「かろうじて掴めたのが、詩だった」

「詩を書くことに喜びがあるのであり、その詩が誰かの詩よりも秀でることが本来の目的ではない」と、ぼくは本の中でもたびたび書いている。

その思いに嘘はない。

けれど、自分のことを考えてみれば、「人よりも秀でた詩を書きたい」という思いが、なかったわけではない。

それはおそらく、それまでに、これといった優れたものを持っていないと感じていた自分が、生きている意味を求めて、かろうじてつかむことのできたものが、詩だったからなのではないかと、思う。

何をやってもだめな自分が、土俵際でつかんだ「詩」というものに、すべてをかけたいと思い、せめてここだけは、人よりもよいものを書きたいと思ってしまうのは、仕方がないと思うし、そんな自分を責めるつもりはない。

でも、だからと言って、伸ばした腕の方向はきちんと見定めていたいと思う。

人を振り払うためにある腕ではなく、自身を前へ向かわせるための腕でありたい。

人よりも秀でた詩を書く、というその、「人よりも」という言葉は、やはり生きていることの根本にあるものではないのだと、わかってくる。

自分の中で納得できるものとはなんだろう。それはやはり、人との比較にあるのではなく、自分と世界の関係の中にしかないのだと思う。

だからやはり、言い続けようと思う。

「詩を書くことに喜びがあるのであり、その詩が誰かの詩よりも秀でることが本来の目的ではない。」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?