雪のようにとけてゆく思想  ―白井明大詩集『着雪する小葉となって』

雪のようにとけてゆく思想
                            ――白井明大詩集『着雪する小葉となって』(思潮社)
 
 本書を読んでの感想は、全ての詩篇が枝葉のようにか細く連なって行く和語に満ちているということだ。語られている内容は必ずしも容易につかみ取れるものではないが、自然や四季の姿や鳥類に関する記述が多用され、透明感のある詩集になっている。清冽な水の流れが言葉となって詩集の川を流れている。時に降る雪であり、時に舞う花びらや鳥など、繊細な存在に自身を重ね、決して容易ではない人生を歩んでゆこうという強い意志の潜んだ詩集であるように感じた。美しい言葉ばかりが並べられることによって、その魅力を打ち消しあいはしないだろうかという懸念はあるものの、言葉のひとつの達成点であると言えるだろう。
 あとがきには、前半の九篇が同時期(転居時)に書かれた詩であり、後の三篇がそれ以前に作られたものであるとの説明があるが、読んでみれば全ての詩篇に同じ匂いがし、同じ風が吹いているように感じた。
 
 あとがきでもうひとつ目を引いたのは、「詩はかならずしも直截に思想を語るものとはかぎりませんが、そうだとしても、いまこのときに自分の思うところを詩の言葉にする意味はあるはずだと信じて。」の一文だ。そうか、この詩集には著者の思想が語られているのかと、ここを読んで後追いで気付かされた。ではどのような思想がしまわれているのか。表題作「着雪する小葉となって」には、まさに「思想」の一語が見える。しかし、ここにはどのような思想なのかは明確には書かれていない。また、詩「空になりかわる前の空白」の中には「ファシズム」という語があり、「やだったら逃げて」というそれに対する自身の態度も示されている。さらに詩「てのひらに受けうる望み細さに」には、「旭日旗」という、思想へたどり着く語を見ることができる。ファシズム、旭日旗という語が指しているのは、まさに先の日本による戦争行使であり、その反省から生まれた戦争放棄を含む憲法をなぜ改正するのかという、著者の思想に繋がるものだ。そう確信したのは、この稿を書く前に宮尾節子と著者の対談「詩の自由」を視聴したからだ。
 対談は本書の発行記念イベントであったが、本書についての言及の多くは憲法改正反対、戦争反対の「思想」を前面に出したものであり、そのような思想を詩に書くことの可能性を語るものだった。この対談は、二人の体験談とともに聞き応えのある内容だった。言うまでもなく詩の中で思想が語られること自体は問題がない。ただ、語られた思想が詩という器を有効に活用できているかという問題は常に残り、多くの詩人はそれを完遂する能力を持っていない。その中にあって、宮尾と著者は詩の中に思想、主義主張を有効に入れ込むことに向きを定めた、日本では稀な詩人であると言える。ただし二人の思想の入れ込み方には大きな違いがある。宮尾節子は思想をむき出しで詩に書く。「いじめ、いっせんまん」(『女に聞け』(響文社))は誰が読んでも社会的な主張を直接詩に書いていることがわかる。それに対して著者は本書において、詩の中にかすかに見えるように思想を言葉に含ませている。かつて、思想でさえ抒情詩の断片にしてしまった荒川洋治の詩の方法の時代から、思想を思想のまま詩に折り込もうとする道へ、著者は向きを変えようとしているのかもしれない。本書はその方法を模索していると言えるのではないか。
 
滑りおりてきた勢いに伴われてはまわり出し
小葉ほどの重みもあるかない羽が埋もれるまぎわに
                                                                      (「着雪する小葉となって」)
 
 とはいえ、この詩集を読んだ率直な感想は、込められた思想よりも、むしろ言葉の選択の鮮やかさにある。かりに思想を見落としても堪能できる詩集になっている。どこを切り取っても透明感に満ちた日本語をどう読むかは、読者の鑑賞眼と、もしかしたら思想によって変わってくるかもしれない。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?