わからない詩を責めようとは思わない
ぼくは、自分がわからない詩は、すべて意味がないとは考えていない。
だから、自分がわからない詩を責めようとも、いじめようとも、思わない。
あるいは、自分がわからない詩を好きで読んでいる人に、「その詩は意味がない」なんて、とても言う気はない。
だって、その人とぼくの鑑賞力の差を、だれが知ることができるだろう。自分にはわからないのだから、ほかの人が好きでいるものは、そっとしておく。それでいい。
ぼくにとってわからない目の前の一編の詩も、作者によって一生懸命に作り上げられたものなのだし、それはぼくの詩と、何ら変わらない。
例えばぼくが、ずっと演歌ばかり聴いていた人ならば、ある日、バロック音楽を聴いても、一瞬とまどうだろう。レゲエ音楽を聴いても、やっぱり首を傾げるだろう。
わからない詩は、そのうちにぼくの感性を広げてくれるかもしれないと、思うようにしている。その方がぼくの生き方に合っている。
自分はこんな詩が好きだ、と思い、そのような詩だけを楽しむことは、それはそれで素敵だと思うけれど、だからと言って、自分がわからない詩を、わからないと言うだけで責めることは、ぼくにはとてもできない。
だって、わからないのは、詩のせいだか、ぼくのせいだか、にわかには知ることができないから。
いつか分かり合えるために、常に、詩とぼくと、双方から腕を伸ばしていようと思う。
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