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多摩地域に実在する武蔵野陵などは古代史古墳に似せて建造された近現代史における天皇陵ゆえ奇観といえなくはない

 ※-1 21世紀における天皇陵という名の古代古墳の再興

 武蔵野陵(など)に用意されている古代史古墳に似せた大きな墓(天皇陵)は,「明治謹製の男系天皇制」を端的に表現した「メオト間で大小の格差」がある形式で建造されている。

この画像ではほぼ真ん中で土地が「土色と草色」に写っている区域が
平成天皇夫婦の墓が建てられる場所である

さらにつぎの画像もみたい
「下向き矢印」出示した場所がそこ区域である
上記2点に記入されている文字は「平成天皇夫婦の墓」がすでに
用意万端整えられている実情を
なぜかあえて教えていない

その予定地だとも記入されていないが
ある意味でかなり奇妙

ともかくそこに立てられる予定の平成天皇夫婦の墓は
つぎのような配置関係として基本設計されている

前掲した地図(グーグルマップ)上にはこのように設計されており
「墓の建造」をいわば待っている状態

この図解では平成天皇夫婦の墓と昭和天皇夫婦の墓とのあいだに位置し
すでに建造されていた大正天皇夫婦の墓は
この図解では作成の都合上
はぶかれている
平成天皇の妻美智子はこんなにもスゴい自分の墓が
予定されている事実をしって
大いにとまどっていた

 なお,本記述は当初,2019年4月24日にいったん公表されていた。その後ブログサイトの変更・移動にともない長期間,未公表の状態になっていた。本日,2024年3月19日にあらためて再公表する段になったが,この再筆に当たってはもちろん,補正ならびに加筆がなされている。

 さて,本記述全体をつらぬく要点は,こうまとめておきたい。

 ◆-1 女性差別のいまだに絶えない日本に対して,平成の天皇「夫婦」は,日本国・民を統合する象徴として,その解消・解決のためになにかを関与できたのか?

 ◆-2 「平成の天皇史」といえども「天皇(貴族:皇族)と国民(平民:庶民)」の間に厳在する「絶対的な格差(差別」)を撤去させえないままであるし,そもそもそのような変化(改革)をのぞんだ人物ではありえかった

 ◆-3 平成天皇「夫婦」による皇室戦略の30年の戦術「実践」集大成は,武蔵野陵・多摩陵となりにすでに用意されている彼らのための墓〔の敷地〕が,なにも語らずして的確に表現しているといえなくもない


 ※-2「円滑な皇位継承を重視 宮内庁,側近人事スライド 皇室日程,来春まで過密」『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊2面「総合1」

 1)古代史を夢想しながら白日夢的に息をしている「日本の政治社会」の「決定的な後進国」性

 本日〔ここでは2019年4月24日〕から,あとちょうど1週間で平成と呼んできた時期が終わり,令和と名づけられた時期が始まっていた。だが,庶民のわれわれにとって実体的に,どのよう意味あいがありうるかといえば,千差万別であった。

 ずいぶんと感じ入ってしまい,かしこまって令和という元号を受けとった人もいれば,こんな不便なものをなぜいつまでも喜んで使いつづけるのかと,いぶかしく感じていた人もいたはずである。

 本ブログの場合,記述のさい引照する文章・記述のなかに,たとえば昨日〔2019年4月23日〕の場合だと,いきなり08年という「年数」が出てきたところで,一瞬とまどった。ネットの時代なので,5月1日のことを05月01日(あるいは今年なら 2018. 05. 01)などと表記されるのは,ざらである。

 それゆえ,その08年とは「はたして,西暦の2008年なのか平成の08年なのか?」と,まよってしまった。前後関係をよく見直してこれは2008年のことであると「判定(判読?)」する始末にあいなった。

 元号がまた変わって,これからは “令和の何年” を使用するというしだいでは,日常生活ではなにかと非常に不便を感じる。筆者の机上には,西暦と元号との比較対照表があって,「年数の表記」ではいつもそれを観て確認することがしばしばである。

 この記述を更新している今日現在は,すでに令和の元号が使用される時期になっていた。2024年は令和6年の由。

 元号そのものは,天皇家の「私的な年号」としてのみ内輪で使ってくれるのが,一番ありがたいのである。この元号「制」は,1979年6月6日の第87回国会で「元号法」が成立し,同月12日に公布・即日施行(附則第1項)されていたが,この法律の条文じたいが,かなり興味深い文章になっていた。

