見出し画像

【小説】空蝉のふたり〈五〉

五、寒蝉鳴 ―ひぐらしなく―

 裏庭に水を撒いていたらエゴノキがつむじ風にゆれた。爽籟そうらいに空をあおぐと、澄んだ空には刷毛でひと塗りしたような雲が、うすく広がっている。太陽はじりじりと照りつけ、蝉の声がジージーと遠くから聞こえていた。
 今日一日、仕事にゆけば盆休みだ。洗面所で顔を洗い、鏡に映った自分を見る。少し頬がこけた気がして体重計に乗った。引越してくる前より1・5キロ近く減っている。朝ごはんの白飯を心もち多めに茶わんによそい、ひとりテレビのニュースを観ながら箸をうごかす。暑中見舞いのはがきの返事に、残暑見舞いなどと書き出す時期になっても、東京は今日も三十四度の猛暑だそうだ。
 日々記ひびきは、今日は出勤が遅いとかでまだ寝ている。昨夜は暑気払いで職場の人と飲んだらしく、めれんになり日をまたいでから、タクシーで帰って来た。
 着替えてメイクを済ませ、スマートフォンをトートバッグに入れる。玄関を出て日傘を差したとたん、家の前の公園からそよぐ風に緑が薫った。新しく買った夏用のカーディガンは通気がよく、風をはらんで右腕の傷痕をさらりと包んでくれていた。
 夏のなんでもない一日なのに、なにかがわずかに傾いで見えるものが表情を変えた気がする。日傘を差しバス停に立っていても、一か月ほど前にここで倒れたのが遠い過去のようだ。それくらい自分は成長したと思いたいのかも知れない。
 昨夜、わたしは仕事を終えてから、家庭裁判所に離婚調停申し立ての書類を提出しに行った。
 地下鉄を降り霞ヶ関駅の改札をくぐると、街も日比谷公園も青い闇に包まれていた。家庭裁判所の入口のちょうど左手には、ビルの夜景の中心にライトアップされた東京タワーがそびえているのが見えた。そのきらめきに背中を押された。
 わたしはこの日の東京タワーをずっと忘れないと思う。
 裁判所の建物の中に入るとぴりっと張りつめた空気がただよっていた。自然に背筋がのびる。受付窓口へ向かう靴音が冷たく響き、穏やかな生活が波立つ予感をかき立てた。
「夫婦関係等調整調停ですね」
 受付窓口の魚みたいな眼の女性は、一見でそうそらんじた。わたしは神妙に頷いて書類を手放した。わたしと夫との終わりが、こうしてはじまった。 
 通勤のバスの中、あくびが出そうなのを噛み殺す。昨夜は慣れない場所に行ったせいか、変に目が冴えてよく眠れず、これからのことを思い悩んだ。夫が恐いのではない。離婚してその先どうしたいのか、まだよく考えていないことに気づいたのだ。養父母である今の両親に頼りっぱなしでは、やはり気がひける。その堂々めぐりする思いが、今朝もまだ残っていた。
 電車に乗り換え、朝の通勤ラッシュのひといきれに酔いそうになりながら、会社の最寄り駅まで来てまたバスに乗り換える。大通りに並ぶ街路樹の葉かげにいる蝉たちが、猛り狂うように鳴いて去りゆく夏にすがりついていた。それがバスの中でもうんざりするほどよく聞こえた。
 弟の健吾からの連絡は最近放置している。どうせ彼のことに違いないからだ。これ以上、むやみに心をかき乱されたくない。
「住んでる世界なんて大した問題じゃない」
 彼の言葉が耳にまだ残っている。
 健吾や彼くらいの男の子は、万能感でみなぎっているのだろうけど、だからと言って六つも年上のわたしが、振り回されるのもなんだかおかしい。離婚のことと仕事だけに集中しなければ。あらためてそう自分に言い聞かせる。
 会社で朝礼が終わると、著者校が帰って来たとゲラの束を渡された。
 京都を舞台に、騒音問題と、サックス奏者である若い女性の音楽活動を、交錯させ描かれた長編小説である。小説もしばらく書かないことにしたが、こういうものを見るともどかしい。
