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【小説】空蝉のふたり〈四〉

四、涼風至 ―すずかぜいたる―

 あれから日々記ひびきは三日間帰って来なかった。わたしはその間に大宮の家にゆき、父に夫の浮気とDVについて話した。離婚する意志をつたえたら、家庭裁判所に調停を申し立てることになり、そのための金銭的援助も受けることになった。日々記が来ているかと思ったが、ここにもいなかった。
 帰りがけに玄関でサンダルを履こうとしていたら、背後から健吾の声がした。
綴里つづり姉ちゃん、璃人りひとさんが体調の心配してたよ。電話番号とかメルアド知ってるんだよね。連絡してあげてくれないかな」
「なに言ってるの、健吾。そんなの知ってるわけないでしょ。水原さんには大丈夫ですから気にしないでくださいって伝えて」
「でも、俺は知ってるって聞いてる。頼むから連絡してあげてよ。俺も璃人さんに適当なこと言えないからさ」
 両親とも相談し、今後のことは健吾に一切聞かせないことにした。知っているはずはないと思うが、気をつけないと彼にまで筒抜けになる気がする。
「この前のこと、お父さんに叱られたでしょう。水原さんは強引すぎるわ。住む世界も違うのよ。健吾も、もうわたしのことに関わらないで。お願いだから」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ、俺」
 そうつぶやく健吾を背に、サンダルのベルトを留め立ち上がった。
「自分のことに集中したら」
 それだけ言い玄関を出たとたん、熱帯夜の温気がまとわりついた。前の道路脇に待たせてあったタクシーに乗り駅に向かう。
 駅で改札を抜けホームに降りたら、恋人らしき男女が構内の壁ぎわで寄り添っていた。楽しそうに囁きあい頬を寄せる様子から、目を背け離れた場所に立つ。スマートフォンでSNSを見ていると、数分で電車がホームに入って来て、わたしは恋人たちとは別の車両に乗りこんだ。
 空いている席に座り落ち着いて来るにしたがい、離婚に向け動き出す実感がじわじわ湧いて来る。あらかじめ、ネットで離婚の実情を見回してはいるが、考えれば考えるほど気がふさぐ。これまでの結婚生活を一頁一頁、白く塗り潰してゆく途方もない作業を、果たして自分はやり遂げられるのだろうか。この五年間は一体どこへゆくのだろう。物語が途中で終わるような虚しさを感じる。
 街の灯が映る窓を見ながら、健吾とのやり取りをぼんやり思い返す。確かに彼に抱えられたとき、ふたりの間に通じ合うなにかを感じた。だけど、彼ほどの人がバツイチになろうとしている、六つも年上のわたしを気にする理由がはっきりしない。心配は嬉しいがなにも応えられない。彼の名刺はしまいこんだままだ。
「もしぼくで力になれることがあればなんでも言ってください」
 彼は耳もとでそう言った。強引だけども包みこむような優しさも持ちあわせている人だ。彼の声を思い出すだけで、心がキャラメルみたいに柔らかくなる。でも彼はまだ学生なのだ。なにを期待することもできない。
 家に着いたときには十一時を回っていた。シャワーを浴び、翌朝のご飯を炊飯器にセットし寝室に入る。ベッドで仰向けになり目を閉じるが、離婚への不安や彼への疑問が代わる代わる胸に去来し、いつまでも寝つけなかった。とうとう起き上がり、書斎でパソコンの電源を入れる。
 この憂悶からなにか生まれないかと、書きかけの小説に向かいキーボードに指を滑らせるが、書いては消しをくり返し一行も進まない。なら、読書でもして眠くなるのを待とうと本棚に目を走らせ、隅の方に文芸誌が並べてあったので手を伸ばした。
 この辺に、文学賞を受賞した彼の小説が掲載されている“群青”が、置いてあった気がする。一冊ずつ背を傾けて表紙に彼の名前を探す。
――あった。
 日焼けした本を引っ張り出し、掲載ページをめくる。わたしは彼の『ハハキギ』の冒頭の一文に、手に手を取られるようにして惹きつけられた。
