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【小説】空蝉のふたり〈八〉最終話

八、款冬華 ―ふきのはなさく―

「障害者差別解消法のパンフ、突き合わせ終わりました」
「じゃあ次、これお願いできる? 『わかるWordPress』」
 今日もゲラと向かい合い赤ペンを走らせる。今朝は雪が降り肌を刺すような寒さだった。健吾の成人式の日も雪が積もり、会場へたどり着くまでに相当時間がかかって凍えたらしく、式中も震えっぱなしだったと言っていた。
 夫との離婚は先月の中ごろ成立した。元夫と言うべきだろうか。DVは、わたしが勝手にチェストを倒して怪我をしたと言い、はじめは認めようとしなかった。警察への相談経過や普段の精神的DVも併せ、弁護士が切々と訴えてくれたおかげで、調停委員が信じてくれて相手もやっと認めたのだ。
 浮気については調停開始前に、週末の元夫の行動パターンから予測し、出入りしそうなところで待っていたら、派手めの若い女性と一緒だったのを目撃した。元夫にべたべたしている様子から、この女性が浮気相手だとすぐわかった。
 それを健吾が日々記から聞いたらしく、驚いたことに証拠を集めるのを手伝うと言って来て、空いた時間を利用して元夫を尾行し、写真や音声を数点入手してくれた。わたしが姉弟の縁を切ると言った直後のことだった。
 その証拠を調停委員が採用してくれて、元夫も浮気をあっさり認めた。慰謝料を抑えるためだ。離婚はわたしに有利に運んだ。DVの傷痕の手術代も弁護士は勝ち取ってくれた。
 調停が進むたび、この五年間我慢していたことが、みるみる浮き彫りになった。怖いくらいだった。わかっていたつもりなのに、自分でも圧倒された。本当には自覚できていなかったのだと思う。
 調停が終わり、大宮の両親に報告に行ったときは無性に泣けた。クリスマス・イブには墓参りに行った。この日は母の命日で、無事に離婚したことの報告も兼ねてお参りしたのだった。
 そして、今年からわたしは正社員になった。昨年、まだ調停中に、思いがけず上司から話を持ちかけられ、気が動転したが喜んで応じることにした。職場でもこんなに気づかって貰えるとは思わなくて、嬉しさで胸がいっぱいになった。
 日々記ひびきはというと、秋が終わるころに部署異動になり、コミック部門へ移った。絵本復刻プロジェクトは、あれから規模縮小になったらしい。亡くなった母の絵本は復刻されたが、日々記の編集する女性誌とのタイアップはなくなったそうだ。記事は誌面の四分の一くらいに小さくなり、彼に寄稿して貰うだけのスペースもなかったようだった。もちろん、彼の撮影ページなんかもなかった。
 コミック部門に移ってからは、休みがある程度はきちんと取れるようで、日々記は休みのたびに、ビジネスセミナーだの、異業種交流会だのへ出かけてゆく。オンラインで英会話も習っているみたいで、口を開くたびにビジネス用語を英語で発音し、最後には「フリーランスで成功してやる」と息巻くのだ。下着泥棒はまだ捕まっていない。
 そういや、健吾は昨年末に彼女ができた。だけど、彼女とのデート中に車で自損事故を起こし、彼女の父親にこってり絞られたようだ。今は父に立て替えて貰った車の修理代を払うために、コンビニのアルバイトをがんばっている。
 彼はつい先日、この冬の芥川賞を受賞した。テレビニュースの受賞者発表では、彼の名前が高らかに読み上げられ、あの憂わしげな笑顔が映った。新聞やネット記事でも、彼の名前が踊っていた。賞を受賞した小説は恋愛もので、夫のいる女性とその妹との三角関係を描いていた。



