戦争と広告-馬場マコト『戦争と広告』2010年-(その2)
※-0 本稿,「戦争と広告-馬場マコト『戦争と広告』2010年-(その2)」
「本稿(その1)」につづいて公表するこの記述は,最初,2010年11月6日の旧々ブログに公開されていて,さらに2015年10月3日に,旧ブログに再公開されていたものを,今回,2024年9月27日に三訂のかたちで改稿することになった。
「本稿(その2)」の前編である(その1)については,できるだけ先に読んでもらいたく希望したい。リンク先住所は以下であるが, 「本稿(その2)」を復活・再録することに当たっては,必要な補正・加筆をおこなってもいる。
本日のこの記述も「例によって長文ゆえ」,今日は前もってつぎの主要目次(本論の支柱になる論点)を,つぎの構成として案内しておきたい。
★-1 馬場マコト『戦争と広告』のタコつぼ的な議論
★-2 伊丹万作「戦争責任論」
★-3 大東亜戦争・太平洋戦争となっていた第2次世界大戦
※-2 広告人の個人史:「諦観としての戦争」論-自国内に閉塞する問題意識-
1) 馬場マコト『戦争と広告』2011年の〈タコつぼ〉的な議論
a) 産業戦士から企業戦士としての広告人へ
「戦時広告論」に関する馬場の結論は「いちばん大事なのは,戦争をおこさないこと」であり,「戦争をおこさなければ,人は人を殺し,人を戦場に駆り立てることはしない」であった。
もっとも,敗戦後の日本に生まれ,広告人として活躍するようになった馬場マコトは,一転して「経済戦争の果敢なる兵士であり続けた」と自認していた(231頁)。
早速だが,この馬場の自認については,こういう疑念を提示しておく。
馬場自身は,戦争の影響で3人の姉(満州で死亡)と1人の兄(引き揚げ船のなかで死亡)の生命を奪われており,とくに自分の母の悲痛な気持を紹介していた。その母は「戦争だけは嫌だ。戦争だけはしてはいけない」といいつづけ,90歳で亡くなったという。
馬場は広告人としてなのか,あるいは修辞上の工夫かもしれないが,つぎのような〈没論理の説法〉にも聞こえる無理筋の記述を残していた。
「私たちの憲法が与えられた,与えられないの論争はどうでもいい。あの戦いが終わった日に,私の母のように,だれもが2度と戦争は嫌だと思ったのだ。もう軍隊をもたない国の理想をかかげたのだ」(231-232頁)。
馬場についてはこういう評価・位置づけを語る人物もいた。
b) とはいえ,日本国憲法が産まれる歴史に深い因縁を有した特定の「ある人物」のために,馬場の姉妹・兄弟は早逝させられたゆえ,敗戦の時期に前後する国家の事情と「私家の運命」とのあいだをとりもった,それも不可避であった〈因果の連鎖〉を直視するとき,戦後の日本国「憲法が与えられた,与えられないの論争はどうでもいい」などという発言は理解しがたい。
日中戦争や大東亜戦争の最高指揮官は,いったいどこの誰であったか? 大日本帝国の陸海軍を統帥していた〈大元帥の地位や役割〉の歴史現実的な意味が,伊達:単なるお飾りだとか,酔狂:子どものママごと程度のものでは,けっしてなかったはずである。
つぎに,昭和天皇の4点の画像資料をかかげておく。上から順に説明する。
まず,第2次大戦が勃発する8カ月前の1939年1月の写真で,これは陸軍服を着用していた。2番目の写真は1944年12月8日の写真で,これは敗戦する9カ月ほど前であって,海軍服を着用していた(からそれなりに意味深長?)。3番目の写真は,1947年に公表ないしは撮影された写真であり,背広を着ていた。最後の写真は1956年のもので,豪華なタキシード姿。