 主人公は高一の少年だ。妻を亡くした少年の父は二年で再婚し、母に対する父の軽薄さを少年は嫌悪した。それと同時に再婚相手の義母に惹かれてゆく。父と義母の間で苦悩した少年は家出して歓楽街を彷徨い、そこで出逢った売春婦に誘惑され一夜を過ごす。
 彼のしなやかで憂いのある文章に憧れる。文体は清冽な印象で見たままの彼だ。何度も読み返しているうちに、彼も母を亡くしていたことを思い出した。それを義母に重ね、売春婦に重ね、母性への渇望から解放されない苦しみが、切りつけるように行間から発せられていた。
 あまりにも痛々しく胸がひりひりした。ここには書かれていないが、タイトルの『ハハキギ』とは長野県阿智村の伏屋、園原という両地区にある古来の伝説の樹で、本来は「帚木」と書く。ほうきを逆さにしたような姿で、遠くにいるとよく見えるのに、近寄ると見えなくなってしまう不思議な樹だそうだ。
 古典文学ではその特徴から、つれない恋人や異性を比喩するのに使われるそうだが、転じてその読み方から亡き母への慕情をも表すらしい。この前、校正・校閲の仕事でわたしもはじめて知った。彼の小説のタイトルには、きっとその想いがこめられている。
 日々記と大喧嘩した日まで、わたしもパソコンのパスワードを亡くなった母の名前と命日にしていた。態度に出ているから日々記にばれたのだろうし、彼に惹かれ、彼がまたわたしを意識するのも、そこが共鳴するのだと思う。
 パソコンデスクの上の家族写真を見上げた。父の隣にいる母の笑顔を見つめる。わたしは床に座り本棚に背をもたせかけ、“群青”をひろげたまま時間も忘れ放心していた。
 日々記が帰って来たのは、その日の夜一時過ぎである。閉めたはずの玄関から物音がしたので、書斎を出て階段をそろそろ下りてゆく。スーツケースやバッグや紙袋を手にいっぱい抱えた日々記が、玄関の上がり框に腰かけてパンプスを脱いでいるのが手すり越しに見えた。
「おかえり」
「ああ、起きてたの。ただいま」
「ずっとどこ行ってたの」
「取材で伊豆にね。帰って来てそのまま職場に泊まりこみ」
 パンプスを脱ぎ玄関を上がった日々記は、紙袋の中に手を入れ矩形くけいの箱を取り出した。
「はい、これ。お土産」
「なに?」
「伊豆乃踊子って和菓子。ほら、元祖ノーベル文学賞の」
「ノーベル賞に元祖とかないから」
 わたしは菓子箱を受け取りながら、ふふと笑った。
 居間でスーツケースを開け、洗濯物を放り出す日々記に、離婚調停を申し立てることを話した。日々記はそれを黙って聞きながら、手を動かし頷いている。また早朝に職場にもどるそうで、シャワーを浴びて仮眠すると言い、洗濯物を抱えてばたばたと浴室に入って行った。わたしは寝室にもどりふたたび床に就いた。

 両親と離婚調停に関する話し合いをするために、それからまた大宮の家に足を運んだ。警察署に相談にゆくことや弁護士事務所を訪れることが決まり、両親のどちらかが都合を合わせ付き添ってくれることになった。
 健吾に顔を合わせないように帰ろうとしていたが、玄関を出ようとしたところへちょうど健吾がネクタイ姿で帰って来て鉢合わせになった。
「おかえり。わたしもう帰るからまたね」
「姉ちゃん、待って」
 健吾は玄関に立ちはだかった。
「璃人さんがお見舞いに行きたいって言ってるんだ。今度は親父にもちゃんと許可取るし、玄関先で帰るから一緒に行っていいかな」
「だめよ。前にも言ったでしょう。今後は会わないって。具合が悪いから無理です、とでも言って断って」
 健吾が立っている脇を通り抜けようとするが、健吾は腕を広げ通せんぼをした。
「さっきまで璃人さんと一緒だったんだ」
 健吾が広げた腕のすきまから黒いベンツが見えた気がして後じさった。慌ててパンプスを脱ぎ、玄関から廊下へ走り出す。その足音に母が居間から顔を出したが、構わずに階段を駆け上がる。
 日々記の部屋だった二階の空き部屋に駆けこみ、暗い中、隅の方でうずくまっていたら、健吾が入って来て室内灯のスイッチを入れた。
