「現代詩の入り口」24 ― 詩の罠にとらわれてしまいたいと思うなら、金井雄二を読んでみよう

本日、対談をした金井雄二さんの詩を読みます。

金井さんの詩がいいなと、ぼくが思うのは、なんでもない時間の中にいることを書いているのに、そこから叙情がにじみ出してくると感じられる時だ。

そうか、こんなになにげないことを書いているんだと思って、読みながら油断していると、まさに詩に足をすくわれる。あっと、思って、その時にはもう金井さんの詩にとらわれている。金井さんの詩は、どこか、草原の中にひっそりと隠されている詩の罠のようなものだと、ぼくは思う。



「妹」   金井雄二

いつも鍋の蓋をあけると 嫁
に行ったはずの妹がいて 口
を開いたり閉じたりしながら
なにげなしに空気をのみこん
でいる おれが おーい と
叫ぶと ぶきような指をひろ
げてⅤサインをつくってみせ
て きっと体の具合でも悪い
のだろう と心配していると
今日はインスタント・ラーメ
ンが安い日だ と言いながら
せんべいをかじっている 午
後三時半になって蓋を閉じる
と 鍋のちょっとしたすきま
から段違いの前歯をニョキリ
とみせて お兄ちゃんがんば
りなよ とひとかたまりの
汗 を左手で投げかけてくる



「妹」について        松下育男

この詩は、鍋の中に妹がいるという、とんでもない設定です。でも、とんでもないのは、その視覚的な設定だけであって、残りはほんとに温かな情愛に包まれています。嫁に行った妹はちゃんとやっているかな、元気でいるかな、困っていることはないかなと、兄である作者は思っているのです。ホントに心配しているのです。こういうの、いいなと思います。すごく胸に沁みてくる詩です。

ただ、こういった肉親に対する愛を描いた詩と言うのは、通常どうしても型に嵌まったものになりがちで、読んでいる方も、ああこういう詩はもう何度も読んできたなという思いが湧いてきて、新鮮に受け止められないことが多いんです。

でもこの詩はとても新鮮に読む人に入ってきます。それもこれも、とんでもない設定によって書かれているからなのです。

鍋の蓋をあけると嫁に行った妹が見える、という図は、そのまま想像しても面白いのですが、この鍋は妹さんが生きている世界であり、その世界の空の蓋を、神様のようなものが俯瞰している感じです。

この詩での作者の視点は、神様が空から人間を見ている視点と同じです。手は出せないけど応援しているよと、言っているのです。空からじっと見つめていると、妹さんはしっかりそれに気付いて、空に向かって合図をしているのです。

いいな、いい詩だなと、思います。



「動きはじめた小さな窓から」  金井雄二


だれもいない駅で
だれかに声をかけられた
ふりかえると
発車の笛がなり
扉が閉まろうとしていた
プラットホームと車輛のあいだには
境界線のような黒い隙間があり
それをまたいで列車に乗った
動きはじめた小さな窓から
ちぢんでいた手を不意に突き出し
おおーい!と言って
そのままおもいっきり手を振った
やはり駅にはだれもいなかった
四人掛けの席に一人で腰かけたとき
窓で四角く区切られていた空の青が
少しずつはっきりとしてくるのを感じていた
さきほどわたしはあの駅で
わたしの大事な人と話をしたのを思いだしていた



「動きはじめた小さな窓から」について         松下育男

この詩は、語り口がとても重要なことを話しているように感じます。それなのに、どんな状況なのか、詳細が書かれていません。

書き出しから「だれもいない駅で/だれかに声をかけられた」と、ありえないことを言っているわけで、つまりはここにいないものから語りかけられ、それに反応をしています。ですから、そのあとの、プラットフォームとか車両とかも、本当に目の前にあるものなのか、それともここにはないものをあるかのごとくに思っているだけなのかが、わかりません。

「プラットホームと車輛のあいだには/境界線のような黒い隙間があり」とあり、この黒い隙間こそが、現実との距離でもあるのだと思います。

それでもここになさそうな車両にのり、ここになさそうな席につき、ここになさそうな窓をあけて、ここにさなそうな空を見上げています。おそらく、自分自身も、ここにあるのかどうかの手応えがなかったのだと思います。