上から順に一言くわえてみると,まず日中戦争(「支那事変」)もダラダラと継続していた時期での「陸軍服姿のご真影」。つぎに,太平洋戦争(大東亜戦争)も敗局へ完全に向かっていた時期の「海軍服を着用した昭和天皇」のそれ。そして敗戦後,「日本全国への巡幸」に出かけていたころに撮影された写真。これは,彼の行動として記録された一幕だが,この人が銃剣を手にした米軍兵士の警備に守られていた姿である。
おまけといってはなんだが,1956年時点における昭和天皇の正装姿になる「ご真影」も,ついでに紹介しておくになった。これは,ウィキペディアから借りた一葉である。
c) いままでの「平和な時代」(日本国内の話に限るが)に広告産業に従事し,営利を追及する事業にたずさわる立場の馬場マコトはすでに,広告人:サラリーマンとしての〈自身の名利〉を大きく達成できていた。そのためなのかかえって,企業経営の諸問題にまつわる理念あるいは思想のような課題を,粗笨にあつかう発言も残していた。
補注)この馬場のような人士の政治思想は,最近における日本国執権党の代表者からすれば,大歓迎のイデオロギーである。「思考停止だ」といわれて当然の,軽薄・浅慮を感じさせる発言であった。
馬場はこうもいう。「いまふたたび憲法9条について語ると,なんだか古い人間に思われたり,左傾化した人間に思われるのだが,思想は関係ない。私は右でも左でもなく時代の子としていおう」。「戦争は嫌だと」(232頁)。
だが,この手の発言は,もっぱら感性にだけ訴えた〈ものいい〉である。『戦争と広告』という種類の,真剣で深刻な中身を記述せざるえない物語を執筆した作者:馬場の,吐くにふさわしい文句とは思えない。
2) 没論理なりの〈理法〉
a) 馬場マコトのそうした発言は,政治・法制・経済・社会・文化・歴史・伝統の諸問題に関して〈完璧にウブ〉であった『事実=広告マンとしての本来的〔?!〕資質』を,正直に露呈させていた。
日本国憲法の問題や軍隊組織〔日本の自衛隊〕という政治的な存在にかかわっては,ぜひとも根源から考えてみたい〈関連の諸因〉を,あえて追放していた。しかも,無責任にも,それらとは距離をとりたがっている精神も淀ませているがために,結局は故意に〈無明の境地〉に逃げこんでいた。
馬場の立場は,ものごとの根本理法を平気でないがしろにする立場を,余すところなくさらけだしていた。そういう立場にまでなっていた。
戦争の時代の「お終いの前後」には,彼の姉や兄たちが生命を落とされた。そしてまた,戦争のせいでその後も彼の母がひどく苦労をさせられたのは,日本帝国の国家思想によって惹起させられた因果の展開であった。
b) 1934〔昭和9〕年10月,陸軍省新聞班が発行し,国民に広く頒布したパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』(通称を「陸パン」)における「有名な文句」が,「戦いは創造の父,文化の母である」であった。
当時,この国の運命を左右して〔引き回して〕いった軍部(旧日本帝国陸軍)の思想統制・弾圧に少しでも逆らい,批判する精神がないような人間ばかりだったとすれば,自分の肉親が戦争の時代に苦労させられ,命まで奪っていた国家・体制側の基本政策(国策:戦時体制)を,基本から問題だとして捕捉するための視座は,はじめからなにももてなかったに等しい。
昭和天皇は当時,まさか〈木偶の坊〉の生き神様であったわけではあるまい。たとえば,2・26事件(1936年2月に発生したクーデタ事件に対したとき命じした基本姿勢)や,あの戦争を完全に終わらせる場面(1945年8月14日「御前会議の〈聖断〉」)で,ほかの誰よりもいちばん大きな役割,その不可欠の関与(指揮)を果たしたのは,彼でなくてほかの誰がいたか?
