「同時代の詩を読む」(16) -(20) :ノブセノブヨ、佐野豊、葛西征子、嘉陽安之、立石俊英

「同時代の詩を読む」(16) -(20)

(16)

「蜜柑」   ノブセノブヨ

帰り道は薄暗い
一日を吞み込んだにしては
嫌になるほど軽い一日
こんなもののために
こんなものとして過ごしたのであるらしい

街灯の側の暗がりに蜜柑の木があって
実の部分だけ弱い光を集めて少し明るかった
それがなんだか申し訳なくて
やさしい人にはもう祈らないで欲しかった
そういう季節をもうずいぶん長いこと
繰り返してきたのであるらしい

いつの頃からか 何処にいても
蜜柑の葉が頭の上にいるようになって
見上げるとふさふさと音がする
ある日 会社の人にそれは何かと聞かれ
うまく答えられなかった

うまく答えられなかったのは何故だろう
と考えながら
また街灯の側でうつむいていた
少し離れたところで
人間のかたちをした影が
静かに育っていた

翌朝、どくどくと手のひらが脈打って
薄っすらと太陽が流れていた
もしやと思い匂いを嗅ぐと
鼻が冷たかった

こんなに不思議なほど生きていることを
どうやったらうまく答えられるかな
と考えながら
ので あるらしい
を連れて電車に乗った

「蜜柑」についての感想   松下育男

 詩にしか書けないこと、というのがあります。どういうものかというと、この詩を読めばわかります。詩という形式の利点を目一杯活用できていて、ほかの形式には注ぐことのできない表現や内容に満ちています。どの言葉も、触れれば新鮮な血が指先から迸ってくるようです。

 最終連の「こんなに不思議なほど生きていることを/どうやったらうまく答えられるかな」の二行がこの詩の中心でもあり、さらに言えば詩というジャンルの真ん中にある言葉なのかなと思いました。この二行は真摯な疑問であり、詩への真面目な返答にも読み取れます。

 言葉を言葉のままに詩の中に放り出すのではなく、作者がひとつひとつを吟味して、磨き上げてから詩の中に置いています。無駄な行はなく、特に二連目の「それがなんだか申し訳なくて」、あるいは五連目の「もしやと思い匂いを嗅ぐと/鼻が冷たかった」など、直に受け止められる言葉が並んでいます。

 中でも僕が一番好きなのは三連目です。「いつの頃からか 何処にいても/蜜柑の葉が頭の上にいるようになって/見上げるとふさふさと音がする」というありえない情景が、なんだか妙に説得力を持っています。奇想と言えば奇想なのですが、理由のある奇想、納得のできる奇想、そんな感じがします。さらにこの奇想の処理の仕方も「ある日 会社の人にそれは何かと聞かれ/うまく答えられなかった」と、決着をつけない答え方がとても納得できます。

 生きていることの明るさと不安感がしっかり書かれている詩です。自分の頭だけで考えられて詩が作られています。詩はこうでありたいと思います。すばらしい詩です。


(17)

「朝 アパートを出たら」        佐野 豊

いってきます をして
扉をあけると
え 
うそ
空がきれい
そんな
声があがる

にしがわ と
ひがしがわ に
べつべつの
いろいろ

ここから
すこし遠くの喫茶店で
いちにち
きみが働いてくるために

にらめっこ
しましょう
笑うと負けよ
してたのか

どんな あわいを
みたんだろ

むこうの
空と
あちらの空に
挟まれて ふたり

いってらっしゃい
いってきます

「朝 アパートを出たら」について      松下育男

 幸せな人はよい詩が書けない、と昔から言われています。本当でしょうか。そんなことはないと思います。例えば今日の詩はどうでしょう。この詩の中にはまんべんなく幸せが満ちています。

 この詩を読んでいると、なにかひろびろとしたものを感じます。詩の中に空があるからです。詩の中に適度な距離があるからです。その空の下では「すこし遠くの喫茶店で/いちにち/きみが働いて」いるようです。「きみ」というのはおそらく好きな人のことです。人が人を好きになるって不思議です。不思議ですが、とんでもなく嬉しくなることでもあります。

 ところで「にしがわ と/ひがしがわ に/べつべつの/いろいろ」とありますが、「べつべつの いろいろ」とは何でしょう。西側の空の下のできごとや人々と、東側の空の下のできごとや人々、ということでしょうか。よくわからないけど、とにかく「いろいろ」なのでしょう。詩ですから、それでかまわないのです。

 あるいは、西側には「きみ」がいて、東側には「ぼく」がいるのかもしれません。ですから、にらめっこをしているのは西側と東側であり、きみとぼくでもある、ということのようです。大人になってもにらめっこをするのは、たぶん恋をしているせいです。

