「外に向く視線」 ― 嘉陽安之さんと谷口鳥子さんの詩について
詩を二つ、読んでみましょう。
まず最初は嘉陽安之さんの「朝をつくる」です。
*
「朝をつくる」 嘉陽安之
朝
それほど
広くない通りに
警備員さんや
教員が並んで
生徒の
通学の道が
つくられていく
その中を
今日も
中高生を務めに
青年でも少年でもない
現代の真ん中を
生きる者たちが歩いていく
ぼくも道に立って
彼らの朝をつくる
ぼくの後ろを
通勤の人や
自転車で
幼稚園に子どもを送る
お母さんたちが
慌ただしく過ぎていく
たまには酔っ払いもいる
昭和の二日酔いがひどそうな
ぼくは
誰かの朝となり
生徒や通り過ぎる人が
ぼくの朝をつくる
不可思議な広がり
すべてをたどることはできないが
ぼくは
全身で
感じることができる
この果てしない
広がりを
*
嘉陽さん「朝をつくる」について
まず、タイトルがいいなと思います。
詩集のタイトルにもなっていますが、「朝」と「つくる」という、これだけ普通の単語を並べているだけなのに、新しい言葉に見えてきます。
言葉というのは、組み合わせによってこれほどに生き返るものなのかと驚きます。それって、このタイトルだけのことだけではなくて、嘉陽さんの詩の本質だとも言えると思うんです。
どこにでも転がっている言葉で詩を書いています。
ぼくは最近SNSで
「きれいな言葉を使って詩を書くのではなく/言葉がきれいに見えるように詩を書きたい」と書いたんですけど、嘉陽さんの詩って、まさにそれを実践しているんです。
どこにでもある言葉を、その言葉の能力を引きだしてあげるような詩を書いています。
それで、この詩でぼくが好きなのは、自分のことばかりを考えていない、というところなんです。
ぼくがぼくの「朝をつくる」という詩ではないんです。
「警備員さんや/教員が並んで/生徒の/通学の道が/つくられていく」と書いてあったり
「ぼくも道に立って/彼らの朝をつくる」と書いてあったり
「ぼくは/誰かの朝となり/生徒や通り過ぎる人が/ぼくの朝をつくる」とまで書いてあります
つまり行為が自分のためではないんです。人のためなんです。
その志の温かさに打たれるんです。行為の向きがいいなと思うんです。
この詩はとても簡単な言葉でできていて
強い口調で言っているわけではないんですけど
読み終わって
自分はきちんと人になにかをつくってあげるような人生を送っているだろうか
なんて、ぼくなんか考えてしまうんです
これ見よがしでないメッセージが込められていて
それでいて言葉をとても大切に扱っている詩なのだと思うのです。
*
それでは次に谷口鳥子さんの「墓じまい」です。実はこの詩は、レイアウトが難しくて、行頭も揃っていない詩なのですが、ここにそのまま書くと見づらくなるので、すべて行頭を揃えたレイアウトにさせてもらいます。ですからここでは、詩に書かれている内容だけを読んでください。すみません。
*
「墓じまい」 谷口鳥子
あと少し、
石段と坂道を交互にのぼる
足元の
水仙はほうぼう向いている
「傘、またなくしたんかいな」
ばあちゃんは、あほばか十回くらい言ってから、
「うちの形見や」
渡された太い木の柄の傘は黒地に黄色い花
なくしたん違うよ、
骨、曲がって折れて壊れたん。
分解して、さいごの収集日に
ゴミ置き場の済に傘の柄と骨八本を刺しました
墓石
ずらすと穴
湿り気と壷
(おじゃま
します、
ひっこし
ます。
振り返ると逆光の
家家
漂いだす
醤油のにおい
ばあちゃんの弁当、茶色ばっかりや
ほな自分でつくらんか、ばかたれ
ばぁたれ、ばぁたれ
真似すな、あほょ
*
谷口鳥子さん「墓じまい」について
谷口さん詩はもうずいぶん読んでいて、でもいつもいいなと思ってきました。
口語体の柔らかさのせいもあるのでしょうけど、いつも独特の雰囲気に満ちています。
それってすごいなと思います。
この詩に作者名が書かれていなくても、すぐに谷口さんの詩だってわかります。
読んでいて、言葉の隅々にまで血が通っているという感じがするんです。
どの言葉も、適当に使っていない。どの言葉にもきちんと礼をつくして、しっかり使っている、そんな気がします。
言葉に気を遣っているように、詩の中では、自分と接する人にもきちんと気を遣っている、それが気持ちよくわかる詩になっています。
それでこの詩では「墓じまい」ということで、墓に入っているお骨を移すわけですが、お骨にたいしてもきちんと気を遣って、「おじゃまします」って言っているんです。
言葉と詩と人へ、これでもかというほどに気を遣って、丁寧に詩の世界を作り上げています。
これは、そのような技術や意志を持ったからできるということではなくて、作者がもともと持っている性格が、そのまま詩に反映しているのだと思うのです。
詩と作者と、別々のこともありますし、それはそれでかまわないと思うんです。でも、谷口さんの場合は、谷口さんの詩と谷口さんは、一緒のものだという感じがします。
こんな詩がたくさん書かれてゆくことは、とても素敵なことだと思います。
*
これは嘉陽さんと谷口さんお二人の詩に共通していると思うんですけど、「自分の詩はすごいぞ」という、自分だけのための詩ではないところがいいなと思うんです。
他者(親族のことが多いと思うんですけど)に向いている詩なんです。
とてもやわらかな視線が、外に向いている詩を書いているんです。
(「第一回 松下塾」での話から (2024/9/15)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?