「璃人さんはもういないよ。俺を車から降ろしてすぐ行っちゃったから」
 健吾はビジネスリュックを肩から下ろし、ネクタイを緩めながら床の上にゆっくりあぐらをかいた。
「これ、断られたら渡してくれって」
 リュックの中からミルク色の封筒を丁寧に取り出した健吾は、わたしの目の前にその封筒を差し出した。訝しんで受け取り封を開けたら、桐村董平くんぺい先生の「DITET E NAIMIT」で文学大賞受賞後初の、詩集出版記念パーティーの案内が記されていた。華々しい席への招待に気が動転する。
「これは返して来て」
「なんでだよ。俺も呼ばれてるよ」
 彼も来るのだから顔を合わせてしまう。億劫でたまらない。健吾はなにを考えているのだろう。以前、先輩に話したみたいに、インターン先でわたしと彼について、うっかりなにか洩らしているのではないかと、はらはらする。冷たい女だと思われても行動を慎まなければならない。それに、わたしには場違いなところだ。
「姉ちゃん、ちゃんと話すから聞いてよ。最近の璃人さん、みんなが飲み••や遊びに誘っても全然来てくれないんだ。女の子たちも徹底的に避けてる」
 わたしは胸がさざめくのを感じながら、健吾の双眸を見据えて言った。
「忙しいのよ。あの人は作家の仕事もあるんだから」
「そうじゃないって。俺、あんな璃人さんはじめて見るよ。綴里姉ちゃんのことばっか訊いてさ。別にメールくらいしてもいいんじゃないの」
 わたしは一層強く健吾の瞳を見つめた。だめなのよ、とでも言うように。健吾はさらに言い募る。
「この間、呼び出されて璃人さん家に行ったとき、璃人さんのお母さんの写真を見せて貰ったんだ。なんか綴里姉ちゃんに雰囲気が似てんだよな。だから気になるんじゃないかな」
「健吾、いい加減にしなさい。余計なことに首つっこむんじゃないの。もう水原さんとお付き合いするのやめたらどう。だいたい、就活は来年でしょう」
 健吾は大きくため息をついた。
「俺が誰と付き合おうが、俺の自由だろ。いつまでも子ども扱いしないでくれよ。綴里姉ちゃんこそ招待されてるんだから、パーティーに欠席するならするで、璃人さんに自分で直接連絡してくれよな。それがマナーだろ」
 今度は健吾の双眸がわたしを見据える。
「心配しなくても、璃人さんは姉ちゃんのこと待っててくれるよ」
「なに、それ」
「そのうち離婚する予定だろ」
 わたしが固まり言葉を失っていたら、階段の下から父の声がした。
「健吾、帰ってるのか。どうだ、一杯つき合わんか」
「今、行くー」
 部屋の外へ向かって声を張り上げた健吾は、リュックをまた肩にかけ廊下へ出て行った。床にはミルク色の封筒が置き去りにされていた。わたしはうずくまったまま、封筒を見つめているだけだった。
 結局、パーティー欠席については返事を送らなかった。もらった封筒は彼の名刺と一緒に書斎の“群青”に挟んである。日々記がパソコンを触らないように書斎に鍵をかけるようにしているので、これが見つかることもないと思う。
 あれから、お見舞いの熨斗のしがかかったメロンが彼から届いた。箱には彼の手書きの手紙が添えられていた。封を開けたら、森とその奥の熟れた果実の香りが立ちのぼった。
 まろみのある文字を追うと、わたしの体を気づかう内容が綴られており、わたしはそれを書斎で何度も読んだ。離婚のことで思い煩うことが多いからか、なにも連絡をしないでいるのが申し訳なくなって来たからか、その優しさに顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
 でも流されてはいけない。今度こそ男の人のペースに乗せられてはいけないのだ。自分のそういう弱さと向き合うための時間が要る。

 調停申立てのために、書斎のパソコンで裁判所の書類をダウンロードする。記入もそれほど時間がかからず、少し拍子抜けする。区役所で戸籍謄本や離婚届もすでにもらって来た。離婚届を見て感嘆のため息が出た。もらっただけで大きく前進した気がする。自分の書く欄に記名と押印を済ませ、裁判所の書類と結婚指輪と一緒に書斎にしまった。