 ウィキペディアの解説は,つぎのように説明している。

 本則は次の2項をもって構成される。第2項は一世一元の制と呼ばれる。附則も2項あり。

  第1項:元号は,政令で定める。
  第2項:元号は,皇位の継承があった場合に限り改める。
 
   附則   
    第1項:この法律は,公布の日から施行する。  
    第2項:昭和の元号は,本則第一項の規定に基づき定められた          ものとする。

 なお本則は,項番号を除き,31字である。これは,「記名ノ国債ヲ目的トスル質権ノ設定ニ関スル法律(明治37年法律第17号)」の26字につぐ短いものである。 

 元号法はこのようにともかく短い条文であるが,これにはそれなりの事情・理由があった。なにゆえ,「元号を政令で定める」のかに関する説明やその意味が,あえて「なにも書かれていない」法律であった点は,関連させて意味深長だとまでいうほどではないにせよ,それなりに説明しにくい由来が控えていたことが示唆されていた。

 もっとも,近現代史のなかで日本という国が,明治以来「一世一元の元号制」を決めて使い出した歴史的な解説,それも大昔における国際政治の背景をもちだして語りはじめるといった専門家の理屈は,ある意味では笑止千万どころか,コッケイの域にしか収まりえない「アクロバット的な解釈」にならざるをえなかった。

 宮瀧交二(みやたき・こうじ,大東文化大学文学部歴史文化学科教授,当時の肩書き)も例に漏れず,こう説明していた。

 7世紀の朝鮮半島では高句麗(こうくり),新羅(しらぎ),百済(くだら)の三国が分かれて戦っていた。やがて新羅が「白村江(はくすきのえ)の戦い」で百済と日本に勝利し,高句麗も滅ぼして,朝鮮半島を統一する。
 その新羅はかつては独自の元号を使っていたのだが,唐から「なぜ唐の元号を使わないのか?」と問いつめられてしまった。結局,新羅は忠告に従い,唐の年号を使うことになった。

 その点,日本は島国で,中国とは海を隔てていたこともあり,すぐに襲われることもないと考えたのか,唐の年号を使わずに独自の元号を使いつづけた。そういう意味では,中国の文化圏に入っている国のなかでも,日本は例外だったのだ。  

 朝貢国として唐の元号を使わなければいけないという認識はあったと思うのだが,あえて使わなかったというのは,聖徳太子以来の自主独立の道を歩みたい,そういう国家としてのプライドがあったのではないだろうか。

 註記)「日本人が『元号』を使い始めた意外な理由 聖徳太子以来の『自主独立の道』」『PRESIDENT Online』2019.3.13,https://president.jp/articles/-/27915?page=3)

 以上の元号に関した説明は “分かるといえば分かる” のだが,こちらもまた,それではなぜ,日本だけが21世紀のいまどきになってもまだ,この元号制を「法律で決めてまで使用する理由はなにか」に関する説明にはなっていなかった。

 ましてや,「元号の将来は,国民が選択を!」「【間もなく発表!-平成から新元号へ-最終回】新元号を大胆予想!」『グノシー』2019/03/27,https://gunosy.com/articles/aDIGE などと主張するようでは,

 一見,政治的には聞こえないような発言であっても,そしてまた,これを反転させていうと,ひとまずは民主主義的な発想にも感じられるかもしれない。けれども,実際には政治まみれである意見でしかあえりず,しかも,あらためて真正面からの説明を必要不可欠にする,という点に関しては「逃げの発言」になっていた。

 「日本は例外」「自主独立の道」=「国家としてのプライド」のために日本独自である元号を,いまの時代であっても使用するのだというこの1点に関した「適切かつ納得のいく説明」は,そう簡単には科学的かつ合理的になしうるはずがなかった。

 古代史における話題をそのまま,21世紀にもちこむような論法は,学究の提示すべき作法としてはいちじるしく不自然であって,不都合・不合理・非論理,要するに非科学性を回避できない。

 「歴史の解釈」に関した実証面の分析でも,「社会における実用」のための論証面の理由づけでも,論理の運用上において自然に詰められておくべき議論が,まともに用意できていなかった。

