが,どうにか「なっていく特定の可能性」が期待・展望できるというのか。たとえば,アベノミクスとは関係がありうるのか? だが,まさか,なかったはずである。

 日本の哲学者になかには「ある」と「なる」ということばの違いにこだわり,なんともむずかしい議論を披露してくれる者もいた。少し真似をして,こういってみたい。

 いま「ある」皇室の人びとがどう「なる」かによって,この国のありようが,さらにどのように変化しうる期待がもてるというのか?

 どう「なる」にせよ,いま「ある」私たちにとって,「彼ら」の「ある」生きざまが,具体的にいかように,われわれの生活空間にまで重なる存在に「なる」未来が「ある」というのか? 

 このように,ことがらを考えれば考えるほど,頭のなかはよりいっそう錯綜・混乱してくる。           

 

※-3 元宮内庁長官,羽毛田信吾の呑気なエッセイ

 『日本経済新聞』2014年2月12日夕刊1面のコラム〈あすへの話題〉に,元宮内庁長官で現在「昭和館」館長の羽毛田信吾が「昭和館」について,つぎのように語っていた。

 ビルマ戦線の夫から妻への手紙。妻が送った我が子の写真に「回らない口で何か俺にいっている気がする」と喜び,残した家族のことをあれこれと気遣っている。展示ケースの中の茶色に変色した紙面から時を超えて濃(こま)やかな愛情が伝わってくる。

 いま,九段下の昭和館に勤務している。先の大戦中そして戦後,戦地に赴いた人たちはもとより,銃後の国民も,戦争で肉親を失った人たちをはじめ,いいしれぬ悲しみと苦しみを味わった。

 昭和館は,戦中,戦後に国民が経験したさまざまな労苦を後世に伝えることを目的とした施設である。展示資料などを通して多くの人に戦争の悲惨さと平和の尊さを実感してもらえればと願っている。

 戦後の復興を象徴する先の東京オリンピックでさえ,いまや,実体験は五十代以上の世代に限られる。敗戦直後の耐乏生活をしる人も少数派になりつつある。

 戦争の悲惨さや国民生活の苦しみの記憶が風化していくことが懸念される。かくいう私自身も戦争の記憶はなく,辛うじて戦後の配給や代用食の貧しい生活をしるに過ぎない。

 昭和館には多数の小学生や中学生が見学に訪れる。子供たちが防空壕の模型をただ不思議な仕掛として眺め,手押しポンプによる水汲み体験にも体力テスト感覚で挑戦しているのではないかと心配になる。彼ら「戦後をしらない子供達」に当時の労苦を実感として伝えることは容易でない。

 しかし,子供たちは,アンケートに対し,「展示を見て戦争は絶対してはいけないと思った」,「自分たちの平和な暮らしが父母や祖父母の苦労の上に築かれたのだということが分かった」などと答えている。これらの回答を励みに,館のいっそうの充実を期している。

羽毛田信吾の呑気なエッセイ

 ここでなりに,のっけから疑問……。

 ところで昭和館というからには,昭和天皇に関する展示物もたくさんあるものと思って,当然である。しかし,以前,この館に見学にいってみたが,あまりにもあっさりした展示の内容でがっかりした。

 天皇の存在がきちんと全面に出てこない昭和戦前期の展示方針--たしかに戦前・戦中が中心の館であるのに,これ--には,大きな疑問を抱いた。なかんずく,画竜点睛を欠いた「昭和の展示館」なのである。

 同館に展示されている「昭和の苦労話」と昭和天皇は,切っても切れない関係にある。しかし,この皇室的・天皇家側の問題には,故意にかかわりをもちたくないかのような,昭和戦前期の一面歴史にだけ注目していればいいとする〈昭和館〉の基本姿勢であった。