 この詩で一番好きなのは三連目です。喫茶店の中で働いている「きみ」の様子が目に見えるようだし、呼吸の音がはっきりと聞えてくるようです。

 きみが働いている喫茶店の上には立派な空があり、ぼくが働いている場所にもまぶしい空があり、夕方になれば、それぞれの空をきちんとたたんで、同じ家に向かうのでしょう。

 ところで、作者の佐野さんはついこのあいだ結婚をしました。幸せな人にも、やはりよい詩は書けるのです。

(18)

「半世紀以上まえの
雪国の」          葛西征子

窓をがらりと開け放ち
男子生徒がスコップで
雪を放りこむ
じゃんじゃん
放り入れる
廊下は
雪でいっぱいになる
さぁ、それからだ

歓声をあげながら
尻もちをつきながら
手をつなぎながら
すべる
木の椅子を持ち出して
それにつかまりながら
すべる
何かをお尻の下に敷いて
橇にして
すべる
こちらの端から
あちらの端へ
何往復も何往復もする
廊下は束の間
ゲレンデの賑わい
その隙間をぬって
荒縄のたわしで床を
ごしごしこする者もいる
みんな仲良く溶けあって
雪の色が
黒ずんでくると
もうおしまいだ
今度は
雪を外に掻き出す
女子生徒は箒を使って
心を込めて隅々まで
綺麗にする

体がぽかぽかし
汗をかいて
お腹もすいた
お昼の時間だ
教室に戻ると
タクアンの匂いが
「臭い」と書くべきか
漂っている
犯人は
ストーブの上に乗せて
温められていた
いくつもの弁当
空腹を満たしながら
達成感をじっくりと味わう
午後の授業は多分
居眠り続出だったに違いない
記憶にないけど

廊下は
掃き清められて新年を
迎えるばかりになった
神社の境内のように
清々しく鎮まっている
半世紀以上まえの
雪国の
木造校舎の大掃除



「半世紀以上まえの/雪国の」について       松下育男

 この詩は読んでいて、その様子が目に見えるようです。生き生きと描かれているその様は、空想ではなく、大切にしまわれていた記憶によるものだからであると思います。

 最初、廊下に雪を放り入れると書いてあって、なぜそんなことをするのだろうと思います。イタズラかなと思います。そのあと廊下で雪遊びが始まって、そうか、そういうことかと納得します。さらにその遊びが掃除につながってゆくこの展開は、読んでいて発見があり、実にわくわくした気持ちになります。

 あれこれ考えるのではなく、実際にあったことそのままを書いてゆく。それが見事な詩になってゆく。この内容は、実際にやったことのある人でなければ決して書けません。息遣いの声や、白い息の様子や、成長過程の伸びやかな筋肉のさまがまざまざと描かれています。

 子どもの頃の真に楽しかった記憶というのは、読んでいるだけで自分の体験のように感じられてくるから不思議です。難しいことを考えずに、記憶をそのまま心を込めて書いてみれば、それは一篇の心動かされる詩になるのだなと思いました。本当の思い出というのは、なんと詩を鮮やかに輝かせてくれるものなのだろうと、あらためて思いました。

 「箒を使って心を込めて隅々まで綺麗に」しているのは、その時の廊下だけではなく、この詩の一行一行と、そのすき間でもあるようです。

(19)

「魔法」    嘉陽安之

父という漢字を書いて
横に
ぱぱ と
得意気に
振り仮名をふる
幼稚園の娘

読み方は間違ってるけど
父という漢字が
やさしい
パパに変身した

僕が
鬼と書いて
(知ってる 「おに」でしょ)
アニメにあるもん)
ママって
振り仮名をふって
娘と二人で笑う

ねえ
この漢字何て書いたの?
何で私の名前横に書くの?

いつか分かるよ
ずっと
振り仮名みたいに
そばで見守っていたいな

僕が書いたのは
幸福という漢字だ
娘の名前を
振り仮名にして

「魔法」について      松下育男

 読めばだれでもわかる詩です。そういう詩がめずらしい、というのも考えものですが、ともかくこの詩は、だれが読んでもわかるし、わかるだけではなくて、幸せな気持ちになることができます。

 この詩に出てくるのは、お父さん(作者)と幼稚園児。少し漢字が読めるようになった頃でしょうか。「父」と書いてパパとフリガナをつけ、「鬼」(鬼滅で覚えたのでしょうか)と書いてママとフリガナをつけて笑う。なんともほほえましい状況です。

 この詩のすぐれているのは、そこで終わらないところです。もう一押しをしているところです。そこまで読んで、すでにいい詩だなと思っているところへ、追い討ちをかけるように、「幸福」と書いて娘の名前をフリガナにつける。ぐっときました。読んでいて泣きそうにもなりました。

「ずっと/振り仮名みたいに/そばで見守っていたいな」

泣きそうになったので、これ以上感想が書けません。

(20)

「過車」    立石俊英

 遠い昔、冬の夜のこと。生家の庭で父と焚き火を囲んでいた。炎は絶えずゆらめいていて、片時も同じ形をしていない。炎に定形がないこと、炎は炎の形をしていることに気づいた私は嬉しくなり、その発見を父に報告していると、道の向こうから荷車を曳いた男がやってきた。

 隣、よろしいですか?

