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【小説】空蝉のふたり〈三〉

三、大雨時行 ―たいうときどきふる―

 倒れてから三週間ほど経つが、あれから時々胃が痛む。病院の先生にまた診てもらったら、さらに多い項目の食事制限を言い渡された。わたしはなるべく胃腸に優しい弁当を作り、毎日職場でランチを取った。
 その日、職場の冷蔵庫で冷やしていた弁当を取り出し、レンジで温め直しているとき、スマートフォンがふるえた。珍しく健吾からのLINEだった。
――お疲れさま。今度、そっちの家に遊びに行っていい?
 唐突な申し入れに面喰らう。ついこの間まで、大宮の家で一緒に住んでいた日々記とは違い、わたしは結婚して以来、健吾とは距離がある。気軽に遊べるような姉弟感覚がなく、健吾がこちらの家にそれほど興味があったとも思えなかった。
 日々記ひびきにLINEすると返事があった。
――わたしにも健吾から連絡来たよ。OKしたけど、綴里つづりにも聞きなってレスしといた
 疑問は残るが健吾に、いいよ、と返事したら、わたしたちふたりが休みの日に来ることに決まった。
 約束の日、健吾が来たのは午後をずいぶん回ってからだった。見たことのない黒のベンツが家の前に停まり、訝しんでいると健吾が後部座席からおりて来た。
「姉ちゃん、ごめん。大学の先輩が一緒に来てるんだけど、ふたりでお邪魔していいかな。理由はあとで説明するから」
「そんな、知らない人なんて困るよ。なんで最初に言ってくれないの」
 玄関先で健吾と押し問答をしていたら、日々記がそれを聞きつけてやって来た。
「なに、揉めてんの」
「健吾が大学の先輩連れて来ちゃったって。困るって言ってるんだけど」
「まじで? どんな子?」
「小説家の水原璃人りひとって知ってる?」
 健吾が答えると、日々記が小声で訊ねた。
「え、詩人の桐村董平くんぺい先生の息子の?」
 桐村薫平は詩界の第一人者である。小中学生の教科書にも詩が掲載されていて、日本人なら子どもも大人もよく知っている。稀有な詩人で詩集だけでも八〇冊の著書を超える。詩集がこれほど売れるなんて、日本文学史上、先にも後にも桐村先生だけだろう。詩で売れるとはそれほど難しい。
 桐村先生は三回離婚しており、子息・息女が三人ある。そのうちのひとりが水原璃人で、確か二番目か三番目の奥さんとの間にできた息子だったと思う。
 水原璃人は二年前に新人文学賞を受賞し、現役大学生として小説家デビューしたが、桐村先生の息子という事実は最近まで隠していた。昨年、桐村先生がマケドニアで開催された、国際的な詩の祭典「DITET E NAIMIT」で文学大賞を受賞し、公式発表の場で息子の彼のことも、大いに話題になったのだ。大学生と聞いてはいたが、これほど身近にいたとは思わなかった。
「そんな有名人、なおさら困るよ。お見せできるような家じゃないし、なにも準備してないんだから」
 わたしが声を荒らげると、日々記がうわずった声で横から口を挟む。
「でもさ、もう来ちゃってるんだから、追い返すのも失礼じゃない。とりあえず上がってもらったら」
 わたしはしかめ面で腕を抱えた。
「長居しないからさ。お願いします」
 健吾はそう言い、顔の前で手を合わせた。わたしは日々記と顔を見合わせ、渋々健吾の迷惑なサプライズを承諾した。
 健吾は車に飛んで戻った。車の外で窓に向かって二言、三言、言葉を交わしていたが、反対側の後部座席のドアが開いた。
 背後の公園の緑がつむじ風にざわめいた。葉影が大きく揺れて木洩れ日が彼の真上に降りそそぐ。彼は白い麻のジャケットと紺のパンツを涼しげに着こなしていた。長身痩躯そうくの流れるような身のこなしに、わたしは顔が火照ってしまい下を向いた。彼が車を降りると黒いベンツはゆっくり走り去った。
「本当にすみません。急に来て驚かせてしまって」
 日々記がしきりに信じられないと騒ぎ立てるので、彼は玄関先で頭を下げた時のようにふたたび謝った。落ち着いた低い声で安心させる話し方をする人だ。意外と礼儀正しく大人びている。
 雑誌のインタビュー記事では、母は亡くなった女優の入江由紀子らしく、そのせいか顔立ちが整っている。太く凛々しい眉が印象的だ。父方が元華族だったそうで気品も感じる。
