「現代詩の入り口」20 ― 理屈抜きに詩の魅力に浸りたいなら、高階杞一を読んでみよう

「現代詩の入り口」20 ― 理屈抜きに詩の魅力に浸りたいなら、高階杞一を読んでみよう

本日は高階さんの詩を読んでみようと思います。十一篇あります。どれも面白いです。

象の鼻
てこの原理
家には誰も
キリンの洗濯
ゆうぴー おうち
春’ing
サイの河原
だぶだぶの夏
桃太郎


象の鼻 

「象の鼻」 高階杞一

世界の端っこに
鼻のない象がいて

午後には
おばさんがきて

夜には
君が横にいて

ぼくは
長い長い夢を見る
広い砂漠を
あてどもなく歩いていく夢だ
象の鼻をひきずって
何故こんなものを借りたのか、と
考えながら

「象の鼻」について  

 一昨日の対談の中で、高階さんはこの詩について語っていました。人が普通考えることや常識とは違ったことを考えてみるのが、詩を書くことにつながると言っていました。「象」と言えばだれしも長い鼻のことを思い浮かべます。そうであるならば、長い鼻をとってしまったらどうだろうと考えたのだそうです。確かに、鼻のない象は、象と言えるでしょうか。そのあたりをあれこれ考えていると、詩がひとつできるのかもしれません。ところで、話の中で僕が驚いたことが二つありました。

 ひとつは、この詩を書いていて、象の長い鼻を少しずつ輪切りにしていって鼻がなくなるというイメージが頭の中にあったということなのです。でも読んでみればわかるように、詩の中には、鼻を輪切りにしている様子など書かれていません。「世界の端っこに/鼻のない象がいて」と書いてあるだけです。でも、このあっけらかんとした叙述の向うには、確実に高い空が見えていて、どうして鼻がなくなったのだろうと、みんなはその空を見ながら考えるわけです。作者は、鼻が少しずつ輪切りにされてなくなったイメージで書いていますが、読む人それぞれの、鼻のなくなった理由をこしらえることができるわけです。詩と言うのは、読む人もその詩を読みながら書くことができるのです。それとともに、詩というのは、書かれなかった部分もきちんと詩の奥に仕舞われているものなのだなと、僕はつくづく思うわけです。

 もうひとつ驚いたのは、この詩が完成するまでに、6ヶ月もかかったという話でした。その間、幾度か書いてみたけど、どうもうまくいかない。なんど試みてもすっきりとできたという手応えがない。それで、さきほどの輪切りのイメージが出てきて、そうしたら詩はすぐに完成したということでした。僕が驚いたのは、この詩に6ヶ月もかかったことではなく、あるいは、6ヶ月後に完成したことではなく、その6ヶ月の間に何度も書き換えて、その都度「これではだめだ」という判断を下してきたことです。ぼくにはそんなことはとてもできないなと、話を聞きながら思っていました。たぶん、一ヶ月後に書いた詩を、これでよしとして発表してしまったのではないか、そんな気がします。

 この詩について僕は、事前に鑑賞の文章を書いていたのだけど、先日の高階さんの話のほうがずっと面白かったので、そちらをこうして書くことにしました。

 そんなこんなを思いだしながら、この詩をもう一度じっくり読み直してください。書くために6ヶ月かかったかもしれないけど、読むことは永遠にできます。

「てこの原理」 高階杞一


出かけていくたびに
自分が
向うへずれていく

はるか向うの端に
今朝も 何かが乗っている

象か
ワニか
カバか知らないが
何かが乗って
少しずつ
向うが重くなっていく

毎日
少しずつ傾斜が急になっていく

それに
負けないように
こちらにも
重い
象か
ワニか
カバが
わたしは欲しい

「てこの原理」について 松下育男

 この詩は世界を平らな一枚の平面に見立てています。その一枚の世界は、絵本の一ページにも見えてきます。そうであるならば、この詩の世界は単純な線で描かれた絵本の中なのです。だから、絵本の外の生活のように、諍いや悩みやもめごとを、取りあえずどこかに置いてくることができるわけです。