 明日は休みである。定時きっかりで仕事を終え、雪が解け残っている道路を慎重に歩く。向かいのオフィスビルの大きな窓には、鉛を溶かしたような重い雲が垂れこめている空が、藍色に映っていた。
 バスや電車を乗り継ぎ、家に帰る途中で雪がちらついた。雪は夜半からほたほたと絶え間なく降りつづけた。明日の朝には積もりそうだ。わたしは居間で見ていたテレビを消し、台所でコーヒーを淹れた。牛乳も温めマグカップにコーヒーと半々で注ぐ。砂糖は入れない。それを持ち、二階の書斎へ向かった。
 窓際のパソコン机のマウスの右にマグカップを置いた。ファンヒーターのスイッチを入れ、パソコンの電源を入れる。窓の外には落ちて来る雪の影が広がり、前の公園の樹々は見えなかった。
 パソコンの前に座ってパスワードを打ちこみ、素早くエンターを叩く。ホーム画面が開くまでにマグカップに口をつけ、カフェオレをひと口こくりと飲んだ。
 つづきを早く書かなければ。頭の中では、文章の細かい鎖がつながったり切れたり、一本のきれいな線になったり、ときには絡まったりしていた。かたわらではママとパパと日々記とわたし、家族四人の写真がそっと見守っている。
 わたしは休まずにキーボードを叩きつづけた。たまにインターネットで検索して画面をじっと見つめる。途中でBGMをかけたり、蝉の動画を見たりもした。日々記が帰って来て物音が聞こえたが、次の瞬間には意識を集中させ、またタイピングを急いだ。ページがどんどん増えてゆくように、外では雪が積もりつづけた。
 深夜になると足もとの冷えが強くなり、部屋から毛布を引っぱって来た。靴下も二重履きにして毛布をへそから床の上まで垂らす。日々記が階段を上がり寝室へ向かう音が密かに聞こえたが、気にも留めずにモニターの光を浴びつづけた。
 (了)と書いてキーボードからやっと手を離す。モニターの端を見たら02:22と表示されていた。大きなため息が出た。目がしばしばする。肩が凝ったので首を回した。ファイルを開いたまま立ち上がり書斎を出る。わたしは階段を下り浴室へ向かった。
 風呂から上がるとパジャマ姿でまたカフェオレを作った。台所も居間も月の表面のように音もなく冷え冷えしていた。これからまた書斎に籠る。今から校正も兼ねて推敲するのだ。
 静かに階段を上がり書斎に入る。パソコンの前に座るが、しばらくマグカップを手にしていた。半分くらい飲み終わると、カップを置いてキーボードに手を伸ばす。漢字変換ミスや、文章のねじれ、文脈の前後、不要な部分がないかをよく見る。結局、推敲が終わったのはまだうす暗い時間だった。
 知らないうちに雪は止んでいた。外が明るくなって来たと思ったのは、積もっている銀雪のせいでもあった。三十センチ近く積もっている気がする。窓から覗くと前の公園の樹々も真っ白で、どこからか、がさっと言うしずり雪の音がした。
 わたしはひとつの小説を物した。雪のようにまっさらな頁に題と名前を記す。
『UTSUSEMI』 森山綴里つづり
 マウスに置いた指がひとときためらったが、思い切ってプリンターのアイコンをクリックした。紙が吐き出される音がして、白い空間が黒い文字でテンポよく埋めつくされ、次第に物語になってゆく。わたしは、モニターのかたわらに置いてある空蝉うつせみの樹脂はく製を、なにげなく手に取った。
 気づいたら部屋はしんとしていた。印刷が終わったのを確かめ、樹脂はく製をもとの位置へ戻した。さようなら。わたしは心の中でそう唱えた。
 トレイの紙の束を揃えて机の上に置き、赤ペンを持つ。紙とインクの匂いを嗅ぎつつ、字面だけを追い記号を入れてゆく。赤が入ったわずかな頁を修正しふたたび印刷する。それを差し替え、紙の束の側面をとんとんと机の上に軽く叩きつけ、表紙を上にクリップで挟んだ。片手にその紙の束を持ち、もう一方に毛布を握りしめて書斎をふらふらと出る。
 静かに階段を下りて和室に入り、仏壇の前に紙の束を置く。なにを祈るでもなく後ろへ下がり、わたしは毛布をかぶって寒い部屋の隅にうずくまった。まぶたが重い。だけど脱稿に興奮してか体が微熱を帯び、すぐには眠れそうになかった。
 どれくらいそのままでいただろうか。浅い呼吸をくり返していたら、いきなり両肩にずしんと重力がかかった。息苦しさに喘いでいると、かさかさとなにかが這うような気味悪い音が聞こえる。わたしは身構えた。
 やにわに、目の前でもぞもぞとなにかが蠢き、逆流するようにぶわっと畳のすきまから黒いものが噴き上がった。塵の塊が吹き飛んだみたいに見えた。目を見ひらくと大小さまざまな虫が、脚をばたつかせながら宙にひるがえっている姿が、闇に浮かんでいた。わたしはのけぞった。
 虫たちは畳の上に落ちたと思ったら、また畳のすきまに吸いこまれるように、せわしなく這いもどって行った。かさかさという音が小さくなってゆく。そこで両肩がすっと軽くなった。
 今朝は雪が積もり地表の温度がかなり低い。放射冷却が激しく、陽が昇る直前は一番気温が下がるため、どんな生き物も死を感じるのだ。床下に潜んでいた虫たちも、それで我先にと畳の上へ逃げて来たのだった。重力だと思ったのはその冷気である。
「ああ」とだけ言ってわたしはゆっくりまぶたを閉じた。
 彼の瞳が潤み優しく微笑んでいる。わたしに覆いかぶさり、彼は幾度となく啄むように唇を重ねた。わたしの胸に顔を埋める彼の頭を抱き髪をなでる。お互いの手の指を絡め、わたしたちふたりはゆれた。

                               (了)


【参考文献】
『源氏物語』〈第二帖 帚木〉紫式部著 伝明融筆臨模本(小学館古典セレクション底本)
『源氏物語』〈第三帖 空蝉〉紫式部著 大島本(小学館古典セレクション底本)
古典セレクション『源氏物語①』〈全16巻〉阿部秋生/秋山虔/今井源衛/鈴木日出男 著 小学館
『源氏物語の女君たち』瀬戸内寂聴著 NHK出版
渋沢栄一2022「源氏物語の世界」http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/index.html  2022.08.01取得
宮脇文経 2018「源氏物語の世界」〈再編集版〉http://www.genji-monogatari.net/ 2022.08.01取得
『校正という仕事 文字の森を行き言葉の海を渡る』(株)ヴェリタ編集 世界文化社

廬山寺 紫式部像

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