「在日ヤマト人的存在」の一部,「ネトウヨ病理集団の在特会」が「在日外国人」を罵倒してきた社会意識汚濁史
※-1 まえがき的に前提となる歴史や論点を説明する
この記述は,題名にその文字が出ているとおり,「在日ヤマト人的存在」でもあるはずの日本人の一部存在,つまり「ネトウヨ組織:病理集団」(在特会)という排外集団が,実は,在日外国人を罵倒しないと自己表現ができなかったという,つまり,他律的に自己を規定されつつ生き延びてきた「カヨワキ愛国心の空洞的な脆弱性」に触れる議論をしてみたい。
なお,本記述は8年半近く前,2014年11月6日を初出とし,その後,2012年5月24日に復活させていた文章であるが,その後またお蔵入りしていたものを,今日(2023年6月10日)に復活・再掲することにした。
付記)冒頭の画像資料は,末尾にかかげたアマゾン通販のなかの1冊から,その初版本のカバーを借りた。
最近の日本の政治社会は,出入国管理及び難民認定法の改正(実質は改悪)を強行した結果,外国人排斥の潜在意識をよりに露骨に表面に押し出した。この国はもはや人権意識においても「すでにすっかり後進国化した」。そのせいか,自分たちがまとってきた「みかけだけの先進国的に蓑虫風の外套」が,実際には完全に,みせかけだけの折り紙のごときであった事実を隠さくなった。
※-2「入管法改正案,参院法務委で可決〔2023年6月〕9日成立へ,野党は強く抗議」『東京新聞』2023年6月8日 13時46分(共同通信),https://www.tokyo-np.co.jp/article/255423
2023年6月9日,入管難民法(出入国管理及び難民認定法)改正案が参議院法務委員会で可決されていたが,この法案のなにがいったい問題であったのか?
その参院法務委員会で「外国人の収容・送還のルールを見直す」という入管難民法改正案に賛成したのは,自民党と公明党の政権党にくわえて日本維新の会,国民民主党という政権党の “コバンザメ的な雑党集団” であった。
その法務委員会では,難民の保護を目的とした対案を提出している立憲民主党や共産党などの野党は審議が不十分だとして採決に反発し,職権で踏み切った杉久武同委員会・委員長(公明党)に詰め寄るなど強く抗議したが,多勢に無勢,押し切られた。
改正案は,不法滞在などで強制退去を命じられても送還を拒む外国人の退去を進め,入管施設への長期収容を解消するのが狙いである。入管当局は,送還を逃れる意図で難民申請を繰り返すケースが多いとみており,3回目の申請以降は「難民認定すべき相当の理由」を示さなければ送還するとした。本国で迫害を受ける恐れがある人を帰してしまうとの懸念が根強い。(参照終わり)
以上は『東京新聞』2023年6月8日が,共同通信から配信された記事「入管法改正案,参院法務委で可決 9日成立へ,野党は強く抗議」2023年6月8日 13時46分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/255423 を参照して書いてみたが,この内容では問題の核心がまだ分かりにくい。
入管では難民に相当する外国人(とはいってもアジア・アフリカ系が圧倒的に多数)を,ともかく受け入れたくないこの国が,彼らの入国・滞在を最初からできうるかぎり排除しておきたいのである。今回における出入国管理及び難民認定法の改正(だから改悪)の狙いは,とにかくもそこにあった。
一方で,2022年2月24日に「プーチンのロシア」が始めたウクライナ侵略戦争で自国から逃げ出してきたウクライナ国民の受け入れにかぎって,この日本国はかなり温容に収容しており,非白人系に対する対応とはみごとなまで鮮やかに,対照的な厚遇をウクライナ人に与えている。
さてここで,敗戦後も20年が経った時点での話題になる。1965年のことであった。当時,法務省入国参事官であった池上 努の著書『法的地位200の質問』京文社が,その167頁「第160問」の回答のなかで,「(外国人を〔主に韓国・朝鮮人のことだったが〕)『煮て食おうが焼いて食おうが自由』だと本気で書いていた。
池上の同書「刊行」から早,半世紀以上が経った現在にあるが,いまだに以下に紹介するような「外国人問題残酷物語」を現象させていながら,あいもかわらず平然としていられるこの国の基本的な体質は,なにも変わっていない。
1993年に導入された技能修習生制度にからんで発生しつづけていた「奴隷的な使役問題」は,すでに30年もの歳月が経ったいまでも残存している。しかし,もういい加減にこの制度は廃止する動きが出ている。
それに対して,本日のこの記述が問題とする外国人の受け入れは,難民制度に関した,すなわち,また別次元の性格のある現実問題であった。
補注)この記述を終えて公開した直後,つぎの小林 節の記事を読んだ。小林は,今回における入管法の改正に対して,現状において当局が実際にもっている「その『人を人とも思わない』組織の感覚が恐ろしいと気づくべきである」と警告している。
【関連する記事】-こちらは『日刊ゲンダイ』2023年6月9日から-
【関連する統計資料】-法務省統計,日経記事から拾った図表-
「難民申請者数の国籍別統計」-2020・2021・2022年分-
以上,難民関連の統計については,つぎのように詮索しておく。
