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【小説】空蝉のふたり〈七〉

七、禾乃登 ―こくものすなわちみのる―

 離婚調停の期日が九月下旬に決まった。家庭裁判所から通知書が届いたのだ。
 つい先日、夫と義理の両親が大宮の両親のところへ押しかけたらしい。離婚したくないと居座られずいぶん揉めたらしいが、父が警察に通報すると怒鳴ったら帰ったそうだ。わたしの住んでいる家の場所はまだ知られていない。
 ゆうべ、健吾から読んでほしいと妙なLINEが来た。
――綴里つづりさんのことがまだ気になる。もう会えないのはわかっていても自然と思い浮かぶよ。
――正直、あんな風に逃げられてへこんだ。
――嫌われてないかな。らしくないか。まあ、仕方ないよな。
 文面から彼だとすぐわかった。転送して来たのだ。最初は健吾がまた凝りもせず仲を取り持とうとしているのかと思ったが、最後まで読んだら切なさで胸が詰まって怒りが消えた。
 何度か読み返していたら、涙がひと粒こぼれた。
 思わず「ごめんなさい」とつぶやいたが、途中から声にならなかった。わたしも彼に会えないのが淋しかった。でも、なにより蝉の子のように無垢な姿で会えないことが辛かった。
 夫のことがなかったなら、産みの両親の死がなかったなら、堂々と生きて来られたかもしれない。注目されることの多い彼の隣に、笑顔で並ぶこともできるのかもしれない。わたしの過去が燃えてしまったらよいのに――。
 夫とのことで男性はもう嫌だと思っていたのに、彼のことになると心が揺れてしまう。わたしも通り一遍の女性と同じなのかと自嘲したくなる。
 スマートフォンの画面に目を落とし、ことごとを思い返していたら、LINEの吹き出しの上に、最後に会ったときの彼のはにかんだ笑顔が目に浮かんだ。
 今日は日曜だというのに朝から雨で、昼過ぎには土砂降りになった。昨夜、本州に上陸した台風は、紀伊半島から関東へ北上中だ。
 肌寒くて半袖から長袖に着替える。わたしはスマートフォンを手に、書斎へ入りパソコンの前に座って電源を入れた。
 窓から見た外の景色は白く燃えていた。屋根からは雨垂れが休みなく落ち、景色の上にしぶきを散らせた。止まない雨が焚き付けとなりまた白く燃える。塗りつぶさなくても、わたしの物語もこんな風に燃えてゆくのかもしれない。
 だとしても、なにも残らないわけではない。今はそれがわかる。
 わたしはスマートフォンをモニターの左に置いた。一緒に持って来たキャラメルの箱を文鎮のようにその上に置く。それから、いくつかのフォルダの奥にある小説フォルダをなにげなく開いた。そこには今まで書いて来た生硬せいこうな小説が、ファイルとして当然のように残っている。
 完成していなくても、ここにあるエピソードがつづきを待っている。
 だけど、それらを迎える新しい物語はまだはじまらない。実際には離婚調停期日が決まっただけだからだ。その前に白く燃え始めるひとくさりを、今から弔う準備をしなければならない。
 この二ヶ月は考えることがいっぱいで頭が破裂しそうだった。胸の奥底は、液状化したように大きく揺れ、心細かった。そこにほのかな甘やかさの訪れがあった。蝉がひと夏の間、樹木につかまり過ごすように、わたしもその不確かな甘やかさにすがったのだと思う。
 彼はどうだろうか。わたしという幻影で、夏の渇きをひととき潤せただろうか。それとも、虚しさを募らせただろうか。おぼろなわたしの存在にもたれ、心の均衡をたまゆら、崩さずにいられただろうか。あの日、現れたのがまやかしのわたしであっても。
 彼と一緒に過ごした時間は二十四時間にも満たない。それでも、他の人たちが及ばない感覚でお互いの深いところに触れ、わたしたちは響きあった。それをふたりが悟ったのは確かなことだ。愛し合う道があることも、ふたりは当然知っている。
 引力に反するように拒むわたしを、彼は友人として支えたいと言った。でも、なし崩しで恋愛関係に持ちこまれたら、オサムのときと同じだ。そんな失敗は二度としたくない。だから、離婚という大義を盾に気づかぬふりをした。
