「現代詩の入り口」4 - さびしくてしかたがなかったら、谷川俊太郎の詩を読んでみよう


これから書くものは、谷川俊太郎さんの詩集『六十二のソネット』を読みながら、夜の台所で僕が君に、詩について話したものです。本当は『六十二のソネット』全文を引用して、ここに載せられればよかったのだけど、勝手にそんなことはできないから、それぞれの最初の連だけを、転載させてもらいました。

もしできたら、詩集『六十二のソネット』をそばに置いて、一章ずつ眺めながら、これを読んでくれるとうれしい。

それからこれは、どうでもいいことなんだけど、この文章の中のいくつかは、「初心者のための詩の書き方」にも、現れてくる。だからこれは、「もうひとつの、初心者のための詩の書き方」と呼んで、かまわない。

*1 木陰      谷川俊太郎

とまれ喜びが今日に住む
若い陽の心のままに
食卓や銃や
神さえも知らぬ間に

(後略)



谷川俊太郎がいなかったら、日本の詩の世界はすごく貧弱なものになっていただろうと、思うんだ。もともとがかわいそうな日本の詩の世界ではあるけれど、谷川俊太郎がいるから、少しだけ顔を上げられる。そんな気がする。

いろんな人の詩を読んでいて、この人は上手だなって思うことは時々ある。でもね、朝起きて、今日はこの人の詩が読みたいって思うことは、めったにない。その「めったに」でも、たまにあるそんな時に、読もうとするのはいつも谷川俊太郎なんだ。ほかの詩人にはないものを持っている。それは確実なんだ。でもそれが、その谷川俊太郎だけが持っているものが何なのかが、僕には見えない。

詩はいつもありふれた言葉で書かれている。それなのに出来上がった詩は、どれも驚くほどに新品なんだ。

今日の詩を見てごらん。「陰」と「陽」と「今日」と「私」で、君にこんなに見事な詩が書けるかい?ありふれた言葉できれいな詩を書くのはとても難しいんだ。ありふれていない言葉で奇妙な世界を書くことよりもずっと。

「とまれ」なんて言葉をはじめに書かれると、その前にすでに起こったことを、誰だって想像してしまうよね。うまいね。こういうふうに詩は始めるべきなんだ。

最初の一行が、この詩の歌いたいことをすべて言ってしまっている。

「とまれ喜びが今日に住む」

こんなに当たり前のことを詩にしようとするなんて、尋常じゃないよね。すごいよね。やっぱり谷川俊太郎って、すごいよね。

確かに、かっこつけた、詩人っぽい表現もある。「人の心を帰らせる」「今日を抱くつつましさ」「限りなく憶えているもの」。こういうのは、普通の会話ではきざっぽくて使えないよね。でも、こうして「詩」を書いていますっていう世界では、許されるし、書くほうも読むほうも、とても気持ちよくなれるんだ。

それにしても、「私の忘れ/私の限りなく憶えているもの」って、どう考えても矛盾しているよね。でも、忘れることも、憶えていることも、こうして置かれると、行為として限りなく美しいんだ。

なにしろこの詩では、喜びが今日に隙間なく住んでいて、ほかのものはなにも割り込めないのだから。

でも生きるって、そんなことなのかな?って、この詩を読んで思う人もいると思うんだ。

そんなに喜びばかりじゃないって、思う人もいると思うんだ。

それでもこの詩を読む意味はある。絶対にある。

だって、そんなふうに感じている人が読めばこの詩は、今度はとてつもなく深く、生き物の悲しみを歌っているようにも読めるのだから。

僕は詩をひとりで読む。人の行為として谷川俊太郎を読む。

当たり前かもしれないけど、僕は谷川俊太郎を、誰にも邪魔されずに、ほんとの一人っきりで、読む。

*2 憧れ     谷川俊太郎

初夏の陽の幸福な宿命の陰で
私の希みはうとんぜられ
私の憧れだけが駆け廻った
はかなしとふり返る暇もなく

(後略)



たぶん、どんな詩もめぐりめぐって辿って行けば、「死」のことを書いているんだと思う。もちろん谷川俊太郎もそうなんだ。ただ、今日の詩は、めぐり巡ってなどという、面倒なことはしていない。直接にそのことを歌っている。だけど、その歌い方がきれいだから、一見、そうでないように見えるかもしれない。でも、よーく目をこらしてごらん。

第一行目はずいぶんたくさん説明のついた「陰」だね。「初夏の」「陽の」「幸福な」「宿命の」って。

でも、この一行は大切なんだ。この詩が言いたいことを全て言っている。

「初夏の陽の幸福な」までは明るい生の喜びを歌っているけど、「宿命の陰で」で、急に日陰に足を踏み入れたように様相が変わってくる。もちろん言いたいのは、日陰のほうなんだ。

次の2行はすこし謎だね。「希み」と「憧れ」にそれほどの違いがないようなのに、片方は疎んぜられ、片方は駆け回るのだから。たぶんここで谷川さんは、読者を立ち止まらせて、「希み」と「憧れ」の違いを考えさせているんだ。

僕には、「憧れ」のほうが「希み」よりも遠くに見えるように感じるけど、そうでもないのかな?個人的には、上を向いた「憧れ」よりも、うつむき加減のひそかな「希み」の方が、好きだな。

2連目2行目の「たたずまい」は、誰のたたずまいなのだろうって考える。たぶん、生そのもののありかただと思う。昨日の詩にも出てきた生の喜びの、その表れかたをいっているのだと思う。なんでそう思うかって言うとね、それに続く2行が、自然そのもの、自然に満ちた空間そのものを表現しているからなんだ。

3連目で急に深刻になるね。「私の小さな墓」って言っている。そうか、やっぱり「死」がテーマだったんだって、ここでわかる。結構まっすぐに言っているよね。それにしても、「いつまでも誰が明日を憶えていよう」はかっこいいフレーズだけど、この「明日」にはいろんな解釈が出来るよね。それを考えて楽しんでもいい。単に谷川さんが、「過去」を「明日」にひっくり返しただけかもしれないけど。その返す手つきも、きれいだね。

最終連、「神をも」の「をも」も意味深だけど、それよりも「神をも」といっているのだから、「神」をないがしろにしていないことだけは、たしかだね。「生きないで一体何が始まるのだ」という言い方も、言葉をすなおに使っていないから、むずかしい。むずかしいけど、こういったほうが、詩としての品位がたかまっているのは、間違いがない。

生を謳歌して、でも「死」は確実にやってくる、といったらまとめすぎなのかもしれないけど、ほとんどの文芸作品が言いたいのは、そんなところなのかな。

この詩も、うたいあげ方がいかにも詩らしくて、素敵に出来上がっていると思う。

希みや憧れは、僕という生に折り込まれた死の断片なんじゃないかって、自分の薄い胸を触っていると、感じるね。

たしかに、そうなのかもしれない。

*3 帰郷     谷川俊太郎

ここが異郷だつたのだ
わびしい地球の内玄関で
私は奥の暗さにひきこまれた
いろいろな室の深く隠微なたたずまいに

(後略)



詩を書いているものはだれだって、こんな詩が書きたい、こんな詩集を持ちたいというイメージがある。それは容易に叶う望みではないけれど、みんなたくさん努力して、そのうちに、それなりに願っていた詩を書くことができるようになる。

だた、普通の詩人は、そんな願いは一生にひとつしか叶わない。書きたいことが書けるのは一度だけ、出したい詩集が出せるのは、たった一度だけなんだ。あとはいくらがんばっても、納得のいかない詩ばかりが出来上がり、あげくに自分の書くものに飽きて、嫌気がさして、やめてしまう。

でも、谷川さんだけは別なんだ。ある日、谷川さんの頭の中に、こんな詩集を作りたいというイメージがわいたら、すぐにその通りの詩集が出来てしまうようなんだ。

どうしてそうなのかはわからない。まるで詩を作る機械みたいだ。たとえばある時期に、谷川さんは「定義」という詩集と、「夜中に台所でぼくは君に話しかけたかった」というまったく姿の違う詩集を、同時に出版したことがあった。

読むほうはね、「定義」を読みながらそのすばらしさに感動しつつ、さらにもう一冊のことを考えてさらに感動を深くする。そういう読者の仕組みをわかっていて谷川さんは、2冊の詩集を同時期に出したんだ。そんなことができるなんて、ほんとにすごいよね。

事ほどさよう、谷川さんを見ていると、がむしゃらに表現したいものを書いているという感じがしない。綿密な戦略のもとに、効率よく作品を仕上げているという感じがいつもする。そんなことは他の誰にも出来ないし、ほんとにすごいことだと思う。

ただね、時々思うんだ。まさにそのすごいところが、谷川さんの悩みなんじゃないかってね。そここそが、谷川さんの弱みなんじゃないかってね。

さて、今日のソネットだけど、わかりやすい詩だね。暗示しているものは、昨日に続いて「死」。今日の詩はすべて「死」を歌っている。

この世にいることを「異郷に」いると考え、死んで後を「帰郷」と言っている。このひっくり返しで、詩ははじまっている。ちょっとした発想だけど、いやみがないよね。

「私は便りを書き続ける」の「便り」とは、詩を含めた谷川さんの、生きて表現する全てを言っているんだと思う。

「私の限りの滞在」とは、いうまでもなく「限りのある命」のこと。

最終連、「私の予期せぬ帰郷」とは、だからまさしく自分の死のことを言っているんだね。

谷川さんとしては驚くほどに、単純な構造の詩だと思う。それだけメッセージをそのままに伝えたいという気持ちが、谷川さんの中に強かったのかな。

そんな作者の心情を読み取るのも、詩を読むってことの、ひとつの喜びでもあるんだよ。

*4 今日     谷川俊太郎

ふたたび日曜日が そうして
ふたたび月曜日が
ふたたび曇り ふたたび晴れ
してその先に何がある?

(後略)



気の合う「言葉」というものがあると思うんだ。もともと自分のものであるような「言葉」が。その言葉を紙の上に置くと、いくらでも詩ができてしまう。そういう僕のために生まれてきた言葉というものが。

そんな言葉はもちろんたくさんはなくて、結局、同じ言葉ばかり詩の中で使うことになる。

谷川さんは特別な人だけど、それでも図式は僕たちと同じだと思うんだ。

今日のソネットの題は、「今日」。たぶんこの言葉も、谷川さんに特別に愛された言葉なんだ。

もう今日で「六十二のソネット」も4つ目だから、どの詩にも同じものが底に流れているのはわかるよね。

そう、「生」と「死」だね。それも凝(こ)った暗喩ではなく、すなおに表現しているのがわかるよね。

今日の詩ももちろん同じ。「今日」という言葉を見つめながら、正面から死を見つめている。それはとても静かで、落ち着いた行為としてなされているね。

大声で怒ったり、泣き叫んだりはしていない。

とくに今日の詩を見る限りは、どちらかというとうつむいて、絶望の手前でたたずんでいるように読めるけど、どうだろう。

なんでそう思うかというとね、「その先など知りはしない」の「など」や「あるのはただ今日ばかり」の「ただ」のところの言い方なんだ。少し投げやりに、神様に対して拗ねているようなところが読めるだろ。

第一連の、「してその先に何がある?」も同じだね。「なんにもないじゃないか」って口をとがらせているんだ。

最終連はいつもと同じように、「死はいつか来るけど、今日を愛して生きるんだ」っていうことで終わっている。

間違いなく、滅びることのないメッセージだね。

*5 偶感        谷川俊太郎

生きることかくの如きか
朝陽の道を人人は急ぎ
小児ら雀に似て笑い過ぎ
思う者の妄想巷に風のようである

(後略)



今日の詩も、いままでのソネットと、書いてあることはそれほどに違いがないね。現実の風景や事象を描きながら、その裏にはりついている「死」を透かして見ているんだ。

それよりもこの詩を読んでいて感じるのは、表現の古めかしさだね。文語っていうんだ。「かくの」とか「隠微なる」とか「あふれたり」とかね。話し言葉からずっと離れた場所で使われている特別な日本語だよ。声に出したくなる、素敵な言葉たちだよね。

たとえば「思い出」は「思ひ出」って書くんだ。確かに、詩に似合っているよね。「い」ではこぼれてしまうけど、「ひ」のかたちの中には、思いがいっぱいためられそうだね。

だれでも経験したことがあると思うんだけど、詩を書いていて一番困ることって、いくら頭を働かせても、当たり前の発想で当たり前の表現しかできないときだよね。締め切りの前の日に、ありふれた発想の詩しか書けないときの、情けなさったらないよね。明日はどうしても作品を郵送しなければならないのに、「詩」の言葉までどうしてものぼりつめることのできないことって、あるんだ。泣きたくなるよね、そんな時って。

せめて文語を使いこなせたら、少なくとも一度は日々の言葉から離れられて、少しは創作の足しになるだろうと、思うんだけど。

もちろん谷川さんにはそんな悩みはなくって、文語だろうと口語だろうと自由に詩にできてしまう。たぶん谷川さんの中には、いつもふたつの言語体系があって、自由に行き来ができるんだと思う。ふたつっていうのは、いうまでもなくひとつが「ふつうの日本語」、もうひとつが「ふつうの日本語のふつうでなさ」だね。