 手土産にいただいたラデュレのマカロンを口に運びながら、ちらちらと彼を観察した。目が合うと憂いをおびた瞳で彼はさりげなく微笑む。そのたびにわたしは気恥ずかしくなるのだった。なのに、彼の洗練された手つきやてらいのない仕草に、何度も目が吸い寄せられてしまう。
「自分の行動が事前に知れると周りの人たちが着いて来ることがあるので、誰にも言わないでくれとぼくが健吾に頼んだんです」
「大学内にファンの女の子が大勢いるんだよ」
 大宮の家から持って来たワインを、グラス一杯飲み干した健吾が話を補足した。見た目の華やかさも相まって、彼はメディアの取材をたびたび受ける。きっとマスコミにも嗅ぎ回られているのだろう。
「わたし、女性誌Vivaceの編集者ですよ。どうしましょうか」
 日々記はワインを口にして悪戯っぽく笑みを洩らした。
「伺ってます。今日のことは誰にも言わないでください。お願いします」
 彼はそう答え、ワイングラスを静かに置いた。健吾が桜色のマカロンを頬ばり「美味いっすね」と彼の横でささやく。わたしは黙って碧いマカロンをかじった。そこでふと、なぜ家で水原璃人と一緒にマカロンを食べているのだろう、と最初感じた違和感に立ち返った。健吾が家に来たいと言いはじめたころまで遡り、疑問を反芻はんすうする。
 彼はそれを見透かしたように話しはじめた。
「健吾とはきっかけがあってたまに飲むようになったんですけど、話しているうちに出版社勤務を志望してるとわかって、なんとか協力したいと思ったんです。それで、伯父が親しくしてる文藝櫻楓おうふう社の社長に聞いてもらったら、インターン募集の話があったので紹介させてもらったんですよ」
「そうなの、健吾」
「うん、採用されてもう参加してる。今日はそのお礼に璃人さんを家に招いて親父とお袋と一緒に食事したんだ。で、姉ちゃんたちにも会って貰おうと思って」
「あんた、すごいじゃん。就職内定も夢じゃないかもね」
 わたしが健吾に問いただしたら、日々記も首を乗り出して言った。三人でお祝い気分に浸っていると、彼も嬉しそうに顔をゆるめた。
「お姉さんたちの影響みたいですね」
 ワインを飲み干した彼がわたしを見つめた。鼓動が早くなったのまで見透かされていたらどうしようかと逡巡しつつ口を開く。
「いえ、あの、わたしは今、出版社には勤務していないんです」
「今はなんのお仕事を?」
「校正・校閲専門の会社で働いています。出版社勤務の時、校閲部にいたので、それを活かして」
「なるほど。ぼく関連のゲラが回って来ることはありますか。もしそうだったら、ちょっと緊張しますね」
「水原先生に関するものは担当させていただいたことがないんですが、お父さまの、桐村先生のエッセイを、出版社にいるときに一度担当させていただいています。あ、でも先生のデビュー作の『ハハキギ』はたまたまですけど、“群青”で読ませていただきました。その、主人公の少年が歓楽街の女性に父の再婚相手を重ね合わせて誘惑に陥ってゆく様子が、細やかに表現されていて、み、魅了されました」
 認識力を暗に確かめるような彼からの問いかけにあたふたしてしまう。彼の眼を見るのが怖くなり、そこまでお腹が空いていないのに、またマカロンをひと口齧った。日々記は最初あんなに騒いでいたのに、今では健吾と一緒に高級マカロンに夢中になっている。わたしはそれを恨めしく盗み見した。
「ぼくの著作を読んでいただいてありがとうございます。でも、できたらその先生ってのはやめて貰えませんか。あんまり好きじゃなくて。父ほどでもありませんし」
「す、すみません。わたし、いつもの癖で」
 緊張して口がすべった。桐村先生の名前を出すべきではなかったのだ。わたしは複雑な親子関係への配慮を欠いたとほぞを噛んだ。
「いえいえ。そうだ、お姉さんたちを綴里つづりさん、日々記さんって呼ばせて貰っていいですか。ぼくのことも下の名前で気軽に呼んでください」
 わたしが黙っていたら、横から日々記が彼に訊ねた。
「じゃあ、璃人さんって呼ぼうかな。素敵なお名前ですよね。なにか意味があるんですか」
「ドイツ語で光という意味だそうです。父が考えたんですよ」