 横なぐりの雨が、窓のガラスを叩く音がして窓に目をやる。外は見わたす限り白く燃え、また白くけぶっている。
 キャラメルの箱の開け口の、赤いひもをつまんで引く。くるりと一周したら上部の箱をかたどったビニールは、抜け殻みたいにひらひらと床に落ちた。箱の内がわをすべらせ斜めに傾けると、銀紙に包まれた小さな直方体の粒が、きれいに整列して雪崩れて来る。その中のひとつの銀紙をひらき、琥珀色のひと粒を口に放りこんだ。それから箱を閉じ、もとの位置にもどす。
 わたしはキーボードに指を滑らせた。

 あの日、彼はふたたびこの家を訪れた。わたしは彼の声に耳を傾けようとしなかった。宴の最中に、その場を立ち去ろうとして日々記ひびきに促され、わたしたちだけで居間を出た。そのあとのことだ。
 日々記について客間に入った。室内灯のスイッチを入れ、振り向いた日々記は、うすっぺらい笑顔で話し出した。
「綴里、絵本復刻の企画でね、うちの雑誌にママの絵本のこと、璃人りひとさんが特別に寄稿してくれるそうなの。いい話でしょ」
 疑念の目で日々記を見つめる。どうして彼が寄稿するのか。彼の父の桐村先生の方がよほど適任なのに。
「それで璃人さんがママの絵本を見たいそうなのよ。急にアポが決まったから言うのが遅くなっちゃって」
「どうして水原さんが絵本復刻のことを知ってるの」
「うっかり健吾に話しちゃったの。それで伝わっちゃったみたい」
 わざと漏らしておきながら、悪びれもせず堂々としている日々記に呆れる。わたしはこういうことがはじめてではないが、彼が踊らされているのではないかと、少し気の毒になった。以前、日々記が健吾を利用して、彼とうまくつき合えば有利だと言っていたのは、このことだったのだ。わたしは事態をやっと諒解した。
「そう。でも、日々記んとこの雑誌は、絵本なんてほとんど関係ないでしょ」
 日々記の編集する月刊Vivaceは、ファッションや美容が中心の女性誌だ。絵本なんて畑違いである。なぜ、そんな企画を通そうというのだろうか。
「だから目新しくていいんじゃない。それにね、璃人さんには寄稿だけじゃなくて、撮影協力もお願いするつもりなの。ヴィジュアルだけで読者の購買意欲が上がるでしょ。ファンも買うかも知れないし。そうだ、表紙に登場ってのもいいなあ」
「なんでそこまで話が進んでるの。まだ出版社から復刻の正式な連絡が来てないじゃない」
「だから、それは内定してるんだってば。あとは地道に根回しとかないと企画がスムーズに進まないし、しょうがないでしょ」
 それで今夜の暴挙に出たというわけだ。この駆け引きが根回しとはお笑いぐさではないか。日々記は出版社からの意向確認を承諾してほしいと言い募った。なんとしても、わたしに著作権について「うん」と言わせようとしている。
「でもね、璃人さんにはなにも頼んでないのよ。向こうから寄稿するって言って来たんだから。まあ、でもありがたいことだわ」
 なぜ彼がそんなことを言い出したか、理由があるはずだった。そこまで女性誌で仕事がしたいとも思えなかった。
「だから綴里も協力してよ、ね」
「今日、答えられないわ。健吾ですら一週間前に知ってたじゃないの」
 言下に退けると、日々記は口を歪めて下を向いた。黙ったままで、言葉を待っていても埒があかない。
「水原さんを家に呼んだのはなんで」
「……打ち合わせを兼ねたおもてなしよ」
「外でやれば? ここはわたしの家でもあるのよ」
 日々記が仕事の相手を連れてくるなんてことは、これまで一度もなかった。おかしいと思った。
「でも、ママの絵本って書斎にあるんでしょ。鍵は綴里が持ってるじゃない」
「言われたら絵本くらい出すわよ。打ち合わせにわたしが居る必要ないでしょ。なんでわたしをリビングに引き留めたの」
 わたしはオセロの手を打つように、日々記の言うことを次々と反駁した。日々記は客用ベッドの裸のマットレスに、まるでダウンしたボクサーみたいに勢いよく腰を下ろした。浮かない顔つきでうつむき、前下がりの髪の中に顔を隠す。髪の毛が明かりをはね返して光り艶めいた。こんなに腹立たしいのに、それがきれいで思わず見惚れてしまう。そうやって光る髪を見ていたら、日々記はやっと顔をあげた。