 昭和の生活一面史に関するだけのための,この程度である昭和館の存在意義は,はたしてどのように評価されるべきか? 「皇室の今」といわれていたが,「今の皇室」さえ,よく認識できていない現状のなかで,どうしたら「皇室の昔・今・未来」を通観するための回顧や眺望できるというのか,ますます不明瞭になってきた。

 昭和館が展示の対象にしているこの戦前日本においては,大日本帝国「天皇裕仁の存在」は絶大であった。ところが,その人物の「存在の影」が非常に薄い資料館が,昭和館であった。

 別にまた,東京都江戸東京博物館がある。こちらに見学にいけば,昭和館はまず不要・無用の館に映る。まさか,高級官僚の天下り先のひとつではあるまいや(というか,そのとおりか?)。

 「皇室の今」ということばに接していると,前段にちょっぴり触れてみたが,「永遠の今」という西田幾多郎の哲学用語を思いだした。「今の生活に汲々としている庶民」の立場・日常にとって,「皇室の今」が関心事たりうるのか,大いに疑問であった。あらためて,「今」こそよく再考してみたい現実的な問題が「昭和館的な現在」において示唆されていないか。

 最後に一言。平成天皇夫婦は,つぎのような《戦争の記憶》を有する国民たちに向けてであったが,いつも彼らが繰りかえしてきた,それも『強調していたせりふ』に密着して解釈するとすれば,いったい「どのように国民たちの立場に寄り添う」ことができていた,というのか?

 以下に紹介するのは,本日〔2014年2月18日〕朝日新聞朝刊「声」欄に掲載された投書のひとつである。いま82歳にもなる女性が,戦争で死んだ自分の兄の,71年〔2024年になれば85年も〕前の思い出である。

    ★(声)語りつぐ戦争 兄は靖国神社で安らかなのか ★
       - 横山ツナエ(主婦,愛知県 82歳)-
 
 私が尋常小学校1年の〔19〕37年,長兄は日中戦争に出征した。「3年お役目を務めたら帰ってくるよ」という言葉を信じて母は長兄の帰りを待った。

 ある夜,私は父母のひそひそ話で目が覚めた。長兄が帰ってくると聞こえ,再び眠りについた。翌朝,「兄さんはまた3年帰りが延びたよ」という母の言葉に,がっかりした。母は「一度会いに行きたい」と懇願したが,父は「お国のため辛抱しよう」と諭したのだった。
 
 補註)1937年+「3年+3年」は,「1940年(昭和15年)と1943年(昭和18年)」。

 〔19〕43年9月,長兄戦死の公報が届いた。成績優秀で自慢の跡取りを失った母は,毎日毎日家の裏の墓にいって泣いた。15年後,亡くなるまで母の嘆きは続いた。

 長兄は靖国神社に祀られている。母と次兄は村が仕立てたバスで一度いったが,私はいったことがない。戦争はむごいもので,死んでいった兵士を思うと腹立たしく思う。長兄は靖国神社で安らかだろうか。本来なら穏やかに父母と仲良く同じ墓で眠っているであろうのに。  

兄は靖国神社で安らかなのか

 そもそも,かつての旧大日本帝国,いまの日本国は,戦争による死者を弔う庶民の気持を,靖国神社によっていまも奪いつづけている。

 1943年9月に日本帝国は「絶対国防圏」を決めていた。つまり,第2次世界大戦(太平洋の戦線)において守勢に立たされた大日本帝国が,本土防衛上最低限を確保するために,戦争継続にとって必要不可欠である領土・地点を定め,国土防衛を命じた地点・地域を設定していた。  

絶対国防圏地図
 

 いいかえれば,この「絶対国防圏」の設定は,守勢にまわった日本の負け戦が定まった展望を裏づける出来事であった。この時期に戦争を止めていれば,この戦争のせいで死んでいった日本兵の数は,3分の1以下に減らせたのである。  

