それぞれの太郎が、それぞれにあった ―『北村太郎の探し方』(北冬舎)

それぞれの太郎が、それぞれにあった ―『北村太郎の探し方』(北冬舎)

 本書は戦後の詩に大きな足跡を残した詩人、北村太郎に関する一冊だ。かなり厚く五五五頁にもなっている。主に次の三章に分かれている。「Ⅰ 北村太郎単行集未収録集成」「Ⅱ 北村太郎の探し方「北村太郎の会」講演録」「Ⅲ そして北村太郎と」。読んで見ればどの章も読みごたえのある箇所に満ちていて、当然のことながらすべての文章は北村太郎の方向を指している。おのおのの章を見てみよう。

「Ⅰ 北村太郎単行集未収録集成」で惹かれたのは、「東京詩集Ⅱ1923―1945 解説」と「講演 現代詩奪還 1989年 広島」だ。
 「東京詩集Ⅱ1923―1945 解説」は正津勉の質問に北村が答える対談形式になっている。自在に語り合っていて、戦前の詩についての知見を率直に述べている。詩についての感想や解説とともに興味深いのは、当時の世相や東京の様子についての思い出が細かく語られているところだ。さらに戦時下から終戦直後の、北村と周辺の詩人達の様子について詳細な感想を述べている部分には強く惹きつけられた。
「講演 現代詩奪還 1989年 広島」は北村の講演録。詩とは何か、という問いについて、過去、現在、未来の三つの時間軸に分けてわかりやすく語っている。なぜ「詩」ではなく「現代詩」と呼ばれるかという問いには、俳句、短歌よりも詩は、時代(現代)と密接につながっているからだと答えている。さらに、詩人であることは恥ずかしいという感覚が語られている。北村太郎でさえそうなのかと思い、そこに過去も現在も、有名も無名も、ないのだなと思わせられる。そしてこの恥ずかしさの中にこそ、詩が拠って立つ個別の根拠があるのではないかと考えさせられた。

「Ⅱ 北村太郎の探し方「北村太郎の会」講演録」はイベント「北村太郎の会」での様々な話者による講演録だ。これは以前から読みたいと思っていたものなので、こうしてまとめられたことは嬉しい。講演者はそれぞれの切り口で北村を語っている。大きく分ければ、ひととなりやエピソードを語っているものと、作品論を語るものの二つになっている。こうして一気に双方からの話を併せて読むと、詩人という横軸と、詩作品という縦軸によって作り上げられた北村の姿がまざまざと現れてくる。おそらく会の雰囲気がよいためなのだろう、どの話者も達者な語り口で伸び伸びと話を展開している。豊富な内容の全てをここに紹介することはできない。せめて深く入ってきた言葉を引いておこう。「怒鳴り声とやさしさの両方が、北村さんにとってはぴったりくっついているものなんだ」(杉本真維子)「北村さんの詩は、ものすごく悲しい詩とか、ものすごく激しい詩ではなく、心をあまり動かしていない詩が多いようです。」(小笠原鳥類)「日常が、平明な言葉の詩で、なんとなく日常に沿って書いてあるようだけれども、そこに潜んでいるのは、やはり闘いだと思います。」(吉田加南子)「実際の作者をめぐる情報やイメージが、作品を読むプロセスに関与する」(林浩平)。

さらに「Ⅲ そして北村太郎と」の章には最も感銘を受けた。榎木融理子、松本憲治、宮野一世のエッセイは三様の角度から、わたしたちを北村の深みへ導いてくれる。特に北村の長女である榎木融理子のエッセイ「太郎と文雄と」は、ねじめ正一の小説『荒地の恋』とは微妙に違った視点からの北村の姿が描かれている。エッセイではあるけれども出てくる人物たちは小説のようにまざまざと動き出す。端正な文章は要領を得ていて無駄がなく、どこまでも読みやすい。特に「8 女性たち」には胸を打たれた。北村をめぐる三人の女性、太郎の妻、愛人の和子、もうひとりの愛人の阿子、いや融理子本人を含めれば四人の女性の胸の内を繊細に探っている。

「それぞれの太郎が、それぞれにあったのは、事実であり、それはそれでまた、事実だ。人の思いの大きさや深さを、他人が推し量り、較べることほど、愚かなことはない。みんな、精一杯、自分を生ききるだけである。」(「太郎と文雄と」から)

榎木の文章を読むとき、記述はすでに北村太郎の思い出という枠を超えて一つの作品になり得ている。父親の愛人と帰り道が一緒になり、やっと別れて一人になった時に「東戸塚駅で降りた。降りたとたん、涙がこぼれた。太郎も、和子さんも、狂っている、と思った。」の苦しい吐露には胸を打たれた。

詩や詩人に興味のある読者なら、北村太郎をめぐってのこれほど分厚な一冊を、飽きずに読み切ることができるだろう。どの一章も充実している。「Ⅳ 北村太郎の年譜新訂補遺版」とともに、間違いなく貴重な資料にもなりえている。この本の作り手の熱がじかに伝わる一冊になっている。

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