 また歴史に対する事後の解釈論でも,日本の国家支配層に都合のよい理屈ばかり申したてるばかりであって,これに対して反証をもちだされたさい,まともに対抗・議論しうる基盤を用意できなかったがゆえに,瞬時に粉砕されるほかなかった。

 結局,元号に関して制定された法律は,その立法の必要についてまでは触れておらず,つまり逃げまわっていた。

 そのために,なぜ本家本元の中国(台湾)や地政学的にこの文化圏に入っていた韓国(北朝鮮)などは,現在はなぜ「元号を使用していない」のかに関する諸事情が,うまく説明でないままに放置されてしまうことになる。

 そのうち,どこかの「お▲鹿な単細胞的頭脳の持ち主」であるほかない「ネトウヨ的反中・嫌韓の者たち」が,日本こそが元号をいまでも「例外的に・自主独立路線」をもって自己認知したうえで,「国家」の「プライド」を堅固に保持するために活かしうるのだなどいったごとき,奇想天外のド・ヘリクツまで誇示しかねない。

 それでもなお,日本の世論の一部として,その種になる逸脱の発想を堅持しつづけていくのであれば,世界中から物笑い者にされかねない。

 実際,前段のごとき元号をめぐる歴史理解に関していうと,「歴史の認識にまつわる論点」についてとなれば,これは完全に見当違いである「元号を足場とした〈国家意識の高揚〉(自慰的な自己満足感)」が,現実に展示されてきた。

 だがそれでも,同じ国家意識のもち方を推奨するための方法としては,しごく安易というか便法に過ぎていたところで,なかなか止めるわけにはいかなかった。

 だが,前段においてその条文を紹介した『元号法』が,その制定する理由・根拠(趣旨・目的)を,法律の内容にかかわらしめて具体的には,なにも示さなかった事情は,いったいなんであったのか。

 元号そのものにこめられた期待というものの本性は,実際のところ,完全に「時代錯誤的であっても」いいから,その「なにかを本気になって信じこみたいある〈特定の歴史認識〉としての精神構造」を,恥ずかしげもなく吐露していた。

 それゆえ,本記述における議論のように,元号に対する疑問や批判が提示されると,だいたいにおいてその支持者は,いきなり感情的に反発すること以外できない。

 アジアの国々のなかで,それも大昔の中華帝国式の古風な時間観念である「元号」を使用するというのであるから,どのように解釈するにしてもそれを使用するという理由は,他者に向けてとなると,正面から合理的に説明しうるわけがなかった。もっとも,元号そのものに由来する時代錯誤性は,当事者であってもよく承知している前提条件でもあったからである。

 貞観地震(西暦で869年に発生)は元号「貞観」の期間に発生した「3・11」の東日本大震災に相当する超大地震であったが,西暦でその年数をいってくれないと,いつの大昔であったのかまったく理解のしようがない。

 安政の大地震(?)とは「江戸時代後期の安政年間(1850年代)に,日本各地で連発した大地震である」と説明されているから,貞観の時代の超大地震よりはいくらかは理解しやすい。それでも西暦の年数を付けておかないと理解しにくい。

大地震と元号

 結局は「本当の理由などいえません,そういうものが元号です」と応えるほかなかった。元号というものが本当に,日本がそこまでこだわる程度に “イイモノである” ならば,中国も韓国も,もしかしたらあの金 正恩君が支配する国(北朝鮮)であっても,絶対に使用していないとおかしい。そういった筋書きで理解してもいい。ところが,なぜか日本だけがいまだに「元号」「元号」……。

 おまけに,日本こそは「天皇・天皇制をいただき元号を使用するスゴイ国」なのだといったふうに,それも「現代的な社会意識としての “虚偽のイデオロギー” 」が錯覚的に保持されているゆえか,しかも誇示までされるとなれば,これはいささかカルト的な感性の精神領域にまで突入しかねない。

 そうだとすれば,とくに海外から観た日本の元号は,つい最近までは「先進国だった日本」には,そのように「自国の時間を区切る歴史観念(?)」が独自にあったぞと強調しておくかたちで,観光地の入り口にでも看板に書いて飾って出しておいたらよい。

