「詩の繋がり」 

 「詩の繋がり」 
 
松下です。
 
佐野さん、篠田さん、森田さん、ご出版おめでとうございます。
 
(時間)
 
で、こうしてみんなの顔を見ていると、横浜教室のことを思い出して、詩の話をしたくなります。それで、今日も三人の話をする前に、初めにちょっと詩の一般的な話をします。
 
昔、勤め人だった時に、こんなことを言われたことがあるんです。「一日中忙しいだろうけど、今日の仕事だけのために時間を費やしてはだめだ」と。つまり、一日の内で、今日の仕事のための時間と、将来の仕事のための時間の、両方を持つ必要があるということなんです。
 
今と未来、両方を今日のなかでバランスよくやっておけということですね。
 
それって、詩を書く時にも言えますね。今書きたいことを正直に書いておきたい、という詩と、もう一つは、今は思いが先走っていて詩としてのまとまりはなくても、いつかこれは結実するだろう、そのために、今書いておく詩、というのですね。つまり、今日書くべき詩と、将来の完成のために今日書いておく未成熟な詩、その二つです。
 
それは言い換えれば、自分を見つめる詩と、自分を育てようとする詩の二種類です。つねにその二種類の詩を書いていたいということです。
 
 
それって、さらに言い換えれば、ありのままでいる自分と、どこかにあるだろう、あってほしい、よりすぐれた自分を目指す自分の、二つだとも言えると思うんです。
 
たとえば詩を読む時にも、その二つがあります。今、自分が感動して読むことのできる詩と、もう一つは、今はよく分からないのだけれども読んでいればこの詩のよさがいつかは分かってくるだろうから今読んでみる詩の、二つですね。
 
しつこいようですけど、やっぱり自分の中には、ふたりの自分がいてほしいと思うわけです。正直に自分を表明する自分と、届かないところへ向けて背伸びをしている自分ですね。
 
今の自分の書ける詩だけを見ていると、時々、限界ばかりを感じることがあります。なんでこんなものしか書けないんだろうと絶望するわけです。でも、詩を書くっていう行為は、誰に頼まれたものでもなく、自分でやりたくてやっていることです。やりたくてやっていることで、絶望しているなんて変です。そういうときは、もう一つの、いつか書けるだろう詩を思いながら、愉快に背伸びをするような気持ちで、いつか書けるようになる準備のための詩を、今日、書くんです。
 
未来の自分が書けるものならば、どんな夢をみたっていいのだと思います。そうしていれば、書くことがつらいなんて思わなくなるではないかと思うんです。
 
いつも、今日の自分と、将来の自分の、二人で詩を書くんです。そうしていると、人間、不思議なもので、ずっと先のいつかに、夢見ていたような詩が、少なくともそのカケラが書けていたりするものなんです。
 
詩を書き続けてゆくなら、勝手にたくさんの夢を、自分に見させてあげていいのかなと思うんです。詩を書く事は楽しいことだということを、忘れないでやってゆこうと思うのです。
 

 
それで、僕が横浜で詩の教室を始めたのは、2017年の春でした。会社を辞めて教室をやろうかと思って、廿楽さんや坂多さん、和田さんにお世話になって始めたんですけど、佐野さんも、篠田さんも、森田さんも、ほぼ最初の頃から教室に来てくれていました。
 
あれからたったの6年半しか経っていないのに、この6年半って、3人にとって、とても濃密だったわけで、だからこうして、その結果として、3人が詩集を作る日が来たのだなと思えば、感慨深く感じます。
 
(つながり)
 
で、今日は3人の会なので、僕のことはどうでもいいんですけど、今回3人の詩集を読み直して、僕の中に、3人とぼくは、なにか、それぞれ繋がっている部分があるのだなと感じたんです。
 
森田さんとは、肉体をどうにかしてしまうという、とんでもない発想のところで、ぼくと繋がっている。
篠田さんとは、意味と感情がいっぱいに満ちた恍惚とした言葉の出し方で、ぼくと繋がっている。
佐野さんとは、言葉への柔らかい接触の仕方で、ぼくと繋がっている。
 
こういったところで3人はぼくと繋がっていると思えたんです。
 
もちろん、ぼくとだけ繋がっているわけではなくて、
たとえば、森田さんは森田さんの詩を書いている時に、いろんな人と繋がっていて、そのうちの一本の紐が僕と繋がっているということです。
篠田さんも佐野さんも同じなんだと思うんです。
 