それ以外にも戦争全体の進行過程においてこの人物は,旧日本帝国「陸海軍の陸軍参謀総長・軍令部総長」を兼ねたかのような,非常に卓絶した最高位の絶対的な立場から,あの大戦争を「ときに嬉々しした気分で,あるいはときに深刻な表情」で指揮を執っていた。
c) もう一度,馬場マコトの記述を思いだそう。「宣伝と戦争」。そう「あえて短絡させて考えると『広告は戦争』である」ということで,ここではひとまずとくに,企業間競争ということばを念頭に置きつつ,ものごとを類推的に思考する努力を試みてみたい。
「いちばん時代的で,だれもが注視することが確実なキャンペーンの前で,自分の職業規範はこんなにもやすやすと崩されるものか,自分はいかに信念のない男かと,つくづく思いしらされた」。もしかするとこれが,馬場のいいたい「広告のもつ本質」に相当する《なのもの》かであった,と推測される。
しかし,そういう執筆姿勢でもって自著『戦争と広告』を書いた馬場だからだったせいか,肝心な論点に立ち入るまえにすでに,ひどく「投げやりな:逃げの戦争観」を披露していた。
「あの戦いが終わった日」を契機にしてこそ,いまある「私たちの憲法が与えられた」にもかかわらず,この日本国憲法が新しく「与えられた,与えられないの論争はどうでもいい」とまでいってのけた。これでは,身も蓋もない「日本国家」観である。それどころか,その底まで抜けさせてしまった〈戦後:世の中〉論である。
いまは2015年10月初旬であるが,安保関連(戦争)法が成立した日本国になっている。先述のように安倍晋三首相は,この馬場マコトの「戦争と広告」観に対しては,国民栄誉賞を授与したいほど〈好印象を抱ける〉のではないか。この指摘は皮肉なんぞではなく,馬場の広告思想に潜む「21世紀の今日的な危険性」を示唆したいだけのことである。
※-3 伊丹万作「戦争責任論」
本ブログの筆者が以上のように批判してみた馬場マコトの戦時広告「論」は,関連する各知識界において蓄積されてきた戦争責任論に照らしても,きわめて稚拙・未熟・粗雑の段階に留まっていた。
そこで,敗戦直後公表されていた伊丹万作の「戦争責任者の問題」(『映画春秋』創刊号,1946年8月。『新装版 伊丹万作全集1』筑摩書房,1961年7月)という一文から,関連すると思われる箇所を引用したい。
注記)伊丹万作の「戦争責任者の問題」の全文はたとえば,http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html を参照されたい。上記の全集本を買わなくとも,当該の文章が読める。
以下の引用に関連させて考えたいのは,馬場マコト『戦争と広告』がとりあげている人物たちは,敗戦後の政治過程で「公職追放」処分にあった各界の人士たち比較してみるに,どのへんに位置していたかという点である。
ポツダム宣言第10項の「軍国主義者の権力および勢力を永久に排除する」方針にもとづき,GHQは1946年1月4日,軍国主義指導者(戦争と軍国主義を支えた者)の職場からの追放を日本政府に指示(「望ましからざる人物の公職罷免排除に関する覚書」),
これを受けた日本政府は,1946年2月28日に公職追放令,5月7日に教職員追放令,12月に労働追放令(第1次追放)を発し,3つの分野で戦犯・軍人・戦争協力者などの地位を奪った政策を実施した。
1947年1月4日には公職追放令が改正され,地方議員・市町村長・マスコミ関係者・有力企業幹部・追放者の3親など地方政界・言論界・経済界に範囲が拡大され(第2次追放),通算で20万人以上の者が職場から追放された。
そうした追放政策で閣僚(幣原内閣の閣僚では5人)や政党幹部に追放者が続出(与党進歩党の議員だけで260人),政界の流動化の一因となり,企業でも戦前からの経営者が追放され,代わって若手が経営者に就任したが,このような経営者を当時「3等重役」と呼んだ。
公職追放は1948年に入ると一段落し,かわって1950年6月に共産党中央委員24名が公職追放となるなどいわゆるレッド・パージの嵐が吹き荒れることとなる。
