「現代詩の入り口」16 ― わたしたちの詩の源を知りたかったら、萩原朔太郎を読んでみよう。

「現代詩の入り口」16 ― わたしたちの詩の源を知りたかったら、萩原朔太郎を読んでみよう。

本日は萩原朔太郎の詩を七篇読んでみます。

ここに載せる文章は、昨年(2022年)の講演のために用意した草稿ですが、時間の関係で話せなかったものです。ぼくの読み方で萩原朔太郎の詩を読んでいます。次の7篇です。

ありあけ
愛憐
恋を恋する人

大砲を撃つ
殺人事件
掌上の種

ありあけ

ながい疾患のいたみから、
その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには藪が生え、
手が腐れ、
身体(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出(い)で、
有明の月が空に出(い)で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形(きけい)の白犬(しろいぬ)が吠えてゐる。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。

「ありあけ」について

この詩は、みんなが感じていることを、その感じ方を誇張して、とんでもない表現で示すことによって、そのことの真の意味をあからさまにすることができる、ということを教えてくれています。

そのような意味では、「かなしい遠景」よりも作為に満ちていて、また自分に引きつけて書いている詩であるとも言えます。

とんでもない表現というのは、例えば「その顔はくもの巣だらけとなり、」とか「腰からうへには藪が生え、」というのを言います。

確かにこの詩を読むたびに、二行目の「その顔はくもの巣だらけとなり」のところで少し笑ってしまいます。笑ってしまう、というのは滑稽だからではなくて、ここまで書いてしまうかと感嘆してしまう、その感嘆が突き出て笑いになってしまう、ということです。

これはまさに、何度も言っていますように、「何も隠さなくていいんだ」という教えに則っています。これは書いてはいけないかなというたじろぎを突破しています。

いったい、顔がクモの巣だらけになるだなんて、普通の人は考えもしません。というのも、何もない空間だからクモの巣が張られるわけで、人の顔というのはもちろん空間ではなく実体です。空間でもないのにクモの巣だらけになるというのは、顔の表面がクモの巣で覆われているということか、あるいは顔自体が空っぽの状態になるということになります。ぼくは後者ではないかと想像します。顔の奥が空っぽなのです。

この詩は、それだけのことでは収まっていません。これでもかというほどに、体をめちゃくちゃにしていいます。顔がクモの巣だらけになるだけではなく、腰から下はなくなって、腰から上には薮がはえ、手が腐って、と、こんな体があるものかと思っていると、この詩自体が「身体(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり」と、全体を解説しています。まさにめちゃくちゃです。ここもおかしい。

で、このめちゃくちゃな体を持っているのは病気の人で、詩の後半は夜明けに犬が吠えているということを書いています。

「ああ、けふも月が出で、」の「ああ」は、病気の人にとってもあたりまえに月は出るということを言っているのでしょうか。「ぼんぼりのやうなうすらあかり」というぼんやりした感覚は、最初のクモの巣の感触に通じています。「畸形(きけい)の白犬(しろいぬ)」の奇形は、どこか肉体の奇形というよりも、内面のゆがみを表しているのかなと思われます。奇形といってしまいたくなるほどの「さびしさ」を意味しているのだろうと思います。

奇形というのは、使い方によっては危険で、差別用語にもなる言葉であるわけなんですけど、ここで言う「病気は奇形」という発想は、病気の人を差別して言っているのではなく、単に病気の人は、病気以前にしていた日常の動作からは外れてしまっている、という意味にとってもよいかと思います。それによって逆に、病気でないことの不自然さ、奇形をも照らしているのかと思います。

素直に考えれば、朔太郎はこの詩を、目覚めの朝に、布団の中で思いついたのではないかと思います。自身の、心もとなさや寂しさを痛切に感じ、その思いの意図が顔をクモの巣だらけにするということです。とんでもないことを書いているように見えますが、実はこのような思いは、多くの人が、多くの朝に感じているのではないでしょうか。だから、こんなめちゃくちゃなことを書いている詩が、私たちを惹きつけるのです。