「璃人さんの望みを叶えてあげたいなあと思ったのよね」
「どういう意味?」
「綴里に会いたいみたいだった。健吾もそう言ってたし」
 頬が紅潮するのが自分でもわかり、日々記から顔を背ける。最初からそのつもりだったのだ。策略の全貌が見え、日々記に心底あきれた。
「わたしの気持ちはどうでもいいってこと? いい加減にしてよ」
「別にいいじゃん。ちょっと顔出すくらい」
「人を騙すようなことしてなに言ってるの」
 わたしが声を大きくすると、馬鹿にするように日々記は目を丸くし、肩をすくめた。
「でも、璃人さんは綴里に男として認めてほしいんじゃないの。それもあるから寄稿するって言ってきたわけでしょ。じゃあ、忖度しないと」
「やめて」
 彼の気持ちが胸に刺さる。わたしはずっと彼との接触を拒んできた。でも、それが本心ではないと、彼にはわかるのだ。だから、わざと日々記の誘いに乗ったのだろう。
「書斎に案内してあげてよ。健吾との約束なのよ。ちょっと絵本見せてあげるだけでいいから――」
 ぱしん、という音が部屋中に鳴り響いた。わたしは日々記の頬を手のひらで思い切りぶった。日々記も健吾もなぜここまで利己的になれるのだろう。自分たちの去就に際し、わたしを生贄にしようというのだ。信じられない。
「甘えないで。自分の企画なんだったら自分でなんとかしなさいよ。ママも生きてたらそう言うわ」
 カーディガンを脱ぎ、日々記に差し出した。日々記はそれを一瞥し、怪訝そうに上目づかいでわたしを見た。
「日々記も服を脱いで」
「なにするの」
「服を取り替えるのよ。そんなに自分の仕事のために水原さんが必要なら、自分でその約束を果たしたらいいじゃない」
 幸いにも今日のわたしたちは髪型からメイクまでよく似ていた。あとは服さえ取り替えれば、誰ひとり入れ替わったことに気づかないだろう。まして、彼には二回しか逢っていないのだ。わかるはずがない。
 早くしてと言うと、日々記はしぶしぶ服を脱いだ。わたしは藍色のカーディガン、桔梗色のスカート、白いブラウスを渡し、日々記から赤いワンピースを受け取った。着替え終わりお互いに見つめ合えば、自分たちでも鏡を見るようによく似ていた。わたしは日々記に、日々記はわたしになっていた。

 わたしになった日々記に、自分の部屋のどこに書斎の鍵があるかを教え、居間に戻る。彼の前に日々記として座ったとき、右腕の傷が見えてはいけないと、ひじを抱えて左腕の下に傷を隠した。
 わたしになりすました日々記が彼と居間を出て、階段を上がる足音が聞こえると、わたしは急いでメイクを直し、外へ出ようとした。ソファで寝ている健吾が起きる気配はなかった。
 玄関へ向かおうと居間を出て階段の前を横切ったとき、彼の香水の残り香が鼻先を掠めた気がして足が止まった。
 森の中から漂う熟れた果実の甘い匂い――。突然、彼を騙しているという罪の意識が萌した。
 大人げないことをしただろうか。でも、わたしには彼と対峙する勇気などない。気づかれなければいいのだ。
 でも、もし彼に気づかれたとしたら。いや、気づかれても日々記がなんとか取り繕うはずだ。日々記はそういう術に長けている。わたしにだって、ひと言も謝罪しないくらいだ。罪の意識なんて微塵もないだろう。
 彼は落胆するだろうか。仕事の意識があるなら、そうでもないかも知れない。絵本を見て帰ってくれればそれでいい。その場しのぎだとしても。
 わたしはしばし煩悶した。それで、日々記と彼の様子を少しだけ窺い、それから外に出ようと思い立ったのだ。バッグを廊下に置き、足音を立てないように階段を上がる。書斎の前まで来たら、五、六センチくらい扉が開いており、そのすきまから明かりが洩れていた。日々記がふたりきりなのを警戒して開けてあるのか、彼が日々記に気をつかってなのかはわからなかった。
 わたしはそのすきまから、中の様子を盗み見た。日々記の今夜の横暴を考えると、まったく悪いとは思わなかった。わたしにはその顛末を見届ける権利があるとすら思った。
