見出し画像

【小説】空蝉のふたり〈一〉

【あらすじ】
29歳の綴里はモラハラ夫から逃げ、亡き両親の家に帰る。双子の妹である日々記と一緒に暮らすが、ある日、義弟の健吾が先輩の大学生小説家、璃人を連れて来た。彼は校正者である綴里と、雑誌編集者である日々記に、興味があったらしい。綴里と璃人は惹かれ合うが、離婚を控えた綴里は頑なに璃人を拒む。一方、璃人は綴里と再会したいと健吾に仲立ちを頼む。そんな時、日々記は雑誌の企画と称し、綴里のいる日に不意打ちで璃人を家に招いた。綴里と璃人は再会するが、怒った綴里は日々記になりすまし、家から飛び出してしまう。日々記は綴里になりすますが璃人に見破られる。璃人は綴里を諦め就活に、綴里は離婚に向けて動き出す。

*** *** ***

一、半夏生 −はんげしょうず−

 キャラメルひと粒ぶんくらいの感傷は残るものの、わたしは蟻地獄のような夫と別居することになり、束の間だがほっとしていた。
 夫のオサムはわたしより十三歳年上だ。大学時代に仲の良かった友人、彩菜の兄である。彩菜の結婚式に招かれたときに出会い、連絡先を交換したのがはじまりだった。それから一年つき合って二十三歳で結婚した。
 結婚してからは、自分がどんどんだめになるような感覚が常につきまとっていた。体中に湿気を吸いこみ、その重みで身動きできなくなるように、あらゆることに鈍くなるのだ。
 しかし、本来それは自分のせいである――、というサブリミナルを日々の端々にすりこむような、あざとい真似をするのがわたしの夫なのである。
 あの保身の嘘が多い男と五年もの間、そのことにうすうす気づきながら、なぜ離れられなかったのだろう。そもそも、わたしは夫を本当に好きだったのだろうか。結婚前は恋愛に対して淡い期待を抱いていても、彼への愛着について深く考えることはなかった。答えが出ないまま、なぜずるずるとあの男にかかずらったのか今でも不思議なのだ。
 要するに、わたしからは見えにくい仕掛けを夫は作為的にめぐらせていた。電話をかけて来た双子の妹である日々記ひびきに、その愚痴のような結論をとうとうと述べた。
「両親が亡くなってるから、綴里つづりに教えてやれるのは俺だけだとか言って、あれこれ指図するの。でも周りの人にはだめ嫁って悪口言ってたみたい。オサムくんの言うとおりにしても露骨に嫌な顔することがあるの。そのとき、ぼそぼそ言うのよ。聞こえないから気にしないようにしてても、だんだんのしかかってくるのよね。よく聞いてたら『そう言われたら普通はこうする』とか『気が利かない』とか言ってるの。ちゃんと言ってくれればいいと思わない? あとね、親や友だちに借金してて、それがわたしのせいになってたのよ。どうりでみんなに冷たい目で見られると思った。彩菜までわたしを疑ってるの。オサムくんって裏表があるんだよね。だから家の中の様子は誰も想像できないみたい。蟻疑獄って普段は姿が見えないでしょ。オサムくんに似てない?」
「当然、オサムさんが悪いと思うけどさ、だからって蟻地獄はないんじゃない? まあ、最近よく聞くエネってやつだね」
「もう、笑わないでよ」
 わたしが電話口でむくれていたら、日々記はくつくつ笑うのをやめた。
「例えばさ、夕食のおかずが好みじゃなくてため息つきながら『酢豚』って言うんだけど、なんか違和感があるわけ。酢豚がよかったってことかなと思ったら違うの。聞き取れないように『メスブタ』って言ってたんだよ。朝の支度でちょっとでもペースが狂うと、玄関の見送りのときに腕時計見ながら親指を下に向けてるの。それ、わたしが気づくまでやってるのよ。わたしのせいってことでしょ。もう、蟻地獄の巣に引きずりこまれてもがいてるみたいな気分になる。蟻地獄ってさ、」
「わかった、わかった。わたし、明日が入校日だから忙しいのよ。今晩、職場に泊まりこみなんだよね。また近いうちに様子見に行くからさ。悪いけどもう切るね」