この詩は、肉体をどうにかしてしまうことによって表せる感覚というものがあり、それによって見事な詩はできるということを示しています。肉体の美しさのみならず、むしろゆがみが示してくれる叙情がある、という重要なことをも教えてくれています。

さらに、ぼく自分のことを言いますと、ぼくには「顔」という詩があって、ぼくの代表作のようになっていますが、この「顔」という詩も、朔太郎の、肉体に対する接近の仕方から学んだことがあるのではないかと、自分なりに感じるんです。

また、ぼくの詩だけではなく、肉体をどうにかしてしまって、その姿を詩にする、というのは、今でも現代詩の中で繰り返し書かれています。今でも詩の主要なテーマです。朔太郎の影響というのは計り知れないと思います。

愛憐

きつと可愛いかたい歯で、
草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、
このうす青い草のいんきで、
まんべんなくお前の顔をいろどつて、
おまへの情慾をたかぶらしめ、
しげる草むらでこつそりあそばう、
みたまへ、
ここにはつりがね草がくびをふり、
あそこではりんどうの手がしなしなと動いてゐる、
ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、
お前はお前で力いつぱいに私のからだを押へつける。
さうしてこの人気のない野原の中で、
わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
おまへの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。

「愛憐」について

この詩がぼくらに教えてくれているのは、「誰に読まれるかを考えている内は、中途半端な詩になってしまう」、ということです。

まさに今日、最初に話したことです。行動規範の時の判断とは逆の考え方です。僕だったら、この詩は家族に知られたらいやだなと、思うような詩です。でも、詩はそうであるべきでない、表現を突き詰めれば、あるいは、書いてあることを鋭く読み手にさしだしたいのなら、もっと足を踏みだして書くべきだと言っている詩です。繰り返しますが、まさに「隠さなくてもいいんだ」ということです。

この詩はなんとも紛れのない詩です。女の人と野原の中で抱きあっている、愛しあっているという、それだけの詩です。

くどいようですけど、この詩を家族が見たらどう思うだろうと、僕は思ってしまいます。朔太郎はこの詩を書いている時にそのことを思っただろうか、あるいは書き終わって、この詩はよくできたけど、この詩を発表してもいいだろうかと、考えただろうかと考えてしまいます。

ぼくだったら躊躇います。たぶん発表できないだろうと思います。だからぼくはだめなのです。朔太郎のようにはなれないのです。朔太郎はもっと突き抜けていたのだろうと思います。家族が読んだらまずい、なんてことよりもずっと遠くを見て詩を書いていたんだろうと思います。

この詩に書かれているのは男の性欲のありさまです。「ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる」とあからさまに書いています。ぼくがすごいなと思うのは、性欲に、何か意味あり気な高尚な価値をつけて、精神的な側面から書こうなんてしていないことです。自分の性欲は特別なものだとはしていないことです。多くの男が持つあたりまえの性欲を、みっともない性欲を、そのまま書いています。これほど勇気のいることはないと思うのです。

先ほど、「かなしい遠景」という詩で、「かなしい」とか「さびしい」という感情をむき出しでそのまま書いた詩を読みましたが、この詩では、性欲までをも、そのままに書こうとしています。

もちろんこの詩を読んで感じ入る人は多くいます。とにかく大抵の人は人に隠したい性欲を持っているわけですから、自分が感じていること、自分が常々やりたいと思っていることを朔太郎が書いてくれているわけです。

それでも自分が詩を書こうとすると、こんなふうに性欲を、特別なものではなく、普通の性欲としては書けません。でも朔太郎には書けます。それはなぜだろうかと考えます。きちんとした答えは分からないんですけど、自分の貧しい性欲でさえ、生きることの一部であり、そうであるならば叙情詩の大切な一側面として扱えるはずだという自信が、朔太郎にあったのではないかと、思えるのです。

