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【小説】空蝉のふたり〈六〉

六、天地始粛 ―てんちはじめてさむし―

 手に持ち窓辺の光にかざすと、産衣うぶぎのような蝉の抜け殻は、宙に浮いてきらきらした。蝉の子の置いて行ったものを、手作りで樹脂はくせいにしたのだ。手のひらくらいの透明な樹脂の塊の中央に、琥珀色の抜け殻があのときのまま閉じこめてある。殻は光に透けて儚げだけど、あの子は木蔭で力いっぱい生きているだろうか。
 わたしのバッグのすきまに落ち奇跡的に命びろいし、あの子が家で羽化したこの夏の想い出は永遠のものになった。日々記ひびきに見せたら好奇心からか、作り方を聞いて来たので教えてあげた。抜け殻の樹脂はくせいは、書斎のパソコンのかたわらに飾ることにした。
 お盆明けにはやっと弁護士との面談に漕ぎつけ、離婚調停を引き受けてもらえることになった。仕事や弁護士とのやり取り、付随する雑用の目まぐるしさに、彼のことを考えることも少なくなってきた。健吾からの電話やLINEは、放置しつづけていたからかもう来ない。
 なにもかも順調に進みはじめたと思った。でもなぜか、理由もなく泣きたくなることがある。忙しさにかまけているうちに、喪失感が胸に巣喰ってしまったのだ。失ったのは、結婚生活の五年という歳月なのか、蟻地獄のような夫との依存関係なのか、家族という単位の安定感なのか、自分でもよくわからない。
 今後のことを考えてというより、物語の軌道を修正し、過去につなぎ直そうとして、結婚前に勤務していた出版社に復職希望を願い出た。以前の上司には席が空き次第連絡すると言われたが、それはつまり無理ということだ。
 例えば、そういうときに彼のことをふと思い出す。彼の気づかいや優しさに多少幼いところがあっても、頼りたくなってしまうのだ。でも、抱えられたときの腕の感触や、わたしを見つめる憂いのある瞳は、もうぼんやりとしか思い出せない。
 健吾とも連絡を取らない以上、この甘やかさも、離婚に至るまでの慌ただしい日々に覆われてそのうち消える。それに、彼の小説を読み返せばわかることだが、彼は亡くなった母親の幻影を追いかけているだけだ。求めているのはわたしではない。彼に対しあまりにも冷たい仕打ちだとしても、自分を見失わないよう、こう決着をつけるのが事実、正しいのだ。
 ある日、夜遅くに帰って来た日々記が、居間でバッグを放り出し、不機嫌な顔で言った。
「ちょっと、最悪なんだけど。仕事中にオサムさんから鬼電来た。ブロックしたけどさあ」
 信じられない。日々記にそんなに電話するなんて。夫のなりふり構わない行動にぞっとする。
「迷惑かけてごめん。わたしがブロックしてるせいだね」
「いいよ、もう。あいつ、まだ諦めてないのか。裁判所から通知が行くんでしょ。まだ調停の日決まらないの」
「うん、申し立ててから二週間後だって。お盆挟んだからあともう少しかかる」
「警察は?」
「行ったけど、今のとこ相談止まり」
「ああ、もう。なんかまどろっこしいなあ」
 日々記は台所へ飲み物を取りに行った。わたしはいたたまれなくなり居間を出て二階へあがった。
 あくる日の仕事中、わたしあてに会社の外線が回って来た。室内で作業する仕事なので外部の人とは普段から接触がない。おかしいと思った。でも、出ないで不審がられるのも困るので、受話器を手に取る。昨夜の日々記の話が頭をよぎった。
「お電話、替わりました」
 受話器の向こうから聞き覚えのある声がした。わたしの名前を呼んでいる。肌が粟立った。夫のオサムからだった。
「すみません。失礼します」
 声が震えた。受話器を慌てて置く。それを見ていた樋口さんが訝しんでいる。わたしは給湯室に樋口さんを呼んで相談した。とりあえず様子を見ることになったが、そのなりゆきに少なからず鬼胎おそれを抱いた。
 夫が日々記やわたしに接触して来たことを父に話すと、また父と一緒に弁護士事務所に出向くことになった。接近禁止命令や保護命令などの煩瑣はんさな手続きも依頼することに決まった。これで夫はわたしに近づくことはできなくなり、電話やメールもできない。日々記や両親、健吾に近づくことも禁止されることになる。