 早速赤ペンを持ち、頁をめくった。訂正箇所や疑問出しに対する著者の回答に、目を光らせる。ところが、寝不足のせいでたまにうとうとしてしまうのだ。この調子では先が思いやられる。わたしは気持ちを切り替えるために、こっそりビル内の自販機へ飲みものを買いに出た。
 自販機の横にあるベンチに腰かけ、空の紙コップを片手にぼんやりしていたら、トイレ帰りの樋口さんに見つかった。
「あら、どうかしたの。こんなところで」
 わたしは寝不足の理由を樋口さんに話した。
「そう。それで気分転換ってことね。調停はうまく進みそう?」
「いえ、まだ申し立てたばかりで期日が決まってないんです。もしかしたらはじまるのは一か月くらい先になるかも知れないそうです」
 立ち上がり、樋口さんに連れられるように社内にもどる。ゲラの束を前に机にかじりつき、頭の中にもやが立ちこめて来るのを振り払いながら、終業まで校正・校閲の作業に励んだ。
 定時になり、女子更衣室でロッカーを開けてトートバッグを取り出す。明日から夏期休暇なので、みんなもいそいそと帰り支度をしている。連休中は旅行だとか、旦那さんの実家に帰省するとか、同窓会があるとか、メイクを直したりスマートフォンをいじったりしながら、さえずるようにおしゃべりしていた。わたしはその声を背にロッカーの鍵を閉め更衣室を出た。
 会社ビルを出て大通りへ歩く。信号を渡り、バス停に並ぶ列の最後尾に着いた。道路にはひっきりなしに車が走っている。
 ふと、かたわらに立つ背の高い街路樹を見上げた。蝉たちは緑の蔭に眠ってしまったようだ。朝の大音声だいおんじょうはすっかり消え、街の喧騒がゆったりした波の音みたいに聞こえた。
 空は陽が落ちてくすんでいた。やがてバスが来て、わたしも列につづき車内のステップをあがる。後ろのひとり掛けの椅子が偶然空いたので、そこに腰かけた。
 座席に着き数分で異変に気づく。膝に置いているトートバッグの中で、なにかがごそごそと音を立てるのだ。訝しんでバッグの中を見たとたん、背中がびくんと震え上がった。吃驚のあまり大声が出そうになるのを必死に押し殺す。
 バッグの縁で琥珀色のまるい物体が蠢いている。よく見たら羽化する前の蝉の子だった。脚をせわしなく動かして頭を出している。わたしは手のひらをおそるおそる蝉の子に差し出した。蝉の子はバッグの縁から落っこちる前に、わたしの手のひらへうまく乗り移った。そして、どこまでも前進する。
 一体いつ、どこから――。
 とっさにバッグの中を片手でかき回した。弁当箱が入った巾着からもたもたと弁当箱を取り出す。蝉の子がカーディガンの袖を上へ這うのを捕まえ、空になった巾着の底にそっと置いた。バスが大きく揺れる。十分ほどで駅に到着し、急いで弁当箱をバッグにもどし席を立った。
 見回しても駅の周りには蝉が居つけるような立ち木はない。わたしは蝉の子を入れた巾着を、金魚掬いの帰りみたいに、手にぶら下げて改札をくぐった。ホームに降りたらもう電車が到着していた。巾着が潰れないようにし、車内に駆けこんだ。
 途中、電車の中で巾着の空気を入れ替えたり、羽化がはじまっていないか覗いてみたりしたが、蝉の子は生地の裏側をぐるぐる歩いていた。油断すると上へ登ってくるので、それを捕まえ、また巾着の底へもどす。これのくり返しだ。
 車両の一角に立ち、そんな風に謎めいた戯れに耽っているうちに、黒くつるんとした眼を持つこの子が、愛くるしく思えて来た。腕の傷を気にしてあれほど人の視線を怖がっていたくせに、今はなりふり構わず蝉の子に執心している自分に、首をひねりたくなる。わたしはこの子を、このまま家に連れて帰ることにした。