性欲も人間の一つの大切な側面です。本能に近い欲望です。このような本能の気味悪さ、奇妙さを、朔太郎はのぞき込んで、しっかり書きたかったのだろうと思います。

性や性欲を作品に取り入れている芸術は多くあります。むしろ、性は愛の傍にあり、昔から芸術の大きな一側面ではあります。でも朔太郎が普通の性欲を詩に書こうとしたのは、そういった芸術一般の理屈や、やり方からではなく、自分の個人的な発見からたどり着いたものではないかと、ぼくは勝手に感じています。

性欲をそのまま詩に書くこと。高尚ぶった性欲でなく、ありふれた性欲を、その姿のまま描いても詩になる。その行為自体が、生きている激しさ、みっともなさ、悲しさを表しているからだと、思っていたのだと感じます。異常性欲を詩にするのではなく、正常な性欲を詩にすることの大胆さ。恥ずかしくも勇気のある行為であります。

戦後の詩でも、性をとりあげた詩は多くあります。一時期の荒川洋治の詩、また女性の詩人も伊藤比呂美をはじめとしてしばしば性を扱った詩を書いています。それらの表現の奥には、朔太郎が勇気を持って突破したのと同じ躊躇いが、個々にあったのだと思います。

と言うことで、朔太郎が教えてくれたことの一つ目、「パートⅠ(僕らは臆することなく、ありのままを詩に直接書いても良かったんだ。)という側面から3つの詩を見てきました。

「かなしい遠景」ではありふれた感情を
「ありあけ」ではだれでもが感じることを誇張することを
「愛憐」では普通の性欲を
書いてしまっていいんだということを、朔太郎は教えてくれています。

これはとても大切なことです。詩を書いていると、「自由詩」なのに、書くことに自分で制限していることに気付きます。もちろんなんでもあからさまに書けばよいというものではありませんが、これを書いてしまうとばかにされるとか、自分のカッコがつかないとか、たいしたことのないところで書くことに制限をしていたとしたら、詩にとってはとても不幸なことです。本当のことは、みんなが書いている事よりも一歩、踏み出したところにあります。

どこをどのように踏み出すべきかを見つけていくことが、すぐれた詩を書くことに繋がるのだと思います。

恋を恋する人

わたしはくちびるにべにをぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきつた薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、
腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた。
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひつそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬつて、
まつしろの高い樹木にすがりついた。

「恋を恋する人」について

この詩の前に見た「愛憐」は、どうどうと普通の性欲を詩に書いているのがすごいと思いましたが、この詩は、どうどうと普通でない性欲を詩に書いているのがすごいと思います。

普通でない、と言いましたが、この言葉はとても危険で、では普通って何?普通の性欲って何?という議論に行ってしまいますが、ここではちょっとその議論は避けて、少数派の性欲、とでも理解してもらえればと思います。

というのも、この詩では、男が化粧をして、女装をして、樹にキスをして、樹を抱きしめる、という内容であり、今でこそ、そのような自分の表し方もありうるのだということは知っているのですが、それでもこの詩を読むと、正直たじろいでしまいます。

たじろぐのは、性の表し方ではなくて、そういったことを詩に書いてしまえることです。

詩と言うのは多くの人が書くものです。気楽にだれでもが書けるものだからです。でも、多くの人は、ここまでは書くけど、ここから先はどうにも書けない、という境界線を持っています。その境界線を越えて書くことは、危険だからです。自分がどう見られるか、あるいは家族がどう見られるか、ということまで考えてしまうのです。

また、境界線を越えて書いたからといって、それが必ずしも優れた詩になる保証はないわけです。ですから、多くの人は、ぼくも含めて、境界線の手前で、きれいなことや、差し障りのないことを書いて詩と向き合っているわけです。