それからこの詩を読んでいてもうひとつ思うのは、各連の最終行がどれも、解釈がちょっと難しいことなんだ。詩、全体としてはわかりやすいのだけど、各連の最終行だけは、一筋縄ではいかない。

たぶん、そんなつっかかりでも作っておかないと、詩があまりにもわかりやすくなってしまうと、谷川さんは思ったのかもしれない。

普通の詩人がそんなことを思っていくつか意識的に解釈の困難な行をいれても、ただ作品が安っぽくなるだけだけどね。

谷川さんだからね、解釈のし甲斐はあるよ。いちいち説明はしないから、4つの最終連を、じっくり解いてみればいいと思う。

「思う者の妄想巷に風のようである」「永遠よりなお永遠に」「むなしい論にさえ人は日夜眼を輝かせる」「神を忘れん程に満ちあふれたり」

もしかしたら谷川さん、これらの行をまず書いてしまってから、自分でも解釈を楽しんでいたのかもしれない。

* 6 朝1     谷川俊太郎

朝は曇りたり
雲厚く過ぎたる夜を隠せり
かくして今日も始まりぬと
幼ない希みは呟くのだが――

(後略)



今日は詩の源について考えてみようか。言い換えれば、詩が出来上がってゆくその手順の問題だ。もちろん人によって違う、場合によってもね。ただ通常のケースというのはもちろんある。

詩はたいてい、書きたいことがあるから書けるんじゃない。

ではどうして書けるかというとね、とっかかりになる単語がたずねてくるんだ。ある日突然にね、単語が一人でやってくる。そこから一篇の詩が出来上がるんだ。

ひとつの単語を見つめていると、少しずつそこから時間と空間が広がってゆく。そのひろがってゆく途中でさまざまな「言い方」や「内容」が取り込まれてゆく。

だから、詩が出来上がってからやっと、「ああ僕はこんなことが書きたかったのか」って思うんだ。

そしてたまに、その書きあがった内容は、僕のいつも考えていることをはるかに超えた深さを持っている。そういうものだけが、書くに値するものだと言っていい。

さて、今日のソネットだ。テーマはこれまで見て来たものと変わらない。どんなに一生懸命に生きても、命には限りがあるのだと、恨みがましくこの世のあり方を問うているね。

こうして六十二のソネットを毎日読んでいると、かならず一編にひとつ、何度も使われる言葉があることに気付くだろ。

今日の詩で言うなら、「あふれる」だ。

2連目の「私が日日を殺してゆく/ただ心のみをあふれさせて」っていう2行は、大切だよ。

「日日を殺す」っていうのは、一日一日自分の生の期限に向かっているということかな。
「心をあふれさす」っていうのは、そのことを知っているのに何も出来ない命のむなしさを言っているんだと思う。

谷川さんの若い頃の作品なのに、なぜこんなに暗い曇り空のような心情ばかり書くのだろう。

というか、若い頃だからこそ、命がいつか失われるという考えに、耐えられないのかな。

「朝」っていうさわやかな題のわりには全体が暗鬱としているね。そこが谷川さん一流の、「ひねり」でもあるのかな。

* 7 朝2     谷川俊太郎

歌っていた 朝の食事を
画いていた 心の飲みものを
何と何とが結ばれているか
大きな調和の予感の中に

(後略)



たとえば学校で友達と話をするときなんか、自分をよりよく見せたいっていう気持ちが働くだろ。それは当然だと思うし、そうでなければ困るよね。

でもね、詩を書くときには、そうであってはいけないと僕は思うんだ。自分が持っている以上のもので詩を書こうとしてもね、ギクシャクしたものしか出来ない。間違いなく失敗する。

大切なのはね、詩を書くときには「自分を飾らないこと」、自分が何も知らないということを知って、その状態のままで創作に向かうこと。

どういったらいいのだろう。つまり、背伸びしてもきちんとした作品は出来ないんだ。貧弱であっても自分の内面を信じることが肝心。その貧弱な内面を深く見つめることこそが、物を書く意味になる。

今日の谷川さんのソネットを読んでいて驚いたのは、一連目の「画いていた 心の飲みものを」のところなんだ。「心の飲みもの」って、なんて無防備な言葉だろうって思う。

平然と「心」とか「飲みもの」なんていう言葉をこうして詩に使うなんて、すごく大胆だと思う。

この態度こそがね、自分の背の高さで物を言う人の強さなんだよ。

詩を読む人はね、偉そうに知識をひけらかしたものを読みたいと思っているわけではないんだ。自分と同じような場所で、つまらないことにうじうじしている人の「正直な言葉」に出会いたいんだと、思う。

一連目の、「何と何とが結ばれているか」っていうのは、この詩にとっては象徴的な言葉だね。なんでかって言うと、この詩は、わかりやすそうでいて、細かくみるとすっきり理解が届かないところがあるんだ。つまり、「何と何が結ばれているか」がはっきりしない。

一連目、二連目で朝目覚めたあとの「生」を歌って、三連目で一転して「死」を持ってきている。つまり起承転結の「転」にきちんとなっているね。

ただ、三連目はどうもよくわからない。

「死は地から来る」の「地」には、なにか特別な意味を含ませているのろうか。
「未来から」っているのは、「いつか死ぬ時期が来る」ということのほかに、もっと別の意味があるんだろうか。
「今日死に」の「今日」と前の行の「未来」とはどう結ばれているんだろうか。
「人は無智に残される」っていうのは、人が生死についての理解をもたないまま生かされていることのほかに、なにか別の意味があるんだろうか。

うん。今日の僕は、読者失格だね。

* 8 笑い     谷川俊太郎

不幸を忘れる程に
不幸ではなかつた
幸福を忘れる程に
幸福ではなかつた

(後略)



君の詩が新しいと言われたら、それは褒め言葉じゃない。気をつけたほうがいい。むしろ、君の詩がかつてどこかで読んだことがあるような気がする、といわれたらそれは褒め言葉だ。

ひねくれたものの言い方かもしれないけど、それは本当なんだ。

真に新しいものは、いつかどこかで経験したことがあるという感じがするものなんだ。

だからね、君の詩が新しいと言われたら、それはかつて書かれたことのある詩のうちの、ひとつでしかないんだ。

詩の世界ではね、「新しい」というのは、単に「風変わり」という意味でしかない。そして「風変わり」な詩というのは、いつの時代にもあったし、決して新しいことではないんだ。

もう一度言うよ。

君の詩が新しいと言われたら、君の詩はありふれているということなんだ。

谷川さんの詩は、どれも僕に、かつて読んだ記憶をよみがえらせる。それが初めてのものでも、ね。

今日のソネットは第一連で、急に立ち止まってしまうね。そういうつもりで、谷川さんは書いている。詩の言葉そのままに受け取るとしたら、「不幸を忘れる程に/不幸ではなかつた」ということは、「不幸を忘れることは、不幸である」って言うことになるけど、それじゃ面白くもなんともないね。

つまり、意味はどうでもよくって、こうしてひねった言い方をすることの中に、意味があるんだね。すなおに言いたいことを言うよりも、ひねった言い方をすることによって読者を立ち止まらせ、読者に自分の詩を作らせているんだ。

ひとつひとつ説明をするのは面倒だから、この詩を、意味だけから考えてちょっと書き直してみようか。どうなるかな。

*8 笑い (意味からの翻訳を試みました)    

不幸ではない
幸福でさえもない
わたしを
この世はどうしようとしているのだろう

時はたしかにあり
空もじゅうぶんにある
けれどわたしには語るべきなにものもない
わたしはわたしの生きる意味を知らないのだから

それでもわたしは
ともかくも今
ここにいる

いくら聞いてもだれもわたしに教えてくれない
そのまま ただ生きていろという 
うつむいて 笑うしかないだろ

こんなところかな。すこしはこの詩の言いたいことがわかったかな。わかったらもう一度谷川さんの詩に戻って、読んでごらん。詩とは意味だけを伝えるものではないということを、自分で感じてごらん。

* 9 困却     谷川俊太郎

人がうじやうじやいる
というのが社会である
びしよたれた奴が一匹いる
というのが孤独であるように

(後略)



詩を書くことに限らないけどね。冷静であることは、常に必要だよ。そうでなければ、自分の書いたものの価値を見誤るんだ。

興奮のうちに書き上げた詩はね、どうしてもすばらしいものだと自分で思いたがる。だれがなんと言おうと傑作なんだって、自分の作品を擁護したくなる。

でも、そういう詩はたいていだめだね。なんの価値もないんだ。

書くときに夢中になるのはかまわない。むしろその勢いには意味があると思う。でも、その「夢中」は、しっかりとした創作の根っこを掴んでいる必要があるんだ。言い換えれば、「独りよがり」でないという確証が必要なんだ。確実な技術と、深い思考に裏付けられていなければならない。

これを説明するのはとても難しい。

結局、個々の作品にあたって決めるしかない。

でもね、書き上げたときに、こんなにすごいものはないだろうと思ったら、まず興奮状態の中の勘違いだと思って間違いがないね。

もしその作品が、半年前に書いたもので、久々に読んですごいと思ったら?

それでも疑ってかかる必要が、あるんだよ。

そう考えてみると、谷川さんの詩はいつも冷静で目配りが利いているのがわかるね。決して無駄に興奮していない。

それでも、わざと感情を表に出してみせたような詩はあるんだ。

今日のソネットも、その類かな。

困却、っていうから困り果てているんだろうけど、この詩を読む限りは、困っているというより、不満があるっていう感じだね。

拗ねている、そんなふうに見えるよ。「うじゃうじゃ」とか「びしょたれた」とか、わざと使い慣れない言葉を使って、悪ぶっているようにも見える。

二連目、「神が僕を雇つている」というのは、精神が自由ではないという意味。生まれつき、僕らの思考は囚われているという意味なんだ。

「政治家も僕を雇おうとする」は、精神だけではなくて、実生活を営む肉体でさえ自由ではないということ。

三連目は、ほかにもたくさん僕らを縛り付けるものがあるということを言っている。

いわく、恋愛(少女)や健康(風邪ひき)や生存の悲しみ(哲学)や、あらゆるところで僕らはがんじがらめだって言っている。

四連目を昨日のように、意味を中心に置いて訳してみようか。

せめて 僕は僕の言葉で話をしていたい
だれにもわかってもらわなくてもいい
それでも結局は さびしくなるのだけれど

こんなところかな。他のソネットよりも、たしかに感情を前面に出している感じがするね。でも内容はいつもの範囲からは足を踏み出してはいない。

つまり、ほんとうに困っているわけではないんだ。

困っているという状態を、気の利いた言葉で書きたかったっていう、そういうことなのかな。

* 10 知られぬ者     谷川俊太郎

自動車が云った
鉛筆が云った
化学が云った
お前さんが私をつくつたのだ人間よと

(後略)



一連目と二連目は、すごくわかりやすい。ただ、2連目のはじめのところ、「狸」が出てきたのには、ちょっと驚いたね。「狸」は、人間以外のすべての生き物を表しているんだと思うんだけど、なんで「狸」なんだろうね。

ともかくも、すごく無防備な書き出しだね。はじめの8行なんか、なんだか普通の中学生でも書けそうだね。

三連目で急に解釈に迷うようになる。
「さびしいことを忘れた人」っていうのは、「本当は自分が無智であるのに、そのことを忘れて自分の能力にはしゃいでいる人」とでもいうのかな。

「順々に死んでゆけ」というのは、「死んでしまえ」という激しい意味ではなくて、無智なまま死んでゆけばいいのさ、くらいの、あきらめの感情を表している。

今回も、はじめから解釈しなおして、意味だけ取り出して書き直してみようか。どんなふうになるかな。

知られぬ者   

なんでもできると思っているね
この世に不可能なんてないと
でも 操られてるだけじゃないか
好きにされている

そんなことも考えないで
幸せなまま死ぬなら死ねばいいさ
神様のそばを
通り過ぎるだけで

でも
その姿をみんなが哀れんでいるんだって
気付いているかい?