「プーチンのロシア」が起こしたウクライナ侵略戦争のために国外に脱出したウクライナ人のうち,日本が,難民としてではなく避難民として受け入れたその人数は,2023年2月8日時点で 2291人いた。
註記)「ウクライナから国外へ避難民800万人 日本,アメリカ,フランス…受け入れた国での現状と課題」『東京新聞』2023年2月18日 06時00分 参照。
その数字を一時的であっても難民とみなし計上し,関連する統計に引き寄せて議論することを,いっさい回避してあつかう政府の立場は,つまり「いつか帰るかもしれないウクライナの人びとの立場」を大事にしてきた政府の対応は,彼らを難民そのものとして認定せず,一時期だけの避難民として在留させているにしても,一定の疑念を抱かせる
そのウクライナ人たちのなかから今後,日本に定住したいと希望する者が出てきた場合,どのように対応する用意があるのか。彼らは難民ではなく,どこまでも一時的な避難民なのだから,難民とは同一視できず,母国の戦乱が落ち着いたときは,全員に帰国してもらうだけだといいきれるか。ともかく,そのような希望にはいっさい応じないと対応するのか。彼らが日本に避難して滞在する期間が長くなればなるほど,その種の問題が発生する可能性もそれだけ高くなる。
このさい,関連する議論を徹底的におこない事前に,関連する論点を整理しておくことが必要である。ウクライナ人の処遇をどこまでも例外あつかい的に処遇しつづけるやり方は,問題の本筋をはぐらかす状態を継続させておこうとするだけでなく,従前の難民政策に対して生じるかもしれないなんらかの影響を,当初からあいまいに排除しておきたい意向が感得できる。
※-3 大門小百合(ジャーナリスト,元ジャパンタイムズ執行役員・論説委員)の寄稿「『33歳の女性が施設内で死亡』 難民をあからさまに迷惑がる日本の入国管理制度 国連からも問題視される閉鎖性」『PRESIDENT Online』2021/06/02 8:00,https://president.jp/articles/-/46481
大門小百合のこの寄稿は2年前の内容であるが,現時点においてもそのまま妥当する中身である。この記述からは,つぎの図表および段落とを紹介しておきたい。
多くの国が,在留資格のない外国人の収容の必要性や仮放免の審査については,入管とは別の,独立した司法組織が判断する仕組みをもっている。日本の場合はこうした審査は入管がおこない,仮放免の許可,不許可に関わらず,理由は明らかにされない。また,収容期間にも上限が設けられていない(https://president.jp/articles/-/46481?page=2)
国連の「恣意的拘禁作業部会(WGAD)」は,昨〔2020〕年9月,日本の入管施設の,このような上限のない長期収容や,司法判断をえない収容を「国際法違反」とし,日本政府に改善を促している。
ところが,このたびにおける出入国管理及び難民認定法の改正「案」は,こうした国際社会から日本に向けられている批判を,小手先だけで払いのけようとする姑息な方途をめざしていた。
要は,半世紀以上も前からいまもなお,日本という国は「(外国人〔韓国・朝鮮人の存在をはじめ,アジア・アフリカ系にまで拡大されてかたちで,これら国々の人びとは)『煮て食おうが焼いて食おうが自由』と本当に」思いこんだままである。だから当然,この基本精神の欺瞞を外国からいちいち指摘・批判されることを,極度に嫌っている。
本ブログ筆者の所蔵する本に,上にかかげた呉 林俊『記録なき囚人-皇軍に志願した朝鮮人の戦い-』三一書房(現代教養文庫),1995年があるが,本書は『法律事務所の資料棚 アーカイブ』http://justice.skr.jp/pow.html の項目,「戦争・植民地被害者の被害事実」「戦争動員・捕虜虐待」の「戦争動員」が,こういった説明を与えていた。
自分たちが生きてきたとき旧大日本帝国の軍人にされたが,戦争で死なずにすんで敗戦後も日本「本土」に残留を余儀なくされた朝鮮人たちは,それも20年も経過したところで,法務省の官僚がいわく『煮て食おうが焼いて食おうが自由』だなどと,食用のサバやサンマのごときあつかいにされていた。もっとも,本当のところで,そのいいぶんを単純に解釈するならば,「人肉食になる」が……。
法務省入国参事官であった池上 努が『法的地位200の質問』1965年のなかでそのように臆面もなく堂々と,戦前から日本に在留していた韓国・朝鮮人たちに関して,まったく「人権もなにもへったくれもなかった」かのように,それも馬鹿正直に発言をしていた。
しかも,同年の6月22日,日本と大韓民国とが「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(通称日韓基本条約,両国の国交を正式に回復させた条約)を結び,12月18日,ソウルで批准書が交換され発効した事実と併せて,観察すべき事実であった。そうであったとなれば,言語道断といわれる以前のひどい発言が,池上 努のその『煮て食おうが焼いて食おうが自由』の暴論であった。
21世紀のいまどきになっても,国家官僚がそうして過去に吐いていた妄言は,しっかりとていねいに国民・庶民たちの精神構造のなかに継承されている。
※-4「ヘイトスピーチに関する最高裁判決」『法務省』令和〔2022〕4年4月,https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken05_00060.html