 元号の問題は,天皇・天皇制に関して明治時代(19世紀末)に新しく決められた「一世一元の元号制」によっていたが,21世紀になってからすでに四半世紀近くも経過してきた「地球全体の世界史」のなかで,あえて自慢話にされているのは,やや奇妙奇天烈。

 こうなると,元号制を有する日本は,とてつもなく素晴らしい「伝統と歴史」(いずれも明治謹製だが)がある国なのだといったごとき,それも『空虚なナルシズム』に浸りこんだ状態を持続可能的につづけていながら,これからの21世紀をさらに生きていくつもりである。

 2) この※-2の「日経記事」の引用(続き)

 〔2019年〕5月1日の天皇の代替わりに伴い,新天皇を補佐する侍従長に小田野展丈東宮大夫(71歳)を,上皇となられる天皇陛下を補佐する上皇侍従長に河相周夫侍従長(66歳)を充てる人事が〔4月〕23日,閣議で決まった。現在の側近トップをそのままスライドさせ,新皇室の安定的なスタートを狙った。

 皇室典範特例法は退位した天皇陛下の敬称を「上皇陛下」,皇后さまは「上皇后陛下」と呼ぶよう定める。政府は皇位継承順位1位となる秋篠宮さまの正式な敬称を「秋篠宮皇嗣殿下」とした。23日に閣議決定された宮内庁幹部人事はいずれも1日付。新天皇に即位した皇太子さまが即位関連の儀式を終えたのち,小田野氏と河相氏の認証式に臨まれる。

 小田野氏は昭和45〔1970〕年,外務省入省。ミャンマー大使や欧州連合(EU)政府代表部大使などを歴任した。2016年5月から皇太子さまの側近部局である東宮職の長,東宮大夫に就き皇太子ご夫妻の公務や代替わりの準備などに携わってきた。

 補注)この段落における「記事の年代表記」がおもしろい。最初は昭和45年,あとは2016年である。なぜこのように年号を違えて,しかも同じ段落のごく近い文章のなかで,「元号の昭和」と「西暦(西紀)の年数」とが順にしかも不揃い(?)で出ているのか。ただ「?」としか受けとれない。

〔記事に戻る→〕 侍従長は過去2代,同省事務次官OBが続いてきたが,小田野氏は次官を経験していない。一方で,上皇侍従長となる河相氏は昭和50年入省の外務次官経験者だ。また,小田野氏はすでに71歳と,宮内庁幹部の勇退のひとつの目安とされる70歳を超えている。

 それでも,新たな象徴として多くの公務を担われることになる皇太子さまの最側近として引き続き侍従長に登用されたのは,「前例よりも,円滑な皇位継承がおこなわれることが最優先」(宮内庁幹部)との考え方が大きい。とくに代替わりの1年間は諸行事が多く,皇室のスケジュールが過密になる。

 実際,今回の代替わりに伴う各部局の宮内庁幹部の顔ぶれをみると,侍従職では,ナンバー2の侍従次長に加地正人・東宮侍従長(65歳)が就き,その他の7人の侍従もいずれも東宮侍従からのスライド人事だ。

 上皇職も同様に幹部クラスはいずれも侍従職OB。皇位継承順位1位の皇嗣となる秋篠宮さまとご一家を補佐する最側近の皇嗣職大夫には,これまで同家を支えてきた加地隆治宮務主管(66歳)が就く。このほか部課長級の幹部には,定年延長をしてポストにとどめたり,他省庁との交流人事では宮内庁での在籍期間を延ばしたりして対応するケースも目立つ。

 皇位継承の儀式は〔20〕20年春に秋篠宮さまが皇嗣となったことを内外に明らかにされる「立皇嗣の礼」まで続く。スライド人事は一連の儀式・行事を乗り切るための暫定措置の側面が強く,「諸行事が落ち着いた段階で,外務省OBから将来の侍従長候補がやってくるのではないか」(宮内庁関係者)という見方も多い。

 補注)ここでの年数表記は,2020年を20年と書いていた。この段落では「平成20年のこと」かと間違えることはなさそうである。だが,2020年と書いてなにか不都合でもあるのかと感じる。「20」(半角文字2つで1字分)を書き足せばそれで済む話。

 以上,宮内庁関連の人事移動が天皇交代にともなって発令されていたという話題になっていた。皇室(王室)の運営のためにこれだけの人事がかかわっている事実,そして,このためにかかる国家予算などがいくらであるかについては,宮内庁ホームページに情報が公開されている。平成31〔2019〕年度の総額は次表のとおりである。