朔太郎のすごいのは、境界線を越えることと、境界線を越えることに意味や価値があるということを確信していたところにあります。

この詩は、何度読んでも「そこまで書くか」と思いますし、ではそれに対して、自分は詩と、いかに表面的な付き合い方しかしてこなかったことかと、自責の念にもさいなまれます。

それと共に、この詩を読んでいると、朔太郎が自分のことをいかに好きだったのかということを感じます。自分を女装させて目の前にその姿を想像し、うっとりしている図は、この美しく女装した自分の姿は、朔太郎の書いた詩をも重ね合わせてもいるのではないかと思われます。自分の中心にあるものを最も見栄えよく表してゆく、その魅力を一番知っているものとして、詩を書き、自分の詩をうっとりと読み直しているということは、この詩は「恋を恋する人」であり、「自分の詩に恋する人」でもあるのかなと思います。

こちらは異常な行動。性欲を異常な形で表しても詩になる。女装をすること、あるいは女になったつもりになることの恍惚。これが本気であったとしても装った行為であったとしても、その異常さは、正常な性欲の先にある先鋭さを表している。

では、次の詩を見てみましょう。

しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏(にはとり)です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

朝のつめたい臥床(ふしど)の中で
私のたましひは羽ばたきをする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然からよびあげる鶏(とり)のこゑです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
痛みたる心霊のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを
恋びとよ
恋びとよ。

しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすい紅(べに)いろの空気にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

「鶏」について

そのつもりはなかったんですけど、こうして並べてみると、この「鶏」という詩は、先ほど読んだ「田舎を恐る」の続きのような詩です。状況もとても似ています。朝、布団の中で、鶏も、世の中も動きだしているのに、自分は布団に入って何か考えている、それを詩にしている、という同じ状況です。

この詩で際立っているのは、誰が読んでもわかると思うのですが、そして有名でもありますが、まさに「とをてくう、とをるもう、とをるもう」という鶏の鳴き声です。朔太郎には鶏の声がこんなふうに聞こえるのかと、驚きます。そしてこの驚きは、「田舎を恐る」の時に見た、みんなが詩にはならないだろうと思っている単語を詩として定着させたことの驚きと、似たもののように感じます。

どうでしょう。普通の人が鶏の声を詩に書こうとするときに、たぶん「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」とは書きません。かといって「コケコッコー」と書いたのでは詩は一気にありふれてしまって、台無しになるわけで、それならばと、いっそ鶏の鳴き声は書かずに詩を進めるだろうと思うのです・

このオノマトペはあまりに有名なので、ぼくが今さら何をいっても付け加えることはないのですが、それでも思うのは、朔太郎は本当に鶏の声がこのように聞こえたのか、あるいは苦心してこのような言葉を作り上げたのか、どちらだろう、ということです。

「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」という言葉からは「遠い」という言葉が折り込まれているようにも感じます。あるいは「とって食う」という意味、さらに「通る」のような言葉も重ねられています。日々の陰鬱な生活は、はてしなく遠くまで続き、食物の命をとって食い、同じ道を通り続けて生涯が終る、そのような退屈な暗さを感じることができます。まさに「田舎を恐る」と同じ感覚です。

もし鶏の声が朔太郎に実際にこのように聞こえたのであるとしたら、何という恐るべき聴覚かと思います。その聞こえ方は、おそらく日常の普通の日本語でさえも、朔太郎の耳には違った響きを持って聞こえていたのかもしれないとも想像されます。

また、これが詩のために苦心して作り上げられた鳴き声であったとしたら、それも何という微妙な感覚をコントロールする才能を持っていたのかと驚きます。というのも、このような鳴き声は、一歩間違えば滑稽なものになり、あるいはなんの感興も齎せることのないものになる危険性があるからです。