 日々記は女性雑誌の編集者だ。結婚後、専業主婦になったわたしとは違い、華々しいキャリアの持ち主である。雑誌は月刊なので毎月の締め切りに今日も追われている。
 蟻地獄はウスバカゲロウの幼虫である。土を掻いたりぶつけたりして捕まえた虫を毒で死に至らしめる。死んだ虫は黒く変色してしまい、食べたあとの亡骸は巣の外へ放り出されるらしい。そして成虫になったらどこかへふらふら飛んでゆく。
 この前、仕事で小学生向けの昆虫図鑑の校正・校閲を担当して知ったのだが、なんとなく夫みたいだと思った。
 多分、夫のオサムには他所に女がいる。わたしは日々記にそう言いたかった。

 先日、夫のマンションから逃げるように越して来たこの家は、わたしたち姉妹が亡くなった両親と一緒に住んでいた家である。父の弟である養父は不動産業を営んでおり、都内にあるこの家を今も管理してくれている。長年人に貸していたが、ちょうど半年前に空き家になった。
 養父母は、若い女性ひとりでは物騒だから、自分たちが住む大宮の家に越して来た方がいいと言ったが、どうしてもその気になれなかった。今のわたしは些細であっても、噂話や好奇の目には耐えられない。その煩わしさを遮断してくれる、ひとりでは広すぎるこの家のしじまに、羊水に浸かるようにくるまれ毎日を送りたかった。
 スマートフォンを居間のテーブルにぱたりと置いて、掃き出しの窓を開ける。色むらのある灰色の雲が流れ、ぎらぎらした太陽が顔を出していた。まぶしさに目がくらみ、ふっと気が遠のく。閉じた瞼をゆっくり上げたら、前の路地には笑い声を響かせ走り去る数人の子どもの姿があった。
 もうすぐ夏休み――。わたしたち姉妹が父と母を亡くしたのは、あの子たちの歳くらいだと思う。うつむいたら地面のタイルがさっきまでの夕立にぬれて黒くにじんでいた。置いてあったサンダルをはいて外に出る。サンダルの底がこすれて、ざり、と言った。
 外は雨が上がり、虹の匂いがする。近くから、遠くから、ジージーと蝉たちの声が聞こえてくる。
 子どもたちの声が消えるまで立ちつくしていたら、こめかみや首すじに汗がつつと流れた。長袖の袖口で額の汗をぬぐう。蝉の声を背に家の中へ入り窓を閉めると、中の空気は研ぎ澄まされたようにしんとしていた。
 わたしは素足でぺたぺたと階段をのぼった。吹き抜けの上の窓から路地の向こうにある公園が見える。公園を囲む常緑樹の高さは凹凸に並び、どの樹も濃い深緑の葉をこんもりと繁らせていた。
 廊下を奥に進み、父の書斎だった部屋に入る。都庁の職員だった父は読書家で、書斎にいっぱいの蔵書があった。大半は父が亡くなったときに処分されたが、残りはわたしが譲り受けてここに持って帰った。母はあまり知られていない絵本作家で、数少ない母の著作もここにある。もちろん、わたしの集めた本も。
 母は小学四年の雪の日に車の交通事故で亡くなった。父は小学校卒業の春、末期の胃癌だった。わたしたちは父が病院の緩和ケア病棟に入院してすぐ、養父母に引き取られてこの家を去ることになった。
 窓際のパソコンデスクの前に座り、机に立てかけてある単行本ほどの写真立てを見つめた。写真には父、母、わたし、日々記の四人が、笑顔で写っている。この写真は母が亡くなった年の夏休みに、家族旅行で安曇野に行ったときのものだ。
 写真立ての枠の角を中指の腹でいたわるようになぞる。あの日、わたしたちは半夏生の生い茂る湿地帯まで歩いた。半夏生はんげしょうは大ぶりの葉のひとつひとつを、緑と白に鮮やかに分けていた。
 日が暮れた湿地帯の野原には、やがてあまたの蛍が飛び交った。わたしと日々記が蛍を追うのを、父も母もほほ笑んで見守ってくれていた。あたりでは、蛙や虫の声がたえず聞こえていた。みんなの笑い声が耳によみがえり、目の奥がじんとなった。

 引越しの当日、日々記と大宮の両親が朝から連れ立って荷ほどきの手伝いに来てくれた。その日は梅雨の晴れ間でむし暑く、前夜の雨が公園の緑をいっそう濃く萌え立たせていた。