詩は一人で書きますけど、本当は一人ではないですね。僕が詩を書くとき、僕の中にしまわれている清水(哲男)さんの一部分、辻さんの一部分、石原さんの一部分が、僕を通してこの人たちが死んだ後も書き続けているんだと思うんですね。
 
創作というのは繋がりですね。萩原朔太郎から流れ始めた川のようなものです。
 
みんな、多くの流れが行き着いた混合物なわけです。
 
ですから、僕はもう年をとっていますから、それほど長くは生きられませんけど、僕が死んだ後も、例えば篠田さんが詩を書こうとする時に、死んでしまった松下がかすかに現れてくるんですね。嫌でしょうけど、そういうものなんですね。
 
詩は自分ひとりで書いてなんかいないんです。これまでの詩人、あるいは仲間の詩人、みんなでひとつの詩を書いている、その出口が自分で、出口の個性が、詩の個性といわれるんですね。
 
(同人誌)
 
それと、忘れてならなのは、3人が同じ同人誌を創刊したということです。同人誌で一緒にやって、一号一号、思いを込めて作ってきたということは、先ほどの詩の繋がりでいえば、僕と3人の繋がりよりも、小田原さんを含めての4人の間のつながりの方がずっと太いわけです。この四角形の頂点は、一つ一つの頂点があとの3つの頂点と、深く繋がってしまうんですね。これって、同人誌の外の人にはなかなか見えづらいですね。
 
また僕のことで申し訳ないんですけど、4人を見ていると、どうしても自分が若かった頃の同人誌「グッドバイ」が重なってくるんです。で、僕はもうこんなに歳をとってしまったけれども、いまだにあの時の同人だった上手宰や三橋聡のことを文章に書いています。それから、多分もう詩をやめてしまったのだろうと思うんですけど、その時の同人の、目黒朝子や島田誠一のことを思い出します。どうしているかな、もう詩は書いていないのかなと考えるんですね。
 
長くはない一生の中で、一つのものにみんなで目を寄せ合って、全力で作り上げるということをした同人誌というものが、生涯、自分の中に深く食い込んでいることを感じるんです。
 
例えば30年後に、年とった佐野さんが考えているですね、「みんなおじいさんになってしまっているけど、極微の同人で、未だに詩を書いているのは誰と誰だな、詩を書かなくなったのは誰と誰だな。今ごろどうしているかな。」とか考えるんですね。
 
詩を書き続けたからそれでよいというものではないですけど、ただ、いつか、書き続ける人と、やめてしまう人の、二つに分かれてしまいます。もしかしたら四人とも書き続けて、八十歳近くになっても四人で「極微」をまだ出しているかもしれません。
 
ですからこの合同出版記念会は、僕には、出版記念会であるとともに、小田原さんを含めた4人の詩の会としも見えるんです。
 
別に四人がそれほど仲良しになる必要もなくて、でも同じ時代に、同じ詩というものに惹かれて、それぞれの生活の中でなんとか時間を見つけて詩に関わってきたもの同士が、共有する感情や思想というものは、先ほども言いましたが、生涯自分に影響を与え続けてゆくものだと、僕は思います。
 
(教室)
 
横浜教室の、僕と廿楽さんの講義が、これらの詩集を生み出したとはもちろん思っていません。別の教室に行っていても、3人はそれぞれに詩に深く関わって、見事な詩集を出しただろうと思います。ただ、教室という、これも同人誌のように、同じ時間と興味を共有したということでは、とても大事で、継続的に僕らに思い出させてくれるよい夢を、与えてくれるものだと思うのです。
 
佐野さん、篠田さん、森田さん、それから小田原さん、
とてもよい仕事をされました。
 
地球の上の、これほどに成熟した文化の先で、気候変動があり、いまだどんぱちの戦争があり、放射能汚染があり、という危機的なこの時代の、この曖昧な未来の日本という国で、それでも目を下に向ければ、三冊の詩集が、各々の光を湛えて確実にここに存在しています。この時代の、多くの無意味な行為の中にあって、この三冊の健気なあり方と、その重要な意味を、僕は素直に受け止めたいと思っています。
 
(三人の詩)
 