令和〔2022〕4年2月18日,わが国で初めて,ヘイトスピーチに関する最高裁判決(※)がいい渡されました。今回のコラムでは,この最高裁判決を御紹介します(なお,この最高裁判決の第一審判決については,以前このコラムで御紹介しています)。
本件は,大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例が,一定の表現活動を「ヘイトスピーチ」と定義したうえで(以下,これを「条例ヘイトスピーチ」といいます。),市長が,大阪市内で行われた条例ヘイトスピーチについて,拡散防止措置等を講ずることや,条例ヘイトスピーチに当たるかどうかなど等について調査・審議等をする審査会を置くことなどを定めていたところ,
大阪市の住民が,条例の規定は表現の自由を保障した憲法21条1項などに違反して無効であるため,審査会の委員の報酬等の支出は違法であるなどとして,地方自治法242条の2第1項4号にもとづき,大阪市に対し,当時の市長に対する損害賠償請求をすることを求めた事案です。
最高裁判所は,「憲法21条1項により保障される表現の自由は,立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利である」として,表現の自由の重要性を強調しましたが,その一方で,表現の自由は「無制限に保障されるものではなく,公共の福祉による合理的で必要やむをえない限度の制限を受けることがあるというべきである。」としました。
そのうえで,条例の規定による「表現の自由に対する制限が上記限度のものとして是認されるかどうかは,本件各規定の目的のために制限が必要とされる程度と,制限される自由の内容および性質,これにくわえられる具体的な制限の態様および程度などを較量して決めるのが相当である」としました。
こうした判断基準のもとに,最高裁判所は,条例が憲法に適合しているかどうかを判断しています。
まず,最高裁判所は,条例の目的は,条例ヘイトスピーチの抑止を図ることにあるとしました。
そのうえで,「条例ヘイトスピーチに該当する表現活動のうち,特定の個人を対象とする表現活動のように民事上または刑事上の責任が発生しうるものについて,これを抑止する必要性が高いことはもとより,民族全体等の不特定かつ多数の人々を対象とする表現活動のように,直ちに上記責任が発生するとはいえないものについても」
「人種または民族に係る特定の属性を理由として特定人等を社会から排除すること等の不当な目的をもって公然と行われるものであって,その内容または態様において,ことさらに当該人種もしくは民族に属する者に対する差別の意識,憎悪等を誘発しもしくは助長するようなものであるか,またはその者の生命,身体等に危害をくわ加えるといった犯罪行為を扇動するようなものであるといえるから,これを抑止する必要性が高いことに変わりはないというべきである」
などとして,条例の上記目的は「合理的であり正当なものということができる。」と判示しました。
さらに,条例により「制限される表現活動の内容及び性質は」「過激で悪質性の高い差別的言動を伴うものに限られるうえ,その制限の態様及び程度においても,事後的に市長による拡散防止措置等の対象となるにとどまる」ことや,
「拡散防止措置については,市長は,看板,掲示物等の撤去要請や,インターネット上の表現についての削除要請等をおこなうことができると解されるものの,当該要請等に応じないものに対する制裁はな」いことなどから,条例による「表現の自由の制限は,合理的で必要やむをえない限度にとどまるものというべきである」としました。
このほかに,条例の規定が不明確であるとか,過度に広汎な規制であるともいえないとして,最高裁判所は,条例は憲法21条1項に違反するものではないと結論しています。
わが国において,いっさいの法律,命令,規則または処分が憲法に適合するかどうかを決定する最終的な権限を有する最高裁判所(憲法第81条)が,民事上または刑事上の責任を発生させるようなものではない集団に対する条例ヘイトスピーチであっても,これを抑止することに合理性があり,その抑止のために一定の措置を講ずることが憲法に違反するものではないと判断したことは,大変に意義のあるものだと思います。
最高裁判所も認めるように,憲法が保障する表現の自由を踏まえてもなお,ヘイトスピーチは,あってはならないのです。
※-5 『部落解放同盟中央本部』の見解
「民族差別に賠償命じる 反ヘイトスピーチ裁判で」『解放新聞』2016.10.10-2782 から,http://www.bll.gr.jp/info/news2016/news20161010-4.html
在日特権を許さない市民の会と桜井 誠・前会長から民族差別と女性差別を受けた在日コリアンの李 信恵さんが 550万円の損害賠償を求めた反ヘイトスピーチ裁判の判決が〔2016年〕9月27日,大阪市・大阪地裁(増森珠美・裁判長)でおこなわれた。77万円の支払いを命じる判決で裁判は勝ったものの,支援者からは額が低すぎると批判の声があがった。
