詩を書くことの意味を考えてみよう。

ひとつの例を見てみよう。

(例1)Aという人が、ある詩に感銘をうけた。その人は、自分も詩を書いてみたいと思った。書いてみた。思ったよりも素敵な詩が書けた。人に見せたら、よい詩だと言われた。詩集を出し、賞をもらい、詩を生涯書き続けた。

多くの詩を書こうとする人は、自分がAになりたいと夢見ているのかもしれない。ところが、現実はままならない。Aになる人もいる。でもすべての人ではない。

もうひとつの例を考えてみよう。

(例2)Bという人が、ある詩に感銘をうけた。その人は、自分も詩を書いてみたいと思った。書いてみた。思ったよりも素敵な詩が書けた。人に見せたらよい詩だと言われ、詩集を出し、賞をもらった。でも、人生は長い。そのうちに限界を感じ始めた。思うような詩が書けなくなった。詩を書くことが楽しくなくなってきた。むしろ苦しくなってきた。人の成功を妬んだ。いらいらしてばかりになった。苦しみながら、でも詩を生涯書き続けた。

Bのような人を、だれも責められない。Bになる人は多いだろう。ぼくも似たようなものだった。どうしてこうなってしまったのだろう、何かがおかしい、と思いながら、なかなか苦しみから抜け出せない。だからぼくは、詩をやめた。それもひとつの道だと思う。いつか、詩との、別の付き合い方ができるようになるまでは、詩を書くまいと決めた。

さて、また別の例を見てみよう。

(例3)Cという人が、ある詩に感銘をうけた。その人は、自分も詩を書いてみたいと思った。書いてみた。自分ではよくできたと思った。でも人に見せたら、ほとんど反応がない。雑誌に投稿もしたし、何度も人に見せたけど、すばらしい詩だとは言われたことがない。それでも詩を書くことは好きだし、詩を生涯書き続けた。

Cにとっての詩に意味はあるだろうか。ぼくはもちろんあると思う。人の詩を読んで感銘し、自分が詩を書いて楽しい。それ以上の、詩とのすぐれた付き合い方はあるだろうか。

もちろん、自分が書いた詩を人に見せて、認められることはすばらしい。けれど、認められるとか認められない、ということには、様々な要素が含まれている。

自分の詩はその時代に合っていなかったのかもしれない。あるいは、自分を引き立ててくれる人に巡り会えなかったのかもしれない。つまり、運がなかったのかもしれない。さらに、自分の書いた詩は、読む人にとっては、魅力的に感じられないかもしれない。

でも、理由はどうあれ、そんなことはなんだろう、とぼくは思う。

時代も、状況も、自分の能力も、なんとかできるところまでは努力するけれども、結局のところ、どうにもならないこともある。どうにもならないことを恨んで暮らしていきたくはない。

詩との関係で間違いがないのは、あるいは、最後まで信じられるのは、人の詩を読んで感銘することができ、自分が詩を書いて楽しいと感じることができる、それだけなのではないかとぼくは感じる。

それ以上にいったい何を望むだろう。ぼくの理想は、

自分が書いた詩を好きでいられること、
自分が書いた詩に好きになってもらえるような人でいられること、

それだけだ。

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