 本日(2024年3月19日),この住所を検索してみたが,直近の3年度分しか表示されていない。不親切である。公開の原則で不備を感じる。

 ⇒ http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan-ichiran.html

 本ブログ筆者のしるかぎりでは,

 ⇒ https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/yosansuii-h24.pdf 

が昭和22〔1947〕年度から平成24〔2012〕年度までを一覧している。

 さきに紹介した住所は,直近の3年度分ごとに限定した情報を公開しているけれども,1947年度から通してその全年度分を公開したところで,なにも不都合はないはずであり,不可解な印象を受ける

 ということで,ここでは,あとにかかげた住所からの紹介となるが,平成の時期にかぎって,宮内庁関係予算の推移のみ参照しておく。単位は千円である。総予算は百数十億円から2百億円くらいまでの水準で推移してきた。

昭和22〔1947〕年度から記載されているのがこの原表


 なお,この表には出ていないが,平成30・31〔2018・2019〕年においては予算が増加していた。それは,天皇の代替わりに備えた予算措置だと解釈できる。


 ※-3「両陛下,労災慰霊施設で供花」『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊38面「社会1」

 天皇,皇后両陛下は〔2019年4月〕23日,労働災害で亡くなった人びとを慰霊するため,高尾みころも霊堂(東京都八王子市)を訪問された。霊堂最上階の11階に上がり,約26万人の御霊(みたま)を祭る拝殿で供花された。

 その後,労災による年間死亡者数の推移の説明を受けた天皇陛下は「ずいぶん少なくなりましたね」と感想を述べ,死亡者を減らすには「どういう努力が必要ですか」と質問されていた。

 これに先立ち,両陛下は昭和天皇の武蔵野陵(同市)を参拝し,30日に控える陛下の退位を報告された。退位に関連した儀式のひとつである「昭和天皇山陵に親謁の儀」で,残すは30日当日の儀式のみとなった。この日は両陛下の姿を見ようと,沿道に多くの市民が詰めかけた。(引用終わり)

 この記事(『日本経済新聞』2019年4月24日朝刊)に該当する『朝日新聞』同日朝刊の報道もつぎの ※-4に紹介するが,ここで確認しておきたいのは,

 まず最初に「両陛下は昭和天皇の武蔵野陵(同市)を参拝し」てから,このつぎに「労働災害で亡くなった人々を慰霊する」行為を披露する予定(経路)をこなしていたのであって,この順序が逆ではなかった事実に注意したい。

 以上は「事実だけの指摘」であるが,このもつ意味がどこにあるかはいうまでもない。

 また,つぎの※-4に紹介する当該の記事を掲載していた『朝日新聞』は,『日本経済新聞』とまったく同じ配置(レイアウト)の要領を示していた。どういうことかというと,両紙ともに「社会面の見開き2面分」開いてみると,その記事はともに「右側の頁(面)の左下」に配置していた。

 つまり,『日本経済新聞』も『朝日新聞』もまったく記事の場所(配置)まで同じあつかい方になっていた。ただし,日経と朝日とでは見出しの付け方がまったく異なっていた。

 日経は「事実の半分」に相当する見出し文しか出していなかったのに対して,朝日は「事実どおりにその全体を反映させる見出し文を出していた。

 なぜ,このような質的に異なった報道が別々におこなわれ,したがって,読者の立場をして,その記事(見出し)から読みとれる「事実」に,違いあるかのような紙面になっていたのか。

 読者の立場からしての話をすると,以上は主に「見出しの表現」の違いに関心を向けているが,その読みとれる意味に大きな違いを即座に感じさせるような紙面造りに問題はないのか? 