 チャイムの音にばたばたと階段を下り、玄関を開けて三人を迎え入れる。
「遅れて済まなかったな」
「引越し、無事済んだのかしら」
 父の言葉に首を縦にふると、母ものんびりした口調で横から顔を覗かせる。日々記はふたりの後ろで右手をひらいて頭の上に掲げていた。
「今日、本当はオフなんだけど、仕事蹴ったら編集長怖い顔してたわ。それふり切って手伝いに来たんだから感謝してよ」
 引越社の人たちが玄関から出てゆくとすぐ、居間のソファに座った日々記は脚を組んで言った。
「うん、ありがとう」
「この家ってこんな感じだったっけ。なんかがらんとして昔の面影がないね」
 日々記は掃き出し窓に向かってひとり言のように言った。背もたれに肘をついてぼんやりと窓の外を眺めている。
「もうだいぶ古くなってるし、当時の家具も引きはらってるからね。でも、今まで人に住んでもらってたから、そんなに傷んでなくて良かったと思うけど」
 わたしがそう答えても、日々記は物想いに耽っているようで、ぴくりともしなかった。
「さて、そろそろやるか」
 クーラーで涼んでいた父が号令をかけて、荷ほどきがはじまった。父と母が一階、わたしと日々記が二階を片づけることになった。
 日々記とふたりで扇風機のぬるい風を浴びつつ、寝室の段ボール箱を次々と開けた。汗に湿った後れ毛がほほや首すじに張りつく。日々記はペットボトルのブラックコーヒーをぐいと飲み干し、今気づいたとばかりにわたしの方へふり向いた。
「なんでこのくそ暑い日に長袖なんか着てんの」
 わたしは水色と白のボーダーのTシャツを着ていた。
「日焼けで赤くなっちゃうんだよね」
「家にいるときくらい半袖にしたら」
「そうなんだけど」
 日々記は止めていた手をまた動かしはじめた。こっちを向かずに言う。
「綴里、この部屋にもクーラーつけなよ。じゃないと、熱中症でやられるよ」
「今そんな余裕ないよ。引越し代で飛んじゃった。日々記が買ってよ」
 本当に余裕がない。自分で働くようになるまで家計の管理は夫がしていて、自由になるお金は限られていた。働くようになってからの貯金もわずかだ。
「契約社員だからしょうがないか。お金貸してもいいけど、分割で返してね」
「なあんだ、くれないのか」
「あげないわよ。だいたい、なんで前のマンションから全部持って来ないのよ」
 住んでいたマンションは夫名義だ。電化製品のほとんどは以前、夫が使用していたものを運びこんだ。それを説明すると日々記は呆れて言った。
「そんなの、もらって来てあとで慰謝料からその分引いてもらえばいいんだって。なにやってんの」
「でも……」
 まだ離婚と決まったわけじゃない――。そう言いかけてわたしは唾と一緒に言葉を呑みこんだ。
 わたしは今年に入ってから、校正・校閲を専門に手掛ける会社に就職した。鬱々とした家の中から抜け出したい。それだけを理由に履歴書を書いた。結婚するまで、出版社の校閲部で働いていたからか、驚くほどあっさり採用された。
 夫はそれが気に入らなかった。しばらく機嫌が悪く、洗濯物を隠しておいてまとめて出したり、作った食事に文句をつけて残したりなど、地味な嫌がらせが続いた。
 慰謝料の話でわたしが口を噤んでも、日々記は特に気にするような素振りでもなかった。寝室の段ボール箱が全部開いたら、わたしたちは書斎やウォークインクローゼットを片づけた。それが終わって下に降りたら、母が台所で湯気を立てて料理をしていた。もうお昼だった。
 母は蕎麦の材料を前もって準備して来たみたいだ。ぐらぐらと煮えたつ鍋に麺を泳がせている。手伝おうとしたらすぐできるからと食卓に着くよう促された。でき上がった大盛りのざる蕎麦は、上にごろりと寝かせた海老天とともに白い洋皿に盛られており、それを四人で黙々と食べた。
 午後から一階の和室、客間、玄関をみんなで片付けていたら、健吾が遅れてやって来た。
「ごめん、遅れた。綴里姉ちゃん、久しぶり」
「遅れた、じゃないわよ。あんたのご飯もうないわよ」