そんなふうに風は 
君をあざけって吹きすぎるんだ
神様だって

ということになるでしょうか。初めのところが、いかにも人間を単純に糾弾しているように見えるので、六十二のソネットの中にある詩でなければ、浅く読まれてしまうかもしれない。

でも、それは問題にすることじゃない。この詩は六十二のソネットの中で読まれる詩であり、そのために谷川さんに、大切に作り上げられたものなんだ。

連作詩を読むときには、その詩だけの姿も重要だけれど、前後の詩とつながった、そのつながり方も、同じように意味があるってことかな。

六十二のソネットをこうして読んでいると、人間が無智で何もできない孤独な存在のように書かれている。

たしかにそうなのかもしれないけど、そんなことを堂々と書けるっていうことは、谷川さんの何を意味しているんだろう。

それを考えてみるのも、面白いかもしれないね。

* 11 沈黙     谷川俊太郎

沈黙が名づけ
しかし心がすべてを迎えてなおも満たぬ時
私は知られぬことを畏れ――
ふとおびえた

(後略)



この詩は書き出しから力が入っているね。「沈黙が名づけ」と、いきなり何のことだろうと思わせる。考えさせるよね。

まあ、どんな意味であるにしろ、黙り込んだものから名づけられるなんて、面白い発想だね。

僕はこの「沈黙」は、「肝心なことを僕らに語ってくれない神様」のことかなと思う。当然「名づけ」られるのは、この世に生かされている僕たちのことだね。

「心がすべてを迎えて」は、それでもこの生を受け入れようと決心したのに、という意味。

「なおも満たぬ時」は、でもやっぱりしっくりいかないんだ、ということかな。

「私は知られぬことを畏れ」っていうのは、そんな状態で一生を終えてしまうのはあまりに情けないよ、といつものように少し怒っている。

一連目を訳せば、つまり、

なんにも教えてくれないのに この世に放り出されたんだ
それでも生き生きとしていようと 一時は思っていたけど
やっぱりそれじゃあ あんまりだよ
それはないよ

とでもなるのでしょうか。

毎日読んでいるほかのソネットと、ほぼ同じ意味だね。

今日はスポーツジムで運動をしてきて疲れているから、全部は解釈しないけど、もうだいたいわかるだろ?

すこしヒントを言っておくなら、2連目「失われた声」は「死」を意味しているね。

4連目の「もはや声なくもはや言葉なく/呟きも歌もしわぶきもなく」はそうした神様の態度のことを言っている。むろん谷川さんはそれを非難している。

全体を一言で要約するなら、「わたしは生れ落ちて、生の悲しみをえんえんとしゃべり続けているのに、神様は私について、なにも言ってくれない」ということになる。

ところで、「沈黙」というのは、詩の題としてあまりにありふれているね。谷川さんだからいいけど、普通の詩人はやめたほうがいいかもしれない。詩の初心者がつけたがる。それと、「無題」とかもね。

「無題」という題は、怖ろしいね。読んだらそのまま足をすべらせて、詩の中へ落ち込んでしまうような気がする。もう二度と詩の底から這い上がれないんだ。

いつまでもこんなことをしている僕の人生そのものじゃないか。

* 12 廃墟     谷川俊太郎

神をもとめる祈りもなく
神を呪う哲学もなく
さながら無のようにかすかに
そこにはただ神自身の歌ばかりがあつた

(後略)



昨日の「沈黙」に続いて、今日の「廃墟」という題も、すごくありふれているね。谷川さんも大胆といえば大胆。自分はみんなとは違うんだというひそかな自信の表明のように感じられるね。若い頃の作品だからかもしれない。

「廃墟」ということばの使い方も、「廃墟は時の骨だ」なんて、そのままの意味だね。ひねりがない。つまり、この詩はそんな姑息な言葉のひねりでごまかそうとしているわけではないんだ。

ストレートに言いたいことをいっている。言いたいことっていうのは、いつものソネットと変わりがない。

神様は僕らを、時と空間の中に放り出しただけじゃないか。

そういっているね。

ソネットを通して、このメッセージにはほとんどぶれがない。

若い頃の谷川さんの頭の中に深く入り込んでいた感覚なんだ。こんなにとっかえひっかえ同じテーマで詩を書くなんて、まあ連作詩だから当然なのだけれど、普通の詩人じゃ持ちきれないよね。

それでもただストレートな描写だけではなくて、詩らしいものの言い方は所々でしている。

特に最終連のはじめのところ、「廃墟はただ佇むことを憧れる」は、素敵な一行だ。

廃墟が擬人化されていて、うつむき加減にたたずんでいる。青い空の下の、壮大な建築物の悲しみを感じることができる。

そこへ「憧れる」という、これ以上ないほど美しい動作を添えているね。

でも、もちろんそれは、中心ではないのだけれど。

* 13 今    谷川俊太郎

輝きは何を照らしてもよい
すべてが私を忘れてくれる
今に棲み
限りなく私が今を愛する時

(後略)



今日のソネットも、全体として言っていることは、いつもと同じだね。でも、陽の部分から書いているから、いつもよりも明るさを感じる。

書き出しの「輝きは何を照らしてもよい/すべてが私を忘れてくれる」はきれいだね。きらきらしている。さすがだと思う。

それでも3連目では、きちんと「死」が出てきている。そうしなければ詩としての深みが、なくなってしまうんだね。

生存の意味がわからないって、こうして谷川さんは毎回嘆いているけれど、そのわりに、「今生きること」の明るさをいやというほど書いている。生きることの明るさに、じっとしていられなくなるようなんだな。

意地悪な見方をすれば、そこまでつきつめなければ、谷川さんは不幸を感じないのかもしれない。

だって、こんなに「今」を肯定するなんて、すごいと思わない?

「限りなく私が今を愛する時」とか「私が今の豊かさを信ずる時」とか、ほんと、手放しでこの世の喜びを書いているよね。

それから、こうして今日で13のソネットを読んできたけど、どう?何か感じたことはない?

僕はね、ここには「なまの生活」がなにも描かれていないと感じたんだ。淡い色できれいに描かれた絵の世界のようだよ。

毎週月水金に燃えるごみを捨てに行くような人は、この詩には出てこないんだ。年がら年中つまらないことにうじうじしている人は、決して出てこないんだ。

それが何を意味しているかも、急がずに考えてゆこうね。

* 14 野にて    谷川俊太郎

私の心が私を去らせた
時を見る高さにまで
私は回想され
神の恣意は覗き見された

(後略)



昨日の最後のところで、このソネットには「なまの生活」がないと書いたよね。

それから、「私」以外の人間が出てきていないということにも、気づくよね。

登場するものはかなり限られている。今日で14個目のソネットだけど、いつも「私」と「神」が中心にいて、あとは「時」だったり「自然」だったり、そういうものしか出てこない。どうだい、そう思うだろ。

詩全体に流れるさわやかさは、こんなところからも来ているんだ。だって、この詩の中でいつか腐ってゆくものは、「私」だけなのだから。

どうしてそうなるかというとね、谷川さんが一個人としてよりも、「人間代表」として物事を考えているからなんだ。時には「生き物代表」にさえなっている。

もちろんそれはかまわないし、ぜひそうしてもらいたいと、僕は思っている。

つまりね、せっかくだから谷川さんには、とことん神と対峙してもらいたいんだ。この詩はそのためにあるのだから。

日常の、生活臭の漂う詩はね、普通の詩人に任せておけばいいのさ。

ところで、今日のソネットは、ちょっとした決意表明をしているね。いつものように、神をうらんでばかりいても仕方がないと思ったんじゃないかな。

「神の恣意は覗き見された」とかね、かなりすごみを利かせている。

でもね、最後の、「天に無」って言っているように、あいかわらず肝心なところは、詩の中の「私」にはわからないままなんだ。

そういう意味で、このソネットは、精一杯の強がり、って言う感じがする。

たぶん谷川さんは、強がりの悲しさを、ちょっと書こうとしたんだろうね。

悲しい行為としてね。

でも、悲しくない行為なんて、この世にあったのかな。

* 15 鋳型      谷川俊太郎

荒々しく雲は投げられ
山は遠く陽に耐えようとしていた
風景は暮れ
私の心の凹凸そのままに影をひいた

(後略)



今日のソネットは、かなりいらいらしているかな。怒っていると思う。

「鋳型」という比喩から物を見ようとしているね。「鋳型」というものが持つ特徴からして、比喩のありかたとしては、かなりわかりやすいと思うんだ。

つまり、対象がそのものではなくて、そのものの型でしかないという考え方だよね。

でも、これは気をつけなきゃね。

だれでもが容易に連想できる比喩を使うということは、その枠の中で小さく作品がまとまってしまうおそれがあるからね。意外性がなくなってしまう。

たとえば僕なんかには、「鋳型」という題で詩を作れといわれても、どうやってもありふれたものしか作れない。

まあ、そこはそこ、谷川さんだから問題はないだろうけどね。むしろその「ありふれた比喩」を逆手にとっているのかもしれない。

一連目は、その日が暮れていくことを描いているね。これはもちろん「私」の一生が終ってしまうこと、つまり命に限りがあることを暗示している。

二連目で、この詩が言いたいことを直接言っている。まさしく「鋳型」という言葉を使ってね。つまり、この生の喜びは、喜びそのものではない、なぜなら私は私の命の意味を知ってるわけではないからだといっているんだ。あくまでも与えられた(神に鋳型で形をつくられた)喜びでしかないということだね。

三連目、「見知らぬ未完の恣意の中で」は、「神の心のままに」っていう意味だよ。

最終連も引き続き同じようなことを言っている。神様が好きに作り上げた私の命というものは、神の意思のままに終えられ、忘れ去られる。こういうことだね。

こうして見てくると、全体にかなり絶望的な内容だよ。

ただね、こうして毎日、ソネットを読んで解説しているけど、この解説には、決定的に欠けたものがあるんだ。

つまりね、詩っていうのは、その意味がわかったからそれで終りって言うものじゃないんだ。

言い換えれば、内容を理解しているから「詩が読めた」ということではない。内容がほとんどわからなくっても、その詩の核心を「感じる」ことはできる。

それが、「詩が読めた」っていうことだ。

今日の詩もね、三連目の「喜びを鋳るのは悲しみではない」の一行にぐっときた人はたくさんいると思う。

前後の意味なんかどうでもね、この一行がかっこいいと思ったら、それでもうこの詩の意味はあるんだ。

たぶんそれが、詩の正しい読み方なんだと、思う。

そういうことも含めて、本当に詩を読むとはどういうことかを、明日からは話せればいいのだけれど。

* 16 朝3      谷川俊太郎

灯は夜中ともつていた
夜明けに手紙が着いた
空は怠けていた
子等はまだ眠つていた

(後略)



昨日の続きの話だけど、詩の読み方って、散文よりもずっとあいまいというか、自由なんだと思う。

谷川さんの詩はこうして、少しずつ作品の意味を解いていくことはできるけど、詩人によってはまったく解説の不可能な人もいる。でも読んでいると、わけがわからないけど言葉の感触が心地よかったり、とてもこういうのは書くのが難しいだろうと感じて、そのことに感動したりというのも、あるんだ。

そういうのをぜんぶひっくるめての「読み」だろ。

つまりね、詩をどんなふうに読むかっていう方法は、あらかじめあるわけじゃない。それは、個々の作品が決めてくれるんだ。

いや、もっと正確に言えば、個々の作品と、読み手の関係によって決まるんだ。

僕がソネットをこうして解説しているのは、僕がそのような読み方をしたいと思ったのと、ソネット自身がそうしてもらいたいという書かれかたをしているからなんだ。

だから、もちろん吉岡実を読んだときには、それ相応の読み方がある。これとは違ったやり方がね。



それと、谷川さんはこのソネットで、「私」の生存の意味を繰り返し問うているよね。その謎が人間には説明されていないって。それを神に訴えているよね。

でもね、もし「私」が生存の意味を理解していたら、もう神は必要ないわけだろ。

だから、謎が解けないっていうことを訴えるのは、神に向かってではありえないわけだよ。

つまりその問いかけは、神はいるのかという疑問とまったく同じ意味になる。

だからね、私の生存の意味を問いかける相手は、わたしの外にはいないっていうことになる。

すると神が必要なんだっていうことになって、これはもうどうどう巡りだよ。



さて、今日のソネットだけど、また「朝」の詩だね。でもね、どちらかというと、朝よりも、朝になる前に焦点があたっているね。

朝は(私の)生命の誕生を意味しているから、つまり朝になる前っていうのは、自分の命がこの世に現れる以前のことだね。

一連目は、自分がこの世にいなくても、すでにこの世界はあったのだと、言っているのかな。夜明けの手紙って、私が生まれてもよいという通知なのかもしれない。自然に対してね。

ところで、この詩にはよくわからない行がいくつかあるね。

たとえば、「私は捨てる」って何を捨てるんだろう。生まれる以前の私を捨てるんだろうか。

たとえば、「私は忘れ始める」って何を忘れるんだろう。生まれる前の(朝が来る前の)ことを忘れるんだろうか。

一、二、三連と、行が短くて、テンポよく言い切っているね。

テンポはよくって、朝を歌っているけれども、そのわりに伸びやかさは感じられない。むしろ精神の迷いに目は向けられているね。

四連目の、「夜になつたら何もかも無くなつてしまうだろう」なんて、あまりにもさびしすぎるよね。そのあとで、「陽が射す」って言われたって。

谷川さん、あいかわらず神を、糾弾しているね。

* 17 始まり      谷川俊太郎

人がいないと私の中に
忘れつぽい夢がいる
時が私を追い越してゆく
私は苦笑する

(後略)



今日のソネットでは、「時」がキーワードなんだと思う。だけど、全体にちょっと曖昧な感じがするね。わざと曖昧にしているんだろうけど。

一連目は、私がいつもの私のようではなくなると言っているのかな。それにしても「忘れっぽい夢」っていうのは、かわいい表現だね。「ある」ではなくて「いる」って書いてるところを見ると、「夢」を擬人化しているのかな。いつもの自分を見失って、夢見心地になっている。「忘れっぽい」っていうことは、過去をきちんと管理できていないことだから、当然「時」に追い越されてしまうよね。なんともだらしのない自分だと苦笑しているんだ。でも、これではこの詩が何を言いたいのか、わからないね。

