見出し画像

【小説】空蝉のふたり〈二〉

二、桐始結花 ―きりはじめてはなをむすぶ―

 梅雨が明けたとある日、日々記ひびきがこの家に引越して来た。
 誰かから借りたトラックに荷物を積んでやって来たのだ。健吾と知らない男性に運転や荷物の積み下ろしを手伝わせていた。
 昔の日々記はこれほどタフではなかった。それに業者には頼らず、手近な人間に作業をまかせ、なかなかの倹約家だ。引越して早々、わたしは寝室のクーラー代の分割払いも請求された。
 数週間前に道ばたで倒れてから、何回か母が泊まりに来た。日々記に言わせると、独りきりで家に倒れていたらと思うとゾッとする、だそうだ。つまり、日々記が両親に倒れたことを報告したのである。
 これだから、メディア人間の日々記には油断できない。口が軽いし、誇張し過ぎる。わたしが孤独死するような言い方はやめてほしい。
 それを日々記に直裁に言ってみたが、家庭内の情報リテラシーを向上させる必要があるとか、逆に説教された。姉はわたしのはずなのに、おかしいと思う。
 泊まりに来た母が帰ったあとに、軽い喪失感を感じていたある夜、日々記から電話があった。
「あのね、引越そうと思うんだけど」
「え、どこに」
「そっちの家に」
「急になんで」
「う〜ん、色々あるんだけど、まあ職場に近いし」
 てっきり、日々記はわたしを心配してくれているのかと思った。
 大宮の家から日々記の勤務先である出版社は、都内にあるこの家から通うより三十分ほど遠い。わたしが倒れたのにかこつけて、両親と話をつけたようだった。
 うまく利用されたみたいで呆れてしまった。父などは、嫁に出すみたいだと大っぴらに嘆いたそうだ。ところが、日々記本人は「わたしは結婚しないから」と、宣言して家を出たらしい。
 この夏、奇跡的に姉妹ふたりして思い出の我が家に回帰した。その邂逅かいこうが、わたしと夫の別居と、日々記のただの気まぐれによってもたらされたのが、腑に落ちない。泥臭くて陳腐だし、感動がない。
「鮭が故郷の川へ還るって言うじゃない。あれと同じで自然の摂理だね」
 それが日々記の言だ。悪びれもなくよく言うと思う。鮭が遡上するのは秋だし、産卵のためではないのか。
 結局、わたしのおひとりさま計画は、日々記のゲリラ的な引越しのせいで微塵に砕け散った。それでも、わたしは日々記を拒まなかった。
日々記は普段は飄然としているが、ずっと大宮の両親から離れられないでいた。独身を貫いて生きてゆくと言っても、実際のひとり暮らしには踏み切れないのだ。強気を装ってはいるが、今回のわたしの一件に便乗し、苦し紛れに寄りかかって来たのである。
 ただ、わたしもこの家の静寂を持て余すようになっていた。満ちあふれるしじまの優しさは、ときにわたしを物憂くさせるのだ。
 思うに、ふたりとも家庭を持つにもひとりを謳歌するにも不向きなのである。だから、お互いにのがれる場所ともうひとりの自分を求めた。暗黙の了解で。
「あの男の人、誰」
「あの男って?」
「引越しのトラックを運転してた人。ただの知り合いじゃないでしょ」
 日々記はお風呂上がりに、濡れた髪のまま居間の床に座り、ペディキュアを塗っていた。気を抜けないのか、わたしの方を見ようとしない。
「ああ、あれ元彼」
「彼氏なんていたの。でも別れたのによく引越し手伝ってくれたね」
「まあね。別れたって言っても完全に切れたわけじゃないし」
 完全に切れたわけじゃない? 一瞬、意味がわからず戸惑った。すぐにセックスだけの関係だと思った。
「どうでもいいけど、ここでペディキュア塗らないで。臭くなるから自分の部屋でやって」
「わかったわよ。そんな口うるさく言わなくてもいいじゃん」
 両親の寝室だった部屋を、クローゼット代わりに占領されるのはいい。だけど、玄関にハイヒールのブランド靴が幾つも散乱していたり、香水やペディキュアの臭いが共用の部屋に充満したり、服が脱衣場に放置されたままになっていたり、姉妹だけの生活と言ってもデリカシーに欠ける。
 わたしの方が神経質なのだろうか。夫との離婚が現実味を帯びたから、日々記のそういう態度が、よけいに暢気に見えるのかもしれない。
あれから電話で話し合ったが、夫は離婚を拒否しているのだった。