 一枚の水平な世界を思う時、その水平は完璧な水平でなければならない。でも、しばらくは完璧な水平であっても、水平だって長く水平でいると疲れてきます、傾いてきます。この詩の世界も傾いてきます。「朝/出かけていくたびに/自分が/向うへずれていく」というわけです。なんのために出かけてゆくのだろうと思います。たぶん会社に向かっています。だから精神も徐々に、いやな仕事の方へ傾いてゆくわけです。

 題は「てこの原理」ですから、この世界の紙の下には、しっかりした支点があって、世界をまるごと乗せています。ですから、世界を水平に保つためには、東西が同じ重さでなければならない。東に象なら西にワニ。そんな感じでしょうか。

 先ほども書きましたが、出かけるたびに世界が傾くというのは、行きたくない会社に行かなければならないという精神の傾きを、この詩は書いているのだろうと思うのです。もちろん会社だけではなく、生きていくためのさまざまな面倒ごとや心配事を抱えて生きるけなげなニンゲンのことを書いています。

 もしもそうであるならば、この詩に出てくる象やワニやカバの重さは、その人の精神をこの世から滑り落ちないように押さえておく文鎮のようなものなのかなと思います。

 いえ、というのは僕の強引な解釈です。たぶんそれは間違っていて、特別な理由なんて何もないのに、世界はただ傾きたくなったのです。

家には誰も 高階杞一

家には誰もいなかった
タンスにも
屑籠にも冷蔵庫にも
いなかった
ただ
いなかった だけがいて
迎えてくれる

おかえりなさい
ぼくは黙って服を脱ぐ

それから
小さなテーブルに向き合って
ぼくと
いなかったとの
食事が始まる

「家には誰も」について

 目に見えないものを見えるように書くのが詩だという考え方があります。例えば「あこがれ」を「あこがれ」と書くのではなく、どんなあこがれなのかを何かに託して書いてみると詩になるということです。この「何かに託す」というのが比喩になったり擬人になったりしてきたのではないかと思います。

 ところで、目に見えないことの究極ってなんでしょうか。たぶん「ない」ということではないかと思います。目に見えないだけではなく、もともと「ない」のです。では、もともと「ない」ものも詩に書けるでしょうか。書けます。この詩がそうです。

 ないものを書ける人は「まど・みちお」だけかと思っていたら、ここにも一人いました。「ない」ということは「ないがある」ことだという考え方です。いえ、考え方ではなくて、高階さんには「いなかった」が本当に見えていたのではないかと思います。「いなかった」には目鼻がついていて、抱えるための膝もあり、泣くための目もある。多分猫背でもあったのでしょう。だから高階さんにはこんな詩が書けるのです。

 この詩を読んだら、だれしもが目の前で食事をしている「いなかった」の顔形や性格を想像します。そして、その姿に合った名前を付けて呼んでみたくなります。ふざけた名前ではなくて、どこにでもあるあたりまえの名前がいいと、僕は思います。

「キリンの洗濯」 高階杞一

二日に一度
この部屋で キリンの洗濯をする
キリンは首が長いので
隠しても
ついつい窓からはみでてしまう

折りたためたらいいんだけれど
傘や
月日のように
そうすれば

大家さん
に責められることもない
生き物は飼わないようにって言ったでしょ って
言われ その度に
同じ言い訳ばかりしなくたってすむ
飼ってるんじゃなくて、つまり
やってくるんです
  いつも 信じてはくれないけれど

ほんとに やってくるんだ
夜に
どこからか
洗ってくれろ洗ってくれろ

眠りかけたぼくに
言う

だから
二日に一度はキリンを干して
家を出る
天気のいい日は
遠く離れた職場からでもそのキリンが見える
窓から
洗いたての首を突き出して
じっと
遠い所を見ているキリンが見える

「キリンの洗濯」について 松下育男

 有名な詩です。読んでいてとても気持ちのよくなる詩です。詩というのは不思議なもので、どんなに傑作とされている作品でも、読む人によって受け止め方が違い、好みが分かれます。でも、この詩ばかりは、読んだ人のすべてが「いいなー」と思うのではないでしょうか。そういう意味でも特別な詩です。