 扉の向こうでは、日々記が本棚の前でママの絵本を探しており、彼はそれをじっと見つめている。日々記の後ろで所在なく立っていた彼は、窓の方を見て足をそちらに向けた。外に目をやってから、もどってくるときになにか見つけたようで、パソコンのそばに近づいて行った。
「これ、蝉の抜け殻ですか」
 やっと見つけた絵本を手にしながら、日々記が彼に近寄る。パソコン机に置いてある樹脂はく製を認めた日々記は、蝉の幼虫がバッグに落ちて入った話を、さも自分の体験のように彼に話した。
「へえ、そんなことが。綴里さんは優しいですね。家まで連れて帰って羽化を見守ったなんて」
 ふたりで愉しげに笑ったあと、樹脂はく製を持ってみても良いかと彼が訊ねると、日々記は惜しげもなく手に取って差し出した。
「わあ、全方向から見られますね。すごいなあ。これなら永久保存できるし、気軽に触れますよ。ぼくも小さいころは虫が好きだったんですよねえ。いいなあ、これ。うまくできてますね」
 彼はしきりに感心して日々記に樹脂はく製の作り方を訊いた。はく製に使った樹脂は手芸用のレジン液である。その中に、蝉の抜け殻を浸けて固めたのだが、きれいに固まるまで数日を要した。日々記はこれもわたしから聞いたとおり、立て板に水のごとくすらすら話した。
「いやあ、作ってみたいなあ。空蝉うつせみのはく製。でも、虫取りの時間がないな」
 彼は樹脂はく製を今しばらく光にかざし眺めてから、もとの場所にもどした。そのあと日々記からママの絵本を受け取る。日々記が持ち帰ってもよいと言うと、彼はそれをやんわり断った。
「もう絶版の絵本ですし、綴里さんや日々記さんのお母さまの大切な絵本ですから」
 了承した日々記から、パソコンの前にある椅子を勧められ彼は座った。絵本の厚い表紙をめくる。その彼を日々記がかたわらで穏やかに見守る。彼はうつむきがちにページをまためくり、無言のまま視線を絵本の絵や文字に這わせる。静かな時間が過ぎてゆく。彼が裏表紙を閉じ、顔を上げたときの笑顔は満ち足りていた。
「楽しい絵本ですね。うさぎの店員の片方が怠けてるのが面白いです。お客さんもちょっと変わってるし。絵もあまりデフォルメされてなくていい雰囲気です。このカフェに行きたくなりますね」
 茶色うさぎのリズがコックで、わたしがモデルになっている。灰色うさぎのビッキーはウェイトレスで、日々記がモデルだ。怠けているのはビッキーなので、日々記は苦笑しながら彼の話にあいづちを打った。
 日々記は自若じじゃくとしてわたしを演じている。話し方の抑揚や、手ぶり身ぶりに細心の注意をはらっているようだ。普段からよくわたしを観察しているのがわかる。
 彼に絵本の解説をしている合間、ときどき日々記の彼を見る目が潤み、愛おしそうに見えた。そう思うのは、わたしの胸にやましさがわだかまっているせいだろうか。それともあれが本当のわたしで、ここにいるのはただの影にすぎないのだろうか。彼を拒否しているのに? そんなの矛盾している。想いが駆けめぐる。
 家に帰って来たとき、日々記は珍しくわたしと髪型がかぶったことを嬉しそうにしていた。彼が来ることを仕事として以上に、喜んでいたのかもしれない。もし彼の興味が、わたしとなにもかも同じ自分に、向くと期待していたならば。
 彼は前へ後ろへ、何度か絵本をぱらぱらめくってから、日々記に返した。立ち上がり、日々記が本棚に絵本をもどしているのを、じっと見ている。絵本をもどし終え、日々記は彼の方を向いた。わたしはふたりが出て来るものと思い、隠れるために自分の部屋の方へ歩いた。
 途中、うしろを振り返ったがその気配はなかった。妙だと思い、そろそろと書斎の前までもどり中を覗く。そこには見つめ合う日々記と彼の姿があった。日々記は本棚に背をもたせ、彼の動きを待っている素振りだった。
 わたしの胸を早鐘が打った。目の前の光景に釘づけになる。彼がゆっくり日々記に近づく。彼と日々記の体のすきまが狭くなってゆく。見つめ合う日々記の瞳が熱っぽく彼を誘っている。はっきりしないが、彼の瞳も憂わしく潤んでいるように見えた。