 いろいろ解釈の余地があるが,ここでは論じない。ただ,新聞を購読する人たちは大多数が一紙しか契約していないと断じる話法は,ひとまず除外しておくことにしたい。最後にその点のみは断わっておく。

 

 ※-4「昭和天皇陵で退位報告 労災犠牲者慰霊施設も訪問」『朝日新聞』2019年4月24日朝刊30面「社会」

 天皇,皇后両陛下は〔2019年4月〕23日,東京都八王子市の武蔵陵墓地で,退位に向けた儀式の一つ「昭和天皇山陵に親謁(しんえつ)の儀」に臨み,昭和天皇が埋葬された武蔵野陵(むさしののみささぎ)に参拝し,30日に退位することを報告した。モーニング姿の天皇陛下と参拝服姿の皇后さまはそれぞれ陵の前に進み出て玉串を手にし,深々と拝礼した。

 その後,労働災害で亡くなった人びとを慰霊する同市の「高尾みころも霊堂」を訪問。拝殿で供花した。両陛下は皇太子ご夫妻時代からこれまでに同霊堂を6回訪問。この日,天皇陛下は,労働災害による死者の減少には「どういう努力が必要なんですか」などと質問。帰りぎわ,関係者に「遺族の方々にしっかり対応をお願いします」という趣旨の言葉をかけたという。(引用終わり)

 この天皇の発言「遺族の方々にしっかり対応をお願い」というものは,はたして,行政のありようにまで絶対に影響を与えないものとは思えない。

 しかし,天皇がそのような政治的な発言としてしか受けとりようのない発言を,彼の信念である「国民に寄り添う姿勢」のなかで,いいかえれば「皇室戦略の具体的な一環(戦術)」となって発揮していた点は,単なる〈象徴の存在である人のおことば〉だとしても,各種各様になる疑念を惹起させるほかない「問題性」を意味するほかなかった。

 ところで,武蔵陵墓地には平成天皇のための墓所がすでに準備され造成中である。本記述の冒頭では,関連する航空写真(衛星画像)を紹介してあった。

 その画像(グーグルマップ)は,JR東日本「髙尾」駅から北方に位置する武蔵野陵などの地域部分を切りとったものであった。平成天皇夫婦のための陵(墓)が造成されていた地形表面の様子は,地肌がみえていて手にとるように分かる。

 ここでは冒頭に挙げていなかったが,同所を同じに撮影してあった別の画像も紹介しておきたい。真ん中には大正天皇夫婦の多摩陵,右側には昭和天皇夫婦の武蔵陵が配置されている。そして,左側には「平成天皇夫婦の墓」が建てられる区域が鮮明に写っている。

春以降になってと思われるが
平成天皇夫婦用に用意した左側の区域には
青草が生えだしている

 これらの各陵が占めている面積は,後段に出ている資料によれば「昭和天皇夫婦の敷地」約4300平方メートル,「平成天皇夫婦の敷地分」約3500平方メートルとされている。

 ただし「大正天皇夫婦の分」のその面期は不分明であるが,この衛星写真で判断しようとするかぎり,一番小さい(狭い)と観られるような印象をもつ〔とだけ付言しておく〕。
 
 ここでは,その「平成天皇の陵(墓)」がだいたいどのように設計されているかについては,これも冒頭のほうでその見取り図をかかげてあったが,ここでもう一度,示しておく。

大正天皇夫婦の墓がこのあいだに位置している

 明治天皇の陵は関東にはなく関西にあるが,こちら武蔵野陵に墓所が置かれている「大正天皇,昭和天皇,平成天皇(予定)の各陵」は,これをみればすぐに気づくことだが,

 画像に写っている昭和天皇夫婦の陵と平成天皇夫婦の陵は,いわば「メオト茶碗」の要領でそれぞれ大きさに差がつけられている。むろん「男のほうが大きく」,これにくらべて「女のほうは小さい」

 それをしったとしたら,和田アキ子(身長 174センチ,配偶者あり)やミッツ・マングース(徳光修平,同 182センチ,配偶者の有無は不詳),マツコ・デラックス(松井貴博,178センチ,同上)らが,はたしてなんというか(いわないか)はさておいても,

 日本政府も推進しているはずの「男女共同参画社会」という理念・目的に適切に沿いうる「天皇家の墓所」の建造方式だといえるか?