 ある夜、寝る前にキッチンの明かりだけで米を研いでいたら、日々記が仕事から帰って来た。ファッション撮影が押してろくに食べていないと言うので、取っておいたゴーヤチャンプルーと冷凍ごはんを温め直して食卓に並べた。
 わたしは日々記が遅い夕飯を食べるかたわらで、麦茶を飲んで日々記の仕事の愚痴を聞いていた。ロケ中に雨が降って大変だったとか、ロケ弁がいまいちだったとか、アシスタントが汚した服を買い取る羽目になったとか、そういう話だ。
綴里つづり、お父さんにちゃんと言った?」
 食事を終えた日々記が、食器の片づけをしに流しの前に立ち、洗い物をしながらわたしに訊ねた。夫には他所に女がいる気がすると、やっと日々記に話したばかりだった。わたしは力なくかぶりをふった。
「ちゃんと言わないとだめだよ。早く言いなって」
「うん。でも、もし不倫相手の人と別れてくれるんだったら、オサムくんと再構築ができなくもないのかなあって」
「ここでぶれてどうすんのよ。蟻地獄って言ってたじゃん」
 日々記の言うことはもっともだった。だけど、いざ離婚となると本当にこれで合ってるのか、よくわからない。それに、夫が時に優しくふる舞うことがあった。日ごろの嫌がらせはうやむやになり、実際のところ安心してしまう。
「電話でね、帰って来たらのんびりとできるとこに旅行に行こうだって」
 は? 行きたいの、と訊かれ、ううん、と答える。女の人とも別れるって、と言うと日々記は、蛇口を閉めて大声を出した。
「綴里は体が強くないからって仕事辞めさせておいて、家では偉そうに指図して手伝わないんでしょ。借金だってどうせ女に貢いでるんだよ。性格なんてそう簡単に変わらないんだから、期待しても痛い目見るだけだって」
「そっか。そうなのかな」
 うつむくと洗いたての髪が胸にするするとすべり落ちた。日々記は濡れた手をタオルでふきながら盛大にため息をついている。
「とにかく早く話した方がいいよ。こればっかりはわたしの口から言うわけにいかないし」
 わたしは怯えていた。周りの優しい人たちを困らせるのではないかと不安なのだ。わたしのひと言が引き金になると思うと決心がつかない。
 頬杖をついて黙りこくっていたら、コーヒーの良い香りが流れて来た。日々記がカウンターの向こうでお湯を沸かしてドリップしているようだ。コーヒーの香りが鼻を抜け頭の中のもつれをほどく。最後に日々記の言った「痛い目」という言葉だけが頭の隅に引っかかった。
日々記がコーヒーカップを持って食卓にもどる。わたしはようやく顔を上げた。
「ねえ、日々記はなんでわかるの」
「なにが」
「わたしが痛い目見るって」
「雰囲気に流されやすいでしょ、綴里は。そういうとこよ。オサムさんと話してまた洗脳されかかったんじゃないの」
 わたしは、はっとして日々記の眼を見た。
「相手をもっとよく観察しないとね。男なんかみんな大して変わんないけど」
 そう言って、日々記はコーヒーをひと口、喉に流しこんだ。わたしはその冷めた仕草に焦れた。
「じゃあ、日々記はオサムくんをどう見てるの。個人的に」
 日々記の動きがぴたりと止まった。存外の質問だったらしい。低いうなり声が洩れるのが聞こえた。
「オサムさんて、地方議員の息子だったよね。地元、神奈川だっけ」
「そうだけど」
「神奈川のどこ」
 〇〇市と言うと、日々記は、へえ、なるほどね、と呟いた。わたしはどういう意味か日々記に訊ねた。
「湘南でしょ。親の幅も利くし、相当遊んだ口じゃない? まんま年取った感じだね」
 わたしは手にしたグラスの琥珀色の底を見つめた。オサムくんは確かに独身が長かったし、つき合いも幅広く実年齢より若く見える。
「前に会ったのいつだか忘れたけど、黒いスリムパンツに蛍光色のスニーカー合わせてたよね。ミラーレンズのサングラスして」
「そうだったかな」
「やばいわ」
 日々記は声のトーンを落とした。夫は服装が派手なときもあるが、そうでないこともある。そんなに目くじらを立てることだろうか。わたしは十三歳離れた夫に、服装に関することを意見したことがない。言ったとしても聞かないと思う。
「でも、仕事はきちんとした会社だし、普段は、」
「いや、どう考えてもパリピでしょ。車も赤いレクサスだし」
 でも、年齢の割に意外と似合ってたよね、と日々記はなんのフォローかわからないことを言って歯を磨きに行った。わたしは、住んでいるところで決めつけるのは間違っていると思いこんでいたし、服や車は本人の好みを尊重するべきだと思い、甘く見ていた。暢気なのは日々記ではなく、わたしの方だった。

(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?