 翌日の土曜日、わたしは髪を肩までの長さに切った。少しでも夫に見つかりにくくするためである。美容院を出たら気がゆるみ、街中をぶらぶら歩いた。今まで休みの日はなるべく家から出ないようにしていたので、地中から這い出た蝉の幼虫みたいな気分だ。
 通りには、暑いというのに無表情なスーツ姿の人たちが闊歩し、笑いさざめく夏休みの学生の群れがうろついていた。反対側では、サングラスの白人男性がシャツの袖口をひらつかせて自転車を走らせ、ウーバーイーツのバイクがそれを追い抜いてゆく。通り沿いに目を移すと、カフェレストランやパン屋や雑貨店が居並び、たくさんの客で賑わっていた。そこを通りすぎてすぐの交差点を曲がり、ファッションビルに入る。
 どこの店も秋服がたくさん揃えられていた。夏服は最終バーゲンの数点のみだ。何店かをめぐり、秋ものを手に取ってはためつすがめつする。わたしはその中から、ペールグリーンの薄手のブラウスを見つけ買うことにした。
 今日は家に早く帰る気がしなかった。お盆から向こう、日々記といるのがなんとなく気まずいのだ。日々記は午前までで仕事を終え、帰って来る予定だった。今ごろ家にいるはずである。
 ファッションビルを出て本屋を探した。駅の方に向かうとカフェを併設した書店があり、そこで文庫本を一冊買い隣のカフェへ入った。カウンター席に座りアイスミルクティーを注文する。わたしは日が暮れるまで、貪るように本を読んだ。
 家に帰り着いたのは夜の七時ごろだ。居間に明かりがついているので、廊下を静かに歩く。そのまま階段を上がろうとしていたら、居間から日々記が出てきて呼び止められた。
綴里つづり、帰ったの。ちょっとこっちで話さない?」
 わたしが振り返ると日々記は小さく「あ」と声をあげた。わたしもその瞬間、目をみはった。日々記の髪が短くなっている。肩につく長さで、わたしと大して変わらない髪型だった。
「日々記も美容院に行ってたんだ」
「来週、化粧品メーカーのレセプションパーティーがあって、それでね」
 また髪型かぶったね、と日々記はつけ加えた。子どものころは同じ髪型で日々記と間違えられることがよくあった。高校生くらいから、日々記はアイデンティティーの確立とかで、わたしと髪型や服装が同じにならないようにしていた。流行を追うようになったのだ。
 それでもたまに似たような髪型になることがあった。そういうとき、日々記はあからさまに悔しがった。でも、今日は違うみたいだ。勘違いかもしれないが、嬉しそうに見える。
「話ってなに」
 露出の多い日々記の服装をしげしげと見回す。いつも着ないようなワンピースである。オレンジと赤の中間色で、前合わせの胸もとが開き、白い乳房がこぼれてきそうだ。日々記は来週のパーティーの服を探していたらこれを見つけたらしい。パーティーのドレスとはまた別で、普段着る機会がないから着てみたそうだ。
 居間に入りわたしがソファに座ろうとすると、テーブルの上にオセロの卓上盤が置いてあった。
「これもね、クローゼットの中から出て来たの。懐かしいでしょ。ママやパパとよく遊んだよね。ちょっとやりたくなって降ろして来たの」
 ママとパパというのは、亡くなった両親のことだ。今の両親はお父さん、お母さんと呼び、ふたりの間で区別をつけていた。
 なかなか日々記が話の本題に入らないので焦れる。
「やってみない?」
「話は?」
「やりながら話すから」
 わたしたちは向かい合って座った。日々記のふしん気な様子が気になったが、甘んじて誘いに乗ることにした。なぜかと言うと、負ける気がしないからだ。石は日々記が黒でわたしが白になった。黒が先手だ。
 オセロにも囲碁や将棋のように定石がある。“兎定石”から“ローズ”、“ローズ”を経て“蜘蛛の糸”へ、という定石の流れで、わたしは優位に立った。盤の目が半分くらい埋まっている状況である。自分が劣勢になってきたら、日々記は腕組みをして緑の盤の目を喰い入るように見つめるのだった。
「わたしね、チャンスがほしいの」
 日々記は、対戦は終局と見たらしく話しはじめた。
「チャンスって?」
「仕事でね、最近自分の企画ページがあまりぱっとしないの」
 日々記は気まずそうに言い、口ごもった。このままでは編集長に見放され、部署異動になるかもしれない。傾聴の姿勢でいると、日々記はとつとつと言葉を接いだ。いつもの自信に満ち満ちた日々記ではなかった。
