「ういういしさの力」

「ういういしさの力」

佐野さん、おめでとうございます。

佐野さんに初めて会ったのは、六年半前、ぼくが横浜で詩の教室を始めた時でした。

教室に、初めから来てくれた人は佐野さん以外にも何人かいたんですけど、その中でも佐野さんはとても印象的でした。なんというか、詩に向かう姿の「ういういしさ」をとても感じました。

もちろん他の人も初々しくないことはないんですけど、横浜の教室って、参加者は詩の初心者だけではなくて、廿楽順治さんや、坂多瑩子さんや、和田まさ子さんや、長嶋南子さんや、宮尾節子さんや、柴田千晶さんもいたんです。

こういった人のいる前に、まだ詩を書き始めたばかりの佐野さんは、詩を見せて、つまりは松下の感想だけではなく、いろんな人の感想にまみれてしまうわけです。

たぶんあの時間の中で、佐野さんと、佐野さんの詩は鍛えられていったというか、育ってきたというか、少なくともいろいろ考えてきたのだと思うのです。

そんなわけで、教室が終わって、帰りのビルのエレベーターの中で、かなり自信をなくして弱気だった佐野さんを、よく思い出します。

それでも佐野さんのすごいところは、決してめげないことなんです。翌月もきちんと詩を出してきて、また長嶋さんや廿楽さんやぼくの感想を聞いてゆくわけです。

なんというか、初心者であって、でも詩を書くという行為にカッコつけていないんです。覚悟ができているんです。吸収できることはがむしゃらに吸収していこうという姿勢なんです。外側は穏やかなんですけど、芯はとても強いんです。

そういった時期が何年かあったと思います。その間にも、佐野さんはちょくちょくいろんなところで賞をとったり、投稿で入選したりしていたんですけど、つまり詩が成熟していったんですけど、相変わらず、「初々しさ」は変らないんです。

詩はだんだん熟練してきているのに、でも、詩を書くという行為には決して慣れようとしない、生きていることにも、どんなことにも慣れてしまわない、という感じがするのです。自分はいつまでも初心者のつもりで、なにか自分の先を明るくしてくれるものがあれば、それをひたすら探そうとしている、そんな感じだったんです。

古本屋めぐりして、自分が好きな詩集、自分を導いてくれる詩集を、夢中になって探して、読んでいました。その姿も、「詩」という真新しい世界に、初めて触れたような感激をもって、常に接しているように見えました。

その「初々しさ」は「柔軟さ」にも通じているのではないかと思うのです。

自分が書きたいのはこういった詩だと、頑固に決めつけることなく、自分を感動させてくれるものに喜んで傾いてゆく。そうやって好きなものへ傾くことを幾度も繰り返しているうちに、いつのまにか、佐野さんの個性ができ上がっていったのです。

それからその「柔軟さ」は「人の詩を尊重する心」にも関係していると思うのです。ぼくはこれまで佐野さんと、何度も詩の話をする機会を持ちましたが、佐野さんは人の詩について語る時、いつもその詩の素晴らしさを語っていました。誰かの詩を否定的に言っているのを聞いたことがありません。

やっぱり、せっかく好きで詩を書いているのですから、人の詩の欠点に目が行くよりも、その詩のよいところが見えるようになっていたいと思うんです。好きな詩がたくさんあって、そういう詩に感動していた方が、やっぱり幸せだと思うんです。佐野さんは無理せずにそういう人になっているんです。

で、この詩集のことを少し話そうと思いますが、この『夢にも思わなかった』という詩集は、世界で一番、読んで疲れない詩集ではないかと、ぼくは思います。

たいていの詩集は、読むぞ、と気合いを入れてからでないと読めませんが、あるいは、読むぞ、と気合いを入れても読めない詩集ってたくさんありますが、この詩集はそうではありません。ちょっと読み始めれば、いともたやすく読みはじめることのできる詩集です。

一行はとても短くて、すぐに次の行に受け渡されます。身軽です。その軽さは、言葉でありながら綿毛のようでもあります。けれど、時たまにその綿毛は少し重くなります。でも心地のよい重さです。適度な重さです。よく見れば、愛する人の重さのようです。

この詩集は、世界で一番、読んで疲れない詩集だと、さきほど言いましたが、詩の中の人は、たまに疲れ切っています。詩の中の人は佐野さん自身です。疲れ切っているから心が湿ってきて、詩なんか書きたくなるのです。でもその疲れは、詩の中の愛する人にいたわられて、たいてい最後は快復します。

この詩集は、空想と現実が適度に交じり合った風通しのよい詩集です。あるいは、しっかりした通路のある詩集です。空想だけで書かれていません。現実だけで書かれていません。現実がちょっと油断をしていた隙に想像の世界に紛れてしまう、とてもよい気分の詩集です。現実の、家や、お父さんや、奥さんや、古本屋や、駅や、それらすべてがそのまま、詩の中にもちょこんとあります。

この詩集は、愛するものを愛すると素直に言っている、あたりまえのことが書かれた、それゆえめったにない詩集です。

せっかくなので、詩の中から好きなところを読んでみます。

「ただなか」という詩の最後のところです。

一日三度
飯を食い
歯を磨く

そうだったよね と
思うんだよ
一日にたった三度でいい
きみといるただなかのこと
ちゃんと思っていたい

毛布のような
マントだということが
わかってくるから

ほら
こうばしい
ただなかの香りが
こちらへ伝ってきた

詩を書くことはひとつの行為です。その行為は生きているあらゆる行為のひとつにしかすぎません。詩を書くことはとても大事な行為ですが、そのほかにも大事な行為はたくさんあります。

だれでも、ぼくも、長い人生、つらい時には、詩に過度に頼りたくなることもあります。でも、詩を書くことで大切な人に迷惑がかかっていないかを常に見極めることも大事です。

佐野さんはとうにそんなことは分かっているのだろうなと、ぼくは見ていて思うんです。詩と、大切な人の気持ちの、両方のバランスをとって、佐野さんには佐野さんの詩を育てていってほしいと思います。

いつまでも、詩を書くことの初々しさと、生きていることの初々しさを、忘れないで、そのままの佐野さんでいて、そしてよい詩を書き続けてください。

おめでとうございます。

(2023 年10月9日 「横浜詩人会賞」での挨拶)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?