奇妙に聞こえて、それでいて、敏感な耳にはああそうかそんなふうにも聞こえることもあるのかと思わせ、この響き自体からも寂しさが、喉の奥から絞り出されてきたような思いを持たせてくれる。すべてにおいて、この鳴き声を可能にするためには、綱渡りのような試みを、朔太郎は成功させているのです。

たかが鶏の鳴き声ですが、それだけで詩を読む人の幻の耳に、生涯聞こえ続け、幻の夜明けに、生涯寂しさを齎せてくれます。奇跡としか言えません。

で、あまりに「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」の衝撃が強くて、この詩が何を書いているのかをうっかり読みすぎてしまいます。書いてあることはいつもの朔太郎の心の痛みです。布団の中で鶏の声を聞いている。「田舎」とか「菊」とか「心」とか「墓場」とか、常連のようによく出てくるイメージを取りそろえてはいますが、結局のところ、だらだらと布団に入っている、それだけの情景です。それでいいのです。ほかの言葉たちは、ひたすらに「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」が効果的に読み手に届くように、静かにしているだけでいいのです。

なんと見事な擬音だろうと思います。この擬音を読むと、優れた詩人は優れた擬音を生み出せるものなのかと思います。多くの詩人は詩の中で、擬音のみならず、ありふれた、使い古された副詞を使って満足してしまいます。たかが擬音、しかし時代を超えて読む人をやるせなくさせる擬音もあるのだと思います。

人並みになれないだらしない生き方の中に、人並みの人には聞こえない聴覚を持ち、その聴覚を詩に反映させたときに、多くの人に、声を上げて泣くことの切なさを齎し、生きることの意味を再び考えさせてくれます。

と言うことで、Ⅱ(僕らの、人並みになれないという感じ方が、詩の世界を広げてくれる。)の二つ目の詩が「鶏」です。

次の詩に行きましょう・

大砲を撃つ

わたしはびらびらした外套をきて
草むらの中から大砲をひきだしてゐる。
なにを撃たうといふでもない
わたしのはらわたのなかに火薬をつめ
ひきがへるのやうにむつくりとふくれてゐよう。
さうしてほら貝みたいな瞳(め)だまをひらき
まつ青な顔をして
かうばうたる海や陸地をながめてゐるのさ。
この辺のやつらにつきあひもなく
どうせろくでもない貝肉のばけものぐらゐに見えるだらうよ。
のらくら息子のわたしの部屋には
春さきののどかな光もささず
陰鬱な寝床のなかにごろごろとねころんでゐる。
わたしをののしりわらふ世間のこゑごゑ
だれひとりきてなぐさめてくれるものもなく
やさしい婦人のうたごゑもきこえはしない。
それゆゑわたしの瞳(め)だまはますますひらいて
へんにとうめいなる硝子玉になつてしまった。
なにを喰べようといふでもない
妄想のはらわたに火薬をつめこみ
さびしい野原に古ぼけた大砲をひきずりだして
どおぼん どおぼんとうつてゐようよ。

「大砲を撃つ」について

これも詩を並べて見て気がついたのですが、「パートⅡ(僕らの、人並みになれないという感じ方が、詩の世界を広げてくれる。)」のパートで選んだ詩は、どの詩も、布団の中に入っているという詩です。(人並みになれない)という思いが、布団に潜り込んでいたいという思いに繋がっているからかもしれません。

ところでこの詩は自虐の詩です。引きこもりの人の詩のようです。詩を書く人にももちろんいろんな人がいますが、多くは社会性がなく、人との付き合いが苦手で、生きることに不器用な人のようです。おそらく、どの時代でもそのようであったのかとも、思われます。

社会性が乏しいから独りでいる時間が多くなります。独りでいれば考え事をずっとしています。その考え事は普通に社会で生きていける人とはちょっと違ったものの見方になってゆきます。斜め下から社会を見上げるような角度になります。その見方で社会をじっと見、感じたことを言葉にして詩を作れば、普通の人にはとうてい見えないものが見え、書けないことが書かれることになるわけです。