気温が32・5度まであがったこの日の大阪。傍聴券を求める李さんの支援者で大阪地裁の玄関前に設けられた待機場所は埋まり,その熱気で一段と暑かった。そんななか李さんをはじめ弁護団・支援者ともに勝利の確信にみちた表情だった。一方の在特会側だが,桜井前会長は裁判に姿を現わさず支援者も1ケタの傍聴しかいなかったうえ,裁判の負けを予想してか暗い顔つきだった。
また,記者席が足りなくなるほど,マスコミの関心を集めた裁判だったことも支援者から注目された。裁判じたいは,増森裁判長が77万円の損害賠償金額を示した判決をのべ,あっさりと終了した。
報告集会では,弁護団の大杉光子・弁護士が裁判の内容を説明した。弁護団は民族差別と女性差別の複合的な差別であることを強く訴えてきたが,この裁判で民族差別は認められたものの,女性差別については認定されなかった問題点を残した。
また,桜井前会長などの差別発言については裁判所も悪質と評価したが,それに見合う賠償金額にならなかったことに,支援者と同様に弁護団も不満を表明した。
民族衣装のチマチョゴリを着て裁判にのぞんだ李さんは,「いっぱい報道記者がきた。これも支援のおかげ。まだ裁判は続くと思う。人権問題に終わりはない。明日からも一歩一歩胸を張っていけたらと思う」とあいさつをした。
この集会では,部落解放同盟からも,大阪府連のほか,京都府連,山口県連の仲間が参加し,ともに闘っていく決意を表明した。
なお,桜井前会長は〔2016年10月〕27日のツイッター上で,弁護士に「控訴をお願い」していると書きこんでいる。(引用終わり)
ところで,この桜井 誠なる人物は,在日特権という耳目に入りやすい “在日差別のための悪感情をこめた造語を用意し,とくに「在日」韓国人差別を扇動してきた人物である。ところが,自身は本名の「高田」を使わず通名であるその桜井という名字を使っていた。
在日の人びとが歴史的な因縁があって日常生活でしかたなく使用している通名のこと--日本政府がこれまで,在日の韓国・朝鮮人や台湾・中国人たちに対して,実質的に認定・許容してきた通名の使用は,それなりに戦前からの在日史があったから--を,口汚く罵り,非難していた。となれば,この桜井(本名は高田)は,自身の奇妙きてれつさは棚に上げたまま,在日を悪し様に罵るヘイト行動を生活習慣「病」にしていた,いわばとても変な男であった。
※-6「ヘイト規制条例は『合憲』最高裁が初判断 被害者ら『自治体にも勇気与える』」『東京新聞』2022年2月15日 20時42分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/160431
ヘイトスピーチをした団体や個人名の公表を定めた大阪市の条例は,表現の自由を侵害し違憲だとして,市民らが当時市長だった大阪府の吉村洋文知事に,関連費用約 115万円を返還するよう求めた住民訴訟の上告審判決で,最高裁第3小法廷(戸倉三郎裁判長)は〔2022年2月〕15日,条例を「合憲」とし,市民側の上告を棄却した。条例によってヘイト表現を抑止する必要性は高いとし「規定は合理的で正当」と判断した。
自治体によるヘイト規制の合憲性をめぐる最高裁判断は初。各地の条例では表現の自由との兼ね合いが課題となっており,条例制定の動きに影響を与えそうだ。
判決は,憲法21条が保障する表現の自由について,過去の判例を踏襲し「合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けることがある」と指摘。
制限が過激で悪質性の高い差別的言動に限られるうえ,事後的な措置で制裁なども伴わないことから,「合理的でやむをえない限度にとどまる」と結論付けた。
大阪市は,特定の人種や民族への差別をあおるヘイトスピーチを抑止するための条例を2017年7月,全国で初めて施行。市民側は条例が憲法違反だと主張したが,1審大阪地裁,2審大阪高裁はいずれも「合憲」として退け,市民側が上告していた。
◆ 反差別団体「条例で差別を封じる意義が明確にされた」◆
一般財団法人「地方自治研究機構」によると,ヘイトスピーチ対策の条例を定める自治体は2都府と6市区町。大阪市は2016年,全国でもっとも早く踏みこんだ規定を設けた。外部の審査会を経てヘイトスピーチと認定されれば,ネット上の動画の削除依頼などの拡散防止措置や,実施団体・個人の名前の公表などをおこなうと定めている。
今回の判決について小谷順子静岡大教授(憲法学)は「特定の個人だけでなく民族全体へのヘイトスピーチも,一定の条件を満たせば『抑止する必要性が高い』とした。集団に対する規制を初めて合憲と示した」と指摘する。
一方,2019年制定の川崎市の条例は,不当な差別的言動の「禁止」を定め,全国で初めて刑事罰を設けた。
反差別団体「ヘイトスピーチを許さないかわさき市民ネットワーク」の山田貴夫さん(72歳)は「川崎と大阪の条例で規制の手法は異なるが,差別にもとづく犯罪にもつながるヘイトスピーチの有害性に着目し,差別を封じる意義が最高裁の判決で明確にされたことは大きい」と受けとめる。
川崎市の条例が制定されるきっかけとなったヘイトデモの被害を受けた川崎市の在日コリアン3世,崔江以子さん(48歳)は「今回の判決で『合憲』としっかりと示されたことは,すでに条例を運用している川崎市をはじめ,これから条例を策定する自治体にも勇気を与える。実効性のある条例制定への後押しになる」と述べ,他の自治体にも差別への毅然とした対応を求めた。