 帰ってすぐ、蝉の子を居間のカーテンに止まらせた。本能のままにもぞもぞと生地の上を登ってゆく。ご飯も作らず目を凝らして観察していたら、蝉の子は二、三分でカーテンを登るのをやめ動かなくなった。羽化する場所を陣取ったのだ。この部屋が気に入ったようでほっとする。
 琥珀色の虫の子はじっとしたまま、時を待っているようだった。わたしはそのすきに小走りで台所へ向かい、頭上の戸棚から袋ラーメンを取り出した。袋をちぎり鍋に沸かした湯の中で急いで麺の塊をほぐす。それから、卵をひとつ割り入れ煮立てたものを、たぷたぷとどんぶりに移した。
 居間に戻り、蝉の子のかたわらでどんぶりを抱えラーメンを啜る。よく見ていると、蝉の子は右へ左へとゆっくり体をゆすっていた。それを間歇かんけつ的にしばらくの間くり返す。ラーメンを食べ終えたわたしは、床の上でひざを抱えカーテンにつかまっているその子を見上げた。
 三十分経とうというころだろうか。蝉の子の背中に、炒り豆がぜたみたいに小さな裂け目ができた。時間が経つにつれ、裂け目はぱっくりと左右に開き、中から斑紋のある萌黄の新しい胴体が覗いた。わたしは嬉しくてでも心配で、気が気ではない。
 蝉の子は胴体を持ち上げようとし、時おり体を上下に強くゆすっている。強くと言っても人間のわたしたちから見て、ほんのかすかな動きだ。蝉の子は懸命にもがいていた。その振動音がぶんぶんとくぐもって耳朶じだを掠める。よく耳を澄ませないと聞こえない音だが、それは確かに小さな生命の鳴動であった。
 体がみるみる盛り上がり、艶のあるふたつの眼玉がやおら現れる。頭が完全に出たら動きが止まる。しばらくしてやっとか細い前脚が出ると、草木の新芽のような可愛い翅もゆっくり出てくる。
 次第に翅が起き、腹脚と後脚と同時に腹部も出てきた。脚をいっぱいに伸ばし天井を仰いだと思えば、カーテンから落ちるのではないかとはらはらするくらい体を反り返らせる。羽化がはじまりだいたい一時間後のことだ。
 固唾を飲んで蝉の子をずっと見守っていた。
 翅がひと回り大きくなり、腹筋を使って体をゆっくり起こし、脚をばたつかせ抜け殻につかまる。数分で産卵管のついた尻が出た。彼女は琥珀から萌黄の体にとうとう生まれ変わった。関節がところどころ金色だ。くしゃっとひだのついた翅に体液を送りこみ、少しずつ伸ばしてゆく。
 翅は五、六分で完全にぴんと広がった。ペールグリーンの翅に緑の翅脈しみゃくがくっきりと張りめぐらされている。花びらのような翅は、ふわりと萌黄の体の上に浮いている。その無垢な姿に胸が躍った。まるで妖精のようだ。
「おめでとう」
 音を立てずにささやかな拍手をした。居間を離れ着替えにゆく。帰ってきてから一時間半が過ぎていた。
「ただいまー」
 居間で蝉の体が焦茶色になるまでを見守っていたとき、日々記が帰ってきた。いつもより早い。
「おかえり」
「お腹空いたー。食べるものなんかある?」
「ラーメン」
 日々記は「え?」と言ってその場で足を止めた。
「ラーメンが戸棚にあるよ」
「え〜、自分で作れってこと? 他になんかないの」
 バッグをソファに降ろし、その横に日々記は腰かけた。いかにも疲れていると言いたげに、腰をずるりと前にすべらせ、両脚をテーブルの下に投げ出す。
「ない。わたし今日は忙しかったの。今も忙しいから」
「なにしてんの。突っ立ってるだけにしか見えないんだけど」
 日々記は掃き出し窓のカーテンの前にいるわたしの背中に言った。わたしが振り向かずにいると、立ち上がって横から覗きこむ。
「なんだ蝉か。じっと見てるからなにかと思った。もう、家の中に入れないでよ」
 日々記はわたしの給仕を諦め、台所へラーメンを作りに行った。でき上がったら、どんぶりをトレーに乗せ居間にもどって来る。
「この子、さっき羽化したばかりなの」
「その蝉が?」
 日々記はラーメンを啜る。
「そう。完全に大人になるのを待ってるの」