二連目、「私は逃げる」のは、何から逃げるんだろう。時が私を追い越してゆく、というのと関係があるんだろうか。次の行で「近づきすぎてしまう」と書いてあるから、当たり前すぎる解釈かもしれないけど、「私から、私は逃げる」ということのようだね。

「怖ろしいものの形」っていうのは、命の不可解さを言っているのかな。どうもはっきりとはわからないね。「唯ひとつの心」っていうのも不明だけど、とりあえず、戻ってきた私自身の心と、今は解釈しておこうよ。

三連目で、「時」を小包にして送ってしまうんだ。すごい行為だね。ちょっと話がずれるけど、「私は時を小包にする」っていう発想の仕方は、詩にはよくあるんだ。つまりね、抽象的な概念(「時」みたいなの)を、日常の所作の文章の中に取り込んでしまう。そうするとね、いつもとは違ったものの見方ができてくる。たとえば、「りんごを小包にして送る」という当たり前の文章を書いて、その中の一語(りんご)を、抽象的な言葉(時)に置き換えるんだ。できるだけ視覚としてとらえられる動作を使うと効果はあがるよ。

新しい発想っていうのはいつも、ごく当たり前の発想の、すぐ近くにあるっていうことを忘れちゃいけない。土台から別の世界を広げる必要は何もないんだ。もしそういうことをしても、詩は持ちきれないし、読者はついてきてくれない。

抽象的な言葉なんか使わなくても、同じようなことはできるんだ。たとえば、「空が晴れる」っていう文章の「空」を「人」に置き換えるだけで、ちょっと変わった文章になるだろ。(これは荒川さんがもうやっている)

今日の詩にもどろうか。三連目は何を言おうとしているんだろう。「時」に支配されるのはもうごめんだと言っているのかな。

それにしては、四連目がまたわからないんだ。「捨てることのできぬもの」って、何?「時」でさえ捨てたのに。「自分自身」のこと?あるいは神に掴まれている首根っこのこと?

最後に「新たな始まりだ」って、明るく終っているけど、どうも今日のソネットは終始僕にはよくわからなかったよ。ごめん。

でもね、昨日も言ったように、わからないとこだらけでもこの詩を読んだっていうことにはなるんだ。だって、いくつかの素敵なフレーズに心震えただろ。

さらに詩に、何を望む?

* 18 鏡      谷川俊太郎

心の物音に耳を澄ませていると
私の形がおぼろげになる
私が心を持つている時
それは動かないと弱々しい

(後略)



「鏡」っていうのは、詩になりやすいんだ。だれでも同じような発想をするけど、いつでも「詩」の題材になる特別な言葉だね。

谷川さんはもちろん、そんなつもりで作ったんじゃない。

はじめから見てみようか。

一連目は、「内」について書いている。「私」の内面だね。人は意識を持っているがゆえに、悲しくてつらい生き物なんだって、言っている。

二連目は、1連目に対応するように「外」について書かれている。一連目との対比がわかりやすいね。

「外へはいる」という言葉は面白い。言葉を裏返している。

「外」にすべてがあるって言いたい気持ちはわかる。だって「内面」に悩んだあとなのだから。でも、「外」にも「私」の意識(自我っていうのかな)の居場所はないって言っている。

つらいね。

三連目でやっと「鏡」が出てくる。「内」と「外」のあとに出てくるから、そのさかいめとしての「鏡」なのかな。

「見たものすべてをうつしてしまう」というのは、「内面」が「外」をそのまま受け入れては傷ついてしまう、心のもろさを言っているのかな。

四連目はまとめているけど、ちょっと解釈がむずかしい。さまさまな捕らえ方があると思うけど、間違いなくわかるのは、「鏡」が「外」への道筋であるということ。

それから、最終行の「遠ざかり」っていう表現から、僕には「鏡の外へむかう私」と「鏡の奥へ入り込んでゆく私」の両方が見えるんだ。

その両方の「私」がどんどん双方の奥へ遠ざかってゆく。でもその距離は「永遠」ではなく、しょせん神に見つめられている範囲のうちでしかない。

そう言っているように読める。

でも、こういう読み方って、間違っているのかもしれない。

無理やり僕の解釈へ谷川さんの詩を当てはめているような気が、このごろしてきた。

いつもいつも、自信無げだね。

その自信無げっていうのが、詩を読むっていうことの重要なひとつの要素なんだ。僕にとっては。

* 19 ひろがり      谷川俊太郎

ものたちのひろがりの中を
私は歩き続ける
ふと風が立つ
すると時が身動きする

(後略)



言葉は語られずに、すべてきちんと歌われているね。表現は隅々まできれいに磨かれている。

でも、それは六十二のソネット全体に言えることだから、いまさらなんだけどね。

つまり、毎日ここはこういう意味かな、とか言って解釈しているけど、僕が読んでいるときに考えているのは、そんなことじゃない。この詩の、もっとも心地のいい読み方を探しているんだ。

打ちのめされるような表現は無いけど、ちょっと気の利いた言い方はふんだんにある。

そのことのすごさは、詩を書いてみたことのある人なら、きっとわかるよね。

今日のソネットにもどろうか。

全体にのびのびした印象をもつのは、題名にもある「ひろがり」のせいだろうね。空間を肯定的に描いているね。それと、空間に存在するものたちを。

それに対して悪者にされているのは、いつものように「時間」だね。

この詩でもその対比はわかりやすい。

「生き死に」に必要なのは、たしかに空間と時間なのだから。

でも、「くうかん」を「生」の、「時間」を「死」の象徴のように書くのは、ちょっと単純かな、と思う。

ただ、この問題を複雑に書いたところで、行き着くところは同じなんだけどね。

(1)風が立つと時が身動きする、その身動きする姿を思ってみよう。
(2)ひそやかな身ぶりって、どんな身ぶりなのか想像してみよう。
(3)時の死んでいる姿って、どんな姿なのか考えてみよう。

この3つが今日の宿題でもあり、この詩の読み方でもあるんだ。

* 20 心について      谷川俊太郎

私は生きることに親しくなつていつた
私は姿ばかりを信じ続けて
心について何ひとつ知らないのだつたが
それがかえつて私の孤独を明るくした

(後略)



どうも悪い癖がついてしまったようだよ。いつもの型にはめて読んでしまうんだ。

つまりね、この詩も「ひろがり」(生きることの喜び)と「時」(命に限りがあることの悲しみ)の二面を歌っているように見えてしまう。

そういうふうにして読むと、解釈が容易なんだ。

一連目、「生きることに親しく」というのは、自分が命あるものであることを当然のこととして日々を過してしまうということだね。

さらに「心」とは、そんな自分の命がいつかなくなることへの振り返りを意味している。

それから三連目、「星々と同じ生まれ」というのは、レトリックのようだけれど、結構まともに物事の成り立ちを言っているのかもしれない。

だって、宇宙の始まりから星々が生まれ、そののち次々と生まれでた命の、その先端に僕たちがいるわけだろ。

つまり、星々も僕たちも、つくりは同じということだよね。

だから僕たちが死ぬということは、その要素がばらばらになるということ。

ただ単にそういうことなんだ。

政治家も、歌手も、星々も、

死ぬということは、「つくり」がほどかれること、

で?

疲れたから今日は寝るよ。

僕がほどけないように、用心してね。

* 21 歌      谷川俊太郎

私は目を挙げた時
もはやその雲の姿はなかつた
それらのうつろいやすい姿の中よりもむしろ外に
私の親しい心があつた

(後略)



詩を書こうとするならね、どんな詩を書きたいかっていうイメージを持っていないと、いつまでも進歩しないよ。

どんなふうに自分の書いたものを読んでもらいたいか、感じてもらいたいか、そこがなかったら、詩を書く意味はないんだ。

逆にいうなら、今君がどんなにへたくそな詩しか書けなくても、いつかこんな詩を書いて、こんなふうに読まれたいっていう眼差しさえ持っていれば、かならずそうなる。

単純なことなんだ。

ただ、それ以外のことは何も詩では叶えられない。残念だけどね。

ところで今日のソネットは、「歌」という題だけれども、読んでみるとむしろ「雲」のことを書いているね。

ここで歌われている「雲」って何だろう。

そう、何だろうって思わせるように谷川さんは書いているんだ。

うつろいやすい姿で、何ものかになりたがって、何になれるわけでもない

って、なんだか僕のことのようだよ。

たぶん、谷川さん自身の姿も反映しているんだ。

でも、この「雲」は必ずしも「人」を示しているわけでもないようなんだ。だって、その姿を外側から見ているんだもの。

「私」は「雲」を見る。でもその見方は決して風景を見るような見方じゃない。もっと「見られる対象」が、能動的なんだよ。

四連目、「地」は現世の喜び、「天」は命のはかなさ。双方に揺れ惑っている心を持つ「私」を「雲」になぞらえて、客観視していると言ったら、まとめすぎかな。

そんなにあわてることはないよ。

「雲」が何を指しているかを、本物の雲を見上げながら、ゆっくり考えてみようよ。

* 22 姿について      谷川俊太郎

姿の予感と
姿の悔いとが晴れすぎた空におびただしい
姿自身は
まるで心のように見えないのに

(後略)



谷川さんの詩はわかりやすいけど、人によっては読んでいてよくわからない詩って、あるよね。

でも詩って、どんな読み方をすればいいかっていう方法が特別あるわけじゃない。

だから、「わからない詩」っていうのは、ありえないんだ。

つまりね、どんな詩だって鑑賞はできる。

むしろ、一番難しいのはね、「自分が書いた詩」なんだ。いつまでたっても、読みかたがわからない。

人の詩には読み方はない。でも、自分の詩は正しい読み方をしなくちゃいけないんだ。

いいね、
自分の詩だけは 正しい読み方をしなくちゃいけない。



今日のソネットも難しいね。一度読んだだけでは「姿」のことを書いているってことしかわからないね。

はじめの「姿の予感」ってなんだろう。将来崩れ去るものとしての外見のはかなさを予感しているのかな。

じゃあ「姿の悔い」って? 同じように、見た目の美しさにいい気になっていると、悔いることになるよってことかな。

「晴れすぎた空におびただしい」とは、みんなそうじゃないか、と言っているのかな。

二連目は、似たようなことを繰り返しているね。

三連目で、でもそれでもかまわないさって、多少むきになっている。

四連目、「心は只ひとつ」って、ここで言う「心」って何だろう。

神だろうか。真理だろうか。

あるいは僕たちの「内」なるものすべてを言っているのだろうか。

ただ、「姿の外の心を信じて」って言っているところを見ると、「神様」の確率が高いかな。

詩全体に、晴れすぎた空が一面に広がっているから、見た目には明るくて美しい詩だけど、美しいものはうつろいやすいから、安易に信じちゃいけないんだったね。

* 23 雲      谷川俊太郎

今朝は雲が大層美しかつた
心をもたずしかしさながらひとつの心に照らされているかのように
自らを輝くにまかせたまま
それらはひととき慰めのように流れていつた……

(後略)



詩を書くときにね、人よりすぐれたものを書こうと思ったら、ろくなことはないよ。詩はね、人と比較してはいけない。つねに自分と、自分の詩のことだけに集中しているんだ。

余計なことは考えない。

僕自身がね、勘違いをしていたことがあるんだ。

自分が書かなければならない詩のレベルというものがあって、そこから「落ちて」はいけないと思っていた時期がね。

もちろんそんなことを思っていたから、何も書けなくなってしまったんだ。当然だよね。

自分の書くものが何ものかであるなんて、ありえないんだ。そんなふうに思って書かれたものなんて、誰が読みたいと思う?