 職場で上司に話があるので時間がほしいと言うと、その場で席を立ち会議室に案内された。話が終わり自分の席へもどると、隣の席にいる樋口さんにこっそり声をかけられた。なにがあったか聞かれ口ごもっていたら、室外へ出てお茶でも飲もうと誘われた。
 ビル内の共用スペースにある自販機で、樋口さんにカフェラテを買ってもらう。樋口さんはアイスコーヒーを買い、ふたりで横のベンチに並んで腰かける。わたしは樋口さんに上司と話した内容を打ち明けた。
「そう、離婚するの」
「まだみなさんには内緒にしておいてください」
「わかってるわよ」
 樋口さんは入社したときにわたしの教育担当だった人だ。今でも隣の席だし、なにかと気にかけてくれる。
「そういや、腕のサポーターやめてまた長袖にしたんだね」
 その問いかけにわたしは苦笑いしただけだった。ごまかすようにカフェラテに口をつけたら、紙コップの砕けた氷がしゃららと音を立てた。サポーターを何日か試したが、リストカットの傷を隠していると誤解されていそうでやめた。
 休憩が終わるとゲラのつづきに取りかかった。七十二候と呼ばれる季節の暮らし方についての書籍だ。うちの会社では、出版物のジャンルの担当者をそれほど固定していないので、幅広い知識が増える。
 赤ペンをゲラの上でさ迷わせていたら、スマートフォンに何度か電話の着信があった。そのたびに通知ランプが机の上で光るが、彩菜の名前が画面に表示され吐息が洩れた。
 今さらなんの用だろう。出られないでいたら、今度はメールの通知がある。
――久しぶり。元気してる? 話したいことがあるからまた連絡するね。
 心がたちまち萎えた。仕事に集中できない。わたしにはもう彩菜と話すことがない。友人だった彼女は結婚して義理の妹になったわけだが、わたしたちの間は一枚のカーテンで仕切られていて、開けたり閉めたりは彼女の自由だった。
 就業時刻になり会社の入ったビルを出る。外はまだ明るかった。ビルの横にあるコンビニに入り、ペットボトルの冷たいお茶を買う。大通りに出たら車道からの熱い風に煽られ、思わずぎゅっと目を閉じた。バス停へ着くまでにお茶はみるみる温くなり、ペットボトルは一気に汗を噴いて滴が底へ伝っていた。
 向かいのオフィスビルの反射する大きな窓には、ぷかりと遊泳する雲たちがその後ろに燃える夕陽と一緒に、プリントされたように映っている。オレンジの光を孕んだ雲はUFOみたいに発光し窓に貼り付いていた。
 宇宙人の方が話は通じたりして。わたしはバス停へ向かう道すがら、オレンジ色のUFOがビルの影に消えてしまうまで、日傘の縁から見て歩いた。
 風呂上がりに居間に置いてあったスマートフォンを見たら、また彩菜からの着信履歴が残っていた。このままにしているのもどうかと思い、思い切ってこちらから電話をかける。呼び出し音に耳を澄ませていると、三回くらいで彩菜の声がした。
「お兄ちゃんが、電話もLINEも綴里に通じないって言って来たの」
 ぎこちないあいさつのあとで、彩菜は沈黙を破って話を切り出してきた。わたしは離婚調停を決意した日に、オサムくんの電話番号を着信拒否にし、LINEやSNSも全てブロックしたのだ。
「オサムくんと話すこと、もうないの」
「わたしも綴里が悩んでたのにあまり話を聞いてあげられなくてごめんね。でも、今まで通り家族でいられないかな。言いにくいことあったら、お兄ちゃんにわたしから上手く伝えるから」
「もう遅いよ」
 彩菜はなにもわかっていない。そうやってわたしを見下していることすら気づいていない。ほころびはもう大きくなり過ぎたのだ。
「一体、なにがあったの」
 わたしはすうっと息を吸った。
「怪我させられたの。腕を縫って傷も残ったんだよ」
「そんな。お兄ちゃんから聞いてない。本当なの、それ。お兄ちゃんがそんなこと……信じられない」
「近いうちに、残りの荷物取りに行くからって伝えてくれるかな。じゃあ、もう切るね」