 中学生のときの日々記を思い出す。実の父の葬儀が終わってすぐ入学式だったのだが、日々記はそのあと二、三日学校に行っただけで不登校になった。一ヶ月の間、部屋に引きこもりほとんど出て来なかったのだ。幸いゴールデンウィークが明けたら登校するようになったが、父が亡くなったことで日々記は想像もつかないほどの精神的ショックを負った。
 普段強がっている分、日々記はいざというときに弱い。昔は泣き虫だったし、精神的に脆いところがあった。でも日々記が泣きたいときは、わたしだって本当は泣きたい。仕事がそんなにうまく行ってないのだろうか。黙りこくる日々記の機嫌を取ろうと、思いついたことを適当に話しかける。
「そうだ。日々記、体重減った?」
「減ったけど、なんで」
「わたしも減ったの。1.5キロくらい」
 そう言うと日々記は「かぶったね」と口角をわずかにあげた。それは一瞬で、また目線を落とし口を結ぶ。空気が澱んでゆく。
「綴里は今のとこでずっと仕事つづける気なの。フリーランスとか、考えたことある?」
「なくはないけど。でもわたしは五年間ずっと専業主婦だったし、またふり出しにもどったみたいなものだから難しいかもね」
 そっか、と日々記はまた口をつぐむ。わたしは話の接穂が見つからなくてため息が出た。
「今日、これからお客さまがあるのよ。仕事絡みで」
 ごめん、早く言わなくて――。日々記はこうべを垂れた。それでめかしこんでいるのかと得心する。だったら邪魔にならないように、しばらく二階の自室か書斎にこもっていなければならない。
 わたしが立ちあがろうとしたら、日々記はまた「ごめん」とくり返した。オセロをする前のふしん気な感覚がふたたび甦って来る。そのときに、玄関チャイムが鳴った。胸騒ぎがする。
「お客さまって誰」
「健吾と……璃人さん」
 立ち上がり、急いで居間を出ようとすると、日々記に腕をつかまれた。
「お願い、居て。どういうことか説明するから」
 お願い、日々記はそう言い腕をつかむ手に力をこめた。突然のことで呆然となる。わたしが足を止めつかまれた腕を下ろしたら、日々記は居間を出て足早に玄関へ向かった。
 わたしはただ、立ちつくしていた。足音がして話し声が聞こえて来る。日々記は彼と仕事でなら親しくしてもいいと言ったことがある。そういうことだろうか。
 扉が開き日々記につづき大柄な影が現れる。わたしはわずかにたじろいだ。
 彼は居間にわたしがいるのを見つけ瞠目した。すぐに彼特有の憂いのある潤んだまなざしにもどる。
「こんばんは」
 こんばんは、とわたしもぎこちなく言葉を順序どおりに並べた。どんな顔をしたらよいのだろう、ずっと無視していたのに。伏せた目を上げられない。健吾もつづいて室内に入って来る。目が合うとなにか言いたげに、鯉のように口を開いてすぐ閉じてしまった。
 彼は前みたいにジャケット姿ではなく、シャツとワイドパンツのカジュアルな装いだった。それでも立ち居ふる舞いはなめらかで品がある。
「お元気そうですね」
 ソファに腰かけ彼は言った。
「お、お陰で、ありがとうございます」
 生気のない声でつぶやき一礼する。そんなに畏まらないでください、と彼も申し訳なさげにつぶやいた。それきりお互いに萎縮してしまい、しばらく言葉を交わすことはなかった。
 日々記は台所へゆき、グラスと冷蔵庫のオードブルをてきぱき取り出した。それを運んだかと思えば、獺祭だっさいスパークリングの瓶をアイスペールに入れ、ソファの前のテーブルに載せる。わたしはそれを日々記から少し離れたところで、また策略に陥れられたと歯がみしながら見ていた。
 これからの話し合いについて感知してはいけない。わたしはひとりだけ麦茶を注いで健吾のななめ横にあるひとりがけの席に座った。彼は健吾の隣にいる。その前には日々記が腰かけ、しなを作って彼のグラスに酒を注いでいた。
 健吾が、俺も麦茶がいいと言うので、持って来たグラスを渡す。乾杯の前に日々記が目配せをしたが、気づかないふりをした。グラスの鳴る涼しげな音がすると、健吾はグラスをぐいと一気に傾ける。喉が渇いていたようだ。今度は取り皿に、ローストビーフや、ブッラータチーズや、桃やいちじくに生ハムを巻いたものを山盛りにした。そして、刺したフォークまで食べそうな勢いで料理を貪りはじめた。