ここで,関連文献として増田 弘の3著を挙げておく。
『公職追放-三大政治パージの研究-』東京大学出版会,1996年。
『公職追放論』岩波書店,1998年。
『政治家追放』中央公論新社,2001年。
その後,この公職追放(ホワイト・パージ)が反転させられて,「レット・パージ」が起きた。こちらを解明した文献も2著挙げておく。
三宅明正『レッド・パージとは何か-日本占領の影-』大月書店,1994年。
明神 勲『戦後史の汚点・レッド・パージ-GHQの指示という「神話」を検証する-』大月書店,2013年。
さて,伊丹万作「戦争責任者の問題」(『映画春秋』創刊号,昭和21年8月)から,本日の議論の核心に関連した段落を引用する(前記のインターネット註記「文書」からの引用なので頁の指示はなし)。
馬場マコト『戦争と広告』がとりあげていた「戦争の時代の広告人」は『「だまし」の専門家』に分類されてよい。馬場も異論あるまい。伊丹からさらに引用する。
以上のこうした伊丹万作稿「戦争責任批判の視点」を参考にして,戦時体制期に大活躍した広告人たちも「同様にとり扱つたらよいではないか」と思われる。だが,はたして「彼らはどのあたりにいたのか?」
馬場の公表した著作『戦争と広告』は,以上のごとき問題点を考えたくないらしく,全面的に拒否している。ほとんど「見ざる・言わざる・聞かざる」状態である。しかし,国家や産業の要求する広告の必要に対しては,すなおに「見て・言って・聞く」姿勢が不要だった,などとはいえない。
もちろん,戦後におけるいまの段階にあって,その手にかかわるような問題意識を,日本国全体において「権力機構」を実質的に補完する大規模広告取扱会社にまでなりあがった電通や博報堂に期待することは,とてもできない相談である。
広告業にたずさわる産業人や芸術家たちはたまたま,「広告制作者の名前はクレジットされない」という職業のシステムが背景にあったために,「自分の文化創造装置を最大化して,作品の創出にあたった」戦争の時代に関する責任問題からは,幸運にも隔離されてきた。
この事実は,「文学者,画家,音楽家は個々人の名前でその時代を生きたために,きびしい戦争責任を追及された」彼らの戦後の経過事情とは,大きく異なることになった「広告界側の事情」を意味していた。
馬場マコト『戦争と広告』は,戦争の時代のなかで広告という仕事にたずさわってきた産業人たちの責任問題の解明・追及という論点でいえば,まさしく〈画竜点睛を欠く〉結末とあいなっていた。
※-4 日本學術振興會編『公益性と營利性』日本評論社,昭和16年9月
1) 時代背景
本ブログ筆者の今まで勉強してきた「経営学〈理論の歴史〉」研究にかかわらしめて,少し記述をおこてみたい。
戦争の時代はとくに,昭和12〔1937〕年7月7日に開始された日中戦争の影響を受けて,昭和13〔1938〕年4月1日に『国家総動員法』(法律第55号)が施行されいた。
この法律は,総力戦遂行のために日本帝国圏内すべての人的・物的資源を,国家が統制運用できる旨を規定していた。なお本法は,1945年12月20日に公布された「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」(昭和20年法律第44号)にもとづき,1946年4月1日をもって廃止された。
いまここにとりあげる日本學術振興會編『公益性と營利性』(日本評論社,昭和16年9月)という本は,大東亜戦争に突入する3カ月ほどまえに公刊された書物である。
その題名からも分かるように,国家総力戦となった近現代の国家体制における戦争観は,明治以来,資本主義的近代化の道にすすみ,東アジアにおいて帝国主義の路線を構築していった日本の企業経営に向かい,その基本的な運営理念のありかたに対してて,真っ向から強烈に疑念を突きつける政治経済的な根本要因となって登場していた。