そうではなくて、もっと「書く」という行為を、自分の今あるところに引きずりおろさなければならないんだ。

みっともなくて、うじうじしていて、情けない自分を、隠すことなく、そこから書かなければいけないんだ。そうしたときにやっと少しだけ、本当のことに近づける。

格好つけているうちはだめだよ。間違いなく。

だからね、谷川さんのすごいのは、「継続して」すぐれた詩を書いていることなんだ。それはたぶん、昨日書いた自分の詩に、たよっていないということだね。

いつもみんなと同じスタートラインに立ちなおして、一から詩を書き始めている。

どうしてそんなことができるんだろう。



さて、今日のソネットを読もうか。

このあいだ「雲」を書いた詩があったけど、その雲が日をまたいで流れてきたようだね。

「雲」はここでは、「心」を持たぬものの代表として出てきている。

「心」を持たず、この世に「存在させられている」物たちが、肯定的に描かれている。

一方、「心」の方は「計り難い」といわれたり、手紙のあて先からも消されたりで、さんざんな扱いだね。

むろん「心」とは、自分自身のことだよ。

いやそうじゃなくて、「自分にあてがわれた自分」と言ったほうがいいのかな。

両腕で抱えきれないほどの「自己」の重さに、はかなさを感じている。まとめれば、そういうことなのかな。

じゃあなんで自分にとって自分が重いのか、「心」の何がそんなに重いのか、考えてごらん。

「重い」っていうのは、せつなさの計り方なんだ。

* 24 夢      谷川俊太郎

ひとときすべてを明るい嘘のように
私は夢の中で目ざめていた
私は何の証しももたなかつた
幸せの思い出の他に

(後略)



詩を発想する瞬間の仕組みは、僕にもわからない。

あたりまえのことをあたりまえのこととして書いても、それは詩にはならないよね。

じゃあ詩になる瞬間って、どういう時なんだろう。

言葉が、剥(む)ける感じがするんだ。

僕の場合はね、朝、目が覚めた瞬間に、そういうことが起きる。

あとは、音楽を聴いているときとか、お風呂に入っているときだね。

言葉の向こう側が、とつぜん見えてしまうんだ。

それが創作の、いちばんの喜びかもしれない。

でも依然として、どうしたらそうなるのかがわからない。

たぶん、谷川さんはそれを知っているんだ。

どこかの倉庫の裏で、谷川さんだけが「言葉」とひそかに会うことができて、封筒に入ったその秘密を、受け取っているんだ。



では、今日のソネットだよ。

はじめの6行は、「目ざめていたこと」「信じていたこと」「自分のことに夢中だったこと」「幸福だったこと」を言っているね。

すべてがきれいに肯定的に並べられている。

でも、もちろんこのままじゃ詩は終らない。

7行目からの5行は、きちんとそれに対して問題を提起している。

「自分の外に目が行ったこと」「信じすぎてはだめだということ」「幸せを感じてばかりではだめなのだということ」

ひとつひとつ否定している。

そうして四連目で、結論を出しているね。

僕は幸せに目ざめるのではなく、不幸せに眠ることを選んでいるんだ、ってね。

ここで言う「ねむる」というのは、深くこの世の意味を認識するっていうことなんだ。

自分が生きていることの何の証しも持たなかった者が、「生」の意味を、目を閉じて感じたいといっている。

たしかに目をあけていても、目の前の風景しか見えない。

だけど目を閉じれば、あらゆるものが、いちどきに見ることができるんだ。

* 25       谷川俊太郎

世界の中で私が身動きする
すると世界もかすかに身じろぎする
世界がふとふり向くと
天の鳥たちがいつせいに飛び立つ

(後略)



この「六十二のソネット」はね、大きく3つのパートに分かれているんだ。1から24までが「I」のパート。25から48までが「II」のパート。それから残りの62までが「III」のパートだ。

今日は25個目のソネットだから、「II」のパートのはじまりになる。

Iのパートとの違いはね、ソネットそれぞれに副題がついていないっていうことなんだ。

では「I」のパートには、何で副題が必要だったのだろう? 考えてもいいね。

主要な登場(人)物を副題にして、わかりやすくしたのかもしれない。

でも、そうかな?そうでもなさそうだね。

あるいは、どうしてIIから副題をやめたのかを考えてもいいね。

Iのパートで紹介された主要な登場(人)物は、要約すると「空間」と「時間」と「私」だね。

私は空間にうまれてその生を楽しんでいる。しかしいつかこの生は終わりになる。そのわけを繰り返し問うているんだ。



今日のソネットは、IIのパートのはじまり。

25という素敵な題がついている。

読んでみるとすぐわかるけど、内容は依然としてIのパートと同じことを言っているね。

ここでいう「世界」は、「時」でも「神」でもあるのかな。

わからないのはね、2連目の「書かれた文字は眩しすぎる」の「文字」なんだ。この「文字」ってなんだろう。

「眩しすぎる」とあるから、たぶん読むことの出来ない文字なんだ。

ということは、ここに書かれている文字は、まさしく私が求め続けている「死の意味」なのかな。

それから、視覚的に面白いのが、3連目の、「時が疲れる/私は看病することを知らない」のところだね。

疲れて布団に入っている「時」の枕元で、私がうろうろ困っている姿を想像してしまうね。それって、おかしくないかい?

意味はね、流れ行く時を生命は押しとどめることはできない、っていうこと。

至極まじめな意味だから、余計に笑えるね、この表現は。

* 26       谷川俊太郎

ひとが私に向かって歩いてくる
すれ違いざま私は愛する
だが遠さが速い
忘却がひとを追い越す

(後略)



今日は26番目のソネットだね。

このソネットはかなり力が入っているという感じがするね。印象的な表現や描写がいくつも出てくる。

たとえば、
(1)「遠さが速い」という妙な言い方
(2)「忘却がひとを追い越す」、その追い越す姿
(3)「孤独」という小銭の形
(4)「小さな時間」の投げ方
(5)「明日が私をいじめる」、そのいじめ方

どれも奇妙で、それでいて視覚的に面白いんだよね。

中でも好きなのは、「旗が空で合図する」っていう行かな。

「手旗」っていうものがあるから、旗が合図することに違和感はないんだけど、旗が自分の意思でゆれるっていうところが、面白いんだね。

むずかしいことを考えずに、この詩では、表現や風景の奇妙さを味わっていればいいと思うんだ。

それでも詩の意味を考えればね、「時間」というものに歯向かったり、意地張ったりしているというように見えるけど、それ以上には、よくわからないよ。

無責任かな?ごめん。

それよりも、孤独という小銭で買えるものを、考えてみたほうが楽しいかな。

* 27       谷川俊太郎

地球は火の子供で身重だ
だがおそらく産むことはないらしいので
雲はむしろ死のための綿になりたがる
しかしそれにしては雲は余りに泣きすぎる

(後略)



一行目から手ごわいね。

「地球は火の子供で身重だ」って、ちょっと変。子供なのに、なんで身重なんだろう。

「火の子供」っていうのは単に、かつて燃えていたということだろうか。「身重」っていうのは、今の状態から何かに変わろうとしているという意味?

それに続く3行は、なにか諦めに満ちているね。

雲なんか、死のうとしているのに、さらに泣いているんだぜ。

2連目では、「時」の過ぎ去ることに、いつものように不平を言っているね。

「時間に不平を云い続ける」のは、本当は私なのだろうけど、たしかに、「時計が時間に不平を云い続ける」としたほうが、おかしいよね。

ところで、「時計」と「時間」とは、どっちが先にできたんだろう。

3連目、4連目、今までのソネットより、「私」が強気になっているね。

それでも4連目、なんで私は世界を従えて、便所に入るんだろう。

この「世界」は一連目で、自分の行く末をあきらめてしまった「世界」だったね。

「つと」って言うのは、「急に」という意味。「つと席を立つ」っていうふうに使うね。

なんだか谷川さん、何かを突き抜けたくて、「便所」を持ち出したようだね。

このソネットはもう27番目。これまでの書き方と違ったものを産みたいと思ったのは、「世界」ではなく、谷川さんだったのかもしれない。

でも、谷川さんの描くこの「便所」は、悲しいかなとても清潔そうなんだよね。

抽象が入るトイレっていう、感じがするよ。やっかいな排泄だよ。

* 28       谷川俊太郎

眠ろうとすると
夢が目の中へ入つてしまう
痛みで私の目はさえる
私は哲学の透明度を計る

(後略)



自分が書いてきたもの以外には、書くべきものはないんだ。

その「外」なんて、どこにもない。

もっと領域を広げるなんて、絶対に無理。

違う自分なんてありえないし、そんな夢を見ちゃいけない。

書くことは決まっていて、いつもそこにいるしかないんだ。

その覚悟が、大事なんだ。



今日のソネットを表面だけ読むと、次のようになるね。

眠れないので踊っていたら、やっと疲れて眠れるようになった。

って、でももちろんこれでは詩にならない。

だから、次のようなことを問うて、詩を膨らませたんだ。

1. なんで眠れないのか
2. どういうふうに眠れないのか
3. 眠れないのでどうしたのか
4. やっと眠れたその眠りは、どのようなものだったのか

ということはね、どんな日常のささいな出来事だって、ひとつひとつの所作に疑問を持って、それに対して答えてゆけば、それなりの詩になるんだ。

もちろん谷川さんは、そんなに安易じゃない。

この詩で特に面白いのは、
2.どういうふうにねむれないのか
の説明だね。

つまり、「夢が目の中へ入つてしまう/痛みで私の目はさえる」といっているところだ。

具体的な動作で説明しているから、読むほうはその様子を想像して、惹かれるんだね。

話は変わるけど、このフレーズを読んでいて、ちょっと気になったことがあるんだ。

ぼくが昔書いた詩に、よく似ているんだ。

僕のその詩はね、「町」という題で、書き出しがこんなふうだ。

ぼくはものをみすぎたかもしれない
めのなかにふうけいがたまって いたい

もちろん谷川さんの物まねをしたわけではない。けど、あんまり似ているんで、ちょっと驚いたね。

こういうのって、どうしたらいいのかな。

似ているかどうかの程度は測れるけど、物まねしたかどうかを計る物差しは、どこにもない。

困ったことに、自分の中にさえ、ね。

それに、そういうことを考えていたらなにも書けなくなる。

人の詩はね、どんどん読んで、どんどん忘れていけばいいんだ。

忘れてしまえば、まねなんかできないだろ。

* 29     谷川俊太郎

私は思い出をひき写している
古い幻は皆気だてがいい
冬の陽差が私の指に暖かい
今日の空椅子にも陽差がある

(後略)



いつもの読み方で読むとね、次のようになる。

(一連目)
あたたかな場所で昔のことを思い出して、気持ちよくなっている。

(二連目)
いつもとは違った所に何か大切なものがあるのだけど、どうしてもそれが何かということがわからない。

(三連目)
大きな謎は残されているけど、それでもわたしはこの世を愛し、受け入れようと思う。

(四連目)
あたえられた日を、そのままに受け止めていようと思う。

こんなところかな。ちょっと強引かもしれないけど、ぼくにはこんなふうに読めるんだ。

個々の言葉も、いつものように凝っているよね。たとえば、

「思い出をひき写している」の「ひき写している」
「幻は皆気だてがいい」の「気だてがいい」

こういうのって、普通ではない言い方だし、独りよがりの表現になってしまう恐れがあるんだね。注意したほうがいいよ。

普通の言い方のすごさをきちんと押さえた上で使わないとだめなんだ。

もちろん変わった言い方ではなく、あたりまえの言い方ですぐれた詩ができたら、それに越したことはない。

六十二のソネットはね、谷川さんの若い頃の作品だから、たしかに凝った表現が多いよね。

それがかっこよく感じられるし、この詩はそれでいいんだけど。

でもね、君はこういうのはたぶん書けない。

さっき言ったようにね、あくまでも普通の言い方のすごさを学んだほうがいい。

学んでいるうちにね、「おはよう」という言葉さえ、そのうち怖くなってくるんだ。

* 30     谷川俊太郎

私は言葉を休ませない
時折言葉は自ら恥じ
私の中で死のうとする
その時私は愛している

(後略)



今日のソネットは、言葉について、話すことについて書いているね。もちろん表現全般について言っている。

詩を書いていて難しいのはね、「何を言うか」ではなくて、「何を言わないか」っていうことなんだ。

物事をね、片端から順繰りにすべて書いてゆくことはできる。

でも、すべてを語ることは、必ずしもすべてを伝えることにはならないんだ。

不思議だね。

すべてを伝えるためには、「言わないでおく部分」が必要なんだ。

特に一気に詩を書くとね、往々にして書きすぎてしまう。

それから削除すべき場所を探すんだけど、たいてい、削除すべきところというのは、一番力の入ったところなんだ。

書こうとする思いが強ければ強いほど、それが詩のじゃまになる。

詩はね、自分で読むために書かれるものじゃないっていうことを、肝に銘じなきゃいけない。

自分の最も好きなフレーズを消す勇気が必要。

わかったね。

さて、今日のソネットで僕が好きなのは、「青空は背景のような顔をして」のところなんだ。

「背景のような顔」って、どんな顔だろう。

だって、顔をするもしないも、青空って、まぎれもなく背景じゃない?