そんな曖昧な世界が、最後に変化してゆきます。「少しずつはっきりとしてくるのを感じていた」とあり、「さきほどわたしはあの駅で/わたしの大事な人と話をしたのを思いだしていた」とあります。

つまり、ここに、明確にいたのは大事な人であり、その周りの世界のあらゆるものは焦点がぼけていて、あるのかどうか問題にならなくなっていたのです。

これは一途な恋の詩なのだなと、感じます。好きな人のことを考えれば、その人のことばかりを考えるようになり。あとはそこにあるかどうかも、わからなくなるのです。

あるいは、もともと駅にいなかった人を、あたかもいるかのごとくに思うほどに思い詰めていて、いない人に本当に語りかけでもしたのでしょうか。



「歩いて手紙をだしに行く」        金井雄二

ポストまで歩いて手紙をだしに行く
家をでて左に曲がり
十字路を右に曲がり
二つめの信号を左に曲がるのだ
書かれねばならなかった
文字の束を
手に持って
決して短い道のりではないが
ぼくは歩いて手紙をだしに行く
犬がむじゃきに片足をあげている
太ったおばさんが一生懸命に自転車を漕いでいる
若葉が風にふれて何かしきりに訴えている
死を考えるのは
あたたかい陽をあびながら
生きているものを見たときだ
あと倍ぐらい歩くと
ぼくは確実にポストにつくだろう



「歩いて手紙をだしに行く」について       松下育男

金井さんの詩がいいなと、ぼくが思うのが、なんでもない時間の中にいることを書いているのに、そこから叙情がにじみ出してくると感じられる時だ。

そうか、こんなありふれたことを書いているんだ、と思って、読みながら油断していると、まさに、詩に足をすくわれる。あっと、思って、もう金井さんの詩に囚われている。どこか、草原の中にひっそりと隠されている詩の罠のようなものだと、ぼくは僕は思う。

この詩もそうだ。手紙を出しに家からポストに向かって歩いているだけの詩だ。それだけの詩なのかなと思って、油断をしていると、その油断を見透かしたように、「死を考えるのは/あたたかい陽をあびながら/生きているものを見たときだ」という重要な詩行が差し出される。

詩の中の、明るい日差しの中をのんびり歩いていたのに、急に生きていることの意味を考えさせられる。この落差が、詩の感動となってぼくらの中に残ってゆく。

死とは何かと、大上段に構えている詩も、ぼくは嫌いではないけれど、金井さんの詩のように、ある日、誰かからきた何気ない手紙のように、ひそやかに届けられる詩も、ぼくは好きだ。

その手紙には、間違いなく。「書かれねばならなかったっ/文字」が、罠のように書かれているのだ。



「今、ぼくが死んだら」               金井雄二

今、ぼくが死んだら
と思いながら起きあがった
ブラインドの羽根を人差し指で押し下げて外をみる
斜めになった陽射しが入る
午後なのに子どもたちの歓声がない
救急車のサイレンが遠くで鳴っている
時計の秒針が動く
スヌーピーのぬいぐるみがカタッと動く
お腹を押すと笑いだす玩具を遠ざける
タオルケットをかけなおしてから移動する
別の部屋に入る
ドアは閉めない
ほっとする
音楽はやめておく
大好きな詩集を手にとる
外は木枯しだが、中は暖かい、そんな詩集だ
髪の毛を梳かしていないことに気づく
顎の先にうっすらと髭が伸びているのがわかる
詩集を一冊読む
いいなぁ、と思う
どのくらいの時間がたったのだろう
外で子どもたちの声がひびきはじめた
詩集をもとの場所にもどす
先ほどの部屋へ様子を見に行く



「今、ぼくが死んだら」について                 松下育男

この詩は、タイトルにもある通り、「今、ぼくが死んだら/と思いながら起きあがった」という詩です。つまり、単に「今、ぼくが死んだら」と思っただけなのです。でも、不思議なことに、この詩を読んでいると、死んだ人が起きあがって、生前の自分の家を歩いているような感じを持ってしまうのです。

詩とは不思議なものです。たとえば、「わたしは生きている」という一行を書くと、読む人は、その人が生きていない場面をも想像してしまうのです。言葉というものは、いったん発せられると、まさにその言葉の意味だけではない意味をも、読む人に伝えてしまいます。