戦争の時代における日本だけでなく,戦争の相手国になっていたアメリカやイギリスでも,資本主義経済体制としての国家運営を,一時停止という意味合いでは変容させていた。また,その戦時期において講じられた「有事にともなう施策」が,国家体制のあり方に多大な影響を与えたことも事実であった。
とはいっても,いずれの国家も,そのもっとも基本的である資本主義の性格そのものに限っていえば,戦後になっても変化させることははなかった。これが,より正確でまともな歴史認識となる。ただし,近代戦は総力戦だといわれたゆえんは,より確実に把握しておくべきである。
つぎの画像で紹介する記事は,『朝日新聞』2012年8月14日朝刊に出ていたものである。参考にまでかかげておく。
2) 日本學術振興會編『公益性と營利性』昭和16年9月
日本學術振興會編『公益性と營利性』(昭和16年9月)の「はしがき」を書いた高垣寅次郎は,同年(1941)年8月1日にこう主張していた。
「強度の国防国家の体制を整へ,東亜新秩序を建設するに欠くべからざる前提の要件」は「低物価政策と生産力拡充と,この一見矛盾する如き二つの事柄は,今の時局下にどこまでも堅持しなければならない」(「はしがき,1頁)。
同書は当時をまず,「基本的には個人が国家の一分子であるといふ関係に変り得ない」「と同時に私益は公益に奉仕する限りに於て許さるべきものであることも基本的に変るべきではない」(本位田祥男稿「計画経済に於ける国益と私益の立場」29頁)時代であると規定していた。
同書はさらに当時を,こう理解していた。
「自由主義の時代に,独立的存在が考へられた企業も,今日の所謂全体主義的なる思考の下に於ては,唯国民経済の発展に仕へる手段的装置と看故さるゝに至り,これが為め,企業の経営活動も,その一挙手一投速を予定し計画し,そのまゝの実現を期すべきであるとし,従って,競争性の如きは,これを絶対的に排除することにより,所謂企業経営に対する要請であるところの公益性の発揮を完全に可能ならしめるものである」(村本福松稿「公益性と競争性」63頁)。
同書はくわえて当時を,つぎのように認識していた。
「経済新体制の要望が,企業機構の均整と,飽くなき利潤追求の芟除とを目標として,然も企業本位の職分を発揚せしめんとする意図を有つに至って居ることは,諒承せられなければならぬ」(平井泰太郎稿「新体制下の株式会社」103-104頁)。
さて,馬場マコト『戦争と広告』の記述していた「戦争体制期における広告業の動静(軍部依存)・広告人の獅子奮迅の働きぶり」は,まさしく,以上のように経営学者たちが「戦争に挑む産業経済・企業経営」の《あるべき姿》に,すなおにしたがっていたものと,まったく同類・同質の戦争経済下の広告活動に立ち向かった基本姿勢であった。
そうであったにもかかわらず,偶然にも〈クレジット〉という有力な記帳が自分たちの広告作品に,それも結果的に残らなかったという経緯をたどったせいなのか,1945年までの自分たちの仕事をまるで他人事のようにとりあつかったうえで,しかも意図的に突きはなしたかのようにも語ることができていた。
3) 戦争は嫌だが,反対できない・しない立場
馬場は,憲法9条に触れては「戦争は嫌だ」と明言していながらも,「時代の子」である広告人だから,再び戦争が起これば自分も必らず「戦争コピーを書くだろう」とも宣言して,まったく憚るところがない。
そんな時代を迎えないためにも「戦争をおこさないこと,これだけを人類は意志しつづけるしかない」が,しかし起きてしまえば「それまでのことであって」,戦争協力はせざるをえないといってのけている。
それでは,いまから前もって,戦争・有事事態の発生に対して《不戦敗の敗北宣言》を放っているようなものであった。まるで,「戦う前から」すでに自分たちが「負け犬」であると自白している,つまり,初めから,万事に「敗北を覚悟した」かのような口調になっていた。
