日記で表現を鍛え上げる、というのはどうだろう
この間から読んでいる『小山さんノート』に書かれているのは、ほとんどが、日々何があったか、という記述だ。つまりは日記だ。
常々感じているのだけど、ずっと何も書かないでいて、いざ詩を書こうと思っても、ぼくには、すぐに何かを書くなんてことはできない。
ぼくができるのは、なんでもいいから毎日、ひたすら書き続けることだ。そして詩の依頼が来た時(めったに来ないけど)には、それまでに書いた膨大な言葉を読み返して、少しはマシなものを探し出し、それを詩に作り上げることだけだ。
つまり、ぼくが毎日書いているものは、日記であり、詩の草稿でもある。
なにも書かなければ、つまらない詩も書かないで済むかわりに、ちょっとはマシな詩も生み出すことはできない。
それに、なにも書かなければ、いつまでも表現は進歩しない。
とにかく毎日書けば、何かが書けるし、その何かのうちの千に一つくらいは、人に見せられるものがあるかもしれない。
何もないところで毎日何かを書く、というのはむずかしい。
そうであるならば、日記を書くつもりで、毎日、何かを書いてゆくことによって、表現を鍛え上げてゆく、というのはどうだろう。
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