 ふたりのシルエットが重なり、彼は日々記の肩にしなやかに手を伸ばした。それに応じるように、日々記が彼の背中に両腕を回す。こちらに背を向けてしまった彼は、体を囲うだけの柔らかい手つきで日々記を抱きしめた。そのうち、なにかに突き動かされるように腕に力が入る。彼は日々記の顔をすっぽり胸の中に収め、日々記の腰をきつく抱き寄せていた。
 しばらくそのまま抱きあっていたのに、彼ははっとして突然腕をほどき、「すみません」とつぶやいた。そうしてふたりはまた見つめあう。日々記がなにかを求めるように顔をあげると、唇が蠱惑こわく的に光った。彼がふたたび日々記の肩に手を伸ばし、顔を近づけようとして動きを止めた。心音の高まりが痛い。
 もう、見ていられない。わたしは書斎の入口から離れ、静かに階段へ向かった。階段を降りてバッグを持ち、急いで玄関でサンダルを履いた。月の下に出ると誰にも似ていない自分になれた。
 その夜は電車で数駅のところにある、古いビジネスホテルに泊まった。日々記のワンピースは肌の露出が多く、電車内のクーラーに震えた。着なれないものを着ているし、腕の傷痕がどうやっても目につくしで、人目がいつも以上に気になった。それがクーラー以上に寒々しく感じられた。

 夜明けとともにホテルをチェックアウトして家に帰った。駐車場に健吾の車はない。玄関から入り居間を覗くと、ソファで日々記がひとり眠っている。居間に入り顔を覗きこんだら、あまりにも暢気な寝顔だったので、無性に腹が立ってきた。
 肩をゆすっても起きないので、羽織っていたショールで顔の周りをくすぐった。顔をしかめて起きた日々記は、目をこすりながらわたしを見た。
「お帰りぃ。外で泊まって来たの」
「うん。昨日、うまく行った?」
「……だめだった。ばれちゃった」
 日々記はそう言うと大きなあくびをした。わたしは小さく「え?」と声を上げた。日々記はわたしをうまく演じていた。いや、わたし以上のわたしを。
「だからぁ、ばれちゃったのよ」
 日々記は起き上がり、ゆっくりソファの背にもたれる。向かい合って座ったわたしに、その理由を勿体ぶらずに教えてくれた。
「香水の匂いがしたんだって。着替えて綴里になっても、急だったもんねえ。香水の匂いまで消せないわ」
「それだけ?」
 日々記はまたあくびをした。
「腕の傷痕」
 わたしが「え?」と訊き直すのを無視するように、日々記は台所へゆきグラスに水を注いだ。ひと口飲んでこちらを見る。
「右腕を見せてくれって言われたの。璃人さん知ってたのね」
 彼は日々記に着ている服の袖をめくって腕を見せてほしいと頼んだらしい。
 彼がはじめてこの家に来たとき、わたしは熱中症で倒れた。そのとき、やかんの湯をこぼし上体に火傷を負った。すぐに彼に浴室まで運ばれ、応急処置でシャワーを浴びせられたのだが、火傷の様子を見るために、彼がわたしの上衣の袖をめくったのだ。その時に傷跡を見られていた。日々記はちょうど、わたしの着替えを取りに行っていなかった。
「DVのことも知ってたんだ」
 わたしは黙ったまま頷いた。日々記はグラスを持って戻ってくる。ソファの背の上部に腰を載せ、体をひねり横顔で言った。
「傷ついてたわよ、璃人さん。完全に嫌われたんじゃないかって」
 わたしは目を伏せ、唇を噛んだ。なにも言えない。彼を欺いて逃げたのだから。日々記はわたしが黙ったままでいると、こう言った。
「わたしも傷ついたけど」
 わたしははっとして顔を上げた。日々記はグラスの水を、喉を鳴らして飲んでいた。表情が読み取れない。
 ゆうべ、なにが起きたのだろう。彼は日々記にくちづけようとしていた。あのあと、彼と日々記はどうなったのだろう。胸がどうしようもなくざわめく。
「好きなんでしょ」
 え? と訊き返す。日々記はこちらを見た。わたしは日々記の眼がどことなく淋しげで、目を逸らせなかった。
「わかりやすいんだから」
 そう言うと、日々記はグラスをあおり、水を飲み干した。
「わたしならさっさとくっつくけど」
 流し目でそれとなくわたしを責めるような言い方をする。やはり、日々記も彼が好きなのだ。わたしは日々記とは違う。夫とのことが終わらなければ、前に踏み出せない。
「なにか、あったの」
「別に」