 母が甲高い声で健吾をなじる。
「あー、俺食べて来たから」
「あら、そう」
 呆れられても、本人は気にする様子もなくしれっとしている。
 健吾は今の両親の息子で、わたしたちより八つ下の大学生だ。わたしたちが養子になるまでひとりっ子だったが、きょうだいとして仲良く育った。そう言っても過言ではないと思う。背はそれほど高くないが、体格は角ばって男らしくなって来た。でも健吾は童顔なので、大人になった今でも可愛いと思ってしまう。
「そうだ、健吾。お前、綴里を買い出しに連れて行ってやれ。足りんものがあるだろうし」
 所在なさげにしていた健吾が、崩した段ボール箱を束ねはじめたら、父が良いことを思いついたとばかりに口にした。
「わかった。車のキーくれる?」
 健吾は父が投げたキーを宙でつかんだ。すぐ家を出て駐車場へ向かおうとするので、わたしも急いで身支度し欲しいものをスマートフォンにメモする。健吾を追って駆けるように外に出たら、うずたかい入道雲が公園の奥に見えた。
 買い物を終え、ホームセンターから帰って来たら、買ったラックを健吾が早速組み立ててくれた。整理用のグッズも買いこんだので、棚やひき出しの整理もさくさく進む。そのあと、段ボールごみなどを片付け、家の外の掃除や裏庭の草むしりをした。
 裏庭にはエゴノキが枝を広げ、蒼い紫陽花が手鞠のように咲いていた。幾種類かの白い野草が咲き、青紫のラベンダーも花穂かすいをもたげている。昔、ここに住んでいたころとは様変わりしているとは言え、あのころの面影も残っている。
 テラスのウッドデッキに立って庭を見渡し、目をつむる。まなうらにはウッドデッキにテーブルを置いて、原稿を書いている亡くなった母の姿が浮かんだ。その刹那、ひとりでに涙が流れた。
 陽が落ちる前に作業がひと通り終わり、夕飯に特上寿司を取ってみんなで食べているとき、雲丹うにの軍艦巻きを飲みこんだ日々記が言った。
「わたし、今日こっちに泊まるよ。明日、日曜だけど出勤しなきゃだし」
「そうだな。そうしてやってくれ」
 わたしが穴子に箸をつけると、ペットボトルのお茶を口にした父が横で頷く。母もガリをぱりぱりと咀嚼そしゃくしながら首を縦にふる。健吾は我関せずと、大とろとサーモンとかんぱちを勢いよく次々と頬張っていた。そんなに心配しなくていいのに。わたしは心でつぶやき、肩をすくめて穴子にかぶりついた。
 両親と健吾が帰るとき、玄関先まで見送ったら父はおもむろにこちらを振り返った。
「いつでも帰って来ていいんだからな。綴里の実家はうちなんだぞ」
 わたしは黙って頷いた。父の言いたいことはわかっている。わたしたちは今の両親の家で多くを過ごした。だけど、それと同じくらいこの家はわたしたちを育んでくれた。わたしたちには実家がふたつある。どちらも大切な家なのに、わたしの心はどちらつかずで、そのあわいを今も往ったり来たりしている。
 日々記はさほど深く考えていないのだと思う。進学し就職してからも、悠々自適に大宮の両親の家で暮らしているのだ。
 わたしと日々記は、玄関先で軽く手をふって両親の車と健吾のバイクを見送った。あたりの空は暮れなずんでおり、玄関灯が有明の月みたいにのっぺりと白んでいた。
「泊まるとか、余計なお世話だと思ってんでしょ」
 膝丈で細身のダメージデニムから、すらりと伸びた脚で玄関をあがった日々記は横顔で言った。わたしも綿スカートの裾を、上がり框に滑らせ脚をあげる。
「そんなことないけど」
「ないけど、なに」
「ううん、今日はありがとう」
 居間に入ると日々記はため息をつき、くるりとこちらへ向き直った。
「そういうの、もやる」
 日々記は居間から台所へ入り、冷蔵庫を開けてペットボトルの水をグラスに注いだ。カウンター越しに、飲む? と訊くので要らないと答える。それからグラスを手にして最短の動線で居間にもどり、わたしの斜め向かいに腰を下ろして足を組んだ。
「お父さんだって、綴里が遠慮してるから淋しいんだよ」
