詩はわかりやすく書くべきか

よくある詩の区分けに、「むずかしい詩」と「わかりやすい詩」というのがある。

もちろん人それぞれの感じ方だから、どの詩をむずかしいと受け止めるかは、人によって違う。ただ、それでも多くの人が「これはむずかしい」と感じる詩というのはある。

もともと詩というのは、詩を読んだり書いたりしない人にとっては、「詩とは、普通の人にはわけのわからないむずかしいものだ」という共通した考え方がある。

さらに詩を読んだり書いたりする人にとってさえ、「詩にはわけのわからないむずかしい詩」がある、ということになる。

つまり、わけのわからないむずかしい詩というのは、詩を読む人にとっても、詩を読まない人にとってもある、ということになる。

それで、よく聞かれるのが、「なぜわけのわからない詩があるのか。人がわからない詩は、あったって仕方がないのではないか」という質問だ。

さらに、逆向きからよく聞かれるのが、「なぜ散文と同じようなわかりやすい内容のものを、詩で書く必要があるのか。詩は詩でしか書けないものを書くべきではないか」という質問だ。

ぼくの考えは、もともと詩をわかりやすいものとわからないものに、分けること自体に意味がないのではないか、というものだ。

わかりやすいかどうかは、詩の個性にはなるけれども、それをもって評価基準とすることはできないのではないか。

詩については単純に考えたい。まずは、だれが書いたものでも、どのように書かれたものでも、それぞれの詩のあり方をすべて尊重する。

その後に、読んで自分により深く入ってくるものを、心が動かされたものを、自分にとっての優れた詩として受け止めたい。

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