「待って――」
 わたしが怪我をしたと言っても、彩菜は心配してはくれなかった。友人だったのはもう昔のことなのだろう。やはり血の繋がりが優先されるのだと思うと悔しい。
 スマートフォンを手のひらに乗せ、親指を電話帳の上で宙に浮かせる。手もとの画面に思い出の情景が映し出されていた。
 彩菜とは大学時代に講義のノートを良く貸し合ったりした。学食でテーブルを挟んで笑い合った。学園祭では一緒にパンケーキを焼いたし、沖縄へ旅行した。彩菜が失恋したときはふたりで酔っぱらった。
 わたしはためらう親指を画面の方へ押し出し、彩菜の番号をとうとう着信拒否にした。そして、スマートフォンを握りしめたまま、首にかけていたバスタオルを顔に強く押し当てた。

 日曜日なのに日々記は出勤するそうだ。
「お盆前だから入稿までのスケジュールがタイトなの」
 玄関で底の高いサンダルを履きながら日々記は言った。袖のない透けたシャツを着て、中央にぴしっと線の入ったくるぶし丈のパンツを履いている。サンダルが履けたら、大慌てで出かけて行った。わたしは部屋着のゆったりした半袖ワンピースに、髪を後ろでひとつに結わえただけの姿で、日々記を見送った。
 裏庭に水を撒き、朝ご飯をゆっくり食べる。洗濯が終わったら和室を掃除した。和室には大きくはないが、亡くなった両親の仏壇がある。窓を開けてはたきをかけ、畳に掃除機をかける。仏壇のほこりを払い、外側を拭いたら線香を上げ、仏前に正座して手を合わせた。線香の匂いが部屋中にたゆたうのを感じた。
 瞼を上げると、足もとに祀られたお供え物に目がゆく。彼から送られて来たメロンの箱もそこに置いてあった。
 この前、直接でないのが失礼なのは承知の上で、健吾にメロンのお礼を伝えてくれるように頼んだ。これだけひどい態度なら、さすがに愛想を尽かしまた女の子をはべらすだろうと高をくくった。
 立ち上がり線香の煙を外に出すため、和室の障子戸を開け放つ。敷居をまたぎ廊下から階段を上って書斎に入った。
 パソコンに向かい小説を書こうと思ったのに、いざキーボードに手を添えると指が動かない。自分はモニターを見ているようで、背中の後ろに気を取られていた。
 座っている椅子を回転させ、真後ろにある本棚の下の段を見る。そこには読み終わった文芸誌がつめこまれていた。彼のデビュー作『ハハキギ』が掲載されている号を手に取る。掲載ページには、名刺や桐村先生の出版記念パーティーの招待状と一緒に、彼の手紙が挟まれている。
 勿忘草わすれなぐさ色をしたその手紙の封筒を開く。中には白い便箋が二枚折り畳まれている。わたしは便箋をはらりとめくった。素朴な言葉で書かれているのに、心の底を手のひらに受けさりげなく支えてくれるような、慈しみにあふれている。彼が書く「ぼく」と他の人が書く「ぼく」は全然違う。彼の「ぼく」に心が震える。
 一度だけ読んで、自分がもう泣かないことを確認できたら、手紙を畳んでもとどおりにしまった。わたしはふたたびパソコンに向かい小説を書きはじめた。
 気づいたらお昼をとっくに過ぎていた。一階に下り冷蔵庫の中の残り物をレンジで温め直して食べ、また二階の書斎にこもりパソコンに向かって静かにうなる。夕方になり、洗濯物を取りこみにふたたび一階に下りる。立秋を過ぎたからか風が頬を撫でるように吹いた。
 テラスのウッドデッキに立つと、裏庭のエゴノキは空の雲を掃くように葉をそよがせていた。根元が何本にも分かれており、束ねられたほうきの柄に見える。帚木はひのきの異形だそうだが、ネットで見た樹は途中で折れてしまい、根元しか残っていなかった。樹のある長野の阿智村は、安曇野から遠いのだろうか。
 掃き出し窓から和室に入り、洗濯物を畳んでいたら健吾から電話があった。
「綴里姉ちゃん、璃人さんにお礼言っといたよ」
「ありがとう」
 わたしが事務的にそう言うと健吾は頷いたが、なにかすっきりしないようで口ごもった。
