歴史学者 伊藤 隆に関してある記憶をたどってみた回想
※-1 伊藤 隆の人物紹介
伊藤 隆(1932年10月16日,91歳)は歴史学者,元東京大学名誉教授。専攻は日本近現代政治史,日本近代史でもとくに昭和戦前期政治史研究にとりくんできた。多くの近代日本1次史料の発掘公刊を,伊藤自身が代表者となり精力的におこなった。日本教育再生機構顧問,新しい歴史教科書をつくる会元理事を務め,現在は国家基本問題研究所理事。
以上は,ウィキペディアが紹介する「伊藤 隆」を借りたごく簡単な略歴である。なかでも,最後に挙げられていた「国家基本研究所理事」という肩書きは,小林 節(元慶応義塾大学教授)から日本国憲法の理解に関して完璧にといいほど「決定的な〈落第点〉」をもらっていた,あの「櫻井よしこが理事長を務める」国家基本問題研究所のそれのことである。
櫻井よしこはジャーナリスト出身の,最近まで,ネトウヨ的な極右言論界においてはマドンナ的な〔とはいってもいまは年齢的には〕オバアさん論客であった。
だが,たとえばつぎのように,いまどきひどくトンチンカンな主張を発言できる「無知・無識」をも平然と誇れる疑似知識人であった。すなおにかつ正直にいってみれば,日本的知性(痴性?)を,大胆にかつ大々的に誇ってきた識者である。
つぎの画像資料は伊藤 隆である。出所は,辻田真佐憲「〈伊藤 隆さんインタビュー #2 〉保守論壇の重鎮・伊藤隆88歳が振り返る “つくる会” 騒動『こういうところにはいたくないと思った』」『文春オンライン』2021年4月1日,https://bunshun.jp/articles/-/44650 からであったが,「老境というものがりっぱに達観をもたらす」誘引たりえた見本・好例を提供した。
※-2 歴史学者である伊藤 隆に関して,ある記憶をたどり回想すること
1) まず「(インタビュー)萎縮するメディア 毎日放送ディレクター・斉加尚代さん」『朝日新聞』2022年5月19日朝刊13面「オピニオン」から,冒頭のつぎの段落を引用する。以下で◆は記者,◇は斉加である。
◆ 映画「教育と愛国」では,政治の力で変化させられていく教育現場が描かれていますね。
◇「この映画は,2017年に放送したドキュメンタリーを元に追加取材をくわえたものです。私は大阪で長く教育現場を取材してきましたが,2010年に大阪維新の会ができて以降,政治主導の教育改革が進みました。その変化が思いのほか速いなと感じていたころ,国が道徳を教科化することになった。そして戦後初めて作られた小学校の道徳教科書で,『パン屋』を『和菓子屋』に書きかえる,ということが起きました」
「一見,滑稽な書き換えですが,2006年度の高校日本史の教科書検定を受け,沖縄戦の集団自決について『軍の強制』との記述が削られた問題とつながると感じました(その後,『軍の関与』などとする記述が復活)。それで教科書会社へ取材を申しこみました」
◆ どのような反応でしたか?
◇「ほとんどの社から断られました。そんななか,『新しい歴史教科書をつくる会』系の育鵬社で歴史教科書の代表執筆者を務める歴史学者・伊藤 隆さんが取材を受けてくれました。話が熱を帯びてきたところで,育鵬社の教科書が目指すものを尋ねると,伊藤さんは『ちゃんとした日本人を作ること』とおっしゃいました」
◆ ちゃんとした,ですか。
◇「『左翼ではない』と断言されました。歴史から何を学んだらよいかと聞いた時には『学ぶ必要はない』と。歴史学者がここまでいい切ることに衝撃を受けました。育鵬社の教科書は『歴史を学ぶ』のではなく,歴史を通じて一部の政治家にとって歓迎すべき『道徳』を学ばせることを意図しているのではないか,と感じました。これでは,子どもたちの内面に踏みこむ恐れがあります」
「それでも,伊藤さんが学者の矜持をもって取材に応じてくれたことは実はありがたかったのです。『あなたとは立場は違うけれども,また会いましょう』といってくれました。相手との垣根を超えていかないと,分断や閉塞感は超えられません」。(引用終わり)
以上に登場した伊藤 隆(いとう・たかし,1932年10月16日生まれ,89歳)は,歴史学者であり,おおよそ前段にすでに紹介してあったごとき経歴をもつ人物であった。
※-3 つぎに,本ブログの筆者がこの伊藤 隆とはある時,つぎのような接点が生まれたことがあった。これを簡単に記述してみる。
a) 伊藤 隆が,季武嘉也共編『近現代日本人物史料情報辞典(1-4巻)』吉川弘文館,2004-2011年を編集・発刊する作業をしている時期,多分2000年だったと記憶するが,この編著に収載したいらしいある項目の執筆依頼が,本ブログ筆者あてに来た。
しかし,筆者は当時,それに応じていいのかどうか,自分が適任者であるどうか自信がもてなかった。というしだいで残念ながら,せっかくの機会であったけれども,その依頼を辞退させてもらった
しかし本日(ここでは2022年5月19日←これは本記述が初出された期日であったが),歴史学者伊藤 隆に言及する話題をとりあげた文章(インタビュー記事),つまり,前項※-2に紹介したインタビュー記事にたまたま接することになったところで,前段のような判断(執筆依頼に応じられなかった出来事,その判断)は,それなりに適切であったと回想することにあいなった。