詩の中ほどに、「わたしをののしりわらふ世間のこゑごゑ。」と、あります。これは本当にあったことなのか、妄想なのかはわかりませんが、仮に妄想であったとしても、そんなふうに自分を感じていたのだから、現実と同じ痛みがあったのだろうと思います。いったい、人にののしり笑われるなんてことが、一度でもあったら、人間なかなか立ち直れません。それも、何かの動作やある日の衣服を笑われたのではなく、その人のありかた自体をののしられるのですから、なんとも恐ろしいことです。

そんな自分を描いた詩です。この詩でも、相変わらず布団の中にいます。布団の中での考え事です。どんな考え事かというと、自分が大砲になる、という考え事です。実にすごいなと思うのです。こんなに実の詰まった比喩はそうそう出会えません。お見事な喩えです。

人にあざけられていることに対して、自分を野原に持っていって、ぶっぱないしているのです。何をぶっぱすかというと、はらわたの中に詰めた火薬をです。「おなか」ではなく「はらわた」です。そうであるべきなのでしょう。で、何に対して自分をぶっ放しているのでしょう、どんな感情がこの大砲に詰め込まれているのでしょう。社会に反抗している、というのでもない、自分に完全に絶望している、というのでもない、よくわからないけど、うまくいかない人生、かみ合わない人生、わかってもらえない人生、それらもろもろの空に向かって自分をぷっぱなしているのです。

「どおぽん どおぼんとうつてゐようよ。」という、この詩のオノマトペも見事です。さきほど見た鶏の鳴き声ほどには突拍子のないものではないのですが、それだけに、おなかにずしりとくる音の表現です。さらに、最後が「うつてゐる」ではなくて、「うつてゐようよ。」と、人に語りかけてでもいるかのような気の弱さが、なんとも切なく響きます。

この大砲は、劣等感、生きることが苦手な人の断末魔の雄叫びではないかと思います。まさに、自分を「人並みになれない」という思いによって、このような際立った自意識の詩を生み出すことができています。

こういった感じ方、自分は人並みではない、というのは、決して少ない人の特別な感じ方ではありません。多くの人が持つものです。でも、朔太郎ほどに、そのことを明確に意識し、その意識を力にして言葉を並べて詩を書いた人は、ほかにはいないと、僕は思います。

殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣装をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲った。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

「殺人事件」について

この詩には、「再会」に出てきたのと同じ言葉出てきます。「玻璃」と言う言葉です。玻璃、つまりは水晶であったりガラスであったりするわけですが、これもきらびやかな様子を表しています。

この詩は殺人事件という、一見凄惨な内容に思えますが、読んでみると凄惨なところは全くありません。むしろ、先ほどの「再会」と同様に、言葉のきらびやかさにもたれ掛かった詩のように感じます。

ぼくには「再会」と「殺人事件」が同じ趣向で作られた作品に思えます。つまりは、詩の中で、言葉をできるだけ光り輝かそうということです。

「再会」は、くちづけをするほどに愛している異性を書いていますが、「殺人事件」は、さらにもっと激しく、殺してしまいたいほどに、愛しているということでしょうか。

その感覚にも、ぼくは朔太郎の、感性を自由に表現しようという勇気を見てしまいます。殺したくなるほど愛しているという言葉自体は、使われないことはありません。でも、こうしてしっかり詩に作り上げることは普通はしないものです。道徳に反しているからです。でも、その道徳そのものも、あるいは道徳を破るということも、詩の中に取り込んでしまうという、詩の腕の広げ方は、すごいなと思います。

この詩を読むと、どこか紙芝居の中の世界のように感じてしまいます。たぶん、殺人現場に生々しさが感じられず、絵の中の世界のように思えてしまうからなのかなと思います。

それと、この探偵は「私の探偵」とあります。もしこれが「探偵である私」であったらもっとリアリティーを持つだろうと思うのです。でも「私の探偵」と言った途端に、「私が想像で作りあげた探偵」ということになり、そのまま絵の中に入ってしまうわけです・