 男が私たちに尋ねると、父は頷いて椅子をすすめた。父の隣に腰掛けた男は焚き火に手をかざして目を細め、ぽつりぽつりと話し始めた。

 『猿の手』という小説をご存知ですか? イギリスの小説家が書いた、暗い物語です。猿の手のミイラが願いを叶えてくれるという筋書きなのですが……。作中で老夫婦が「お金が欲しい」と願うと、彼らの一人息子が職場で死んでその補償金が支払われる。望みが望まない形で叶うことへの皮肉とでも言いましょうか。この頃、この物語をよく思い出すのです。
 私は、無能な人間です。かなしいほどに、能力がありません。人の役に立てないどころか、自分が生きていくのもままならない有様です。もし百年前に生まれていたら、疾うに社会から淘汰されていたはずの生物です。ところが現代は多様性の時代ですから、私のような弱者を勝手に間引いてはいけないことになっています。そのおかげか、そのせいか、私は今もこうして生き続けています。

 男が何を話しているのか、幼い私には理解できなかったが、目の前で淡々と語り続ける見知らぬ男が恐ろしくて、私は父にぴったりと寄り添って上着の裾を握りしめていた。父は、瞑目して男の話に耳を傾けていた。

 私が無能であることで、私自身が悔しい思いをするのは別段構わないのです。ただ、家族や友人を失望させることだけは、どうにも堪えられませんでした。有能な人間になれば、もう二度と大切な人たちを苛立たせずに済むと思い、死に物狂いで勉強して技能を習得しました。
 そうして今、できることがたくさん増えました。昔よりもはるかに多くのものが視えるようになりました。普通の人と同じ給料を、もらえるようになりました。私の望みは叶ったのです。それなのに、どうしてでしょうか。かなしい思い出と背負う十字架ばかりが増えていくのです。有能な人間になれば、こんな思いをせずに済むと信じていたのに、わからないことだらけです。

 父は変わらず瞑目したまま樹木のように静かで、薪の爆ぜる音だけが響いていた。

 私という車の荷は増えるばかり。荷車の軋みは私の骨の軋みです。歳をとるにつれ、過ちの重みがこの身に堪えます。この先、残り時間も可能性も少なくなっていきますから。

 男が私の顔を覗きこんだ。男は、父とよく似た目をしていた。

 ねえ、坊や。いつか私がこの車を曳くことができなくなったら、重みに耐えきれずに潰れてしまったら……。その時は、どうか哀れな車の残骸をこうして炎に焚べてはもらえないだろうか? その時にはきっと、私の家族も友人も傍にはいてくれないだろうから、君にしか頼めないんだ。
 あたたかいね、火は。死者が火葬されるこの国に生まれて良かったと思うよ。それじゃあ、私は行きます。

 その日から十数年の歳月が経ったある冬の夜のこと。勤め人となった私は会社からの帰り道で男の残骸を発見した。男の全身は車輪に轢き潰され巻き込まれて荷車と一体となり、もはやどこからどこまでが人間なのか荷車なのかを判別するのが難しくなっていた。

 人間が車に変じることは、それほど珍しいことではない。積荷を満載した荷車が、元は苦悩する人間であったというのは、非常にしばしばあることである。つまるところ、私がこれまでに話してきた「過車」とは、そういう類の車のことである。

「過車」について        松下育男

 この詩は今日の「詩の教室」に提出されていた詩です。生まれたばかりの詩です。とてもよい詩です。読みふけってしまいました。じゅうぶんに感動的です。見事な構成の詩です。

 まず「猿の手」の逸話に惹かれました。この時点でこの詩に引き込まれてしまいました。

 僕が特に好きなのは「私は、無能な人間です。かなしいほどに、能力がありません。人の役に立てないどころか、自分が生きていくのもままならない有様です。」のところです。こんなふうに感じている人は、現実に少なからずいると思われ、ほかならない僕だって、こんなふうに感じてしまう日があります。でも、だれもが「私は、無能な人間です。」と、混じり気のない詩を書けるわけではありません。ありのままを書くことの難しさを感じます。それにしても、この部分を読んでいると泣きそうにもなります。

 その男が、自分は無能であるのに生きて行かなければならないと語る箇所には、だから深く共感をしました。

 また、有能であろうと努力した揚げ句に幸せにはなれなかったという箇所も、確かにそうだよなと思ってしまいます。説得力があります。この物語の行き着く先は、「猿の手」のあらすじと呼応しています。よくできています。

 さらに最後の二連、荷車が人となり、人が荷車になって目の前に転がっている図には迫力を感じました。ばらばらになった肉片を想像しました。人の肉片なのにグロテスクではない。透き通った魂の肉片のような気がします。

 綿密に書かれていて、言葉に過不足がなく、読みやすい詩になっています。なによりも読みおわったあとで様々に考えさせられる詩になっています。なんと見事な詩だろうと、すなおに思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?