 このような疑問までを抱いてもなんら不思議でないだけでなく,当然も当然だと誰もが感じていいはずである。


 ※-5 先進国を自称する国々のなかでは「最低水準に着けている」日本の女性に対する差別状況(男女格差)

 この記述を最初書いてから本日,更新した文章として公表するまで,ほぼ5年の歳月が経過した。以下の記述ではまず,2018年における「男女格差」に関した世界順位が発表されていたが,2024年(だと2023年分に関する)の順位は,どうなっていたか。

 1)「男女格差,日本なお110位 世界経済フォーラム報告書」『朝日新聞』2018年12月18日夕刊

 世界の政財界の指導者が集うダボス会議の主催でしられる世界経済フォーラム(WEF)が〔2018年12月〕18日に発表した2018年の男女格差(ジェンダーギャップ)報告書によると,男女平等度で日本は149カ国中110位だった。

日本は中位よりもずっと下に着けている

 昨〔2017〕年の114位から3年ぶりに順位を上げたが,主要7カ国(G7)では引きつづき,最下位だった。1位はアイスランドで「男女平等のもっとも進んだ国」の地位を10年連続で保った。

 報告書は経済,教育,健康,政治の4分野14項目でどれだけ格差が縮まったかを指数化し,国別に順位をつける。100%を完全な平等とすると,今回,世界の格差は平均で68.0%。日本は前年の65.7%から66.2%に改善した。

 日本は,女性の国会議員数が依然として少ないことが響き,政治分野で,前年の123位から2つ順位を下げた。経済分野では,労働人口における女性の比率や男女間の所得格差などすべての項目で指数は改善されたものの,調査対象の国が増えた影響もあって,前年の114位から3つ下がった。

 調査責任者サーディア・ザヒディ氏は,女子を不利に扱う医学部の不適切入試に言及。「あるべき姿に逆行する動き」と指摘した。

 同じ話題をとりあげた『日本経済新聞』2018年12月18日夕刊のほうでは,こう伝えていた。部分的に引用しておく。

 「調査対象149カ国のうち,日本は110位で前年から4つ順位を上げた。所得格差の縮小など職場環境がやや改善した。ただ,日本は主要7カ国(G7)で最下位で,女性が経済や政治の第一線で活躍する環境の整備など課題は多い」

 「指数は女性の地位を経済,政治,教育,保健・医療の4分野で分析する。WEFは世界全体では依然,女性の労働市場や政治への参加は少なく,男女の格差縮小は足踏みしていると評価。このままいけば完全に格差を解消するには108年かかると試算した」

 この「順位は中国やインドを下回る。とくに女性の国会議員が少なく,政治参画は125位と極端に低い」

 2) 1)の報道を受けて思う日本の問題

 『朝日新聞』の翌日(2018年12月19日)朝刊は「地方議員も『多様性もっと』 政治の男女格差 日本125位 思い」という見出しの記事を掲載していた。『朝日新聞』のさらにその翌日(12月20日)朝刊は「〈男女格差 ジェンダーギャップ〉女性経営者の壁 壊そう」という解説記事の「上」編を組んでいた。

 前者の解説記事は「政治分野における日本の点数と順位」,後者のそれは「経済分野における日本の点数と順位」に関する図表を,それぞれかかげられていた。これらの記事本文を引用するかわりに,図表だけを順に引用しておく。

 ということであったが,本日(2024年3月19日)の時点でその〈男女格差 ジェンダーギャップ〉に関する最新の資料を紹介しておく。同じ『朝日新聞』系列の報道媒体から引用する。

この国のことはいまでは「衰退途上国」と指称するようになっているが
この〈男女格差 ジェンダーギャップ〉も

そのように呼んで間違いはなさそうな事由を提供している
長期的な趨勢として確実に下降線をたどっている


  

 ※-6「〈大機小機〉経済再興に向けて」『日本経済新聞』2019年3月27日朝刊

 この記事の紹介にあたってはさきに,こう断わっておきたい。

 平成がもうすぐ終わりになるという時期であったせいか,なにかにつけては「平成の時期はどうであった」とか「平成が終わるから……」という具合に「時期を区切った」,いうなれば「平成であるという一定の期間(内)」という事実の1点にのみこだわり,この期間に関して特定の含意がありうるかのように語りたがる発言が,非常に多く披露されていた。

 つぎに引用する『日本経済新聞』のコラム「大機小機」も,同じ要領になっていたのだが,平成の時期の終末期には,安倍晋三政権の自堕落な政治・経済に関して,とりわけ道徳・倫理も完璧に欠落させてきた為政の結果,いかにひどい顛末を露呈させつつ幕を降ろすハメになったかを,うまくまとめている。 