 しばらくして彼がトイレに立ったとき、日々記が健吾を問いつめた。
「インターン採用はともかく、なんで璃人さんをこの家に連れて来たの」
「姉ちゃんたちが出版関係者だってわかって、璃人さんが親しくさせてもらいたいって言ったんだ。断れなくてごめん」
 健吾はうつむいて小さく頭を下げた。
「お父さんがわたしたちのこと、あんだけ心配してたのによく許したね。なんて説得したの」
「親父は知らないんだ」
「はあ、もう。他に隠してることない?」
 日々記は腰に手を当てため息まじりに言った。わたしも口を結んで難しい顔になる。
「大学の文芸サークルの先輩で柴田さんって人がいるんだよ。よく飲んだり麻雀したりするんだけど」
「それ、なんか関係あんの」
 健吾は気まずくてわたしたちに目を合わせられないようだ。一瞬だけ息を呑んだ。
「俺、覚えてないんだけど、酔って柴田さんに姉ちゃんたちのこと色々話したらしいんだ。だいぶ前に、先輩たちだけで璃人さん家の葉山の別邸に遊びに行ったらしいんだけどさ、その日は土砂降りだったから家飲みしたんだって。そんときに柴田さんがそれ話したらしいんだ」
 健吾は、わたしたちが女優の堂園桃香に似ていると話したそうだ。堂園桃香って誰? わたしは芸能関係に疎い。
「璃人さん、それで興味を持ったみたいなんだよ。でも、出版関係者として親しくしたいってのは嘘じゃないと思う」
「堂園桃香? 似てないでしょ。あんた、そんな風に思ってたの」
 日々記はそれ以上、健吾を追求しなかった。なにか考えがあるように見える。さっきまで心から楽しそうに振舞っていたけど、観察を怠らずに裏があることを察知していたようだ。わたしは自分が観察しているつもりで実は雰囲気に呑まれ、逆に観察されていたことにやっと気づいた。
 健吾が言葉に詰まっているうちに、彼が部屋にもどって来た。コーヒーを出そうと日々記と一緒に台所へ移ると、彼は健吾とソファに座りテレビを前に談笑しはじめた。
「堂園桃香ってブスじゃん。ちょい役ばっかりだし。健吾、あとでデコピンだな。でも、親子揃って女優好きとはねえ」
 やかんを火にかけてから日々記が小声でぼそぼそと言った。
「わたし、そういうのどうでもいい」
「う〜ん。でも、おかしいな。心理学の専門家で波多野靖子先生っているじゃん。テレビ番組でコメンテーターしてる大学の先生。あの人と水原さん、できてるって聞いたのにな。もっと年上が好きかと思ってたけど」
「そう」
 わたしは沸かした湯をカップに注ぎはじめた。湯気が立ちぷつぷつとドリップバッグの表面が泡立っている。日々記はそれを見守りながら言った。
「どっちにしろ、綴里、あんた気をつけなよ。今、時期的にまずいでしょ」
「変なこと言わないでよ。そういう日々記はどうなの」
「わたしは仕事でだったら親しくしてもいいけど、それ以外はいいわ」
 日々記の言葉に夫の顔が思い浮かび、湯気でわずかに視界がかすんだ。でも、本当は湯気のせいではなかった。わたしは次の瞬間よろめいて、やかんを持ったまま横倒しにキッチンの床の上に倒れ、体を強く打ちつけていた。
 日々記の悲鳴が聞こえた。わたしの名前を呼ぶ声も。湯をこぼしたみたいで、腕や脇腹が熱いのに起き上がれない。やかんが落ちて転がったときの音が、頭の中に何度もこだました。
 この家に引越す前の記憶が突然よみがえる。目を吊り上げる夫の赤ら顔、大きな怒鳴り声、わたしを罵る言葉、腕を強くつかまれる感触、夫の手をふり払うけどまた捕まったときの痛み。突き飛ばされそうになり、よろけてキャビネットにつかまると、キャビネットが傾いてゆき一緒に倒れる。床に打ちつける重い音が響き渡るとともにガラスの割れる大きな音が聞こえ、ひじ下に鋭い痛みが走り鮮血が腕をつたう――。
 こちらへ駆けつける足音が大きくなり近くで止まった。なにか相談する声が聞こえ、すぐ体が高く持ち上がる。誰かの息づかいを間近に感じた。目がかすんでよく見えないが、抱えられて部屋を移動しているようだ。
 冷たい床に降ろされ、壁にもたせかけられた。シャワーの音がして上半身に水をかけられる。それで浴室にいるのがわかった。そばにいる人が肩を支えてくれているが、日々記でも健吾でもない。そう、彼だ。