「へえ、夏休みの自由研究みたい。暇なことしてるね」
 日々記はふうふうと箸に引っかけた麺を冷まし、また啜っている。
「あのね、帰りのバスに乗ってるとき、蝉の幼虫がバッグから這い出て来たの」
「なにそれ。どういうこと」
「バス停でバスを待ってるときに、街路樹の枝から落っこちて来たんじゃないかと思うの。それでわたしのバッグに入っちゃったんじゃないかな」
「木登りの途中でってこと? 綴里つづりのバッグの中にすぽって?」
「うん、それしか考えられない」
「えーー、そんなことあんの。うけるね」
「でしょ。最初はすごくびっくりしたけどね」
 わたしたちは、顔を見合わせて笑った。日々記は助けたお礼に蝉が恩返ししてくれるのではないかと言った。そういうこともあるかもしれないとわたしは思った。
 あくる日の朝、蝉が入った小さな段ボール箱を抱え、家の前の公園に持って行った。風もなく、灼けつく太陽の光が照りつけている。
 深緑の枝を大きく広げる高木の前に立った。箱を開け蝉の両脇をつまんで持ちあげる。彼女は脚をひくひくと動かせた。これでお別れかと思うと、もの悲しくなった。
 樹の幹につかまらせようと手を伸ばした刹那、今まで大人しくしていた彼女はばたつきはじめ、あっと思ったときにはもう手を離れていた。敏捷に羽ばたいて蒼穹に吸いこまれてゆくのを見送る。お盆の初日のことであった。
 彼女はひと足早く帰って来た精霊しょうりょうだったのだろうか。うつし世を離れてとこ世にもどったのか。日傘の中で段ボール箱を抱えたわたしは、彼女が飛び立った空にいなくなった人たちを思い描いた。

◇ 

 樹の枝から落ちた蝉の子が飛び立った日は、大宮の両親の家に帰省する日だった。わたしはお昼を食べたら、荷物を詰めた。昨年までのお盆は、夫や夫の両親とほとんど一緒にいたので、大宮の家でゆっくりするのは久しぶりだ。
 家を出発し、駅に着くともう日暮れどきだった。天頂は白み、駅のうしろの空は赤みが濃くなっている。
 両親の家までを誰かのあとにつづいて歩く。疏水のそばまでやって来ると心地よい風が吹いた。道沿いに立ち並ぶ桜だかけやきの樹が、道沿いの遠くまで連なる影を、落としている。土手に生い茂る夏草のつんとする匂いがした。反対側の家の屋根には、夕陽が照り映えまぶしかった。
 カナカナカナカナカナカナ カナカナカナカナカナ カナ カナ カ ナ
 甲高いひと声がいきなり真上からあがり、驚いて足を止める。寒蝉ひぐらしが一斉に鳴いており、あとからあとへ鳴き声がカナカナと追いかける。かと思えば、短くちぎれて消えてゆく。今日、羽ばたいた蝉の子を思い出し淋しくなった。わたしは足早に歩き出した。
 家に着くと、離婚のことで最近よく訪問していたというのに、お盆の帰省を父は大喜びして迎えてくれた。もちろん母もだ。
「いつでも帰って来ていいんだからな。綴里の実家はうちなんだぞ」
 夫と別居をはじめたときに、父が言った言葉どおりの歓迎ぶりだった。夕食に出されたのはわたしの好きな食べ物ばかりだった。
 明日は亡くなった両親の墓参りにゆく予定だ。日々記は夏期休暇が来月だそうで、休みの日に健吾を連れて、すでに墓参りを済ませたらしい。墓は父方の祖父母宅の近くにあり、ここから車で小一時間かかる。
 健吾は家にいなかった。どうもお盆中、彼と一緒に避暑地で過ごすようだ。わたしはそれを聞いて胸をなで下ろした。来るまでに健吾とその陰にいる彼の存在が、気がかりで仕方なかったからだ。
「そう、お盆までに調停の申し立て書が、無事に提出できてよかったわね。お墓参りで報告もできるし」
 先日、家庭裁判所に行った話をしたら、母はそう言ってくれた。わたしは大きく頷いた。父はひと言「そうか」と言った。