馬場はともかく「戦争の吸引力のなんと巨大なことか」と感心するばかりであった。それでも,戦争が起きた場合,「自分だけは協力しない」。なぜならば「戦争は嫌だ」と思うし,「戦争をおこさないこと,これだけを人類は意志しつづけるしかない」という抵抗精神までは,否定していなかった。
しかしながら,馬場が自著『戦争と広告』で考え,述べた核心は基本において,戦争を根本から否定できていない。それゆえ,前段に批判されたような〈国家側に対して無条件に服従するかのような思想〉に密着した生活態度を保持していた。
馬場は,伊丹万作が1946年〔⇒いまからだと78年も前〕にいっていた点,「現在の日本に必要なことは,まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し,だまされるような脆弱な自分というものを解剖し,分析し,徹底的に自己を改造する努力を始めることである」点を,全面的に拒否するほかない立場を示していた。それも,「いま」という平和がある時代に,である。
なんども繰りかえして指摘するが,2012年12月に発足した安倍晋三政権は,この国の現状を「戦争したい〔できる?〕国」に変えた。馬場マコトの明示した自分流の見地は「闘う前に早くから白旗をかかげた軍隊」の一員にしか感じられない。
馬場マコトのような2010年発刊のこの『戦争と広告』が,現在の極右・保守・反動の独裁的・ファッショの政権に対して,わずかでも抵抗するための精神的な基盤を提供できるかといえば,既述のように全面的に〈否〉である。この本はだから,譬えていえば,競走馬が発走する前に,それもみっともないことに,その騎手が振り落とされたかのような風景を著わしていた。
結局,『戦争と広告』という本は「戦争は起きてもしかたがない」「起きたときはそれまでだ」,それでもともかく「広告人として活躍できる場が与えられれば一生懸命やるだけさ」という主張にしかならない論調であった。そうした主張を剥き出しに表現している。
もしも,馬場がそのように表現した時代状況が「再来したとき」は(現在時点〔ここでは2010年代,安倍晋三の第2次政権以降,すでにそういう時代環境の雰囲気が強まっていたが),またもや,1945年8月以前のごとき「広告人」風のその姿容が,復活することになるのか? 安倍晋三のその政権に変わってからは,このように時代を認識したところで,なんら「違和感のない政治環境」が形成されていた。
本ブログの筆者はさきに,馬場がこのような主張をするとき「いったい誰がいちばん喜ぶが考えよ」と指摘してみた。この文句はくどくどとなんでも繰りかえして述べておく必要がある。
※-5 大東亜戦争・太平洋戦争となっていた日本の第2次世界大戦
1) 詩人「まど・みちお」の反省
以上までを記述した本日のブログをアップロードしたあと(これは2010年段階での話題であったが),朝刊を読んだ。すると『朝日新聞』2010年11月6日朝刊「文化」欄で「まどさん 新たな名戦争詩-1942年の作品 中島利郎教授が発見-」という見出しにつづいて,
「文学者たちの責任 考え直す機会」「『弱い人間』以前謝罪」という小見出しも並ぶ解説記事が目に入った。この記事は,同年11月16日で満100歳になる詩人,まど・みちお(本名:石田道雄,いしだ みちお,1909年- )の戦争責任問題を話題にしていた。
まどの戦争詩は「妻に語りかける形で,聖戦完遂をめざす高揚感を静かに歌いあげている」。まどは「戦時下に戦意高揚のための作品を書いた詩人の大半が戦後,口を閉ざしたま世を去ったなかで,かつて全詩集で2編の戦争詩を公表して謝罪した」と伝えている。
まどいわく「私は臆病な人間です。また戦争が起こったら,同じ失敗を繰り返す気がします。けっして大きなことなどいえぬ,弱い人間なんだという目で,自分をいつもみていたい」。「68年ぶりに日の目をみた戦争詩『妻』は,詩人に限らず,すべての表現者に,重い問いを投げかけている」。
