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幸福とは目的があること
昨日は、自己紹介だけでしたので、今日は、おそらくこれからこのnoteに書いていくことであろうことの、根底にあるといいますか、自分の基本的な考え方について書いてみようと思います。
僕は、幼いころから、現代ならわりと真剣に報道されるぐらいの虐待を受けて育ってきました。暴言、暴力がいつまでも続き、終わりがなく、救いのない毎日を過ごしてきました。
その中で、なぜこの場合に親は怒鳴るのだろう、と考えることが必然的に多くなることから、人ってどんな時にどんな感情を持つ「傾向があるのだろうか」ということを、小さいときから自然によく考えるようになったのだと思います。学校ではよく「優しいね」と言われていましたが、それは相手が欲しい言葉や行動がなんとなくわかるからであり、優しい自分という自意識はありませんでした。
もしかしたら、家で否定され続ける自分の存在を、学校で肯定されたいと願うことで、自分を癒していたのかもしれません。親からは毎日罵倒されていましたが、学校ではけっこう人気者でした。
よく、親に虐待をされたら、子どもはグレる、とききます。実際、自分の人生をかえりみたら、自分がグレていないことを不思議に感じることがあります。おそらく、生来のひねくれ者で、普通はグレるんだったら、俺はグレないようにしよう、という意識が働いたのだろうということは否めません。
グレる、ということは、「人を傷つける」ことに必然的につながってしまうように思います。反対に、僕は、「人を喜ばせる」ためにはどうしたらいいかと、小学校、中学校、高校においてよく考えてきたと思います。実際、自分を実験台にして、いろいろ試してみたりもしました。今になったら恥ずかしいことも多々あります。
大学生になると、自由に思考する時間が増え、より抽象的に「幸福とは何か」について考えるようになりました。その過程についてはのちのち書いていくことにして、今自分が持っている考え方としては、タイトルの通り、「幸福であることは目的を持っていること」だということになりました。もちろん、自分なんかが考えていることなんて他の人が考えたことがあるに決まっていますが、この「目的」という表現が、今の自分にはしっくりくるな、という気がしています。これが、「欲望」だと、何か違うな、という気になってくるのです。
別の言い換えとしては、結果として達成した状態より、達成に向かう過程のほうが、幸福度は高いだろうということ。こちらの表現のほうが、ポピュラーな言い方かもしれませんね。やり残したことがあるまま死んだ人は、決して不幸ではないと、自分は思っています。
解釈とはある意味で意志の疎通を妨げるものでもあります。目的が、「悪い」目的の場合、「悪い」ことをする人は、幸福でしょうか? 自己を傷つける欲望を持つ人は、幸福ですか? またその欲望は、目的とは違うのだろうか?
人間の世界を変えてきたのは、人間にある種の欲望があるからだと言えます。ただし幸福という概念を考えたとき、今の自分にはなぜか目的という言葉をあてはめたくなります。その時思うことは、みんなが幸せになればいいなあ、ということです。そのみんなの中に、いつか自分が入れたらいいな、と思いながら。
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