以上,最近におけるヘイトスピーチに対する法的規制のありようをしったうえで,2010年代にとくに問題となっていた在特会なる「差別情宣活動団体」をめぐる議論に移りたい。
※-7 在特会というネット右翼のための「付和雷同・鳴動母体」は,隣人・他者を罵ってえられるらしい「倒錯の快感心理」に訴える戦術を採っていた
2010年代,ネット右翼のヘイトクラム活動を問題にする著作が公刊されだした。同年代の前半期につぎのような充実した著作が公刊されていた。樋口直人の本は,学術的な考察をした著作である。
◇-1 安田浩一・山本一郎・中川淳一郎『ネット右翼の矛盾-憂国が招く「亡国」-』宝島社,2013年2月。
◇-2 安田浩一『ネットと愛国-在特会の「闇」を追いかけて-』講談社,2012年4月。
◇-3 樋口直人『日本型排外主義-在特会・外国人参政権・東アジア地政学-』名古屋大学出版会,2014月2月。
上記の3著作のうち,安田浩一『ネットと愛国-在特会の「闇」を追いかけて-』は,安田が2010年末から2011年にかけて,ノンフィクション雑誌『g2』に掲載し,大きな反響を呼んだ傑作ルポルタージュ集の単行本である。要は,日本社会の暗部=〈闇〉に切りこんでいた。
安田の同書は,こう問うていた。
「差別的な言葉を使って街宣活動をおこなう,日本最大の『市民保守団体』,在特会(在日特権を許さない市民の会)。彼らはなにに魅せられ,怨嗟と憎悪のレイシズムに走るのか」?
「ゴキブリ在日を叩き出せ」と過激なスローガンを叫ぶネット右翼。彼らをそこまで駆り立てるものは?
安田『ネットと愛国-在特会の「闇」を追いかけて-』の目次は,こうである。
「特権をむさぼる在日朝鮮人どもを日本から叩き出せ」!! 聞くに堪えないようなヘイトスピーチを駆使して集団街宣をおこなう,日本最大の「市民保守団体」,在特会(在日特権を許さない市民の会:会員数約1万人)。
だが,取材に応じた個々のメンバーは,その大半がどことなく頼りなげで大人しい,ごく普通の,イマドキの若者たちだった・・・。
いったい,彼らはなにに魅せられ,怨嗟と憎悪のレイシズムに走るのか。現代日本が抱える新たなタブー集団に体当たりで切りこんだ鮮烈なノンフィクション。彼らはわれわれ日本人の “意識” が生み出した怪物ではないのか?
彼らがネットとともに台頭してきたのはたしかであるが,この現象には,もっと大きな背景があるのではないだろうか。著者安田浩一の徹底取材はこうした疑問から始まった。
著者の安田浩一(やすだ・こういち)は 1964年静岡県生まれ,週刊誌・月刊誌記者などを経て2001年よりフリーに。事件,労働問題などを中心に取材・執筆活動をつづけている。
著書に『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書,2010年),『外国人研修生殺人事件』(七つ森書館,2007年),『JALの翼が危ない』(金曜日,2006年)などがある。
註記)http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062171120.html 参照。
※-8 在特会は特別な社会集団か
つぎに,その安田浩一『ネットと愛国-在特会の「闇」を追いかけて-』講談社,2012年4月にくわしく聞こう。
1) 在特会はあなたの隣人
在特会が何者かといえば「あなたの隣人」,日本「社会の一部」である。「彼ら彼女らの足元には複雑に絡みあう憎悪の地下室が広がっている」。そこでは「『差別』の自覚もな」く「引き受けるべき責任」もないにもかかわらず「自分自身の正当化」ばかりが顕著である。とはいえ,安田いわく「在特会的なるもの」が「私のなか」にも「蠢いている」(364-365頁)。
在特会の連中は「世の中をブチこわすことで,ダメな自分もようやく人と同じ地平に立つことができる」「という,一種の破壊願望」を胸中に抱いている。だからか「彼ら彼女らには」「うしろめたさはない」。安田がいうことには,「私は真面目に『変革』を志すものをバカにできない」。
「在特会に吸い寄せられる者の姿をしり」たいという取材姿勢をもつがために,「在特会に理解を示し過ぎた」「レイシズム,ファシズムに対するきびしい批判が足りない」という「一部からの猛烈な非難を受けた」(362頁,361頁,360頁,356頁)。
在特会には強烈な「反エリート主義」が感じられる。在特会という肩書はときに通行手形のような役割も果たしていた。その一方で「彼ら」が在日コリアンや部落解放同盟を執拗に攻撃するのは,タブー破りの快感であると同時に,「朝鮮人のくせに」「被差別部落の住民のくせに」一定の発言力と影響力が担保されていると思いこんでいるからである。
在特会の会員のなかには,世の中の矛盾をひもとくカギをすべて「在日」が握っていると思いこむ者が,少ながらずいる。その「一部の者は,政治も経済も裏で操っているのは在日だと,本気で信じている」。「それを前提に,在特会こそが虐げられた人々の味方なのだと訴える」(354-355頁)。
桜井 誠が現在運営し公開しているホームページは,つぎのものである。
2) 虐げられた人びとの怨嗟の声
本ブログの筆者にいわせれば,日本社会のなかで本当の支配層が誰であるか,また在日たちがどのような歴史の現実を生きてきたかなど,皆目しりえない〔しらないでも済む(!?)〕領域にいる「在特会」の会員に顕著な特徴は,こう特定される。