 墓参りの日は朝から天気が怪しかった。父と母とわたしの三人で祖父母の家へゆくと、祖父も祖母も笑顔で優しく出迎えてくれた。
「日々記ちゃん、いらっしゃい。よく来てくれたわねえ」
「おお、日々記、元気だったか」
 祖父母の勘違いに苦笑いする。それを見て父が隣で声を張りあげた。
「親父、お袋、これは綴里だ。今日、日々記は来てないんだよ」
「ああ、そうか。すまん、すまん。似てるから間違えた」
「ほんと、よく似てるわねえ。間違えてごめんね、綴里ちゃん」
 祖父母は認知症などではない。両親でも間違えることがあるくらいなのだ。たまにしか会わないので、判別できないのは仕方がない。
 ひと息ついてから全員で墓のある寺に向かう。
 花を供え手桶の水をひしゃくで墓石のてっぺんから流し、線香から立ちのぼる煙の前で手を合わせる。少ししたら、いきなり強い風が吹き、煙が勢いよくなびいた。すぐにぱらぱらと雨が降って来て、急いで車へもどろうとする途中でだんだん本降りになる。わたしたちが祖父母の家に着くころには雷鳴が轟いていた。
「こりゃ、神立かんだちだな」
 祖父が言った。この雷雨で神がなにかを伝えようとしているそうだ。よい知らせだといいのにと思う。
 急な雷雨から逃げ帰り、祖父母が用意してくれた鰻重をみんなで食べる。それからお互いの近況を報告しあって、話が早々に尽きたので大宮に帰ることになった。
 あれこれと気に病み、祖父母はたくさんのお土産を持たそうとしたが、拝むようにしてやんわり断った。そのうちまた来るから、そう言うと祖父母は安堵の表情を浮かべ、玄関先で見送ってくれた。
 次の日の夜、夕食を両親と食べていた時、日々記が大宮の家にやって来た。お盆ということもあり、近ごろ機会の少なくなった家族団欒のために、仕事を早く引けたそうだ。わたしも普段お酒は飲まないのに、この日は勧められるままにビールを飲んだ。
 日々記が空いたグラスに自分でビールを注ぎながら言った。
「健吾の車、快適だったよ。この前、お墓参り行くのに乗せてもらったんだけど」
「え、健吾の車って?」
 わたしが小さく驚きの声をあげると、話に母が割りこむ。
「もう、あの子、貯金もしないでバイクや車に注ぎこんじゃって。ちゃんと維持できるのかしら。わたしは反対したのよ」
「買ったの?」
 パエリアを皿によそいながら訊くと父が頷く。
「今は好きにさせておけ。社会人になるとそうも行かんからな」
 父と健吾はふたりとも車好きで昔から趣味が合う。それで盟約を結んでいるらしい。トヨタのアクアを新車で買ったそうだ。
 会話が途切れ、テーブルで食器が立てる音だけが聞こえる。健吾がいないのでなんとなく不自然な感じだ。そう思っていたら、父がなんのつもりか沈黙の中に一石を投じた。
「健吾はまだ水原さんのことでなにか言って来るのか」
 わたしは一瞬、箸を動かす手を止めた。健吾はまだ諦めずLINEを定間隔で送ってくる。
「ああ、健吾からたまに連絡来るけど、仕事中でほとんど出られない」
 日々記はそう言うとわたしを一瞥した。
「わたしは来ても放置かな。今、それどころじゃないし」
 母の顔からさっと笑顔が消えた。不安そうにこちらと父の顔を見比べている。
「あの子、なに考えてるのかしら」
「いやな、水原さんが家族ぐるみのつき合いを考えてるらしくてな」
 父はひと呼吸おいてつづけた。
「悪い話じゃないんだけどなあ……。しかし、健吾には困ったもんだ。あれでも将来のことを考えてるみたいだが。まあ、水原さんのような人には逆らえんのだろう」
「でも、まだ学生さんでしょう」
 母の声は明らかに不満そうだった。確かに、彼は父が著名な詩人で本人も小説家だが、まだ二年ほど前にデビューしたばかりだ。
「学生って言ってもVIPだからね。それにしても健吾、今からあんなに振り回されて大丈夫かな」