 わたしは醜態を晒したと気づき、身をよじろうとした。すぐに優しく押さえつけられ、同じところにシャワーを当てられる。
「気がつかれましたか。火傷してるので水で冷やしています。今、日々記さんが着替えを取りに行ってますから、もう少し我慢してください」
「ごめんなさい。わたし……」
「大丈夫。気にしないで」
 彼のチェロを奏でるような低い声が、胸に広がり安心して力が抜けた。目のかすみがゆっくりと晴れてゆく。わたしはシャワーを持つ彼の筋張った腕と、上着を脱いだ広い肩をぼんやりと見ていた。
「どこか痛くないですか。火傷の様子を少し診せてください」
 彼は長袖を着ているわたしの右腕を、そろそろとめくり息を呑んだ。袖はすぐ下げられ、後ろから日々記の足音が迫って来る。
「璃人さん、ありがとうございます。替わります」
 シャワーを変わった日々記がわたしの顔を覗きこむ。
「綴里、気分どう。着替えたら救急車呼ぶからそれまでがんばって」
「やめて」
「なに?」
「救急車、呼ばないで」
「なんで」
 日々記は声をひそめた。わたしもそれに合わせる。
「先生が……しばらく寝てたら治るって」
「なに言ってんの。二回目だよ」
 押し問答をあと数回くり返し、日々記がようやく折れてくれた。ただの失神だし朧げながら意識もある。大袈裟にする必要はない。そっとしておいてほしい。人の視線が怖いし、もう我慢の限界なのだ。ひとり残らず出て行ってくれないかと思った。これ以上、誰にも今の生活をかき乱されたくない。
 シャワーを止めてから、日々記が服を脱がしにかかる。
「なんなの、この怪我」
 日々記は小声でささやいたが、声の調子から怒気が伝わって来た。黙っていたら肩からバスタオルを被せられる。「待ってて」と日々記は言った。脱衣場を出てもどって来たときには、長袖のシャツを手にしていた。
 着替えさせられて、脱衣場で横になっていたら誰か入って来た。
「綴里さん、大丈夫ですか。今から寝室まで運びますからじっとしていてください」
 逃げようとひじを着いたが掬い上げられた。彼の腕に抱きかかえられる。彼の胸もとから森に生い茂る真新しい草木の匂いがした。大きな樹木のかたわらにいるようだった。
「あの、わたし自分で歩けます。降ろしてください」
 言葉を絞り出した。これ以上、失態を重ねたくない。そう思い頭を起こそうとしたが力が入らない。
「いえ、これくらいはさせてください」
 彼が動こうとするわたしを抱え直そうと肩を揺らす。濡れた髪がはらりと落ちて、自分のあられもない姿が想像できた。頬が紅潮してゆくのもわかる。わたしは「日々記、健吾」と小さく叫んだ。
「ここは甘えさせて貰おうよ。無理したらだめだって」
 日々記も健吾もわたしを抱える力がない。他に選択肢がないと言われた。居間のソファで横になると言い張っても、部屋でしっかり休むように諭される。
 懇願するように彼を見上げたら、彼の眼は潤みながらも暗く翳っており、その瞳には幼さが見え隠れした。それをうっかり覗いてしまい、わたしの胸には針で刺されたような痛みが走った。彼の瞳は素直に謝っていた。
 彼の腕は夫とは違い、寛容でしなやかだった。わたしの背中や脚は彼の見た目よりたくましい筋骨に支えられ、頭や腰は大切に抱かれ厚い胸板に引き寄せられていた。お互いの服がこすれるたびに体の輪郭がはっきり感じられ、肌の温度が彼にもわたしにも生々しくつたわってゆく。
 脳裡にちらつく夫の顔に苛まれながら、彼のギリシャ彫刻のように引き締まった横顔を眺める。階段を一段昇るたびに体が揺られ、ほのかな香水の香りがそよぐようにくゆった。
 彼の放つ瑞々しい色香に乗せ、森の奥から熟れた果実の甘い匂いが、ふうわりと流れて来た。わたしの胸の内は激しくざわめく。下腹が熱い。
 これほど動揺していることを彼に知られたくない。倒れたときに表れた夫への恐怖が怒りに変わって渦巻いているのに、片方では臆面もなく年下の彼に惹かれ欲情している。
 わたしは息苦しくなり、胸を押さえたまま目をつむった。彼の鼓動が急に大きく響き、それを追うようにわたしの鼓動も大きくなる。彼の腕の中を心地よく思いながら、これ以上は耐えられないとひたすらくうに祈っていた。