「社会への憤りを抱えた者」「不平等に怒る者」「劣等感に苦しむ者」「仲間を欲している者」「逃げ場を求める者」「帰る場所がみつからない者」。「そうした人々を,在特会は誘蛾灯のように引き寄せる」。「いや,ある意味では『救って』きた側面もある」(安田,355頁)。
それは「革命,維新への雄たけび」などではなく「怨嗟の声」である。「生きづらい世の中」を創った戦後体制をみなおせという叫びは,そのうちの〈敵〉の姿を明確にしはじめる。
この国を貶める者たち,「すなわち,左翼,外国人,メディア,公務員」「は社会の『勝ち組』というよりも,混沌とする時代をうまく逃げきった層にみえたのであろう」。
「事実関係など,このさいどうでもよい」。「恵まれ,あるいは保護され,世の中から認知されている者たちは,少なくとも生存競争を上から眺めるだけの者にしかみえな」い(354頁)。
3) ネット社会の〈闇〉-劣等感を裏返しにして観る世の中-
在特会が生まれた背景にあるのは,なにか。「大衆化」が「ネットの世界に論理ではなく感情をもちこ」んだのである。これに対して「学者や研究者は旧来的な議論には慣れていても,感情の応酬にはついていけなかった」。その隙間が突かれたのである。
しかも「匿名社会が原則のネットでは,なんの躊躇も検証もなく」「本音」での「ネット言論」が「ナショナリズムの隆盛」を「盛り上げる」ことができた(351頁,350頁,349頁,348頁)。
外山恒一(九州ファシスト党・我々団)は,在特会に集う人びとを「うまくいかない人たち」と表現し,「日本人の知的水準が一番低い時期に,ネットを媒介にして右だけが伸長したという不幸はある」とも指摘する(346頁,347頁)。
4) 桜井という「通名」
それでもともかく「在特会の会員」が仕立てる具体的な《加害者》像は,以下のように列挙・連記されている。
◎ 大手メディア ◎ 公務員(教師を含む)
◎ 労働組合 ◎ グローバル展開する大企業
◎ その他,左翼全般 ◎ 外国人
在特会の会員の多くは,これら加害者のような存在になりたくてもなれない,そんな場所で生きているのである。「みんななんらかの被害者意識を抱えている。その憤りを,とりあえず在日などにぶつけている」らしいのである(342-343頁)。
そうだとすれば,在特会は経済的貧者・社会的弱者の立場を代表し象徴する団体組織といえる。いいかえれば,経済的にも社会的にも恵まれない立場・状況に置かれいている人びとのための「毛繕い集団組織」を提供している。
補注)なお,こうした安田の分析や解釈については,樋口直人『日本型排外主義-在特会・外国人参政権・東アジア地政学-』(名古屋大学出版会,2014年2月)が問題点を指摘し,批判している。
樋口の本書は,前段に列記されたごとき「被害者意識を抱えている」者たちだけが在特会のメンバーになっているのではなく,安田が加害者だとして指定した社会集団(対象)のほうからも,在特会に参加する人間がいる事実を指摘している。
その『在日特権を許さない市民の会』会長である桜井 誠(さくらい・まこと,1972年生まれ)は,前述してあったように,在日韓国・朝鮮人の通名使用を批判していながら,自分は本名である「高田」を使わず「桜井」と名のっている。
「木村 誠」とも称していた時期もあった。これでは,在日を批判する桜井に対して他者から「オレが本名を名のっているのに,なんでオマエが名のらないのか」「このへんからして理解できない」と,反批判されて当然であった(341頁参照)。
5) 社会的に恵まれない人びとの承認欲求
「愛国に名を借りた鬱憤晴らし」。したがって,在特会の会員たちの心理機制を理解するためのキーワード」は「承認欲求」に探しあてていいことになる。「認めてもらえるということがこんなに気持いいことだとは思わなかった」(342頁,339頁,324頁)。
「在特会には引っこみ思案の子を,戦闘的な愛国者にかえるだけのパワーがあ」る。それに,面白いことに「参加者が在日であろうと他の害戸籍であろうとかまわない。いっしょに街頭で叫んでくれさえすれば,大事にされる」。これで彼らも「在特会だけが僕を日本人として認めてくれた」ことになる(325頁)。
在特会の活動はすべてを動画サイトに流され,これによって多くの会員を獲得してきた。会員の誰に訊ねても「ネットで〔在特会の〕動画をみた」のが,入会のきっかけになっている。しかし,在特会の日常用語としてたとえば「ゴキブリ朝鮮人」などと聞かされると,これでは「目くそ・鼻くそ」である(332頁,330頁)。
要は,在日する「朝鮮人を叩き出せという叫びは」「オレという存在を認めろ!」という叫びにも聞こえる。「存在を認めてくれない社会,存在を否定する人間に対しては,彼らはますます攻撃的になっていく」わけである。彼らは「地域のなかでも浮いた人間,いや,地域のなかで見向きもされていないタイプだからこそ,在特会に集まってくる」人たちであった(338頁,337頁)。
在特会のある会員がいうに,「朝鮮人は近親相姦を繰りかえしているから知能の程度が低い」(337頁)。はたして「近親相姦」と「知能の程度」がどのくらい関連するか,学識をもって発言しているものには聞こえない。それなのに,そのように断定できる彼らの「知能」水準じたい,あまり高いものではない。
※-9 在日特権はどこにあるのか-ボケをかます在特会の本性-?