 わたしが恐る恐る訊くと、日々記はぶっきらぼうに答える。腰を上げ、また台所へ歩いてゆく。わたしはさっきからずっと気になっていたことを訊いた。
「昨日、水原さんと健吾はいつまでいたの」
「んー、十一時ごろかな。健吾がいつまでも起きないから、起こして帰ってもらった。さすがにそれ以上遅くなると、こっちも困るし」
 わたしが出て行ったのが九時ごろだから、二時間くらい日々記と彼はふたりきりだったことになる。ふたたび、胸が大きくざわめく。その間になにがあったのだろう。女性と噂の絶えない彼が、日々記となにもなかったとは思えない。動悸が高まる。わたしはそれを悟られないよう、日々記にもうひとつ訊ねた。
「え、絵本のことは?」
「あー、それはうまく行きそう」
 こちらを向かず返事をし、日々記はグラスを洗って立てかけた。「シャワー浴びて来る」と言い、そのまま台所を抜け、浴室へ入って行った。
 ぼうっとしながら居間を出て、部屋で着替えようと階段に足をかけた時、日々記の叫ぶ声が聞こえた。
「綴里、ちょっと来て。早く来てってば」
 足を下ろし振り返ると、日々記が青ざめた顔で廊下に立っていた。
「なんなのよ。大声で」
「下着がない。脱衣所に干してた下着がないの」
 それを聞き、慌てて日々記に駆け寄る。浴室の手前にある脱衣所には簡易的な物し場がある。下着類は人に見られたくないので、ここに干している。陰干しが必要な衣類もここに干す。脱衣場に入ると、わたしのストールもなくなっていた。
「スリップ一枚と、ブラとショーツひと組、干してあったのよ。知らない?」
「知らない。わたしのストールもないんだけど」
 ふたりともこの状況がまったく呑みこめないでいた。洗濯物をすでにしまったのを忘れているわけでもない。
「昨日、水原さんと健吾以外、誰も来てないよね」
 わたしが言うと、日々記は小さく頷いた。ふたりとも束の間、無言だった。
「今、同じこと考えたよね」
「でも、さすがにそれ、、はないってば」
 日々記の問いかけを、間髪入れず否定する。ふたりとも彼が持ち去ったのではないかという疑いが脳裡をよぎったのだ。
「昨日、寝る前に裏口の鍵、ちゃんと閉めた?」
 日々記が目をみはり、こちらを振り向いた。
「忘れた……」
「泥棒だ、泥棒! 日々記、110番! それから他になくなったものないか部屋見て来て!」
「嘘ー! あの下着どっちもお気に入りだったのにい。さいあくー、もうやだあ」
 ふたりでばたばたと階段を上る。上がりきったら、お互いに自分の部屋へ突進した。確認したところ、通帳、印鑑、貴重品の類はもとの場所にあった。日々記も干してあった下着以外に、なくなっているものはないと言った。
 110番して15分くらいで警察官が家に来た。刑事の事情聴取を受け、実況検分や、鑑識の指紋採取などの現場検証を見守った。裏口は扉から台所に入れるようになっていて、浴室からも遠くない。その辺りに全員が固まって集まる。日々記は悄然としており、なにを訊かれても首をかしげ、小声であやふやなことをつぶやく。終始ぼんやりしているので、わたしが警察官との間に入り、証言を引き出すことになった。
 中年の女性刑事はすべての検分が終わると、わたしたちに注意を促した。
「最近、この近辺で下着泥棒が多発しているんです。絶対に外に干さないようにしてください。周辺のパトロールを強化するようにしますけど、これからは戸締りをしっかりお願いします。女性だけのお宅だと狙われやすいですから」
 わたしは「わかりました」と返事した。依然、気落ちしている日々記は、力なく首を縦に振っただけだった。
 警察官が帰ると、日々記は居間に置いていたスマートフォンを持ち、憂鬱な表情で操作しはじめる。健吾に電話するようだ。電話がつながったら、下着泥棒のことで警察から健吾と彼に事情聴取の連絡がある、という旨の話をしていた。それと彼への根回しと両親への口止めを頼んでいた。
 さりげなく謝ってはいるが、内心、忸怩じくじたる思いだろう。電話を切ると居間を出て、自分の部屋に閉じこもってしまった。
 わたしもあとになってから、怖くなり身震いした。昨夜、あまりよく眠れなかったので、居間で眠ろうとしたけど眠れなかった。
