2024/08/28(水)弾き語りのような詩。

8月の「隣町珈琲」での教室のあと、この暑さもあって、数日間は、部屋のソファーでゴロゴロしていました。

それでも少しずつ清岡卓行さんの詩を読んだり、9/15の「詩のそばにいられる会」を、どうやって楽しんでもらおうかと考えたりしています。

ところでぼくは、ひとりで部屋で詩の仕事をしている時は、たいてい音楽を流しています。クラシックを流していることが多くて、でも誰かのどの曲、というよりも、アダージョを集めた雑多なものとかを聴いています。たまに、ああいいな、とうっとりして、また現実にもどって原稿の続きを書きます。

その原稿の続きには、先ほど立ち止まった美しい旋律のひとふしでも、折り込まれていてくれればと思うのです。

もちろんクラシックだけでなく、いろんな歌も聴きますが、村上春樹のようには、気の利いた歌手も歌も知りません。みんなが知っている歌が、みんなと同じように好きなだけです。

それで最近はドノバンという、昔のイギリスのフォーク歌手のアルバムをよく聴いています。

先日観たケンローチの映画の主題歌をドノバンが歌っていて、ああ、懐かしいな、若い頃によく聴いたなと思い出したのです。

「サンシャイン・スーパーマン」とか「メロー・イエロー」という有名な、音の派手な曲を若い頃にずいぶん聴きましたが、今ほかの歌も聴いてみると、ギターの弾き語りの、とつとつとした歌が多く、そうか、弾き語りがこの人の根本だったのだなと、今になって知ったのです。

そういえば、弾き語りのような、地味で、静かで、語りかけるような詩を書きたいと、昔からぼくは思っていました。

もちろん詩にもいろいろあっていいと思います。読む側になれば、交響曲のように壮大な詩もあっていいと思うし、シャンソンのように甘い詩もあっていいと思うし、とにかくさまざまな詩があってほしいと、思うのです。

でも、いざ自分が詩を書くときには、自分に向いた詩、というものが、あらかじめあるような気がするのです。

読む詩はさまざまでも、書ける詩はひとつきりです。ぼくの書く詩は、そのままぼくの顔をしています。

ぼくの書く詩は、詩と名づけるのもおこがましく、ただ、ある日のだれかのそばで、静かに弦をつまびきはじめる、たったひとりのための弾き語りの詩でありたいと、いつも思っているのです。

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