1) 在特会に連なる人びと
安田浩一『ネットと愛国-在特会の「闇」を追いかけて-』2012年のなかに登場した会員のなかには,「在日〔朝鮮人〕部落の,いわゆる “ハモニカ長屋” に〔いっしょに〕住んで」た者もいた。
「いったい,この〔朝鮮〕人たちに,どんな特権がある」のかと考えはじめ,いつしか「だんだん冷静に考えるようになっ」た,と述懐する者もいる。「朝鮮人の蔑称である『チョンコ』を連発する」会員もいながら,別の会員が「別に朝鮮人が嫌いなわけじゃない」と断わっている(323頁,298頁,315頁)。
「在特会ってのは擬似家族みたいなも」のであり,彼らの「帰る場所」である。「みんな家族を欲している」。在特会の活動に現象しているかに映る「ファシズムもレイシズムも」「『フツー』の人びとによって育まれていくもの」「とも考えてみる」余地がある。
「歴史上,独裁への熱狂を下から支えてきたのは,こうした普通の人びとだった」。「左翼のいうところの『人民』である」(322頁,320頁,316頁)。
かつて「ナチを支えたのは,まさに “一般市民” であった」。しかも「暴力的で傲慢な絵に書いたような “ファシスト” ではなく,つねになにかを渇望していた普通の人びとである」。
在特会は,「パンは獲得できなかったが,見世物を与えられた」人びとではなかったか? 失われるもがあまりに多い時代,孤独を強いられる時代,人びとは抱えていた自由を放棄してでも,強いものにすがろうとしている(317頁)。
2) 在特会の特性
在特会は「生まれた」のではない。私たちが「産み落とした」のである。彼らは「必ずしも保守や右翼と呼ばれるものではな」く,「日常生活のなかで感じる不安や不満が,いき場所を探してたどり着いた地平が,たまたま愛国という名の戦場であった。
つまり「在特会を透かしてみれば,その背後には大量の “一般市民” が列をなしている」。これが,安田=「私の感じる『怖さ』」である。在特会という存在を生みだす今日日本の「土壌」がそこにある(313頁,311頁,307頁)。
安田浩一が今回,著作としてまとめ公表した『ネットと愛国-在特会の「闇」を追いかけて-』が『 g 2 』の記事に掲載されると,「安田は朝鮮人」「講談社は左翼」といった感情的な文言がネットに溢れただけで,そこにせいぜい「会長のプライバシーを侵害した」「桜井会長にギャラを払え」などと,筋違いのものいいがくわわるだけである(273頁)。
3) 桜井 誠は異邦人?
「桜井は『朝鮮史研究家』を自称することが多」い。「『嫌韓流』文庫本のなかでも,彼の肩書は『朝鮮中世~近代社会史を専門とする歴史研究家」と記載されている」。誤解を恐れずにいえば「桜井は勉強家である」。「在野の研究家としての彼の豊富な知識量(それが偏ったものであるにせよ)を疑うものでもない」(258頁)。
「ただ,あらゆる場で『研究家』を自称する桜井の内面に,あるいはアカデミズムへの羨望や嫉妬もあるのでは--といった想像を働かせることはできる」。「あえてそのことを主張しなければならない桜井の胸奥には,他者に『認められたい』という気持が渦巻いているようにも推察される」。「ストレートにいえば “承認欲求” だ」。
「桜井に限らず,在特会のメンバーに共通するのは “世間に認められたい” といった強い欲求で」ある。なんといっても彼は「保守派の論客として世間に認められ,高い評価をえたいと考えていた」(258頁,259頁)。
結局「おそらく桜井も『異邦人』として生きてきたのではないのか。蝶ネクタイにサスペンダーという定番スタイルも,それは世間に対する挑発でもあり,同時に承認欲求のひとつであるはずなの」である。「彼は,一部において『承認』された」けれども,「世間的な評価はいまだ “色物” 扱いを超えてはいない」(260頁,259頁)。
つぎの画像による資料引用は,2014年10月20日の出来事に関する記述となっているが,参考にまで出しておくものである。
4) 『嫌「在日」』に潜む『近「在日」』の匂い
1958年8月に起きた「小松川女高生殺人事件」の犯人,在日朝鮮人の青年:李 珍宇は,桜井 誠が北九州から上京してきて住んでいる場所:江戸川区平井地区に近くに暮らしていた。
そしてまた,桜井の生まれ育った北九州の外れには,21世紀のIT時代の寵児になった在日韓国人の孫 正義が,「九州有数の在日コリアン集住地区」と称される場所で生まれ育っていた(256頁,25頁)。
補注)アメリカにおける「プア・ホワイトという社会学的概念」を彷彿させるような『在日韓国・朝鮮人』と『在日九州人』の間柄である。プア・ホワイト(英:poor white)とは,アメリカにおいて主に「農業や肉体労働に従事する白人の低所得者層」に対する蔑称である。