 夕方、日々記はやっと部屋から出て来た。
「あれだけ、戸締まりには注意してって言ってたのに」
「ごめん」
「もう、ばか」
 わたしたちは一緒に警察署へ行った。衣類と下着盗難の被害届を出し、日々記を抱えるようにして警察署を出た。帰りにふたりで焼き鳥を食べに行った。日々記に奢ってもらった。

 ここまで書き、キーボードを叩く手を休めた。パソコンの左に置いたキャラメルの箱から、もうひと粒を取り出し口に放りこむ。舌の上でゆっくり温め柔らかくしてから、上あごに押しつけ平らにならす。
 大宮の両親にはあの日のことを言わなかった。自分が生贄にされるのはなんとか避けられたけど、警察を呼んだことが知れるとまずい気がしたからだ。ここに住みつづけることを反対されるかも知れないし、日々記も健吾も叱られるだけでは済まないだろう。
 だけど、こんな無謀なことをして憚らない妹弟を許してはおけない。自分の生活は自分で守らなければならない。そう思ったわたしは双方に懇々と説教し、いくつかの約束を取りつけた。
 日々記にはきちんとした謝罪を求めた。最初は不貞腐れていたが、毅然として何度もくり返し言うと、最後には頭を下げた。それから、今後はこの家に他人を一切招かないこと、わたしの部屋や書斎に入らないこと、家事の分担を決めたとおりこなすこと、ふたりの共有財産に関し、相談なく他者との取り決めを行わないこと、これらを約束させた。
 約束を破れば出て行ってもらうことも、しっかり言い渡した。今回の迷惑料としてクーラーの分割払いの残金は、日々記に持ってもらうことになった。
 健吾には、わたしに断りなくこの家に人を連れて来ないように約束させた。日々記が許しても絶対にいけない。今後、そういうことをした場合は、すぐに両親に報告し厳しい罰を与えてもらうし、姉弟の縁を切るとまで言った。
 あのふたりには、これくらい厳しい方がちょうどいいと思う。
 ファイルを保存し、パソコンの電源を落とす。弔いの準備が終わると、書いて色々吐き出したせいか、胸に余分な空洞ができた。席を立つ前に、スマートフォンを手に取り、LINEの画面を閉じようとして、なんとなく手が止まる。数分の間、ぼんやり画面に浮かぶ雲の列を眺めた。
 健吾が返事を催促しているとは思えない。でも、本来なら彼に返事を書かなくてはならなかった。書くとしたらどんな返事にしようか。スマートフォンのメモを開き、文字を並べては消す。そのうち気持ちが昂り、でたらめな文章ができてしまう。また消して打ち直す。頭の中を鎮め、文脈を紡ぎ出す。ゆっくり文字を打つ。
――あの日、あの場から逃げてしまいごめんなさい。わたしには自分の弱さと向き合う時間が必要です。それをかき乱されるのは怖いのです。本当はわたしも、あなたのことが
 そう書きつけたとたん、喉がつまる思いがした。すぐに目の奥が熱くなりわたしはスマートフォンを裏返し、そのかたわらへ突っ伏した。
 彼を拒否できる女性がどこにいると言うの。男をよく知る日々記でさえ、あんな風になるのだから。彼が差し出してくれた手を取れなかった自分が、惨めでたまらない。
 外は相変わらずの土砂降りだった。家で羽化したあの蝉は、この嵐の中では生き残れないと思う。彼もすぐ激しい雨に流されるように、わたしのことを忘れてしまうだろう。
 この夏の情景が脳裡に乱れ飛ぶ。あのうすく儚い抜け殻、彼が日々記を抱きしめる姿、ペールグリーンの翅、彼の嬉しそうにはにかむ顔、殻を脱ごうともがく蝉の子の蠢動しゅんどう、倒れて抱えられたときの彼の横顔、蒼穹に羽ばたいて行った蝉の姿、彼の力強い声と憂いを帯びた瞳。それらが雨と風のごうごうという音とともに、ものすごい速さで駆け抜けてゆく。
 明かりのないうす暗い部屋の中で、突っ伏したまま耳だけ澄ましていると、この嵐が世界のすべてのようだった。例えわたしがどんなに慟哭どうこくしても、その声はかき消されてどこにも届かない。
 だが、それは新しい物語の予兆である。

(続く)

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