「だよね、わかってる。でも、今は人間関係自体がちょっと疲れるって言うかさ」
「人間関係ねえ」
 ふうんと日々記は鼻を鳴らした。
「今日、オサムさんから連絡は?」
「ない。三ヶ月くらい前から週末はうちには帰らないの。だから、わたしがいなくなったの、まだ知らないと思う」
「そっか、問題は明日だね」
 わたしが無言で頷いて床に目を落としたら、日々記は湿っぽい空気を吹き飛ばすように声を張り上げた。
「今日はくたくただわ。汗でベタベタするから先にシャワー浴びて来ていい?」
「う、うん」
 日々記は居間を出て着替えを取りにゆき、家の中に足音だけが響いた。わたしが小さく嘆息して飲み物を冷蔵庫へ取りに立つと、廊下の向こうでぱたりと浴室の扉が閉まる音が聞こえた。
 翌日の夜から、電話やメールやLINEの着信が鳴りっぱなしだった。わたしがどこにもいないことに気づいた夫からだ。
――しばらく出られません。
 わたしはその一文のみをメールし、そのあと幾日か夫からの着信を放置した。
 家を出るまではあんなに怖かったのに、憑き物でも落ちたように夫を平気で無視できる自分がいる。わたしが今まで抱いていた夫への想いは、なんだったのだろう。心の中に抑えつけられていたなにかが、今にも目を醒まして動き出しそうだった。

 渡されたゲラの束を机に置き、赤ペンを握る。ルーペを覗きこみ初校ゲラの文字列を追った。ルビに間違いはない。誤字に線を引き赤ペンで正しい漢字を横に書く。地名と電車の路線名をインターネット地図で確認する。
 続いて「てにをは」の間違いに斜線を引き、横の行間に「トルツメ」と赤字を入れる。ページをめくって同じように赤で記号を入れ、ゲラの端に著者への疑問を書く。またページをめくる。
 勤務先である校正・校閲会社の室内は、今日も紙のめくれる音とペンが走る音しかしない。社員は皆、黙々と仕事に没入している。
 わたしは今日、新しいゲラに取りかかることになっていた。割り当てられたのはホラー小説である。人知れず動揺した。ホラーは苦手な上に、今の精神状態で耐えうるのか、あまり自信がなかった。
 予感は的中し、四頁目でわたしは吐気を催した。工業大学近くにある開かずの踏切で、主人公の男子大学生が不審な若い女性の飛び込み自殺を目撃するという場面に行き当たったのだ。電車が急ブレーキで止まり、線路内に女の血や死体の肉塊が飛び散った。その死体の様子が、まるで目の前で見たように克明に描写されており、これ以上読めるものではなかった。
 我慢できずにハンカチを持って席を立つ。トイレで嗚咽をくり返して鏡を見たら、目尻に涙が滲んでいた。なぜあのゲラがわたしに回って来たのだろう。
 席に戻ってゲラの束を裏返し悩んでいたら、隣の席にいる正社員の樋口さんが手を止めてこちらを窺った。訊かれたのでわけを話すと、上司に相談するように言われる。吐き気を抑えて上司の席へ向かい、おそるおそる事情を話したら、担当のゲラを取り替えてもらえることになった。何度も頭を下げ席へもどる。わたしは新しく、源氏物語の中の植物を解説する本の、ゲラを校閲することになった。
 一日の仕事を終え、会社の入ったビルを出ると雨が降っていた。腕にかけたトートバッグの中から折りたたみ傘を取り出す。傘をさしバス停に向かって歩いていると、水たまりで雨水がはねてスカートの裾に染み、歩くたびにふくらはぎがひやりとした。
 雨足が強くなり、バス停に着くころにはパンプスがずぶ濡れになってしまった。下を向くと靴のつま先が濡れて光っている。出たため息にまで雨が匂う。いつもより混雑するバスの中で、滴を垂らす傘を体にひき寄せて駅まで揺られた。家に着いたときにはスカートのひざ辺りまで雨に濡れてぐっしょりしていた。
 今日はついてない。脱衣場にある物干し場に、タオルでふいたスカートやら、中身を放り出したバッグやら、雨つぶに光るパンプスやらを引っかける。体が冷えてしまい熱いシャワーでも浴びなければ風邪をひいてしまう。