b) なお,伊藤 隆という歴史学者の立場や思想については,最近の記事としてつぎのインタビュー記事があった。
辻田真佐憲「〈伊藤 隆さんインタビュー〉僕は左翼の人たちに聞きたいんだよ,保守の歴史家・伊藤 隆 88歳が “令和の日本” に苛立つ理由」『文春オンライン』2021年4月17日,https://bunshun.jp/articles/-/44645 からの引用となる。
伊藤 隆は,『ちゃんとした日本人を作ること』を歴史学者の立場・思想から発言し,「教科書は『歴史を学ぶ』のではなく,歴史を通じて一部の政治家にとって歓迎すべき『道徳』を学ばせることを意図しているのではないか」と解釈される見解を語っていた。
伊藤 隆は,自分が毛嫌いする左翼陣営の「立場・思想」とはその反極に位置することによって,極右に等しい発言を「保守の発想」(?)として放ってきた。こうなると必然的に「左も右も」「どっちもどっちだ」という顛末にならざるをえなかった。
しょせん,最終的な舞台となると,相互に放つ「罵倒の応酬」しか成立しえない「思想界の粗悪な構図」が,伊藤 隆という東大教授の周辺にも現象させられていた。
c) 上掲した『文春オンライン』の記事のなかには,伊藤 隆の弟子に当たる加藤陽子(東京大学教授,1960年生まれ,63歳。本名;野島陽子)の氏名も出ていた。加藤は日本の歴史学者で,専攻は日本近現代史である。この加藤は伊藤の跡継ぎとして東大で教鞭をとってきた歴史学者であるが,いまの伊藤にとってみれば “お気に召さない志向性” を明確に維持してきた。
補注)2020年10月,安倍晋三が第2次政権から降りて一議員になったあとは,菅 義偉が分不相応にも(もちろん安倍晋三も同断だが)首相になったがために,つぎのような事態を惹起させていた。
伊藤 隆はかつての経歴となるが,自分なりに考えて日本共産党に入党していた時期があったという。若い時に共産党にかかわるのが時代の流行であった戦前昭和史から敗戦後史においては,伊藤もまたその軌跡をたどった人物の1人であった。
そして,そのあとはよくある経路だったが,こんどは国粋主義の右翼路線に,いわば反動形成的に軌道修正した。いってみれば,ただそれだけのことでもあった。当時によくあった「転向」に相当する思想的行動の軌跡のひとつを,伊藤 隆もその典型例として描いたのである。
敗戦以前の日本社会であれば,左翼思想ゆえに特高に引っかかり拘留されつづけたあげく,裁判なども体験させれたのちおとなしく転向するといった,ある意味では「お決まりの人生行路」が,左翼の政治運動にかかわってきた多くの人びとがたどっていく「その後の定番の進路」であった。
ただし,伊藤 隆の場合は,敗戦後史における「左だ,右だ」といった話題であったゆえ,こちらの段階:時代状況のなかでは,自分なりに考えたすえの路線選択になりえていた。
d) ところで,日本はまだ「学問の自由・思想の自由・言論の自由」がないわけではない国家であるはずだが,最近はだいぶ怪しい。
前段で『東京新聞』に掲載された記事を介して,加藤陽子が「自公野合政権」による学問弾圧に対する批判を聴いてみた。
加藤陽子の現在的に位置する学問上の立場・思想は,恩師に当たるはずの伊藤 隆の学問的な立場・イデオロギーと同じであるか,あるいは近かったのであれば,あそこまで頑迷固陋な首相であった菅 義偉に対して,加藤自身がそのような反論を繰り出す経緯にまでは至らなかったと思われる。
ところが,たとえとしてはどうかとも感じるけれども,「青は藍より出でて藍よりも青し」にも似たごとき,そうは問屋が卸さなかった「子弟(子女)関係」が,伊藤 隆と加藤陽子のあいだにはすでにできあがっていた。
e) 2021年10月,例の日本学術会議問題が発生していた。菅 義偉首相(当時)は,6名の日本学術会議会員への任命を拒否するという事件を,意図して起こしていた。これは,日本国憲法が保障する学問の自由を大きく損ねるとともに,会員の任命手続きを定めた日本学術会議法に違反する違法なものだと,学究側からは猛反発が巻起こった。
日本国憲法は,23条で「学問の自由は,これを保障する」と規定している。同憲法21条が「一切の表現の自由」,すなわち人間の多様な精神活動全般の自由の保障を定める一方で,このような規定が置かれたことの意義を,いまこそ真剣に考える必要がある。これが,菅 義偉の采配に対する反対理由であった。
ごく単純にいえば,伊藤 隆もこの菅 義偉(自民党政権側)の国家専制的な立場に,ほぼ一致する政治思想の思想を抱いていた。右だ左だという以前の問題が,伊藤の立場・思想には潜在(厳在)していた。この伊藤の弟子(担当する講座を継承した)加藤陽子(写真)が,日本学術会議会員への任命を拒否された事実は,意味深長である。
いずれにせよ,以上のごとき人物が編者になった『なんとか辞典』とはかかわりをもたなかった筆者の「当時の判断」は,いまとなってみればなおさらのこと,それなりに適切であったと回想している。
------------------------------
【参考文献】-本文記述のために選んだアマゾン通販を借りた参考となる文献の紹介-