 日々記と彼は、ふたりだけ細かい泡の立つ酒のグラスを手に、向かい合って砕けた様子でしゃべっている。その姿をテーブル越しに見ているはずなのに、もっと遠い距離に感じた。
「今日気づきましたが、玄関の版画絵は森村玲さんじゃありませんか」
「綴里、そうなの。あ、すみません。わたしの絵じゃないので知らなくて」
「多分、そうです。父の絵本の絵を担当してくれた版画家さんです。あれは直に刷ったものですね」
 わたしは返事もせずに、その光景をビデオの映像のように眺める。頭の中ではオセロの局面を見るように、ここからいつどう辞去するかを、とつおいつ考えこんでいた。
 わたしはこの家に夫からのがれるために越して来た。静寂の中で自分を取りもどそうとしていた。あとから勝手にやって来た日々記のわがままにつき合い切れない。金輪際ふり回されたくない。この人たちが出ていかないならわたしが出てゆく。そう腹を決めた。
「綴里、ママの絵本、復刻するかもしれないの」
 感知してはいけないと思っていたのに、ママの絵本と聞いて体がぴくりとした。
 日々記の話では、大手の印刷会社、全国展開の書店、出版社などが共同で、入手困難になった絵本をオンデマンド印刷で復刻、販売することが決まったそうだ。その候補に亡くなった母の絵本が上がっているらしい。確かに母の作品は、出版部数が少ない上に、絶版になっているものも多い。その絵本復刻プロジェクトのディレクターから、日々記の職場に打診の連絡が来たのだそうだ。どういうつてかはよくわからない。
「『野うさぎのきっさ店』が候補に上がってるみたい。版元の出版社から著作権者に、正式な意向確認の連絡が来るらしいの。もし来たらお受けしてもいいわよね」
『野うさぎのきっさ店』は、茶色野うさぎのリズと灰色野うさぎのビッキーが、山中のきっさ店で働くお話だ。登山客に料理を作って出すのだが、失敗してばかりでまともな料理が出てこない。目玉焼きは潰れているし、パスタは茹ですぎ、ケーキは不格好と言った具合だ。なのに、なぜか客がつぎつぎと訪れる。
 母の著作の中でも割と人気があった作品だった。もちろん書斎に置いてある。
 母の死後は全ての作品の著作権を父が、父の死後はわたしと日々記がふたりで相続している。
「健吾、健吾はこの話、聞いてるの」
 ローストビーフを頬ばる健吾をじっと見た。健吾は慌てて肉を噛みちぎり、咀嚼しながら何度か頷く。
「一週間くらい前に聞いた」
 おそらく彼も知っているのだ。わたしだけが蚊帳の外だった。不自然な笑顔を貼りつける日々記を睨む。次の言葉を発したら、自分でも意外なほど冷たい声が出た。
「外堀を埋めたらわたしが頷くとでも思ってるの」
「綴里ったら、やだ。外堀とか、人聞きの悪いこと言わないで。さっきも言おうとしてたのよ」
 日々記の声が甘ったるくて余計にいらいらする。
「へえ、そうだったの。でもオセロしながら話すことじゃないわ。ママの絵本のことって大事な話でしょう」
 彼も健吾も少し驚き、わたしと日々記を見比べている。
「あれはきっかけがほしかったのよ」
「日々記の仕事の話じゃなかった? ママの絵本とどう関係あるの」
 絵本復刻プロジェクトとタイアップする企画案を、編集長に提出したいのだと日々記は説明した。自分が編集している女性誌の読者は育児中の女性も多い。絵本好きな読者の購買力を高められるのではないか。そういう狙いがあるのだそうだ。
「ママの絵本も紹介できるし、いい企画だと思わない?」
「わたしにはわからないわ」
 ふたりで言い争っていたら、テーブルの向こうから声がして、ふり向くと思いがけず彼と目が合った。
「ちょっと、いいですか」
 この人の瞳の奥はいつもなぜ悲しげなのだろう。言い争っていたことに些細な罪悪感を覚える。わたしは彼の瞳から目を離せなかった。彼もわたしをじっと見つめていた。
「この企画、ぼくも協力させていただくつもりなんです」
 彼の眼が一瞬、鋭く光り、射抜かれたように息苦しくなる。意味がわからず日々記を見たら、しまったという顔つきで唇を噛んでいた。
「それで、今日はお母さまの絵本を見せていただきにきました」
 この人は不意打ちばかりだ。わたしが健吾との連絡を絶っていたから悪いと言うのか。でも、どうしてわたしたちにここまで関わろうとするのだろう。