それで、繰り返しますと、ぼくはこの詩を、すでに死んだ人が家族の中を歩いているような感じで読んでしまうのですが、その理由の一つに、物音がしない、ということもあるのではないかと思うのです。現実の世界の物音がすべて消え去っているところを歩いているようです。

最初の方の、その場の情景を描いているところは本当に見事だと思います。そして、「スヌーピーのぬいぐるみがカタッと動く/お腹を押すと笑いだす玩具を遠ざける/タオルケットをかけなおしてから移動する」というところは、まだ小さな我が子が、タオルケットをはだけて眠っているのを直してあげている、ということのようです。ここを読んでいると、本人が生きていようと死んでいようと、その優しさと行為は、なにも変らないのだと思われ、ぐっときます。

そして後半では、好きな詩集を出して読みます。詩集を読み終わって「詩集をもとの場所にもどす」その手は、すでにこの世にはない、透明な手であるかのように、ぼくはつい考えてしまうのです。



「黄金の砂」               金井雄二

二本の足で
自分の体をささえる
右足を前におくりだす
左足を前にあずける
そうしてほんの少し移動する
右手が宙に浮く
左手が空をきる
バランスをとっている
頭がおもい
数メートルで尻をつく
見あげる
ぼくの顔を見ている
眼があう
その眼がほそくなり
前歯二本がまぶしい
座りこんだまま
ふいに
手を砂にうずめる
指がなくなる
手の甲もみえなくなる
やがて小さな握りこぶしがあらわれる
ふたたび
二本の足で
ようやく自分の体をささえる
右足を前におくりだす
左足を前にあずける
手が握られているので
よろけそうになる
握っていた手をさしだす
ぼくは彼の眼を見ながら
ありがとう
と言って黄金の砂をもらう



「黄金の砂」について   松下育男

数えたわけではないのですが、感覚として、金井さんの詩には、動作を描いている詩行がよく見られます。それも確実に動くものを描く。腕の伸ばしだったり、右左と歩いたり、そんな、確かに自分の肉体を動かして、着実に何かを成し遂げるところから詩を生み出している。そんな感じがします。

この詩はまさに動作をひたすら描いています。

この詩は、動作を描いていますが、そして、始めは自分の動作かと思って読んでいたのですが、「見あげる/ぼくの顔を見ている」のところで、動作の主は自分ではないことがわかります。そうすると、最初のおぼつかない動きが、自分の小さな子どものものであることが想像できます。

「前歯二本がまぶしい」とあるのは、まだほかの歯が生えてきていない頃、ということでしょうか。

子どもを見つめて、そのゆっくりとした、意味のない動作をいとおしげに見ている眼差しの優しさが、充分に伝わってきます。

そうすると、子どもが差し出してくれた手の中の砂が、単なる砂場の砂ではなく、今という掛け替えのない時を含んだ、価値のある砂だということが伝わってきます。



「やさしい木陰」         金井雄二

一本の樹の下に立っていた
耳の奥がツンとして
汗が水滴をつくって
のどが渇いて
でも休むつもりじゃなかったんだ
坂のてっぺんにある出張先
長い石段を
一歩一歩のぼって
やっと中腹まで来て
折れまがった踊り場に
一本の樹とやさしい木陰を探した
早くしないと午後からの
大切な会議におくれちまうけど
心のどこかで
ちょいと休みなよ、おじさん
と誰かが言ってたんだ
くるりと風が巻いて
シャツの襟を吹き流した
ぼくはハンカチを握りしめ
汗をぬぐった
見渡すと
下には小学校が見えて
だれもいない校庭は異様に静かで
ただスプリンクラーが
水しぶきをあげていた
校庭の外側をかすめて
髪の長い女性が
キラリと光るまぶしい自転車に乗って
走っていくのが
見えた
音のない世界を涼しく切りひらきながら



「やさしい木陰」について      松下育男

この詩を読んでいると、一枚のさわやかな絵を見るようです。坂の途中から下を見下ろした風景の描写からは、詩の外にまで夏の日差しが照り返してきそうです。はるか遠くの見える、広がりをもった詩です。そしてこの、のびやかな広がりは、詩の中だけではなく、作者の気持ちの中にまで広がっているのです。