 ここに出てくるキリンとは、キリンでもあり、わたしたちの「鬱屈」でもあります。鬱屈というとむずかしくなるけど、平たく言えば「生きていると時折に感じてしまういやだなという気持ち」です。だからこの詩は、表面的にはキリンを干しているように見えるけど、裏側では「しめった気持ち」に日をあてているのです。

 ところで、高階さんの詩には色紙を切り抜いた動物のようなものが出てくる、というイメージが僕の中にはあって、その主たる原因はおそらくこの詩です。全体が淡い黄色の世界です。

 高階さんの詩によくあるように、これはわけのわからない世界です。人間であることと、キリン(動物)であることが等価の世界です。同じ価値です。動物だけではなく、あらゆるものが同じ価値でここに存在しています。昨日の詩では、存在していない(ないこと)も同じ価値だとしています。昨日も書きましたが、このはてしのない平等感覚は、「まど・みちお」さんの世界に共通するものです。

 あらゆるものが等価だから、奇妙なことが起こるのです。不平等な世界に慣れきっているわたしたちには奇妙に感じられるのです。キリンが言葉をしゃべります。「洗ってくれろ」としゃべります。あらゆるものが等価だから、キリンが物干し竿にかけられて、シーツや枕カバーと同じようにおとなしく干されています。

 それからこの詩で忘れてならないのは、キリンだけではなくて洗濯をする「私」も出てくるところです。僕がこの詩を読んで最初に感じたのは、夜中に洗濯をしながら眠気とたたかっているつらさと、キリンを干した後、いやな職場に向かわなければならない心の重さです。

 それから時々思うのは、責めて帰った後の大家さんのどこかさびしげな表情です。

 遠く離れた職場からキリンを見つめるのは、仕事でミスをしてしょぼんとした昼休みではないかと、勝手に想像するのです。僕もそうしてきたから。

「ゆうぴー おうち
平成六年九月四日、雄介昇天。享年三。」
高階杞一

せまい所にはいるのが好きだった
テレビの裏側
机の下
本棚とワープロ台とのすきま
そんな所にはいってはよく
ゆうぴー おうち
と言っていた
まだ助詞が使えなくて
言葉は名詞の羅列でしかなかったけれど
意味は十分に伝わった
最近は
ピンポーン どうぞー というのを覚え
「ゆうぴー おうち」の後に
ピンポーン と言ってやると
どうぞー
とすきまから顔を出し
満面笑みであふれんばかりにしていたが……

今おまえは
どんなおうちにいるんだろう
ぼくは窓から顔を出し
空の呼鈴を鳴らす

  ピンポーン

どこからか
どうぞー というおまえの声が
今にも聞こえてきそうな
今日の空の青

「ゆうぴー おうち」について 松下育男

 解説をするまでもない詩です。というか題のあとに前書きがあって、この詩の状況が説明してあります。僕は基本的には詩に説明書きをすることを好みませんが、この詩ばかりは特別です。

 三歳の息子が亡くなったことを記しています。つまりこの詩は、一般的な子どもについての詩を書いたのではなく、あくまでも高階さんの個人的な出来事として、子どもの死についての詩を書いているということになります。子どもの名前まで書いてあります。

 書かれている目的は、とか、何のために書くか、とか、そういうことを考える以前に書いておきたいという衝動のもとに書かれたのだと思います。ですから、当然言葉を飾るとか、ものごとを斜にみるとか、逆から眺めてみるとか、よけいなことは考えられていません。先日の対談でもこの詩のことが話題になって、家に帰ったら子どもが亡くなっていて、その日の夜には言葉があふれ出てきて詩を書いたと言っていました。

 それゆえこの詩は、心の準備がなにも整わない内に、悲しみを悲しみのまま書いています。むき出しで書いています。子どもへの思いを思いのまま書いています。そこにいてくれるだけで愛おしい存在が、さらに愛おしくなるようなしぐさをし、精いっぱいのこの世の言葉を話したことを思いだせば、さらにつらくなるだろうことを、敢えて書いています。

 どのように表現をすれば詩が効果的に読み手に伝わるだろうという気持ちは、全くなかったわけではないでしょうが、他の詩よりもずっと少なかっただろうと思います。そうであるからこそ、技術を超えた感動が生み出されてきています。