 まもなく平成の時代に幕が下りる。平成はわが国が戦争を経験せずに済んだ大変貴重な時期だった一方で,経済が停滞した時代でもあった。平成に入ってからの具体的な経済指標をみてみよう。

 まず,経済のバロメーターとされる株価はどうか。30年前の1989年3月末は,日経平均株価が3万2838円だった。個々の企業はともかく全体としては長期低迷が続いている。主要国の株価指数が30年で大幅に上昇したのとは対照的だ。1990年には世界の時価総額上位に数多くの日本企業が並んでいたが,いまではトヨタ自動車だけになった。

 稼ぐ力も劣化した。国際通貨基金(IMF)が公表する1人あたり国内総生産(GDP)は,2000年には世界2位だったが,2010年には18位に後退。最新の2017年データでは25位となり,アジアでもシンガポール,香港の後じんを拝するに至っている。

 スイスのビジネススクールIMDが毎年公表する世界競争力ランキングでも,1989年にはわが国が世界トップの評価であった。自動車や家電が世界をリードし日本的経営が称賛されたが,2000年以降は20位台が定着している。日本企業の存在感は低下し,残念ながら世界をリードする企業はごくわずかである。

 このように,経済という視点でみると,平成の30年間は世界との比較では競争力も稼ぐ力も劣化した時代だった。その結果が株価の長期低迷であり,国家財政の悪化である。国債の格付けもトリプルAからシングルAに下落した。

 また,アベノミクスの一環として注力したコーポレートガバナンス改革についても,ACGA(アジア企業統治協会)の調査ではアジアで7位に順位を落とし,アジアのリーダーといえる状況ではない。戦後一貫して評価の高かった日本の経済力は,平成時代に輝きを失っている。

 日本経済の再興に向け最優先で取り組むべきなのは,問題先送りとの決別だろう。年功序列賃金や終身雇用,社会保障といった戦後につくり上げた仕組に無理が生じているのは明らかだ。わが国のリーダーには,解きやすい問題から手を着け,難問は後回しにすることにたけた人材が多い。難題に挑戦するには組織依存を超える強い自立心が必要だ。ポスト平成は目先の課題を越えて問題の本質に切りこまねばならない。(自律)

『日本経済新聞』大機小機

 安倍晋三政権は,この最後の段落で強調されていた日本の経済に関する諸課題,すなわち「問題先送りとの決別」を実際になしえたり,

 また「解きやすい問題から手を着け,難問は後回しにする」姿勢をあらためたり,

 そして「難題に挑戦するには組織依存を超える強い自立心」が要求されていることや「目先の課題を越えて問題の本質に切りこまねばならない」仕事などに対しては,

 そのほとんどすべてに関してぐずるだけで,完全にサボってきた。

 ところが,政治の問題領域になると対米従属国家体制の推進・深化をさせることだけは,熱心に取り組み,確実に実現させてきた。

 それはさておき,このコラム〈大機小機〉は,安倍晋三政権がいままで重ねてきた「経済運営でのまずさ」が全般的にもたらしてきた「実質的な体たらく」は,一方に置いての話題になっていたが,

 それでは「平成天皇の存在」によって「象徴される側に位置した人びと」に対して,この「彼(明仁夫婦)の〈国民たちに寄り添う治世〉」が本当に機能しえていたかという関心事についてとなると,実は,確実にありうるはずの,なんらかの「その特定の政治的な意味」について,一言も語るところがなかった。

 もしかしたら,平成,平成,平成……という割りには,この平成という元号の介在は,日本国の運営(政治と経済)にとって,それほど大きな意義(関連性としての位置づけ)を与えられていなかったのではないか。だが,それでもなお「平成という元号」のなかには,なにかのマジック(魔術)を起こさせる符牒でも隠されていたかのように,終始一貫してとりあつかってきた。

 「いまの時期」(ここでは2019年4月下旬のことであったが)「平成が1週間後に終わる」ころだからこそ,これまでわれわれがさんざんが聴かされてきた「〈天皇の存在〉から発揚されている」はずの「善い効用」に関したその実際的な様相(成果の機能発揮)を,誰でもよい,ぜひとも具体的に教えてほしかった。

 当時,たいそうやかましいマスコミ(報道・放送)による「平成の終わりぶり」に関する多種多様な喧伝模様は,実に奇妙に感じられる世相となって,われわれの目前に繰り広げられていた。

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