でも、作者の中の気持ちは、能天気に広がっているのではありません。会議に間に合うために、仕事途中で、つまりがんばっている途中で立ち止まっているのです。どんな会議なのかは分かりませんが、たぶん、そんな楽しい会議ではなさそうです。むしろ、出るのが嫌な会議なのかもしれません。

そんな会議に向かう途中で、
「心のどこかで/ちょいと休みなよ、おじさん/と誰かが言ってたんだ」と詩の中にあります。
でも、そんなことを言ってくれるのは、自分だけなのです。つまり、がんばるのに疲れて、ちょっと怠けてしまいたいという、悲しい欲望なのでしょう。

坂の途中で下を見たという、たったこれだけの詩が、この人の仕事ぶりや、日々の一生懸命さまでを想像させてくれる、やはり、とても大きな広がりを持った詩なのだなということがわかります。



「足袋とUFO」         金井雄二

ちょっと不思議な話です。足袋を履いたのです。運動会に。小学校の秋の大運動会に白足袋を履いたのです。足が軽くなるからでしょう。それに素足じゃないので、ちょっとした危険防止にもなります。足に固定する金具「こはぜ」はついていません。そのかわり、足首の部分にゴムが入っていて、するりと足が入れられるようになっています。底も布生地。運動会のときに一日だけ履く足袋。一日で擦り切れる足袋。ぼくはその足袋を小学校一年から三年まで三回履きました。三度目の時はゴム底になっている地下足袋でした。不思議な話はここからで、ぼくの同年代にこの運動会の足袋を尋ねてみましたが、誰一人として知らないのです。かえって笑われる始末。さらに不思議なのは、ぼくよりも上の世代の人たちも運動会の足袋の記憶はないというのです。もっと不思議なのは、ぼくの同級生さえも、ぼくは靴だった、という答えです。足袋は運動会の前日ぐらいに、業者が売りに来ていたのです。学校の講堂の隅で、大量の白足袋を拡げて。ぼくたちは並んで足袋を買ったはずなのです。業者までいて、皆で一緒に買ったのに、誰一人として知らないとは、ちょっと不思議な話なのです。不思議な話はもう一つあって、ぼくは運動会の帰り、大山の頂方面から不規則な動きをする飛行物体を見た事があるのです。鳥ではなく、飛行機ではなく、ロケットでもなく、流れ星でもないもの。空を飛ぶ物体としてはあきらかに不自然な動きをしているもの。ぼくが目撃したものは白い光を発して、放物線を描くように回りながら移動し、スッと消えていったのでした。運動会の帰りだったので、午後の三時頃のことだったでしょう。打ち上げ花火だったとは考えられず、宇宙から落下してきた宇宙ゴミだったのでしょうか。それにしても不思議なものを見たもので、これは絶対にぼくのUFO体験だと思うのです。またそれが、運動会の帰りだったことで鮮明な記憶になっているのです。足袋の話をすると、皆が皆、笑いながら知らないを繰り返していますが、UFO体験の話をすると、あっ、それならぼくも経験があると、数人に一人は必ず得々と、自らのUFO体験を語りだす人がいるのです。ぼくにとって、これが一番不思議な話なのです。



「足袋とUFO」について                            松下育男

ぼくは金井さんよりも9つ年上なので、昔を生きていましたので、運動会で足袋をはいたことがあります。でも、その足袋はこはぜがついている足袋でした。足首にゴムの入っている足袋なんて見たことがありません。

この詩は、二つの不思議な話が書いてあって、不思議な話というよりも、どこか心温まる話になっています。

それでも不思議は不思議で、前半の足袋の話は、たしかに、自分の記憶がどうなっているのか、あるいは世界が入れ替わってしまったのか、それとも夢でも見ていたのかと、さまざまなことを考えさせてくれます。なんとも楽しい推論です。「足袋は運動会の前日ぐらいに、業者が売りに来ていたのです。」とまで具体的に説明されると、じつに不思議な気持ちになります。「皆で一緒に買ったのに、誰一人として知らない」というのは、たしかに恐いものを感じます。