 グラスの中の氷をかき回すような、あえかな響きが聞こえて目が覚めた。月明かりが差す中、日々記がサンキャッチャーを揺らしカーテンを閉めようとしていた。身じろぎをすると、日々記はこちらを見て、気分どう? とひと言訊いた。大丈夫、と答えて時間を訊ねたら、七時半だと返って来た。
 ベッド脇のテーブルを見たら、水が注がれたグラスが、そこに置かれたままになっていた。その横には名刺が一枚ある。
「璃人さんにはあのあとすぐ帰ってもらったよ」
 日々記の言葉に頷く。わたしはあれから彼に部屋に運ばれ、眠っている子どものようにベッドに横たえられた。そのあとで彼はその場にかがんでこう言った。
「綴里さん、気分悪くないですか。なにか飲まれますか」
 わたしがまだ答えないうちに、彼は部屋の入り口にいる日々記に、水を一杯持って来てほしいと告げた。水なんてこじつけで、ただの人払いである。困り顔の日々記が階段を下りてゆく足音が聞こえたら、彼は声をひそめて語りかけた。
「綴里さん、救急車を呼ばなかったのは、ぼくが口止めをお願いしたせいですか」
「そうじゃありません。わたし、今は日々記と暮らしてますけど、実は結婚しているんです。離婚するかも知れないので変な噂が立つと困るんです」
 わたしは彼とふたりきりなのがいたたまれなくなり、胸がまだ早鐘を打っているのに精いっぱい彼を突き放した。気まずくなれば、彼は此処を早く立ち去ってくれるだろうと思いついたのだ。
「そうだったんですか。大変なときに突然来てしまってすみません。もしかして、その腕の傷もなにか関係あるんですか」
「それは――、それは忘れてください」
 やはり見られていた。羞恥心に眉根を寄せ目をつむる。
「初めてお会いしたばかりなのにどうかとは思いますが、もしぼくで力になれることがあればなんでも言ってください」
「健吾だけで十分です。お願いですから、わたしにはもう構わないでください」
 彼とは住む世界も境遇もかけ離れている。彼には世界的に著名な父親や立派な家柄があり、わたしの本当の両親は亡くなって妹の日々記しかいない。仕事においても裏方として作業をこなすだけであり、著者本人と関わるのはおこがましいことだ。
 まだ学生で将来の開けた彼と、三十歳目前で離婚の危機にあるわたし。養父母に不満はないが、亡くなった両親が今も生きていてくれれば、焦って結婚することもなかったのかと想像してしまう。
 憐れまれるのが惨めだった。そう思うと涙が滲み出し、彼に気づかれないようにそっぽを向いた。
「ぼくは綴里さんと良い友人になりたいだけなんです。そうだ、名刺を置いて行きますので、メールかLINEください。体調が気になりますから」
「友人なら日々記の方が向いていると思います」
「もちろん、日々記さんとも親しくさせていただきたいと思ってます。でも、ぼくは綴里さんと話がしたいな。どんな本を読むとか、他愛もないことを。嬉しかったんです。ぼくの小説を読んでいただいていて」
 友人というのはただの口実だ。いくら鈍いわたしでもそれくらいわかる。本人も今の衝動が若気ゆえだったといつか気づく日が来るだろう。どれほど彼のことが気になっても、過ちを犯してはならない。出版関係者だから親しくしたいと言っても、彼の周りにはもっと優秀な編集者が大勢いるはず。それも引っかかった。
 なにを言っても効果がないのでわたしは押し黙った。そのうち日々記が二階に上がり水を持ち部屋に入って来た。彼は受け取ったグラスをベッド脇のテーブルに置くと立ち上がり、日々記と小声でなにか言葉を交わしていた。それを聞きながら、わたしは知らぬ間にすうっと眠りの中へ入って行った。
「おかゆ作ったけど食べられそう? 部屋に持って来ようか」
 寝ぼけながら昼間のことを思い返していたら、日々記が珍しく食事の支度をしたと言うので驚いて起き上がった。一階で食べると言うと、日々記は温めておくと先に階段を下りて行った。
 わたしはおもむろにベッドから降り、彼の名刺をサイドテーブルの引き出しにしまった。
「わたしは適当に済ませたから」
 日々記はコーヒーを淹れ、卵がゆを食べているわたしの向かいに座った。
「腕の怪我、なに。ちゃんと説明して」