 戦争は79年も前に終わっていたが,この国家神道の皇室的な基本精神はいまも,靖国神社の神道的な宗旨を裏づける最重要の儀式として,「戦争に備えよ!」と〈英霊〉を祀り,この死霊を動員したかっこうで,つまり煽りつづけている。

 しかも,死者の霊にかこつけて悪用したかたちで,生者のほうに向かいいつもそのように,いまもなお要求している。

 戦争で自分の息子を奪われた母の気持が,いかほどにまで深く悲しいか,このことを靖国神社が理解することはできない。というよりは,靖国神社はその息子の母親たちの気持を「理解すること」などは,けっしてありえず,無縁の地点に立っている。

 小泉信三『海軍主計大尉小泉信吉』文藝春秋,1966年から,やはり自分の息子を戦争のために失った母親の慨嘆を描写した個所を,画像資料にして紹介したい。

小泉信三『海軍主計大尉小泉信吉』

 よくいうではないか。「死んで花実が咲くものか」「命あっての物種」だと。だからか,皇族たちの男たちは全員が将校位であり,天皇の弟たちもそうであったが,あの戦争の時代〔戦時体制期1937-1945年〕を過ごしてきたなかで,命を落とした者は1人もいなかった。そういう経過を記録した。

 靖国神社はといえば,その死んだ者であっても,無理やりに「死者の立場なりに花を咲かさせ」「なにかの物種に再利用しよう」とする,明治以来の国家神道的な宗教装置であった。 

 靖国神社は,その死霊を利用することには長けていても,戦場などで死んでしまった息子の母親の気持を理解することなどありえない。敗戦するまでは国営であった靖国神社は,「兵士の死」を前提・予定していた。

 本来から日本の神道に固有である宗教精神に則していえば,神道の古来・伝統上ありえなかった〈死霊のあつかい〉をする,つまりは異様な怪奇の神社が靖国神社であった。

 したがって,靖国神社はいまもなお,戦争による死者を弔う庶民の純粋な気持を,戦争目的のために全面的に否定し,横奪しつづけてきている。あの戦争は69(75,79)年も前に終わっていたけれども,靖国のその根本精神になんら変化はなかった。

 ところが,国家神道である「皇室宗教的な基本精神」はいまも,靖国神社の神道的な宗旨を裏づける最重要の儀式を要求している。すなわち,靖国神社は〈英霊〉を祀りつづけていく祭祀をつづけていくことに,ひどく執心している。

 この元国営神社はそうした教義を墨守するほかないのである。そもそも,帝国日本時代の大元帥は誰であったか?

  昭和天皇は敗戦前にあった靖国神社に回帰することを切望していた。一宗教法人になったはずのこの神社であっても,彼自身の胸のうちでは,本来「皇室専用の靖国神社だ」という観念が消えることはなかった。

 いまの靖国神社は,民間の一宗教法人になった。そうはいっても,戦前・戦中から連続する存在形式の基盤に関していえば,その性格においてなにひとつ変質はない。冒頭にとりあげた朝日新聞社の編集委員たちは,この靖国神社のなにの,どこを,どのように観て論じていたつもりであったのか?

 極言してしまえば,その論調はきわめて生ぬるく,不徹底であったというほかない。天皇・天皇制に関する論説になると,とたんに脳天気風な解釈論を前面にかかげて,緩慢にかつ悠長な文章を書く。

 本日の,この記述を始めた冒頭に登場していた平成天皇夫婦にしても,A級戦犯の合祀さえとっぱらってくれれば,ただちに,靖国神社の「死霊を変じて英霊にされた者たち」の魂が祀られている,と信じる「靖国神社」に参拝にいく。

 なかでも天皇自身は(平成の天皇であれ令和の天皇であれ),この靖国神社に「参拝にいく」というよりは,自分が親裁するために出むくのである。天皇はかつて『靖国神社では本当の祭主』であった

 。天皇家にとって有する靖国神社の国家神道的な真意が的確に認識されないことには,この神社の本質は永遠に理解できない。

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