そこがたぶん、おかしいんだね。

ともかく、この力の入った行だけは、谷川さんに削除されなくてよかったよ。

* 31     谷川俊太郎

世界の中の用意された椅子に坐ると
急に私がいなくなる
私は大声をあげる
すると言葉だけが生き残る

(後略)



神との小競り合いっていう感じだね。

抵抗している。

結局、勝負は見えているのだけれども、「言葉だけが生き残る」と言っているように、せめて文句は言わせてもらうよ、ということなんだ。

私は「歌い続け」あるいは「時間の本を読」み、自分の存在理由を「証」明しようとする。でも、やっぱりそんな行為は、たいした意味を持つことはない。

それで頭にきて怒っているんだ。「昨日を質問攻めに」してね。

対決の姿勢が表れているから、言葉がわかりやすくて、生き生きとこちらに伝わってくる。

僕がこの詩で一番好きなのは、「幸せが私の背丈を計りにくる」のところ。いつものように、観念(幸せ)に具体的な行動を取らせているね。

この行だけを見ていると、ちょっと何を言いたいのか不明だけれど、「身のほどを知れ」って言っているのかな。

ところで「背丈」っていう言葉は、僕も好きで詩に使っている。

たぶん「体重」よりも、詩に近いところにいるね。

* 32     谷川俊太郎

時折時間がたゆたひの演技をする
そのすきに私は永遠の断片を貯めこむ
私は自分の生の長さを計る
私は未知のことを予感する

(後略)



いろいろ言っているけど、つまりは「時」に対するあせりかな。

これまでに幾度も出てきたテーマだね。

「たゆたひ」って、ゆらゆらゆれることだよね。

はじめの二行なんて、ちょっとしたサスペンスドラマだね。

「時のすきま」という意味では、ハインラインの「夏の扉」を思い出すね。

それにしても六十二のソネットって、ほんと、すべてが観念だけで作り上げているよね。

前にも言ったかもしれないけど。全部見事に頭の中の作り物なんだ。

だからSFを思い出したのかもしれない。

「時」が悪の親玉で、倉庫の奥に座ってサングラスでもかけていそうだよ。

とまってくれない「時」に対して、いろいろちょっかいを出している。

でもとどめようがないんだ。

いくら「永遠の断片」を貯めこんだって、それをつなげて「永遠」にできるわけじゃない。

いくら「夏をくり返」したって、いつか夏はくたびれる。

仕方がないよね。

いつか終わるから、「夏」なんだ。

「若さの頭痛」っていうのは、素敵な言葉だね。

うまれたことの痛みなんだろうな。

僕はいまでも、時々襲われるよ。

* 33     谷川俊太郎

私は近づこうとした
すると私はふたたび遠ざかつた
私は遠ざかろうとした
すると私はふたたび近づいた

(後略)



この詩で際立っているのは、なんと言っても四連目の鮮やかさだね。

青空を地の奥へ沈めて、そこへ身なげをするなんて、なんとも見事な発想だね。

つまり上を無理やり下へ持っていっている。逆の考え方だ。

さらに、身投げすることが「生きかえ」ることだなんて、ここでも逆にものを考えている。

物事を逆に考えてみるっていうのは、詩の発想のひとつではあるね。

それも理屈ではなくて、実際に動きの伴うものを逆にして言い換えるんだ。

あるいは視点を逆にするというのも、ある。

ただね、そこには詩人の実感が伴っていないと、だめなんだ。

そこが大切だよ。

ただの言葉遊びではなく、命をかけたまじめな逆接であることが、必要なんだ。

読み直せばこの詩は、はじめから

私は近づこうとした/すると私はふたたび遠ざかつた

だものね。

* 34     谷川俊太郎

風のおかげで樹も動く喜びを知つている
太陽は産婆ぶつているので
若いくせにえらがつている
私は太陽を嗅いでみる

(後略)



「風」と「太陽」は、なにかの原因として出てきているね。

この詩は、ものごとのもとにある「理由」について考えている。

つまりそれは、私の「生」の「理由」につながっているんだ。

要するにね、私は「重み」として感じたり、それでも「幸せ」だと思いなおしたりしているけど、とどのつまりは、「生」の理由がわからないって言っているんだ。

わたしについての明確な説明がなされていないじゃないかって言っている。

こんなの神の嘘っぱちじゃないかって言っている。

「太陽は産婆ぶつているので/若いくせにえらがつている」っていうのは、すべての生命が太陽の光と熱の恩恵を受けていることを指しているね。

でもその行為を「えらぶっている」と感じるのは、ちょっと八つ当たりがすぎるかなって思う。

神に不満があるんだから、目に映るものがすべて、気に食わなくなってしまうんだ。

「風」も、「太陽」も「空の青さ」もね。

さらにつらいのは、作者自身も「神」の創作物でしかありえないことなんだ。

つまりこの詩を書いているのは谷川さんだけど、こういうふうに書くように仕向けているのは、神じゃないかってね。

でも、そんなこと言い出したら、何も書けなくなる…。

ところで、この六十二のソネットも今日で34個目。君に言われるまでもなく、僕の文章はちょっと疲れてきたね。34回目にして、惨憺たるものだよ。

面白くない?

うん、勘弁。

ならば、これからさらにどれくらい面白くなくなるか、見ていてごらん。

* 35     谷川俊太郎

街から帰つてくると
私の室にそしらぬ顔で静けさがいる
私が黙つて窓を開けると
黒い絵の流れこむ気配がする

(後略)



静けさが「ある」じゃなくて、部屋に静けさが「いる」って、書いてあるだろ。

つまり静けさを人のように扱っている。知っているだろうけど、擬人法っていうんだ。

前に僕は、「逆説」は本気でやらなきゃならないっていったけど、憶えているかな?

擬人法もね、テクニックとしてではなく、とことんのめりこまなきゃだめなんだ。たとえば「静けさ」を思うならね、本気で「静けさ」のことを思うんだ。

と、擬人法のことはともかく、今日の詩は全体に謎めいているね。何を言おうとしているんだろう。

わかるかな?

たとえば二連目、「あからさまになる」夜の呟きって、どんな呟きだろう。

四連目には「昼」が出てくるけど、この「夜」と「昼」は関連があるんだろうか。

それと、「昼の瞳孔がまだひろがらない」って、まだ生きているっていう意味なのかな。

二連目、「生きていない」じゃなくて、「生きられていない」っていうのは、「季節が私に生きられていない」っていうことかな。

ちょっと表現が屈折しているね。

第一連の「静けさ」「黒」、第二連の「夜」、第四連の「闇」。

これらがこの詩の核になっているね。

これを「死」に置き換えたらどうだろう。試してみようか。



街から帰つてくると
私の室にそしらぬ顔で「死」がいる
私が黙つて窓を開けると
「死」の流れこむ気配がする

灯が「死」をみつめていると
「死」の呟きがあからさまになる
私の中に季節の絵がある
生きられていないのでそれらは贅沢に美しい

遠くから声がする
誰を呼んでいるのでもない
只空へ向かつて捨てられている

昼の瞳孔がまだひろがらない
「死」の姿は見分け難く
星の数だけが限りない



はっきりとは言えないけど、こういう読み方が完全な誤りではないっていうことは、わかるよね。

* 36     谷川俊太郎

私があまりに光をみつめたので
私の影は夜のように暗かつた
私はさびしさを計算する
しかしそれには解がない

(後略)



谷川さんはこの詩で、意味を読み取らせようとはしていない。

むしろ、個々の表現に目を向けさせようとしているんだと思う。

ためしにいくつか並べてみようか。

「さびしさを計算する」
「遠さが私に帰つてくる」
「言葉は捨て所がない」
「遠さも天で計られる」
「感傷を着ようとする」

これらの表現に僕は、見事につんのめってしまう。

このつんのめりが、谷川さんが読者に求めているものなのかも知れないと、思うんだ。

僕の読みは方々でバランスを崩して、転んでしまう。

それはもう、谷川さんが期待したその通りにね。

とはいうものの、少しだけ意味を考えてみようか。

2連目、私に帰ってくる「遠さ」って、「神」のことを言っているのかな。

いつものように、その「神」に対峙しているものとしての、自分を描写しているところもあるね。

「私は私とだけ親しい」
「私が感傷を着ようとする」
「私は幼ない頃を思い出す」

どうだい、けなげだろ。

で、今日は朝から国税局に行ってきて、ひどく疲れたからもう寝るよ。

ネクタイをして、真夏のような日差しだったんだ。

* 37     谷川俊太郎

私は私の中へ帰つてゆく
誰もいない
何処から来たのか?
私の生まれは限りない

(後略)



まず目に付いたのは、「私の生まれは限りない」のところだね。

普通の言い方じゃないよね。

限りなくどうだというんだろう。

「限りない命」というのなら、「永遠に続く」とでも読むことができるけど、わざわざ「生まれ」と言っているのはなぜなのかな。

表現を気取ってみただけなのかもしれない。ともかく、「生命」のとこだと思うよ。

だとしたらこの「限りない」は「果てしなく続く疑問」っていうふうにも読み取れるね。

ところでこの詩には、場所に関する言葉がいくつか見られる。

たとえば、「何処」「偏在」「送り所」など。

でもどれも確実に、「ここ」という具体的な風景が見えてこない。

ただ漠然とした空間に、無意味な風だけが吹いているようなんだ。

この詩はたぶん、初めの一行がまず谷川さんに思いつかれたんだね。

「私は私の中へ帰つてゆく」って、たしかになかなか含みのある表現だね。

疲れた自分が扉をノックして、自分のところに帰ってきたんだ。

いつもなら「よっ!」とでも言って、一緒にビールでも飲んで……

いやそうじゃない。この詩はもっと根源的なことを言っている。

「誰もいない」っていうことは、「この世にもともと私はいない」っていうことだ。

つまり、どうして生まれてきたかもわからないでただ生きているっていうことは、「いない」っていうことと同じだって言っているんだ。

つらいね。

* 38     谷川俊太郎

私が生きたら
物語が終らなくなつてしまった
いつまでも忘れないと
老いた神々が眠れない

(後略)



物語っているのは私だね。

たぶん私が生きている、そのことを。

でも内容は暗そうだよ。

「夜」とか「不吉な鳥」とかの言葉からそれはわかるし、歌うんじゃなくて、「ささやかな言葉で囁」かれているものね。

そう、全体に暗鬱な雰囲気をもった詩だよ。

最後のところ、「愛」って、もちろんこれは異性に対する愛ではなくて、自分の「生」に対するものだね。

膝を抱えて自分を抱きしめているようなものさ。

ところで、「愛が……」の「愛」は、主格なんだろうか目的格なんだろうか。

そんなことはどうでもいいのかな。

主格も目的格も、まるごと抱きしめてあげればいいんだ。

* 39     谷川俊太郎

雲はあふれて自分を捨てる
何故それが雨なのか?
人はあふれて心を捨てる
何故それが歌なのか?

(後略)



意味を考えてくれっていう詩だね。

一連目、歌謡曲の歌詞みたいに2行ずつそろえている。

「雲」と「人」、「自分」と「心」、「雨」と「歌」。

内容もそれほど奇を衒っていないね。

むしろだれでもが考えるようなパターンをわざと出している。

まったく、「雲」があふれて「雨」になるとこなんか、すごくありふれていて、谷川さん、結構危険を冒しているね。

自信があるからできるんだ。

ところで、「人があふれる」って何を意味しているんだろう。それが「心を捨てる」ことだって言っている。

解釈しようとすれば、自己の存在をもてあましてその意味を考えているうちに、根源的な疑問をもってしまう、ということだろうか。

ということは、いつもの理解の仕方になってしまうけど。

その図式に従うなら、「樹」が「神」を意味するのかな。わたしを作り、世界を作ったものだ。

作られたものは、所詮自分の存在の意味を理解することはできない。

だからそのことを歌ってはいけないって「樹(神)」が言っているんじゃないかな。

でもだとしたら、「心を捨てること(自分の存在に疑問を持つこと)」自体を、樹(神)は快く思わないはずなんだ。

という意味からも、最後の2行はよくわからないね。

どうも辻褄があわない。

でも、辻褄をあわすために、詩を読んでいるわけではないから……。

* 40     谷川俊太郎

遠さのたどり着く所を空想していると
私に近いものたちが呟き出す
愛は気まぐれな散歩者だから
いつも汗ばんで戻ってくる

(後略)



詩を書くということはね、書いた詩以上のものが書けなかったということを白状することなんだ。

言っていること、わかるかな。

つまりね、創作することは、自分の能力をさらしてしまうことだから、とても勇気が必要で、恥ずかしさを伴うことなんだ。

自分よりもずっと優れた人たちに向けて、「こんなものしか書けないけど」って、見せることなんだ。

そんな思いをしてでも、書いて発表したいっていう気持ちがある人だけが、詩人になれる。

つまり詩人って言うのはね、かっこつけていたらなれない。自分をごまかしてよく見せようと思うんなら、別のことをしたほうがいい。詩はやめたほうがいい。

くどいようだけど、どこまで覚悟があるか、どこまでさらけだせるかなんだ。

それからね、読んだ詩について何かを言うっていう行為も、同じなんだ。

つまりね、こちらも「こういう読み方しかできませんでした」って白状していることなんだ。

というわけで、今日も僕は読みの能力を白状しなきゃならない。

今日の詩もね、いつもと同じように読めてしまう。たぶんもっと優れた人が読んだら、もっと違った意味や深いものが現れてくるんだろうけど。

つらいね。谷川さんに申し訳ない。

でも、どんなに軽蔑されても仕方がないね。これが僕のあたまの中身だ。

一行目の「遠さ」とは、わたしの理解がたどり着けない「生きる意味」なんだろうな。

「さびしい方」というも、同じことを言い換えているだけだ。

結局、わたしの理解はどこにもたどり着けなくて、近視眼的に生きてゆくしかないと言っている。

この詩に出てくる「愛」は、この世に対する切実であたたかな「思い」なのかな。

最後の連、「私が去つてしまう」は、秘密について何も知ることなくわたしがこの世から去るっていうことだよ。

それにしても「私を惜しむ気配もなく」って、ずいぶん残酷だね。

生きているっていうことは、実にさびしいことだね。

このさびしさを62回も歌っていたんだ。谷川さんは。

* 41     谷川俊太郎

空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする
だが雲を通つてきた明るさは
もはや空へは帰つてゆかない