さて,文学者の戦争責任も「戦責問題」のひとつであることは先述したが,まど・みちおのように,敗戦後の自分を正視する文学者がきわめてまれであったのと同じに,ほかのあらゆる分野・領域においても,戦争の時代に犯していた,それも無条件にも映った国家協力の姿勢:価値観:生きかたを,まともに反省しようとする人士はなかなかみいだしにくい。
馬場マコト『戦争と広告』にいちばん欠けていた視点は,あの戦争が「東アジア圏域」全体を戦場にしていた事実を,どのように観察するかであった。それなのに馬場の話題は,ひたすら日本国内に帰還・収束する〈大戦後の方向〉をとっていた。それは,旧大日本帝国臣民たちの生活圏内にかぎった内輪の「思い出」話に終始していた。
だが,戦争は辛かったがそれでも,広告人はそのなかでも大いに活躍する舞台があった。そういう時代がまた来たとしたら「まったく同じように反応し・行動する」。「それが人間の性なのさ」とでもいいたげな,たいそう無責任かつ無思想の姿勢を,馬場は正直に告白していた。
馬場は,大東亜戦争について軍部の人間が「百年戦争への覚悟の醸成」といわれたとき,これは「狂った広告の得意先として,内閣情報局から脱兎のごとく逃げるべきだった」にもかかわらず,「彼らは〔その〕完全に狂った集団だった」,その「得意先情報局からの狂った刃から逃れることができない状態になっていた」と解説する(馬場『戦争と広告』129頁。なお,この引用をした段落の文章は,脈絡においてアイマイさがあって,前後関係の解釈に苦しんだが,ひとまずこのように引用しておく文章にしておいた)。
しかし「ミイラ取りがミイラになった」ではないが,「同じ穴の狢」化したのが戦時期における広告人の〈戦争協力〉の実態であった。
a) 途中であるが,このような戦争中の画像資料を紹介しておきたい。 まず旧日本軍の『撃ちてし止まぬ』というポスター。
陸軍省は,昭和18〔1943〕年3月10日の「陸軍記念日」を意識し,同年2月23日,戦意昂揚のための標語『撃ちてし止まむ』をかかげたポスター5万枚を国民に配布した。この文句「撃ちてし止まむ!」は,国民運動の標語に昇格され,各所に掲示されもし,国民の目を惹くことになった。
b) また,日劇のビル壁面を広く使って垂らされたつぎのごときポスターは「百畳敷の大写真」であったという。この写真をよくみよう。 日劇に「撃ちてし止まむ」の巨大ポスター。
この図柄には,鉄カブトをかぶり,防毒面の袋をかけた帝国陸軍の兵士が,なにごとかを怒号しながら,右手に握った手榴弾らしきものを,いましも前方の敵陣に向けて投げつけるとともに,恐らく突撃に移ろうとする緊迫した模様が写されている。
これが当時,有楽町駅近くにあった旧朝日新聞社と道路ひとつを隔てた日劇(日本劇場)の正面の壁面いっぱいにとりつけられ,その巨大さと迫力ある画面のほどに気おされない者はなかった(三國一朗『戦中用語集』岩波書店,1985年,126頁)。
陸軍省が用意し,日本帝国の臣民たちに周知させたこの標語「撃ちてし止まむ」は,「一億火の玉」となって「鬼畜米英と戦いぬくぞ」という意識を,高揚・維持させるためのものであった。ただし,この「一億火の玉」という文句は当時,7千4百万人ほどであったから,1億というには約4分の1くらいは不足していたはずであった。
しかしその不足した員数分は,植民地にしていた台湾と朝鮮の,しかも「劣等臣民」たちだと見下していた,その658万人と2439万人の「準かつ劣等の臣民」を足すことによって,その「ほぼ1億5百万人」という人口統計を土台にしたうでの「一億火の玉」イデオロギーでありえた。
もっとも,1945年8月の敗戦と同時に,その「658万人と2439万人」という人口統計の数字は,どこかに吐き捨てられていたから,これはご都合主義の実例,極致であった。
ともかく戦争中は「贅沢は敵だ」「八紘一宇」「撃ちてし止まむ」などの戦時標語を模範に,産業企業の宣伝・広告も,国策的な観点から強力に戦争協力していた。その標語などを考え,表現し,効果あらしめるために働いていた広告人たちのことである。彼らに戦争責任の問題がないなどとはいえない。むろん大いにある。