プアホワイトトラッシュ (poor white trash) とほぼ同義の〈和製英語〉である。とくに,ウィリアム・フォークナーやアースキン・コールドウェルの作品に描かれるような,南部地域の虐げられている白人についていわれることが多い(⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/プアホワイト 参照)。
この〈補注の解説〉を敷衍していえば,こうなる。
在特会の会員たちは,現代の日本社会のなかで観察すれば「《プア・ジャパ》層とでも表現したらよい社会集団」に位置している。自分たちよりもずっと「上層の経済・社会階層」に安定的に位置しているがゆえに,よく透視できていない「別範疇の日本人たち」=「勝ち組」よりも,自分たち(「負け組」)のすぐそばに存在していて,すぐ目につきやすい「在日」に対面した場合は,なぜか,過剰に意識(反撥・反感)する話に転じていた。
註記)このような,在特会に関する理解ではたして十全に正確であるかについては,前掲,樋口直人『日本型排外主義-在特会・外国人参政権・東アジア地政学-』(名古屋大学出版会,2014月2月)が,その後,疑問を提示していた。
〔本文に戻る→〕 それも,ふだんからいっしょに密接に暮らしてきている,あるいはそうではない場合もあるのだが〔←とくにこちらの場合では,ネット社会を通しての単に一方的な認識になっているのだが〕,
「彼ら(=在日外国人)」と「我ら(=在日日本人)との間柄」だからこそ,そのあいだではよけいに目につかざるをえない「瑣末な〈差〉」であっても〔しかもそのほとんどが現実的な根拠を欠いたでっちあげの空想話なのだが〕,しかしなぜか,そのひとつ・ひとつが,いちいちとても異常に気になる『在日「外国人」』の『特権』に映るらしいのである。
自分たち:ヤマト民族より少しでも「いい暮らし」「いい思い」は,彼ら:在日に限っていえば「絶対にいけない」,そうあってはけっしてならないという絶対感覚がもっぱら先験的に,自分たちの脳細胞全体を制御している。この種の「特殊先験的な決めつけ=願望」が,実際的な根拠も裏づけがないにもかかわらず,ひとまずはまことしやかにに彼らの精神構造のなかに,なんらかの過信(誤信)を植えつけていた。
彼我におけるどんなに「微細な〈差〉」であっても,これがみつかるとなれば,それもとにかく「在日特権だからけっして許さない」と,針小棒大に大騒ぎする。そもそもその論理の構築ぶりは架空での思いこみであった。
おまけにその立場・発言は「事前に」「短絡的に」用意されている。ある意味での徹頭徹尾「問答無用」の扱いである。「紋切型の差別・偏見」の「典型的な固定観念」,その見本である。その程度での社会認識にもとづく「日本社会における」「在日たち」に「対する観念」なのである。
『朝鮮史研究家』を自称する桜井 誠である。だが,在日史研究の学的な蓄積は浅薄であり,もちろん学術的という地平には遠く,少しも届いていない。こちらの領域に関する成果とはいっても,在特会の実践運動空間のなかでのみ「体験的に蓄積してきた〈まがいもの〉の陳列」なのである。
--桜井 誠はそうした自分の想念を,2010年8月に『日本侵蝕-日本人の「敵」が企む亡国のシナリオ-』(晋遊舎価格ブラック新書016,720円+税,256頁)にまとめて刊行していた。この本の目次(下掲)をみるかぎり,日本はよほど弱国で,これほどダメな国家はないという理解になりそうである。
付論)桜井のこの本書に対するアマゾンのブック・レビューは「お仲間」たちによる〈ヨイショ〉があるらしく,「5つ☆」が圧倒的多数〔14件中13件〕である。ただし,通常のまともなレビューからは相手にもされないのが,この本。
さて,「美しい国」をめざすこの日本国の首相のことであったから,安倍晋三も桜井 誠のように思っているかもしれない。まさか「オオカミ(それもだいぶ太めの)少年」桜井の心配するような事態を,安倍晋三も国家首班であった時期,共有していたわけではあるまい。
だが,そのの可能性を否定できないところに,この日本国にとっては本当の意味での「政治体制的な脆弱性」が潜んでいた。
この国の現状とみたら,もう目も当てられない状況になっている。「経済は3流,政治は4流」だが,「社会はまだ2流」だとみなしておきたいが,桜井 誠は,その各域における評価を一気に下げるほかない「在特会なりの活動」を主導してきた。
最後につぎの杉本良夫の2著を画像資料に紹介しておく。
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