さらに後半は、その運動会の帰りにUFOを見たという、別の不思議な体験について書いてあります。
ぼくがこの詩で好きなのは、UFOの方は、何人か見たことがあるというところです。このへんのつじつまの合わない体験記が、妙にリアリティーをもっていると感じてくるのです。突拍子もない想像ですが、そのUFOが、多くの人の、足袋についての記憶に何かいたずらをしたのではないか、あるいは精神を乗っ取られたのではないかとも、思えるのです。

と、こんなことを考えてしまうということは、まんまと金井さんの話にとらわれてしまっているということです。なんとも、読んで実に楽しい詩です。



「蓋と瓶の関係」         金井雄二

蓋の欲望は
瓶の上に乗ることだ
ぼくは瓶の中から
ジャムをすくい
パンにぬりおわると
蓋をしめる
平均的な力を
だんだんと加える
蓋は瓶の縁を
幾重にもなめるように
合わさっていく
がっしりとかさなる
それは純粋な幸福感
子どもがきて
蓋を開けようとしても
あかない



「蓋と瓶の関係」について            松下育男

すっきりとした詩です。蓋が瓶にぴったりと収まるその心地よさを感じます。詩の長さも、適度な長さで読む人の気持ちにぴたりと嵌まっている感じです。

どこもかしこも気持ちのよい詩です。単なる動作や動きを丹念に描くことで、なぜこうした詩ができるのかが不思議です。

そして、この詩には、自分の思いとか、悩みとか、苦悩とか、孤独とか、詩によくある思い入れが全く入っていません。ですから、書きすぎる、ということがないのです。

世界はこうしてあり、私は世界にがっしりと重なっている。

ぼく以外に、ただひとり出てくる生き物が、最後の方の「子ども」です。でも、これも、「子どもがきて/蓋を開けようとしても/あかない」と、単に動作を書いてあるだけです。それなのに、子どもがあけて大変なことにならないようにという、思いやりがこの詩の奥から透けて見えます。

最後の方に書いてある「幸福感」とは、単に蓋と瓶ががっしり重なる気持ちの良さだけではなく、心配することのできる子どもとの生活をも表しているものとも言えます。あるいは、幸福な親と子はそのまま、瓶と蓋の関係なのかもしれません。



「わが家」       金井雄二

むかしここに家があったことなど
他の誰かさんには
まったく関係のないことだ
家には情けない両親がいて
しっかりものの姉ちゃんがいて
だめなぼくがいて
よく笑う妹がいた
そんなことは他の誰かさんには
まったく関係のないことだ
夫婦喧嘩があって
泣いて笑って
家族はいつもごちゃごちゃだったけど
他の誰かさんにはそれこそ
まったく関係ないことだ
これはわが家のことであるから
これはぼくの家族のことであるから
家族は個々に独立し
父は死んだが
ぼくらは別の場所で生きている
だけどきっと 世界の涯まで
ひとつの家の中で
家族はつながっているものなのだ
それは他の誰にも
けっして関係されたくないことでもある



「わが家」について    松下育男

「むかしここに家があった」ということは、今は更地にでもなってしまったのでしょうか。昔自分が住んでいた家のあった場所を、月日が経ってから訪ねる、ということを、ぼくもします。僕の場合は、大田区西六郷のわが家があった場所には、別の家が建っていまして、今は知らない人が住んでいます。ぼくは歳をとってから何度かその辺を歩いては、かつての家の事や家族のことを思い出しては、懐かしくて泣きそうになるのです。

この詩に書いてあるのは、どこにでもありそうな温かな家庭です。どんな家族も経験しそうなつらい日々や楽しい日々を過ごしてきた普通の家族の姿です。

金井さんは単に自分の家のことを書いているだけなのに、この詩を読んだ多くの人は、自分の家族を思い浮かべるだろうと思います。

なんだか、小箱の中にしまっておきたいような詩です。昔を懐かしんで、家族のひとりひとりを思いやって、亡くなった親を思って、しんとした気持ちになりたい時には、この詩を小箱から取り出して、読み返すとよいと思います。