(後略)



「空の青さ」っていえば谷川さんを思い出すよ。

それはたぶんあの有名な詩、「かなしみ」のせいだ。

それにしても、「空の青さ」なんて、みんなの上に広がっているのに、なんだか谷川さんだけのもののようだね。

この詩も、「かなしみ」に通じるところがある。

居場所のないつらさ、さびしさ、悲しさを歌っているよ。

「在ることは空間や時間を傷つけることだ」って考え方、見事だね。

それから、最後の「私が去ると」というのは、昨日の詩にも出てきたけど、自分の死を意味している。

この世に存在することの違和感、焦燥感をきれいに描いているね。

谷川さんは本当に自分が存在することに違和感を抱いているのかな。
あるいは違和感を抱くことが詩を見事に飾るからそうしているのかな。

そんなことをちょっと考えてしまう。

どちらでも同じことだけどね。

* 42     谷川俊太郎

空を陽にすかしていると
無のもつ色が美しい
時が私に優しく訊ねるが
私は黙つている

(後略)



これまで見てきた詩と同様に、ここでも「空間」は許され、「時間」は対峙するものとして扱われているね。

この詩でも進んでゆく時の前で、谷川さんはいらいらしている。

生に対する執着、死に対する畏れって、単純に言っちゃっていいのかな。

「昨日の朝を私に返せ」とか「だが明日になると/期待は今日にすぎない」とか、ずいぶん無理難題をつきつけているよね。

だって時を止めるなんて、どだい無理なんだから。

そのことにいらだっても仕方がない。

どうしようもないことを分かっているから余計にいらいらしているんだ。

それでも最終連では、気持ちを立て直して素直に自分に質問しているね。

「子供の時から私は何が好きで生きてきたか?」

こんなにいらいらした心持で聞かれるには、なんだか美しすぎる質問だね。

* 43     谷川俊太郎

あふれた空の光を
雲がそこここであつめていた
風が耳打ちすると
ふと大きな不在が目をさます

(後略)



詩の構成としてはね、四つの連が「空」「地」「地」「空」の順に出てくるね。

視線がそういう順番で動いている。

一連目では美しくさわやかな「空」の自然を描いているけど、その中に不気味なものを含ませている。

一方、二連目三連目では、現実の谷川さんがこの世のあり方に対して、(「地」の世界に対して)不満を述べている。

自分の生存の理由が明らかにされていないということについてね。

これまで見てきたように、これは六十二のソネットの核になっている主張だね。

それから四連目で再び「空」にもどり、「言葉」ではなく「音」に慰安を感じている。

というのも、「在る事」や「不在」に対して抵抗することに、疲れちゃったのかな。

この世をそのまま受け止めていたほうがいいのだという、「あきらめ」のようなものを、この詩から感じるね。

だって、もう43個目のソネットだろ。いくら理不尽を感じていたからって、いい加減、文句を言うことに、疲れてもいい頃だよ。

* 44     谷川俊太郎

私は闘士であつたから
青空を盾にもち
夜の中をしのび足だ
私は世界からさらに遠くを目指したのだが……

(後略)



この詩でもね、あいかわらず谷川さんは「生存の意味」と戦っている。

まさに「闘士」だと言っているよ。

「夜」と「昼」、「私の外」と「私の中」、これらの対比は、いつもの方法とさほど変わらないね。

「昼」と「私の中」は、「夜」と「私の外」に敗れてしまう。

「私は眩暈してしまう」「私の血が遠くひいてゆく」って、きれいに表現しているけど、つまりは「負けました」っていうことなんだ。

この間までは、それでも最終連で、わたしは生き抜いてゆくみたいな、けなげな宣言が見られたけど、この詩ではもう最後までうなだれている。

「私はもはや勇ましくない」なんてつぶやいている。

状況はどんどん厳しくて、寂しくなるね。

ところで、「私は勇ましくない」っていうことば、僕は好きだな。

いい言葉だから、つい口にしてしまいそうだよ。

一日一回ね。自分を持ち上げたいときに。

* 45     谷川俊太郎

風が強いと
地球は誰かの凧のようだ
昼がまだ真盛りの間から
人は夜がもうそこにいるのに気づいている

(後略)



好きな詩だよ。

広がりがあって、読んでいて気分がよくなる。

これまでのソネットよりも明らかに視線は後方に引き下げられている。

遠方からの大きな視点で見つめている。

「黙ってひろがつていることにどんな仕方で堪えているのか」のところは、「二十億光年の孤独」の中の、「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」を思い出すね。

こんなにダイナミックな発想をしたのは、たぶん谷川さんが初めてだし、すごい。

ただ、ここで言われている「昼」と「夜」の内容は、これまでさんざんこのソネットで書かれてきたことと同じだよ。

「昼」は現実の生き生きとした美しい生活。

「夜」はそのうちに訪れる「死の意味」だと思う。

でも、もちろんそんな理屈や解釈はどうでもいいんだ。

「昼には青空が嘘をつく」。素敵な言葉だね。

こんな一行を思い出しながら今日の空を見上げる(あいにくの梅雨空だけど)。

それがこの詩の、楽しみ方だよね。

* 46     谷川俊太郎

若い陽がひととき
夜につながる私の内部を明るくする
光の中に埃が夥しい
それらは病の前兆ではないのか

(後略)



この詩ではだんだん「あきらめ」の様子が強くなるね。

生存の意味について問いかけても仕方がないって、思い始めている。

いつものように、陰と陽の対比が出てくるよ。

「昼の若い枝」と「夜の地中の根」だね。

この詩では、特にあざやかな表現というのは見当たらない。

ただ、変わった言い方はある。

「私の足がいつ地から奪つたことがあるか」という文章は、ちょっと妙だね。

だって、「何を」奪ったのかが書かれていない。

わざと省略しているんだ。

文章が引き締まって、うまいと思う。

ところで、あきらめているとはいえ、最後の二連はずいぶん元気がないね。

まだソネットは46。まだまだ先があるのに、この先どうなっちゃうんだろう。

ところで、今日はスポーツジムに行って、運動しながらこのソネットについての文章のことを考えたんだ。

こんな文章、いくら書いたって何にもなんないなってね。

でも、そう思ったら急に、この行為が大切なものに感じられてきたんだ。

だから、書いてる。

* 47     谷川俊太郎

時が曇った夜空に滲みてゆく
私が動くと時が雪のようにちりかかる
私の心は寒がつている
私の血だけが暖かい

(後略)



あいかわらず「時」と格闘しているね。

「時」が「空」に滲みてゆく、というのは今までの詩から想像すると、「空」が現世を意味し、「時」がその現実を無くしてしまうものと解釈できるけど、どうかな。

もしそうであるならば、一行目は、「無常」がひそかに隠されてしまったことを書いてある。

二行目はその無常観を私が再認識するということを言っているね。

ちょっと理屈っぽくなって、ごめん。

この詩で特徴的なのは、描写が強引であるということかな。

たとえば、二連目で私が「時」に火をつけ、三連目で過去と未来が燃え、「今」だけが焼け残るなんていうとこは、ずいぶん強引だよね。

だって、「時」に火をつけることだけでも、読者を勝手な場所に引っ張ってきているのに、さらにその描写を基に、空想を続けてしまうんだもの。

こういうのって、とても難しいし、独りよがりになりがちなんだ。

そういう意味では、さすが谷川さんだね。見事にやり遂げている。

最終連、「本当にあることが信じられない」って、好きな行だよ。

読んでいてびっくりする。

たしかに、僕がこの世に生きているなんて、「本当に信じられない」。

* 48     谷川俊太郎

私たちはしばしば生の影が
しめやかな言葉で語られるのを聞く
墓 霊柩車 遺言などと
けれどもそれらは死について何も言いはしない

(後略)



この詩で特徴的なのは、「私たち」という言い方をしていること。

谷川さん個人の感覚ではなくて、生を持つもの全体として物を言っているね。

それだけ直接に問題と向き合おうとしている姿勢が見えるよ。

そういう意味では、正面から「死」という言葉を使っていることも、同様に、切羽詰ったところへ来ていることを表している。

感受性の強い青年のおびえ、という場所から一歩踏み出したともいえるのかな。

それでもものの言い方は、十分に感受性を前面に出しているね。

それはそうだよ、詩作品なんだから。

だれもが驚くのは、「無を失う」というものの見方。

それから、「私たちは死をとりかこむ遠さ」というのも決まっているね。普通の詩人は、「私たちは死をとりかこむ」までで満足して終わってしまうんだ。そのあとにさらに畳み掛けるようにして「遠さ」を出すところが、すごいね。

さらに、これは僕の一番好きなところだけれど、「鏡もない死の中」という表現。

すごいよね。「鏡もない」といっているんだけども、読者はみんな一度「死の中の鏡」を想像して、覗き込むんだ。そしてその後に、その鏡が取り払われてしまう。

二重の寂しさを感じるね。

とはいうものの、本当の自分の死って、二重どころではないだろうね。

自分の死って、すさまじい厚さの寂しさなのかな。

そうではなくて自分の死って、この詩にもあるように、単に「世界と一体になれる」ことなのかな。

でもこの「一体」は、一人きりよりも、よっぽどさびしそうだよ。

* 49     谷川俊太郎

誰が知ろう
愛の中の私の死を
むしろ欲望をそのやさしさのままに育てよう
ふたたび世界の愛をうばうために

(後略)



前にも言ったけど、この六十二のソネットは、3つのパートに分かれていて、今日の49が、パートIIIの始まりなんだ。

IとIIの違いについては、詳細に見直さなければならないけど、どちらかというとIが登場する物の紹介、IIが物語の始まりっていう感じがするね。

もちろん、そんなに明確に分かれてはいなくて、Iからすでに、生に関する根本的な問題意識は書かれていて、IIでその問題がさらに深く問われている。

でも、底を流れるものは、IもIIもおんなじだね。

ところで今日のIIIの初めの詩も、流れの向きは変わっていないようだよ。

ただ、さらにレトリックが凝っていて、歯ごたえがある。

肯定(明)と否定(暗)を対比する方法が、ここでもとられている。

一連目は、(明)にひそんだ(暗)が提示され、
二連目は、(明)がうたいあげられ、
三連目は、(暗)に向かい
四連目で、その(暗)が(明)に溶けてゆく。

「愛」が(明)の、「死」が(暗)の代表として出てきている。

そういう意味では全体の構成は明確だね。

それでも個々の行は、読み解くのに苦労するよ。

たとえば、三連目の、「心を名づけることもなしに/ひとの噤(つぐ)んだ口に触れて私の知ることを/大きな沈黙がさらつてゆく」って、ちょっと読んだだけでは意味が分からないよね。

もちろん、分かる分からないの問題ではなくて、どう感じるかなんだけど。

だって、この3行は、解釈するには美しすぎないかい?

唇に触れてさらってゆく、ってなんだか不意にされた「くちづけ」のような印象を持つよね。

詩の中に出てくる「愛」っていう言葉も、そういう印象を強くしているのかもしれない。

でも、よく読んでみると、そんなうわっついたことを言っているんじゃない。

「生き死に」のことを言っているんだ。

もちろん、「くちづけ」が「生き死に」ほど重要じゃないなんて、言うつもりはないけれど。

* 50     谷川俊太郎

存在の持つ静寂は時に
無のもつそれにもましてかすかだ
だが近づくと
かれらのひそかな身ぶりがあらわになる

(後略)



一連目、「静寂」はかすかだと言っているのだから、存在は静寂ではないということだね。つまり、「うるさい」っていうことだ。

でもそれでいて、「ひそかに」動いているとも書いてある。

「うるさい」のか「ひそか」なのか、どうもよくわからない。

僕には、3行目の接続詞は「だが」ではなくて「それゆえ」のような気がするんだけど、どうだろう。

なにか読み違えをしているのかな。

まあいいか。どちらにしても一連目は「かすか」で「ひそやか」に描かれている。そういうことなんだ。

二連目はよくわかるね。

言われているのは、「自身」であることの不安だよ。

この世に一人きりで放り出された「自分」を意識しているんだ。

三連目、「人のそとに名づけられる何があるか」が、この詩のポイントかな。

他者から自分の存在を確かめてもらうことは出来るだろうか。できるわけがないと、言っているんだ。

つまり、「在る」ことの不確かさを言っているね。

その不確かさに、さらに「無」を並べているんだ。「在る」はないことなんだって言っている。

僕らはもともとなかったんじゃないか。

こうして「ひとりの中年男」として毎朝、六十二のソネットを読んでいるけどね。

そんな人、本当はどこにもいなかったんじゃないの?