 髪をほどいたら、下着を脱いでかごに入れ浴室の扉を開ける。すぐ真正面にある姿見に自分の青白い裸体が映ると、嫌でもおぞましい右腕に目がゆくのだった。

 翌日は晴れてむし暑い日になった。いつものように、シリアルとヨーグルトで朝食を済ませて家を出る。長い髪はひとつにねじり上げ、クリップで後ろ手に留めてあるが、長袖を着ているからか外に出たとたん首筋がじっとり汗ばんだ。
 眼の前がくらむような目映い白光を日傘に浴び、バス停に並んだときだった。いきなり胃から重苦しいものが鈍く迫り上がって来た。そのうち治るだろうとうつむいていたら、ふたたび鳩尾みぞおちまでずいと上がって来る。とにかく落ち着こうと思い、今度は顔を上げ深呼吸を静かにくり返した。
「――ですか、大丈夫ですか」
 目が覚めたら、わたしはバス停のある歩道で横になっていた。縦になった道路の上を車が上下に移動してゆく。前に立っていたスーツの男性が、わたしになにか話しかけ上から覗きこんでいる。男性が「あっ、目を覚ました」と大きな声を出したのでわたしははっとして、熱い歩道に肘をついてよろよろと体を起こした。
「あなた、急に倒れたのよ。救急車呼びましょうか」
 後ろから覗きこんでいるメガネの中年女性が慌てふためいて声を上げる。
「いえ、大丈夫です」
 ぽつりとつぶやいて立ち上がり、なにかに掴まろうと手を伸ばしまたよろめく。手を貸してくれた中年女性が、日傘を捕まえてくれており、それを受け取りすみませんと口にした。それでも彼女はわたしの顔色を窺っているようで、わたしは急に恥ずかしくなり彼女の腕をゆっくり離した。
 並んでいる人たちがざわつき、こちらを見ている。わたしはその視線に耐えられず、トートバッグをひろい上げ後じさった。
 並ぶ人の列から外れ、逃げるように来た道をもどる。ときたま目の前がぼんやりして足もとがおぼつかないが、歩道の柵に沿って信号へ向かった。乗る予定だったバスとすれ違い、湿り気のある熱風が頬に当たる。そのあとも横断歩道を渡った先の郵便ポストや、路地の電柱に掴まりながら、ふらふらと家へたどり着いた。
 家に着いてから会社に電話をし、一日休みを貰うことにした。ソファにぐったりと寝そべり、わたしはうとうとしはじめた。
 起きてから確認したが、気を失っただけで怪我ひとつなかった。それでも、日々記は病院にゆくようわたしを説得した。幼いころからわたしは体があまり丈夫ではないからだ。その日はもう動くことができなかったので、翌日も大事を取って会社を休み、近くの総合病院にゆくことにした。
 診断は迷走神経反射性失神だった。医師に胃から出血があったと聞いておののく。だけども、内視鏡検査の画像には、赤く網目がかった胃の桃色のトンネルの壁に、蚊に刺されたような赤い点がひとつあるだけだった。
「しばらく寝ていたら自然に回復するケースがほとんどですけど、一応、胃薬を一週間分出しときます」
 先生はそれに続き食事制限を言い渡した。朝食のシリアルが胃を傷つけた可能性があるらしい。なるべく柔らかいものを食べるようにと言われた。
 わたしは一昨日、仕事でホラー小説を読んだせいではないか、と言いたかったのをじっとこらえた。中学生のときに友だちに薦められて推理小説を読んだことがある。読んだ日の深夜、ナイフを持った犯人に追い回される夢を見て飛び起きた。どうも感応しやすいみたいなのだ。
 先生がパソコンの方を向きエンターキーをたたんと叩くと、プリンターが紙を吐き出す音がした。処方箋をこちらに差し出す先生の左手には、くすんだプラチナの指輪が鈍く輝いている。わたしは思わず膝の上の自分の左手に目をやった。自分がまだ結婚指輪を外さずにいたことに気づき、なにをいつまでも惜しんでいるのだろうと、滑稽なような惨めなような妙な気持ちになった。

(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?