見出し画像

ミヒャエル・ハネケ『タイム・オブ・ザ・ウルフ』を観て。意図的に作り上げられた自然状態のなかで。

 映画批評、ハネケの『タイム・オブ・ザ・ウルフ』についてです。

 なにかの壊滅的なできごとが地球(あるいはヨーロッパ)に到来して、そのために突如として原始生活に陥ったひとびとを描いた映画です。ハネケらしく「なぜそうした災害が生じたか。また、それはどういう災害であるか」という部分は映画にはありません。本来「主人公の立たされた状況の理由」として働くであろうその箇所は、映画の構成上、意図的に省かれています。ほかの多くのハネケ映画でも良く見られる技法ですが、フランツ・カフカの多くの作品同様、ハネケ作品には重大な(しかも魅惑的な)欠落がしばしば含まれているのです。

 ルソーのいう「自然状態」(簡潔に言えば文明の無い原始的生活)に陥ったひとびとを描こうとした映画と思うのですが、僕なりに感じた感想を言うと、あまり人間が描けているとは言い難い映画だったと思います。映画の仕掛けとしてはいかにもハネケらしく、物語が面白くなりそうな下ごしらえは充分なのですが、『ファニーゲーム』を観てしまった僕らのような観客からすると、もっと遥かにエグみのある、もっと著しい不快さのある人間模様を期待してしまい、どこか未消化の感を残したまま映画は終わってしまった。映画というものは撮影しながら当初の軌道を逸れたり、自ら「変容」していくなまものだとは思うのですが、ハネケは彼のほかの名作映画ほどには、この「変容」をコントロール出来なかったように思います。逆に言えば、この「変容」を余さずコントロール出来た映画として、『ファニーゲーム』があまりに奇跡的な映画だったのかもしれません。

 人間の文明が秩序を失い、壊滅的なまでに原始状態に戻るというのは、ゲームや映画も含めて現代では数多に見られる設定ですが、こうした設定をフィクションに持ち込むのには作者の制作上の意図があるのだと思います。

 話が飛躍するようですが、アマゾンプライムに松本人志制作の『ドキュメンタル』という企画番組があって、これも一種の「自然状態」を意図的に作り出した作品だと思う。本来、テレビの世界におけるバラエティ番組は、芸人同士の高度な「暗黙の了解」によって喜劇が成り立っている。誰かがふざければ(ボケれば)誰かが叱り(ツッコみ)、誰かがまとめようとすれば、誰かがそれを敢えて邪魔をする。なかには緻密な台本があるものもあるのでしょうが、その多くは無言のやり取りによって即興的に組み上げられていて、彼らの経験の蓄積によってしか分かり合えないような、ある意味でテレパシーに似た高度な「暗黙の了解」があるのだと思います。

 はてさて、「文明」の正体とはこれではないかと、僕は思うのです。

 細かなことで言えば、僕らはこの社会で生きるとき、互いにいちいち言葉にして意思表示してはいません。

 エスカレーターに乗るときは片方を開けて立ち、知り合いに会えば挨拶を交わし、友人に子供が産まれれば出産祝いを贈る。たかだか「コンビニでものを買う」程度のことでも、僕らは膨大な数の約束事を無言のうちに守り合っていて、でなければ、レジで店員とお金のやり取りを行うことさえ、ままなりません。つまり、「文明」のなかで生きるというのは、ある意味で「暗黙の了解」を守り合うことで、僕らは「明文化されていない規則」を果てしない膨大な数守り合うことで、この「文明生活」を維持しています。

 では、この「暗黙の了解」がことごとく守られなくなったら、いったい、人間はどのような態度に出るのでしょう。

 さて、ハネケの『タイム・オブ・ザ・ウルフ』も、松本人志の『ドキュメンタル』も、こうした「暗黙の了解」が守られなくなった世界を意図的に準備したものです。『ドキュメンタル』では「芸人界における暗黙の了解」が守られなくなり、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』は僕らの日常生活が壊れてしまっている。両者とも文明の基礎となる「暗黙の了解」が失われ、その代わりに、ほとんど動物じみたむき出しの闘争本能が顕になる。それはまさに、タイム・オブ・ザ・ウルフ=狼の時代とも言うべき、野蛮な状況なのです。

 観客である僕らは、暗黙の了解が高度に守られた「文明」のなかにいながら、彼らが産み出した架空の「原始状態」を眺めるわけですが、安全地帯にいながら危険なものを眺めたがる僕ら観客は、観客席からボクシングの試合を眺めるように、強度の高い鉄格子の嵌められた窓枠からサファリパークの動物を眺めるように、自らは安息を享受しながら、ごくごく他人事として、この「野蛮な状況」を目撃して愉しみたい。あまり大声では言えませんが、そこでは、より「野蛮な状態」が期待されていると思います。

 映画と、ひとつのコメディの企画を比較するのは馬鹿げているのかもしれませんが、このふたつの作品は、観客がそこに期待するものと、作品が下準備として用意している状況がかなり似通っています。

 では、どちらがより観客を満足させたか(どちらかがより野蛮な人間模様を描けたか)と言えば、僕は『ドキュメンタル』の方だと思うのです。そこでは芸人は高度な無言のやり取りを失い、彼らが長年蓄積して来た方程式を手放し、他者である別の芸人への尊重を忘れ、ただただ激しいシモネタへとひた走っている。彼らはまるで、普段テレビで見せるような高度な知性を根こそぎ忘却してしまったかのようです。そしてその状況は、まさに芸人の狼化、タイム・オブ・ザ・ウルフとしか言えない著しい野蛮状態なのです。

 ハネケの『タイム・オブ・ザ・ウルフ』にも、制作の前段階としてはこうした人間模様を描く意図があったのではないかと思います。

 でも、『ドキュメンタル』と比べても、そうした野蛮な人間模様が描けているとは、なかなか言い難いと思います。『ファニーゲーム』を観た僕らが高く期待し過ぎるのかもしれませんが、ハネケには、もっとエグみのある原始状態が描けたのではないかと、より良質な(あるいは悪質な?)ものを望んでしまう。でも、残念ながらこの映画にはそれは見つけられない。もちろん、この観点とは別の魅力もあるには違いないとは思うのですが。

 つくづく、『ファニーゲーム』が奇跡のような映画だったのだと思います。また、一度奇跡を起こした監督だからといって、繰り返し奇跡が起こせるわけでもない。『タイム・オブ・ザ・ウルフ』は制作の意図としては、いかにもその奇跡が起きそうな作品なのですが、しかし、その奇跡は起きていない。当然と言えば当然ですが、奇跡は滅多に起きないから、奇跡なのでしょう。でも、だからといって、ミヒャエル・ハネケの監督としてのブランドが、この映画一本で容易に傷つけられることはありません。なにせ、彼の撮った『ファニーゲーム』には、その奇跡があまりにも素晴らしく現れているからです。

この記事が参加している募集

休日のすごし方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?