自分は詩に向いているだろうかと悩んでいるのなら

かつてぼくは、ツイッターで、こんなことを書いたことがある。

「自分は詩を書いているけれども、自分は、本当に詩を書く事に向いているだろうか。
そんな疑問をもっている人がいる。
そういう人は、迷う必要はない。
自分が知らず知らずのうちに詩を選んでいたのなら、それがまさに、詩に向いていることなのだと。」

つまり、自分に詩の才能があるかどうかなんて関係ない。詩を書いているのなら、そのこと自体が、詩を書く才能を示しているのだということを言いたかった。詩を書いて、その才能を探し続けるのだということだ。

例えていうなら、結婚に向いているから結婚するのではなくて、結婚してから、相手とその結婚の意味を作り上げてゆく、というようなものだ。

で、かつてそう言ったことを、今、否定するつもりはない。

ただ、詩を書いている人の多くが、詩、だけではなく、俳句とか川柳とか短歌とか戯曲とか小説とか、詩とは別のものを同時にやっている人が少なくない。

そういう人は、おそらく、いくつものジャンルのものを書くことが好きなんだろうけど、もう一つの理由は、その中から、自分が一番向いているものを、探し続けているのではないだろうか。

そういう気持ちって、よく分かるし、自分が一番向いているものを早く見つけて、そこに集中したいと思っているのだろう。

幸いにも僕は、詩しか書けなかったから、迷いはなかった。

でも、と思う。

自分に一番向いているものを探す行為は、よいと思うけれど、人生って、自分に向いているものをするためだけのものではないような、気もする。

例えば、短歌を書いていれば、もしかしたらすごいものを書いたかもしれない人がいて、でも、本人はそれを知らずに、一生、向いていなかった詩を書いていたとする。その人の人生は、失敗と言えるだろうか。いろんな考え方があると思うけれども、ぼくは失敗だとは思えない。どうどうとした人生だと思う。そしておそらく、向いていなかった詩も、目を凝らせば、向いていないことを好きでやり通していた思いの丈が、きちんとしまい込まれている、他の人には書けない詩だったのではないか。

さらに、詩は自分に向いていると、間違って詩を選んだ作者も、間違って選ばれて書かれてしまった詩も、ともに幸せな気持ちで見つめあえたのではないか。それ以上になにを望むだろう。

そもそも、向いていること、とか、向いていないこと、というものは本当にあるのだろうか。

仮にあるとしても、向いていないことを生涯コツコツと好きでやり通すことも、人がどう思おうが、その人にとっては唯一無二の、他にありようがない人生ではなかったか。

そういう人こそ、ぼくは「詩に向いていた人」なのではないかと。思う。

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