 日々記のことも信じられない。彼を抱きこみ、家族にまでなぜこんな駆け引きを持ちかけるのか。きっとわたしが承諾しなくても、理由をこじつけ亡くなった母の絵本を復刻し、意のままにするのだろう。
 頭の中が結ぼれてしまい、ぼうっとなる。この人たちはなんのためにここにいるのか。早くこの場を去りひとりになりたい。
 黙って立ち上がり踵を返した。居間の入口に近づいたとき、後ろから声がして誰かが駆け寄り、前に立ちはだかる。その大きな影を見上げると、目の前には彼の気づかわしげな顔があった。
「綴里さん、待ってください。嫌なら別にいいんです。ぼくは困らせたいわけじゃない。きちんと話をさせてもらえませんか」
 彼の広い胸のあたりから、森に生い茂る草木の清々しい匂いと、熟れた果物の香りがした。ほのかに香るだけなのに、鼻の奥が刺激されめまいが起きそうだ。頬が紅潮してゆく。とっさにうつむいたが、彼の身体が間近に感じられ、思わず目をつむった。彼に抱きかかえられたときの記憶が断片的に脳裡をかすめる。彼の腕の中の感触や寄り添う鼓動が、生々しく肌に再現され足がすくんだ。
「すみません。わたしにはこれ以上、話すことはありません」
「綴里さん――」
 あとから日々記が慌てて駆け寄って来る。
「わたしが説明していなかったのが悪いんです。綴里、あっちに行ってふたりで話そう」
 日々記はそう言い、彼に頭を下げる。わたしたちは、彼と健吾を残し居間を出た。暗い廊下を日々記についてわたしは進んだ。

 ふたりで居間にもどって来たら、彼はソファのかたわらに立っていた。ソファでは健吾が眠っていた。
「昨日、オールで文芸サークルの奴らと飲んだせいで疲れてたみたいです」
 健吾のために掛け物を取って来て、また三人でテーブルを囲む。彼は不安そうな面持ちだった。心が沈んでいるように見えた。
「綴里が絵本をお見せしてもいいそうです。二階の書斎にあります。そちらでご覧になりますか」
「いいんですか。ありがとうございます」
 彼の緊張した顔がゆるんでほのかに華やいだ。憂わしげな瞳の曇りもきれいに晴れ、はにかんだ笑顔がまぶしい。見つめられると胸がとくんと音を立てる。
「じゃあ、こちらへ。日々記は健吾と一緒にいてあげてくれる? ひとりにしたら可哀想だから」
 頷いてすぐに、ふたりが居間を出て行った。階段を上る足音を聞く。書斎へ入ったのを見計らい、わたしは自分のバッグを手に取った。
 そのまま洗面所へ向かい、化粧ポーチを取り出す。メイクを直そうとし、鏡に映った自分を見たら、赤い金魚のようなワンピースの胸もとから、乳房が今にもこぼれそうになっていた。慌てて胸もとの生地を内側へ引っ張る。
 彼はやはりこの胸もとを見ていたのだろうか。それで片方に示していた興味が、もう片方に簡単に移り変わるのものだろうか。それとも、ふたごころを抱くのか。
 食卓の椅子にかけてあった琥珀色のショールを肩にかける。染みついた香水の匂いにむせそうになった。ソファに眠る健吾のそばにもどると、健吾は寝息を立ててぐっすり眠っていた。かけられている肌かけ布団を直し玄関へ急ぐ。靴箱の中からサンダルを取り出し、吹き抜けの二階を覗きこんだ。
 外に出たら、駐車場に健吾のアクアが停まっていた。運転して来たから健吾は酒を飲まなかったのかと得心する。家の前の公園は真っ暗で、黒い樹々のざわめきが胸に不穏な影を落とした。
 振り向くと二階の書斎の窓に明かりがついているのが見えた。あそこにわたしの姿をした日々記と彼がまだふたりきりでいるのだ。そう思うと喉がつかえているような違和感を覚えた。わたしはなにも気づかないかのように、足もとだけを見てあてもなく夜道を歩きはじめた。
 にじんだ虹の輪に大きく囲われ、その中に沈んだ月を見あげる。その明かりが暗闇の中で別世界への入口に見え、そこに月の光に導かれ吸いこまれてゆく気がした。わたしは急に、引き返してあのふたりの前で「綴里はわたしよ」と、叫びたいような衝動に駆られた。でも早くここを去らなければならないのだ。
 蝉の子は幻影のような殻を残し、この空へ羽ばたいて行った。今ごろ、どうしているのだろう。鳥に啄まれていはしないだろうか。どこまでも、なににも捕まらず逃げてほしい。輝く太陽の下を、月のさす樹々の葉蔭を。

(続く)

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