 日々記はそう言い、スズキのカルパッチョをつつきながら笑った。口に運んで、またビールをあおる。みんなの食器同士が立てる音が響く。
「水原さんはいつ卒業なんだ」
 大体の見当はついているはずなのに、父の問いかけに全員が黙りこくった。
「ら、来年の春だって」
 たまりかねて小声でつぶやいたが、思いのほかその言葉は、波紋が広がるように空気をゆらした。みんなの視線が集まる。
 まただ。家族であってもこういう視線がすごく怖い。消えてしまいたくなる。
「そうか、うむ」
 父の顔を見たら心なしか口もとがほころんでいた。父はなにもかも見通しているのではないか。彼がわたしに興味を示していることも。そう思うと急に恥ずかしくなり、背中がおのずと丸まった。
 日々記は声を張り上げ、わざとらしく言う。
璃人りひとさんも健吾も、なんだかんだ言ったって、世間的なことはまだよくわかってないんじゃないかなあ。だから、そんなに心配するようなことにはならないでしょ。わたしたちは大丈夫よ。ねえ、綴里」
 両親の手前、口裏を合わせるようにと促している。
「そ、そうだね。なんとかなるよね」
「すまんな。もしなにか困ったことになったら、俺が水原さんと直接話し合ってみる」
 父と母はひと回り小さくなったように見えた。ふたりの実の子である健吾のことも多分に気がかりなのだろう。わたしたちはもう十分、このふたりに愛情をかけて育ててもらった。これからは自分たちの足で歩いてゆかなくてはならない。
 夕食が終わり、のんびりしてから日々記と一緒に帰ることになった。電車の中で日々記は扉のそばに立ち、窓の外を眺めながら言った。
「お父さんとお母さんの前ではああ言ったけどさ、健吾だってわたしたちを利用しようとしてんだから、あいつを利用して璃人さんとうまくつき合えばいいんじゃない? その方がなにかと有利でしょ」
「健吾でさえ振り回されてるのに、そんな自信あるの」
 彼の家は家柄も立派で裕福だ。こちらに興味を示している以上、協力を惜しまないだろう。日々記は窓の外を見ながらつづける。
「どうにかなるって。綴里だって璃人さん家のコネでもっといい職場が見つかるかもよ」
「なに言ってるの。なにもかもめちゃくちゃになるかもしれないでしょ。気をつけるように言ったのは日々記じゃない。またお父さんとお母さんに心配かけるようなことになったらどうするの」
 耳に彼のチェロを奏でるような声がよみがえる。心の隅でその駆け引きを想像してみて、一瞬でも打算に走った自分に吐き気がした。
 わたしは健吾のように彼におもねることも、日々記のように彼を適当にあしらうこともできそうにない。妹と弟の貪欲さに窮々とする。このふたりと肩を並べるためには、自我を武装でもしなければならない。そう考えるだけでも憂鬱だ。
「健吾だけでいいでしょ。健吾を応援してあげようとは思わないの」
「あいつはちゃっかりしてるから、そんな心配いらないって。それにさ、綴里だって別に応援なんかしてないでしょ」
「なにが言いたいの」
 日々記は窓の外から目を離した。斜に構えるように暗い瞳をこちらへ向ける。
「じゃあ言うけど、璃人さんとの連絡を拒否ってるんでしょ。お墓参りのとき健吾から聞いてるんだよね。この前、倒れたときのお礼だってなにもしてないんじゃないの。健吾の応援って言うなら、それくらいちゃんとしてあげたら」
「だって、あれは――」
 言葉がげないでうろたえていると、日々記は視線をまた窓の外に移した。わたしたちはそれからひと言も口をきかなかった。このときはまだ気づいていなかった。日々記の胸のうちに、ある企てが芽生えていることに。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?