山名文夫(ayao)は戦争中にこういっていた。「商業美術はその技量をいまこそ国家のために動員し,民衆を指導し,啓発し,説得し,昂揚させるために,大東亜戦争のもとに結集せよと」(馬場『戦争と広告』11頁)。
補注)山名文夫は「本稿(その1)」に登場していた人物なので,詳細についてはそちらを除いてほしい。
大東亜の戦争地域は,日本帝国の旧植民地をはるかに超えて広域にわたっていた。しかし,この大戦争に日帝は敗北した。ここで,敗北したから反省せよというのではなく,広告業・広告人のその「戦時的な弱さ・はかなさ」を,あらためて回顧・熟考する余地はなかったのかという疑念が,依然残されたままに残されている。
2) 脚本家「市川森一」のいいぶん
市川森一(1941年4月-2011年12月)は,アメリカによる2発の原爆投下をこう批判する。
「『原爆投下が戦争集結を早めた』という弁明が,いまなお定説としてまかり通ってい」るが,広島と長崎に「なぜ2発も続けて落としたのか」。「その後の調査団派遣はなんだったのか。米国の狙いのひとつは新兵器の『実験』だったとしか思え」ない。
「原爆投下の出撃前に,部隊に従軍していた聖職者は,作戦の成功を神に祈り,爆撃機の乗員に祝福をささげ」ていた。「神や正義を振りかざして虐殺を正当化した米国と,『仕方がない』と怒りを抑えこんだ日本側の姿勢は,表裏の関係にある」。
以上に森川が指摘したこの歴史的把握の論理形式は,馬場マコト『戦争と広告』2010年に対しても,そっくりそのまま妥当する。
大東亜戦争の時期,「日本の軍隊・軍人は中国戦線などへ出征するさい,靖国神社に参拝し,英霊たち〔=天皇〕に戦勝を誓っていた」。日本軍は「神国日本の大東亜における正義」を振りかざし,中国の人びとに対して残虐な〈三光作戦〉を強行した」。
すなわち,森川がアメリカを批判し非難する見地は,かつての日本帝国に対してもそのまま応用されうる。森川のようにアメリカを批判するのであれば,逆にも同様に,日本が中国から批判されて当然である。日本側はそれを「仕方がなく甘受するほかない」ような関係に立たされていた。
ところが,馬場マコト『戦争と広告』は,「中・日間の歴史的な相互関係」において日本側が「仕方がない」として受けとるべき論点を,あえて日本国内の〔国家と国民との〕問題次元だけに変換しておき,矮小した。「臭いものに蓋をする」ごとき扱いに逃げこんでいた。
要は,核心の問題が換骨奪胎されており,日本側における「国家=為政者側」と「国民=大衆側」との「関係」にすり替えられた。「日本⇒アメリカ」の相互関係を問題にしたいのであれば当然,「中国⇒日本」の相互関係も同じ地平にあってとりあげねばならない。
戦時期における広告界の活動が,当時の歴史のなかに折りなし,その因果となって展開されていた実体が確かに存在していたけれども,諸著作がせっかく物語っていたその通奏低音からは,我利我欲(私利私欲)の次元にこだわってきた人生行路が惹起させるその騒音しか聞こえてこなった。
3) 小 結-各紙などの書評の甘さ-
本ブログの記述は,馬場マコト『戦争と広告』に対する
▼-1『朝日新聞』2010年10月24日「書評」
▼-2「柿本照己の書評」
▼-3『東京新聞』2010年10月25日「書評」
などをとりあげて議論してきた。ところが,これら書評の基調は,馬場の論旨の方向性に即していた性格上,ただ内向きの「日本国内限定版」になっていた。
つまり,筆者が指摘してきた問題性に触れうる・答えうるような〈実質的な批評〉は,なにも与えられずに終わっていた。
「戦争の時代なり」に当時の広告問題はまた,帝国主義路線に沿って〈国際化〉していたにもかかわらず,こちらの関連問題がほとんど意識されていなかった。その意味でも,ずいぶん食いたりない論評3編であった。聞きようによっては,仲間うちでの「毛繕い的な論評」といえなくもない。
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