* 51     谷川俊太郎

親しい風景たちの中でさえ
世界の豊かさは難解だ
久しいものの行方よりも
今あるすべてを私は知りたい

(後略)



いつものように、「しあわせな現世」と「失われゆく生」を対比しているね。

同じことを繰り返し歌っている。

それだけ谷川さんにとって、かけがえのないテーマだってことだね。

というか、詩のテーマって、ほかにはありえないよね。

六十二のソネット全体が同じことを繰り返し歌っている。

谷川さんの生が輝いているからこそ、その輝きが失われることが耐えられないんだ。

このソネットたちは、輝く生を美しく歌い、そして同時に、失われてゆくものをも美しく歌っている。

でも、やっぱり「死」がもっとも大きく扱われているから、全体のトーンは暗鬱だよ。

今日の詩では、「親しい」と「今」が輝きとして描かれ、「世界」が「死」を象徴している。

もちろん生まれてさえこなければ、「死」に立ち向かう必要はなかったんだ。

でも、それを言ったって仕方がないし、だから

倒れても倒れても、死の概念に突進してゆくんだ。

突進してゆくんだ。

* 52     谷川俊太郎  

私がこの野を歩いている時
あの森にはどんな風が吹いているのか
空があのやさしい狡さで
無を後手にかくしているうちに

(後略)



この詩では、次のステップへの心境が語られているのかな。

「不在」こそが「在る」ことよりも色濃い実感をもたらすと、言っている。

今までとずいぶん違うね。

でも、そうでもなく、いつも通りに読めるところもあるんだ。

第二連、「私から逃げてゆくもの」とは、「私の存在」のことを指しているのかな。

「不在にとりかこまれている」っていうのは、自分が無(亡)くなるという恐怖に、常に襲われているっていうことなんだと思う。

さっき、次のステップと言ったのは、第四連のことなんだ。

ここではもう、自分の生命がなくなることを否定的にはとらえていない。

むしろそのことによって、現世が満たされると言っている。

さらに、「もたれ始める」とも。

いいね、そういう考えかたって。

ぼくは今、芸大の奏楽堂の前の階段にすわって、夏の心地よい風に吹かれている。

それから膝の上に本を開き、谷川さんのこの詩を読んでいる。

これから数時間後に、娘の弾くバイオリンを聴くためにね。

風はあくまでもやわらかく、ページをめくろうとしている。

もちろん僕の生存のページも、一緒に。

* 53     谷川俊太郎

影もない曇った昼に
私は言葉の病んでゆくのを見守つていた
むしろ樹や草たちに私の歌はうたわれ
憧れはいつも地に還つた

(後略)



今日の詩では、これまでのように、目は外に向けられてはいないね。

何を歌うかを問題にはしていない。

ただひたすら、歌っている「私」について、考えている。

どんな言葉もむなしい、って言っているようだよ。

どんな表現も、人の間でしか意味を持たず、そんなの大きな目で見たら、健やかなものではないってね。

これまでさんざん美しく歌ってきた谷川さんの言葉だから、重みがあるんだ。

そして、表現のむなしさを知っている者のみが、さらにその先の表現へ突き進んでゆく資格があるんだと、言っている。僕もそう思う。

最後の一行で、谷川さんが、「私の歌われるのを私は聞く」と言っているように、このソネット群で僕たちが読むことができるのは、

生きることのすばらしさでもなく、
死の恐怖でもなく、
あくまでも谷川さんの姿、そのものなんだ。

ああ、ごめん。今日は酔っているんだ。もうだめ。寝るよ。

* 54     谷川俊太郎

私と同じ生まれのものたちから
私はいつか離れすぎた
地のものたちの間に
もはや私は帰つてゆけない

(後略)



この詩には、「愛」が3回も出てくるね。

ここでの「愛」は、根源的なもの、永遠の命に向けられている。

でも現実には、限りある命しか愛せないわけだろ。

だから、いくら愛しても、それを自分のものにはできない、真に所有することにはならない。

つまり、いつか手放さなければならないものに対しては、真の「愛」は不可能だっていっているんだ。

「誰が祈らずにいられよう/すべてが生き続けてゆくようにと」というのは、六十二のソネット全体のメッセージになりうるね。

この美しいメッセージにたどり着くために、54ものソネットを通過しなければならなかったんだ。

それにしても谷川さんは、これまでさんざん命に限りがあることを悩み、神をうらんできたけれど、ここに到って明らかに、変わったね。

「すべてが生き続けてゆく」ことを祈るなんて、これはもう、谷川さんの「愛」こそが、神の愛にでもなったようだよ。

* 55     谷川俊太郎

無為のうちに
私は私の生を実らせる
樹が佇み続けることで
生きることの大きなめぐりに与つているように

(後略)



昨日の詩でね、僕はこのソネットが新しいステップへ展開し始めたというようなことを書いたね。

命に限りがあることを、むしろ肯定的に受け止めようとしているって。

でもね。問題はそれほど単純じゃなかったよ。

今日の詩はね、はっきりと、そうじゃないんだって言っている。

この詩はね、すさまじいばかりの「あきらめ」が書かれているね。

ずいぶん元気がなくなっている。「僕なんか…」っていう感じだね。

私には知能はあるけど、そんなものは何の役にもたちはしない。結局、樹と同じように、与えられた時間だけ、自分の生を全うするしかないんだってね。

三連目、皿に自分を喩えたところなんか、どうしたんだろうと思うくらいに、喩え方が素直だよね。

全体にとても分かりやすくて、メッセージがストレートな詩だと思う。

それでも月曜日の朝、この詩を読んでから会社に向かうのは、内容が内容だからちょっとしんどいね。

「僕なんか…」なんていうやわな気持ちで、会社の仕事はこなせないよ。

* 56     谷川俊太郎

世界は不在の中のひとつの小さな星ではないか
夕暮……
世界は所在なげに佇んでいる
まるで自らを恥じているとでもいうように

(後略)



「世界」を擬人化するなんて、発想がダイナミックだよね。

ここに出てくるのは3者、「世界」と「私」と「物音」だね。

わたしの「歌」よりも「物音」の方が「世界」にとって大切だと言っている。

一見、ずいぶん強引な言葉の使い方のように見えるけど、読んでいるとだんだん強引でないことがわかってくる。

「私の歌」というのは、この世の意味や、生きていることの問いかけを指しているのかな。

それに対して「物音」のほうは、ただここにあるという「無意味性」なんだと思う。

多くを語りかけた後の「あきらめ」が、この詩で再び描かれているんだ。

全体に静かなトーンで、「世界」という言葉を使っている。だから遠景からの距離をきれいに感じることができるね。

ここまで来ると、はじめの方のソネットにあった力みの入ったレトリックが見当たらないね。

だから素直に、風景を向こうへ押しやるみたいに、広く詩を感じることができるんだ。

* 57     谷川俊太郎

私が歌うと
世界は歌の中で傷つく
私は世界を歌わせようと試みる
だが世界は黙つている

(後略)



出だしの「私が歌うと/世界は歌の中で傷つく」って、言いたいこと、すごくわかるよね。

本当のことを、ぎりぎりの気持ちで歌っているから、世界は驚き、傷つくんだ。

それだけこの六十二のソネットは、現実の胸倉を掴んでいるということだよ。

それでも言葉ができることには、限界がある。

せいぜいが真実の「表面」にたどり着くだけで、「核心」を突くことはできない。まるで真実の肩にとまる「とんぼ」のようにね。

だって、もともと生存の謎は詩人には明かされていないのだから、そんな状況で何が言えるって言えるんだい?

三連目、「かれらはものの中に逃げようとする」というのは、詩人が思考停止になってしまうってことだよ。

しょせん「星空」を歌うしかないのかって、がっかりしているんだ。

もうこの世に波風を立てずに生きてゆくしかないのかってね。

すさまじい悲しみのうちに、だから詩人は、この世の表面を歌い続けているんだ。

* 58     谷川俊太郎

遠さの故に
山は山になることが出来る
近く見つめすぎると
山は私に似てしまう

(後略)



読んですぐにわかると思うけど、この詩のキーワードは「遠さ」だね。

「遠さ」のまわりにいろいろなものを置いて、ながめている。

そして「遠さ」に対比しているのは、「人」。

こんなに短い詩の中に、「遠さ」が5回、「人」が6回も出てきている。

双方が直接に関係しているところを取り出してみるとね、次のようになる。

1.「人」をかこむ「遠さ」
2.「人」を「人」としている「遠さ」
3.「人」の中の「遠さ」
4.「人」を犯す「遠さ」

徐々に「遠さ」が「人」に接近してきて、結局中に入り込んで占領してしまうんだ。

「遠さ」という言葉自体がね、視覚的で、詩に広がりを持たせているから、読んでいて気持ちがいいし、飽きることがないね。

視点が向こうへ行ったりこっちに戻ってきたりする。目の体操のようだよ。

でも、内容はいつもと変わらないと思う。

生きていることの意識を持つ者が、その意識を否定されて、徐々にあきらめてゆく過程を書いている。

今日も同じで、ほかにはとても差し替えられない大切なテーマを、まっとうに扱っているんだ。

* 59     谷川俊太郎

云い古された言葉を云うだけで
むしろ言葉もなく
動かされる心をもつているだけで
私は満ち足りた

(後略)



一連目、旧来の詩が好きだということかな。もう少し大きくとらえるなら、現実をそのまま受け入れるということかな。

二連目は、まさしくそうした旧来の詩だね。

三連目で、そうやってずっと私は言葉を発してきた、世界に触れようとしてきたと、静かに告白している。

四連目では、あらゆるものを歌っているうちに「名付け親」になることができると言っている。

「名付け親」というのは、このソネットで私が対峙し続けてきた「神」のことを意味しているのかな。

あるいは、自分が神に生かされているという受身ではなく、自らが自らの目と言葉で世界を把握する事だってできるんだと、言っているのかな。

読みようによってはこの詩は、谷川さんが、自分の詩はそれまでの人たちの詩とは違って、もっと先へ行っているんだと、つぶやくように宣言しているのかもしれない。

そうだね。

そしてその宣言はたぶん、正しいんだ。

* 60     谷川俊太郎

さながら風が木の葉をそよがすように
世界が私の心を波立たせる
時に悲しみと言い時に喜びと言いながらも
私の心は正しく名づけられない

(後略)



これまで読んできた59のソネットが、この60番目の読みを誤らせてしまう。

でもそれは、仕方がないと思う。

だって、たしかに60は、59の次に置かれているんだ。

そういう意味でね、60という数字そのものも読みの大切な一部に入っているんだよ。

読みを誤らせてしまうと言ったのはね、どうしても「世界」が、私から生きる意味を隠そうとする神の手先のように思えてしまうからなんだ。

私は生まれ、世界を理解し、そののちに生きる意味を知りたいと思う。

そんなあたりまえの願いを叶えさせてくれない世界に対して、この詩でも谷川さんは、あきらめきっているようだね。

四連目、「私は世界になる」というのは、これだけ読めば勇ましい言葉だけれど、つらい宣言でもあるね。

私は私をあきらめて、仕方なく「世界」になるっていうんだから。

最後に「私は悔いない」って言っているけど、わざわざそんなことを言わなければ、気持ちがおさまらないんだろうな。

ああ、62のソネットも、もう終わってしまうね。僕は僕に、どんな詩を次は、読んであげられるだろう。

* 61     谷川俊太郎

心は世界にそつと触れる
その形のままに心はうなずき続ける
いま風が立つた……
いま少年が駈けてゆく……と

(後略)



このソネットも、最後に近づいてきたからかな。

ずいぶんおだやかな心境になっている。

世界と和解しようとしているようだよ。

―世界の形のままに心はうなずき
―世界と分つことの出来ない己れ
―喜びはむしろ地に帰る

すべての描写が、谷川さんが世界に歩み寄る様子を示しているよね。

この六十二のソネットは、初めのほうではかなり世界(神)に反発して、はげしい疑問をぶつけていた。

そののちに、もういいやというような、あきらめの詩がいくつか見られたよね。

でもこの詩では、だいぶ気持ちが静まったようだ。

最後のところ、せめて僕の目から、僕の気持ちを理解してくれって言っているけど、なんだかいじらしくなるね。

「世界」も「女の子」も、僕の愛をわかってもらうためには、ここまで真摯にならなきゃいけないって、ことかな。

* 62     谷川俊太郎

世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に
やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる

(後略)



とうとう最後のソネットだね。

最後にふさわしく透きとおるようなつぶやきだね。

「世界」と妥協点を探ろうとしている。

でも、必ずしも単純な譲歩ではなさそうだよ。

ここに至ってもまだ、「私」は「私」を保持し、貫こうという意志が見える。

「私はいつも世界のものだから」と言いながらも、「私はいつまでも孤りでいられる」という自負は保っている。

それでも結局はね、「私は自らを投げかける/やがて世界の豊かさそのものとなるために」という場所に落ち着こうとしている。

している?

そうじゃないね。

谷川さんの精神はそんなにおとなしくはないよ。

最後の行(ぎょう)を読んでごらん。

最後の最後まで世界にはっきりとものをいっているじゃないか。

見事だね。見事だよ。

毎日繰り返した僕の読みが、正しいのかどうかを僕は知らない。

ただ、僕はこの読み方で、谷川さんの悲しみのありどころを、確実につかんだと思う。

それでいい、それでいいと思うんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?