「ダンスしてみた」       金井雄二

ぼくの頭のなかに
腕に金色の毛がいっぱい生えた
太ったアメリカ人の男性が現れて
もしかしてレイモンド・カーヴァーかな
どうだね、きみ
ダンスでもしてみたら?
とささやいた
ダンスなんかしたこともないけど
足を動かしてみた
いっしょに踊る相手もいないので
ひとりで
ひっそりとした部屋のなか
音楽もかけずに
踊ってみた
ぼくだけのダンス
どうやって足を動かしたものか
わからない
ゆっくり
ゆっくり
踊ってみた
足だけではなく手も動かしてみた
頭のなかで次の動作を考えて
体を動かした
ダンスなどとはほど遠い
めちゃくちゃな踊りかもしれないけれど
いつしか考えなくても
手と足がかってに動きだした
ダンスしてみた
酒を飲んだわけでもないが
酔った
ぼくはなぜだかとってもうれしくなり
手をさしだした
きみがそこにいて
ぼくの手をとってリードしてくれたのだ



「ダンスしてみた」について                       松下育男

この詩を読んでいると、なぜかすごく悲しくなります。どこか自分のことのようで、悲しくなるというよりも、自分がいとおしくなってきます。

この詩はダンスをする詩です。けれど、きれいに、あるいは上手にダンスをする人の詩ではありません。

「ダンスなんかしたこともないけど」という人(つまり僕や君のことだ)が、ぎこちなく手足を動かしてダンスのまね事をしてみる、という詩です。
たったひとりの部屋の中だったとしても、ダンスなんかしたこともないのに、手足を動かすというのは、とても恥ずかしいことです。その恥ずかしさは、生きて行く困難さにも繋がっていて、確かに生きて行くって、うまくできないことがどんどん打ち寄せてきて、それに立ち向かうことなんだなと思うのです。

ダンスをやったこともない自分が、さてやってみようかと思って、立ち上がる時に、やけっぱちの勇気を出すのだろうなと、そのことも、なんともいとおしく感じるのです。

この詩を初めて読んだ時に、ぼくはあまりに感動して、深い溜息をついたことを、今でも思い出します。



「それは猫だね」         金井雄二

きみがかかえている
茶色いどこにでもあるトートバッグ
肩にかけ
腕をまわし
大事そうに
何がはいっているの
猫でしょ
それは猫だね
猫にちがいない
きみは猫が好きだし
飼いたいといっていて
財布や手鏡なんて入っちゃいない
本も手帳も携帯も
なんにも入っちゃいないんだ
なかに潜んでいるもの
それは猫だね
猫はひとりで生きられない
きみにかかえられて息をする
猫の毛のなかにはきみの毛が生えている
猫はだれかにささえられて
怠惰の海を泳いでいる
ぼくが持っていてあげようか
おもそうな
きみがかかえているものを



「それは猫だね」についての感想       松下育男

この詩は、君が猫を好きだ、ということを書いてありますが、よく読んでみると、ぼくは君を好きだ、ということを言いたいがための詩のような気がします。

最後の「ぼくが持っていてあげようか/おもそうな/きみがかかえているものを」の3行は、とても優しい提案です。そしてこの君は、ぼくの恋人のようでもあり、あるいは子どもであっても成り立ちそうです。ともかく、大切な人の役に立ちたいということを言っています。

そしてその申し出は、あたかも君が君の猫を思いやるのと同じように、生きていることを支えています。

「猫はひとりで生きられない/きみにかかえられて息をする」。よい言葉です。そしてこの詩を読む人は、「猫」と「きみ」を、その人なりの誰かに置き換えて、抱きしめるようにして
読める詩です。




以下、それぞれの詩の収録詩集です。
 
第一詩集『動きはじめた小さな窓から』(ふらんす堂 1993)
  妹
動きはじめた小さな窓から

第二詩集『外野席』(ふらんす堂 1997)
歩いて手紙をだしに行く

第三詩集『今、ぼくが死んだら』(思潮社 2002)
今、ぼくが死んだら
黄金の砂

第四詩集『にぎる。』(思潮社 2007)
やさしい木陰

第五詩集『ゆっくりとわたし』(思潮社 2010)
  足袋とUFO

第六詩集『朝起きてぼくは』(思潮社 2015)
  蓋と瓶の関係
  わが家

第七詩集『むかしぼくはきみに長い手紙を書いた』(思潮社 2020)
  ダンスしてみた
  それは猫だね

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