ここでちょっとこの三冊の詩集について話しますと、
 
森田さんの詩集『乾かない』ですが、
持つととても小さくて、これならすぐに読み終わるだろうと思って読み始めると、でも中身が濃くて、いろんな奇妙な体や行動が出てきて、圧倒されて、なかなか読み終えられません。愉快で、考えさせられる仮定に満ちた詩集になっています。タイトルの無愛想さが、森田さんらしい、詩に対する恥じらいの姿勢を感じます。森田さんがいつか、長いタイトルの詩を書く日が来るのだろうか、あるいはずっとこんな感じで生涯書き続けるのだろうか、とそんなことを思いました。どちらの道を行くのも森田さんの自由です。
特に好きな詩は「戸口」「背中」「部屋干し」でした。
 
篠田さんの詩集『おくりもの』ですが、
遠い日の親族や友達とのとても近しい話し言葉がふんだんにみられます。一つ一つの詩に、丁寧に物語が仕舞い込まれています。それは時に、現実の人の名前であったり、この世のものとも思えない淡い空想に満ちています。親しげな呼びかけの話し言葉が、どれもうっとりと悲しくぼくの中に沈んでゆく詩集になっています。その悲しみはどの詩もおそらく一つの悲しみの源から出てきています。人とは違う篠田さんだけのこだわりの叙情を目指すという熱を携えています。
特に好きな詩は「タワー」「さきちゃん」「春風」です。
 
佐野さんの詩集『夢にも思わなかった』は
適度に気持ちのよい重みの詩です。適度に気持ちのよい肌触りの詩です。適度に目に心地のよい言葉の詩です。読んでだれも疲れない詩です。愛するおくさんと、愛する言葉と、愛するもろもろのものや出来事を、カクテルにしたような詩集になっています。
特に好きな詩は、「だらんと妻が」「いっこのリンゴ」「折鶴」です。
 
 
(三人の詩の違い)
 
それと、最後に3人の詩の違いについても、ちょっと見てみますと、3人の違いは色々ありますが、一番すぐに気がつくのは一行の長さかなと思います。行の長さって、単に改行のタイミングが違うというだけのことではなくて、息遣いや型式を超えて、思考のあり方や性格や詩の本質にも、もしかしたら関連してくるものなのだと思います。
 
言うまでもなく、篠田さんの詩の一行はすごく長い。短い行の詩もあるけど、大抵長い。それで、佐野さんと森田さんの詩の一行は、短い。
 
これって、佐野さんと森田さんの詩は、あくまでも改行詩の世界で勝負し、行を変えるたびに切り捨ててゆく鮮やかさに傾いているのだけど、篠田さんの場合は、改行詩ではあるけれども、改行詩の持つ、切り捨ててゆく感じ方を捨てて、どこまでも流れて言い続けてゆく継続の厚みの方を、重視しているからなのかなと思います。
 
もちろん佐野さんと森田さんも、同じように一行の長さは短いけれども、違いがあります。その短さで切ってゆくのは、佐野さんは感情や感覚を切ってゆくのだけれども、森田さんはモノの捉え方や思想を切ってゆくのかな、それはおのおのの手法なのかなと思うのです。
 
(最後に)
 
最後に、3人の詩の数行を読んで話を終わろうかと思います。
 
森田さんの詩から、
 
「部屋干しの竿は短いから
気を使いあう
寄り添う」
 
極微の四人の誰かが誰かにもたれかかるのではなく、繊細に気を使い合い
寄り添ってあげてください。
 
篠田さんの詩から、
 
「きっと、なんど生まれ変わっても
この人生を選ぶと思うの」
 
ぐっときますね。
ぼくもそうありたいと、思います。
生まれ変わったら、僕はまた横浜で詩の教室をやろうかと思います。
 
佐野さんの詩から
 
「古本屋の
陽があたる均一棚には
本が風通しよくささっている
 
どの本も
きもちよさそうに見える」
 
ぼくには今夜、この三冊の詩集がとてもきもちよさそうに見えます。幸せな詩集たちです。これからも、風通しのよい同人誌を通し、てすぐれた詩を書き続けてください。
 
ご出版、あめでとうございます。とても嬉しいです。
 
ありがとうございます。

(2023年10月8日 「佐野豊さん、篠田翔平さん、森田尚さんの合同出版記念」にて) 
 

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