これが紙芝居の中の世界に思えてしまうというのは、もちろん悪いことではないのです。むしろ、この世界を絵の中に見ている自分のことをも、読んでしまう。つまり、殺人事件という詩を読むと、その詩を読んでいる自分をも、その時代をも、同時に読めてしまうのです。

「私の探偵」とは言っていますが、むろんこの探偵は作者を反映しており、ある意味で、読み手のすべてを示してもいます。

想像上の世界であるがゆえに、読んでいる多くの読者は、自ら「玻璃の衣装をきて、/こひびとの窓からしのびこ」んでしまうわけです。

ここで、あれ、と思います。殺されたのは曲者の恋人ではなく、探偵の恋人だったようです。いえ、そうではなく、殺された恋人は、曲者の恋人でもあったのかもしれません。そうであるならば、この探偵と曲者は、もしかしたら同じ一人の人の裏表であったとは考えられないでしょうか。

さらにこの恋人は「詩」のことではないのだろうかなどと、勝手な考えも浮かんできます。

殺人事件などというものが、叙情に組み込まれることの驚き。曲者(くせもの)という言葉の新鮮さ。曲者が舗道を滑って行く先を思う。殺人でさえ、うっとりと読まされてしまう。叙情が扱えるものの範囲とは何かを、とことん考えさせられる詩になっている。

掌上の種

われは手のうへに土(つち)を盛り、
土(つち)のうへに種をまく、
いま白きぢようろもて土に水をそそぎしに、
水はせんせんとふりそそぎ、
土(つち)のつめたさはたなごころの上にぞしむ。
ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
われは手を日光のほとりにさしのべしが、
さわやかなる風景の中にしあれば、
皮膚はかぐはしくぬくもりきたり、
手のうへの種はいとほしげにも呼吸(いき)づけり。

「掌上の種」について

(今あることを書くということと、今はそうではないから夢見る状態を書くというのは、同じことなのかもしれない)

これは実に焦点のはっきりとした詩です。目の前に見えることをそのまま書いています。紛れがありません。読んでいてほっとします。書かれていることは、土に種を蒔く、という普通の事ですが、その土は掌の上にある、ということで、これも行為としてはありうるのですが、普通とは考えられません。

というのも、ちょっと手の上に土を載せて、そこに種を置いた、という戯れのようには見えないのです。自分が大地の代わりになる、という覚悟のようなものを感じるのです。つまり、自分が大地になり、そこに樹が生えてくれば、そのまま樹の中に溶け込んでしまうのではないかと、そんな感じに読み取れます。

「五月の窓」「日光のほとり」とあるように、どこまでも明るみに満ちた詩です。「手のうへの種はいとほしげにも呼吸(いき)づけり」と最後に、顔を近づけるようにしていとおしんでいる生命の呼吸は、自分の吐きだしている呼吸のことでもあるのでしょう。

「ああ、とほく五月の窓をおしひらきて」の「とほく」に空間の広がりを感じます。遠くにある窓まで、腕ははてしもなく伸びて行く、その伸び方は、種が空を目指す動きに重ねられています

こうありたい、この命のように、明るみの中で伸びやかに生きていたいということを、単に書きたかったのでしょうか。あるいは、そのようなあこがれから遠い日々ゆえに、逆に顔を上げてこのような情景を夢見たのでしょうか。

どちらなのかはわかりませんが、生きてゆくことって、その中間の目盛りを、日々揺れていることのようにも感じます。揺れながら恍惚と樹になってゆくことを感じ取ることが、詩の中で見事に成し遂げられています。

肉体を書くことの切実さ。手の上に種を蒔くという突飛な発想。その突飛さが、詩の中では見事な映像になり、突飛な動作であることを忘れさせてくれる。


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