詩は書けてしまうもの ー 野口やよい詩集『天を吸って』

2011年に、『現代詩手帖』の詩集評の担当をしてから、それまでよりもたくさんの詩集が送られてくるようになったんです。受けとるほうはね、今日も来ているな、っていう感じで机の上に置いておくんですけど、送るほうにとっては願いがいっぱいに込められているわけです。それを忘れてはいけないなと思うんです。で、読んでみると、一冊一冊さまざまな詩が載っているんです。鮮やかな描写の詩集であったり、読者の気持ちに添うような詩集だったり、あたたかいまなざしの詰まった詩集であったり、レトリックの派手な詩集であったり、暗喩がたくさん入った詩集であったり、詩集によってさまざまなんです。ホントに今の詩の世界って多様だなと思うんです。そんな時、先日フェイスブックにも書いたんですけど、「詩は書くものではなくて、書けてしまうものなんだな」と思うんです。こんな詩を書こうと思って書く詩もないことはないんですけど、それよりも、あらかじめこの人はこのような詩を書くのだということが、生まれつき決められてしまっているのではないかと感じるんです。詩は書くものではなくて、書けてしまうものなんです。そういうことを考えると、送られてきた詩集っていうのは、詩集ではあるのですが、詩集というものだけではないのです。詩集を書いた作者そのものが送られてきているんです。ウチの小さな郵便受けの中には、詩人そのものがたくさん入ってきているんです。

 そういう詩集の、僕はいいところを探しながら読んでいて、たしかにそれぞれの詩集は、それぞれにいいところがあるんです。ただ、たまにそういういいところのある詩集の中に、表面的にここはいいなと思うだけではなくて、その奥に、さらに深い魅力を湛えた詩集というのがあるんです。なんて言うか、二段構えの詩集、あるいは二重底の詩集とでも言えるものです。野口さんのこの詩集を読んだ時にも、そんな感じがしたんです。この詩集はとっても清潔で、まっとうで、温かいまなざしに満ちていて、発想の鋭さが随所に見られてと、いいところはすぐに見えるんです。たくさんあるんです。ただそれだけではなくて、もう一つ僕がすごいなと思ったのは、時折に垣間見られる人の官能の描写の鮮やかさなんです。それが際立って感じられるところが二ヶ所あります。
ひとつは「記憶」という詩の最後の「銀のからだを翻して/だれかに/無性に逢いたくなる」のところ。すごいですよね。魚のしなやかな動きに人の性が重ねられています。どきどきしますね。激しい心情を隠さずに書いてありますね。それから「開花」という詩の、これも最後の連の「あの人の前で わたしも/そうしたように」のところ。ここはとてもいいですね。人の能動性を感じます。ひそやかな言葉遣いではあるけれども、迸るものを感じます。どちらも見事に奔放な詩行なんです。誤解を恐れずに言うならば、見事なエロティシズムなんです。
このあいだ必要があって井坂洋子さんの詩集を全部読み返したんですけど、井坂さんの詩にも野口さんに似たようなところがあって、表面はきれいで静かな詩の言葉の中に、突如、人の性の叙述が現れてくるんです。だからそういう点では似ているところがあるなって感じたんです。ただ人の性を描いていても、井坂さんの方はどちらかというと肉体そのものを書いている。それに比べて野口さんの方は、もっと衝動としての行動に近いところから書いている。そんな気がしました。どちらもすばらしいと思います。
もちろんこの詩集にはそのほかにも素敵なところがたくさんあります。例えば「呼吸」という詩の「天を吸って/天を吐く//天を吸って/天を吐く」。巻頭の詩ですけど、いきなり読者はがつんとやられてしまいますね。あるいは「記憶」という詩の「鳥から進化した人と/魚から進化した人がいる」。この言葉は、ラジオで聴いたものだということですけど、こういった言葉に敏感に反応するアンテナが、詩人としてのアンテナが、しっかりと立っていることがわかります。さらに「開花」という詩の「ほどけることも/繁殖 なのだった」もいいですね。手放すことが増やすことであるという、逆の真理がしっかり書かれています。そして「誕生日」という詩の「ながい腕のひとが/お匙で空をすくってくれたの」のかわいらしさもすばらしい。最後に「みずうみ」という詩の「わたしはみずうみをもっている」という感覚。この感覚は詩の中心のような発想です。
これら、溜息が出るほど魅力的な詩行がいくらでもあるんです。そんな発想に添えるように、作者の湿った吐息が、生きている呼吸音が、先ほど話したエロティシズムのように詩の裏側に密かに含まれています。それが野口さんの詩をより魅力的にしているのだと思います。よい詩集を読ませていただきました。ありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?