2023年12月21日(木)詩は伝わらない、ということについて

木曜日の朝だ。昨日はそれほど遠くない公園の中のレストランへ行ってきた。冬なのに外の席で食事ができるほどの、適度な寒さだ。外気に包まれてハンバーガーを頬張り、ビールを飲んで、しばし青空を見ていた。

ところで、ぼくは自分の詩が伝わらない、という経験をずいぶんしてきている。詩を長く書いてきて思い出すのは、むしろそちらの方のことだ。

エッセイの中では、誰それに投稿でとられたとか、誰それに認められて感激したとか、誇らしげに書くことはある。でも内実は、人に自慢できるような経歴は持っていない。その時期にも、たくさんの投稿作品が、入選にも佳作にもならなかった。見事に落とされた。そんな詩が山ほどある。だから、どうしてだろうと悩んでばかりいた。

雑誌が出て、投稿欄を真っ先に開いて、自分の詩がまた載っていないことを確認すると、これからどうやって書いてゆけばいいのか、ほんとに途方にくれる。それも、落とされたのが2ヶ月前に送った詩なのだから、わざわざ過去の自分に戻ってがっかりしなければならない。とても複雑な心境になる。

今でも、その時のがっかりした姿の自分を思い出すことがある。

ただ、採られなかったという事実はもう変わりようもないことで、がっかりした自分と、落ちた詩を引き受けて、さらにやってゆかなければならない。

ここでぼくは次のように考えた、と書くつもりだった。

「いや、落とされることによって得るものがある。なによりも、自分の思い通りにならないことが世の中にはたくさんあるのだということを知ることができる。それによって、当たり前ではあるけれども、自分のためにこの世があるわけではないということを思い出すことができる。だから自分は人と同じ価値であり、人を自分と同じように尊重しなければならないと再認識することができる。また、表現というのはそう簡単に成り立つものではない、こつこつとさらに突き詰める必要があると、自分を律することもできる。」

しかし、現実のぼくの頭の中は、そんなにきれいごとにはできてはいなかった。

がっかりしただけだ。たくさんの思い通りにいかないことに、またひとつ辛い経験が加わったなと、思うだけだ。

それでも、最後に書いた「表現の困難さ」だけは間違いなく確認させられる。

基本、詩は伝わらないものだ。

これほどに手を伸ばしても、ほとんどの人に届くことのできないものだ。それでも、というか、だからこそぼくは、ぼくの詩が、どんなに不出来なものでも好きであり、いつか誰かに届くようにと願いを込めて、さらにこのやり方でやってゆこうと、一緒にやってゆこうと、詩とともに考えるものだ。

だからこそ、微かに通じた時の感激は忘れられない。どうしてたまにぼくの詩の内の一つは通じることができたのだろうと、その理由は、その表現の秘密はなんだろうと、外気に包まれてビールで酔った頭の中で、ぼくはしつこく考えている。

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