「でも、こういうの違うと思うんだ。姉ちゃんが大変なのは璃人さんもちゃんとわかってるよ。そっちへ遊びに行ったときは俺が悪かったんだ。ちゃんと親父にも姉ちゃんたちにも話してなかったのを、璃人さんはかばってくれてたんだよ」
 それを一般的に共犯と言う。やはり健吾には、まだ幼さが残っているのだと実感する。
「なんであんなことしたの」
「親父にも止められるし、姉ちゃんたちにも断られるだろ」
「当たり前でしょう」
「本当にごめん」
 ため息が出る。どちらにしても、彼が強引に健吾を使い走りにしていることに変わりはない。
「でも、璃人さんと話してほしいんだ。今、替わるよ」
 あっけに取られているうちに「もしもし」と声が聞こえる。久しぶりに聞く彼の声だった。
「綴里さん、先日はお邪魔させていただいてありがとうございました。あのあと体調がどうなったか気になってました。お元気になられて良かったです」
 わたしが驚きに声を出せないでいたら、彼はつづけた。
「手紙、読んでいただけましたか」
 あの手紙を読み、ぐしゃぐしゃに泣いたことを思い出し、頬が火照ってくる。なにか他のことを話さなければ、と思うが大したことは思い浮かばない。
「あ、メロンをいただいてありがとうございました。でも、こんなことはもうしないでください」
 わたしが慌てて口にすると、彼の物憂い吐息が聞こえた。
「ぼくたちは友人にはなれませんか」
「おっしゃる意味がわかりません」
 少しの沈黙があった。これ以上、踏み込んできてほしくない。わたしはそう願っていた。
「ぼくは綴里さんのことが……女性として気になっています」
 その言葉に、目をつむり力なく肩を落とした。彼の気持ちには応えられない。離婚調停のことや、養父母への想いが洪水のようにあふれ出す。わたしは思い切って調停のことを彼に話した。本当の両親は亡くなっていることも。彼は健吾から聞き、うすうすわかっていたようだった。
「今の両親にはすごく感謝してるんです。それなのに、今回は離婚のことで迷惑をかけてしまいました。早く安心させたいんです。今はそれしか考えられません」
「ぼくはそんな綴里さんを、友人として見守りたいんですよ」
「でも、水原さんは今、学生じゃないですか」
 わたしが声を張り上げると、彼は一瞬ひるんだようだった。声のトーンを落としゆっくり話し始める。それはこれからの展望だった。彼は来年の春に大学を卒業する。
「今、ぼくは小説の執筆以外に、伯父の会社でビデオ・オン・デマンドの編集アシスタントとしてバイトをしています。大学を卒業したら、ひとまず伯父の会社に就職して勤めることになりそうです。そのうち社会人ですよ」
「で、でも、世界が違います。水原さんとは」
 彼の真っ直ぐさに声がふるえる。彼の声は穏やかなのに淋しげだった。
「ぼくのことが嫌いですか」
 胸が締めつけられ言葉に詰まる。どうしようもなく窓に目をやると、エゴノキがいっそう葉をざわめかせ、雲の流れが早くなっていた。庭の白い野草も小鳥が飛ぶようにゆれている。わたしの目はその光景に囚われていた。
「ぼくは綴里さんになにかを感じるんだ。なにか繋がりみたいなものを」
 わたしもそうだった。だけど、言えない。胸が早鐘を打ち、身体中が熱くなる。
「住んでる世界なんて大した問題じゃない」
 彼に若さゆえの無謀を感じながら、その力強さに焦がれた。耳もとがじんじんする。わたしはまだエゴノキが雲を掃く姿をじっと見ていた。まるでそうしなければならないように。
「困らせるようなことをするつもりはないんです」
 なにを聞いても黙ったままでいると、彼は体調に気をつけて調停に臨んでほしいと言い、健吾に電話を替わった。
 健吾とほんの少し言葉を交わし、電話を切った。そのまま畳の上に崩れる。体をよじり天井を見上げたら、気が昂って涙がこぼれた。
 明日は離婚調停を申し立てにゆく日だ。彼の声がまだ耳に響いていた。

(続く)

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