「オサムくんを拒否したの。その、夜ベッドに誘われて、でも嫌で」
 それで揉み合いの喧嘩になり、突き飛ばされそうになった。そのときにつかまったキャビネットを倒してしまい、怪我をしたのだとわたしは説明した。
「はあ? 完全にオサムさんのせいじゃん。見たところ十センチ近くあるけど縫ったんでしょ、それ。傷痕になってるじゃない。いつ怪我したの」
「引越しの一週間くらい前かな」
「なんでそのときに言わないのよ」
 見るからに日々記は怒っていた。こういうときの日々記はいつにも増して口数が多く、早口でまくし立てるのでついてゆけない。
「ごめん。なんか言い出しにくくて」
「躊躇してる場合じゃないでしょ。立派なDVじゃない。つき添うから一緒に警察行こう」
「DVって言っても、一回きりだよ」
「そういう問題じゃない。今日だって救急車呼ばないでって言ったけど、あんなの自傷行為だからね。健吾や璃人さんに気をつかったんでしょ。なんでそこまで他人の犠牲になろうとするのよ。周りの人がそれで喜ぶわけないじゃん。なにが愉しいのよ、他人に合わせてばかりで」
 日々記の言うことはきっと正しい。でも、そうやって気持ちを一方的に押しつけられると息苦しくなる。
「愉しいって、そんなつもりじゃ」
 日々記はさらにまくし立てる。
「そういうの、自分で考えなくて済むし楽なのよね。いざとなればなんでも人のせいにできるし。でもその挙句がこれじゃん。まさか自分に酔ってんの? 見返りに生活させてもらってるなら、寄生してるのと変わらないから。どっちが虫かわかんないわよ」
「ひどい」
 寄生だなんて、日々記がわたしのことをそんな風に見ていたとは思わなかった。悔しくて涙が出そうになる。
「わざわざ人生の主導権を渡して自ら責任放棄したくせに、かっこつけてるからそうなるのよ。未来はね、自分の意志で創るものなの。本当はあるんじゃないの、やりたいこと。そうなんでしょ。今日だって、璃人さんと話してたじゃない」
「なんのこと言ってるの」
 わたしのひと言に、日々記の顔が一瞬でこわばった。嫌な予感がした。日々記は嘘みたいに静かになり、なにも言おうとしなかった。
「もしかして、わたしのパソコン見たの」
 きっと、そうだ。わたしが寝ている間のことだろう。
「――、綴里が怪我のこと隠してるからいけないのよ。でも、わたし応援するからまず警察に」
「なんで勝手に見るの! 姉妹だからってそこまで干渉されたくない! 日々記は好奇心で人のプライバシーを荒らして、都合のいい言い訳を押しつけて、搾取した情報でやりこめるのが愉しいだけじゃない。そんな人になんでも話せるわけないでしょう。いい人のふりしないで!」
 あまりの腹立たしさに声がふるえる。わたしは初めて日々記を怒鳴りつけた。
「怒ってるときの日々記の顔、オサムくんみたい」
 日々記は視線を逸らせて口を結んだままだった。涙がぼろぼろとあふれ出し、そんな日々記の顔もぼやけて見えなくなる。わたしは席を立ち、急いで居間を出た。階段を駆け上がり書斎に入る。
 パソコンの電源を入れる。パスワードは亡くなった母の名前と命日の日付だ。この組み合わせが日々記には簡単にわかったのかと思うと、自分の単純さが情けない。
 ログインしてデスクトップの「小説」と名付けたフォルダを開く。そこには今まで手すさびに書きためた小説の原稿を置いてあった。誰にも見せたことがないのに、一番知られたくない身内に見られたなんて。しかも編集者としてキャリアのある日々記にこんな形で見られたことに激しい屈辱を覚える。
 ファイルをひとつひとつ開いてみたが、原稿にはなにも変わったところはない。他のファイルや写真も確認したが、おかしなところはなかった。
 小説のファイルを見えないように隠し、パスワードを変更して電源を落とす。熱に浮かされたような昼間の余韻はすっかり消え、窓の外には十三夜の月が夜をしんしんと照らしていた。
 次の日、起きたときには日々記はもういなかった。半日休みをもらって病院にゆくと熱中症だと診断され、医師に長袖はやめるよう言われた。その日、腕用のサポーターを買った。

(続く)

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