 一般的に、衝動やむき出しの感情で書かれた多くの詩は、その人だけの自己満足で終わることが多いように思います。ところがこの詩は、読む人の多くの胸をじかに打ちます。真っ正面から書かれた詩であるにもかかわらず、詩は鋭く読み手に入ってきます。体験とは何か、人の体験を読むとは何か。詩を書くという作為から遠い作品だけに、詩とは何かを考えさせてくれる透き通った詩になっています。

それとともに、技術をかなぐり捨てたところに残る技術の美しさに胸をうたれます。

 家に帰ったら近親が亡くなっていたという経験を、ぼくも持っています。高階さんと違って、ぼくはその人の死をその夜には書き始められませんでした。結局十年以上もかかって書くことができました。失った人との関係性が、書けるタイミングの違いに影響していたのかもしれません。でもそれだけではなく、書き手の、言葉との距離のあり方も同様に影響したのだと思います。

「春’ing」 高階杞一

今日はお鍋よ
だったらぼくは牛蒡と葱を買いにいこう
そう言って
出ていったまま
もう二十年もあの人は帰ってこない

この頃は
めきめきと
空も
春らしくなってきたし
わたしは
ひとりでもお鍋ぐらいは炊ける

丘の上で
雲といっしょに
トントンって
包丁を動かしているのも楽しいし

明日は
雲雀も入れてみよう

それから
自転車に乗って
街まであの人に
もうすっかり用意ができたことを告げにいこう

「春’ing」について 松下育男

詩というのはどこまで書いてあることを信じていいのだろう。この詩を読むとそんなことを考えてしまいます。「出ていったまま/もう二十年もあの人は帰ってこない」と書いてありますが、もしこれが詩ではなく、例えば新聞とか、あるいは誰かからの手紙にでも書いてあるのなら、「この人は奥さんに逃げられたのだろう」と考えてしまいます。

 牛蒡と葱を買いに行ったまま二十年帰ってこないというのは、夫婦喧嘩の後のようにも想像され、それもありえそうにも思えてきます。あるいは、奥さんはなんの理由もなく、「ここは自分のいるべき場所じゃない」と思ってしまったのかもしれません。

 でも、この詩はどうもそんな感じはしません。夫婦喧嘩ではないようですし、奥さんの気まぐれとも思えません。というのも、一人になったこの人は、「あの人」の失踪を全然深刻に受け止めていないからです。

 ところで、「あの人」という言い方は何かを暗示しているのでしょうか。「あの人」の「あの」は「あの世」の「あの」です。考えすぎでしょうか。

 それにしても「わたしは/ひとりでもお鍋ぐらいは炊ける」というのはなんともおかしい。あの人がいなくなることよりも、鍋を炊くことの方が、生きて行く上で重要だと言っているように見えます。そしてこの価値観の逆転こそが、この詩の魅力でもあります。生きていれば深刻なことはいくらでもあるわけで、いちいち心を痛めているよりも、力を抜いて鍋でも食べていようよと、言っているようにも読めます。それも狭いアパートの一室で、胸が塞がれるような思いで料理をするのではなく、「丘の上で/雲といっしょに/トントンって/包丁を動かして」というのですから、なんとものんきなことです。

 最終連、自転車に乗ってあの人のところへ行くのですが、だったらこの二十年間どうして行かなかったのだろうとか、「あの人」とはいったい誰だろうとか、考えてしまいますが、理詰めに考えても答なんかどこにもないのです。

 ただ、二十年かけた料理ができたから迎えに行くのです。そうなんだなと、そのシーンを気持ちよく思い浮かべるのが、この詩の読み方だと、僕は思います。

 「あの人」の「あの」は「あの世」の「あの」だと、もう一度考えて、だとしたら自転車に乗って行く先の街とはどこなのでしょう。
 ずっと遠くで、たぶんすぐ近くなのです。

「サイの河原」 高階杞一

賽の河原
というと
サイのいる河原だと思ってた
なんてことはないけれど
ほんとうに
その川の川べりにサイがいっぱい集まって
水浴びなんぞしていたら
おもしろい
まわりには
カバやキリンなんかもいたりして

死んでいった親しい人や
犬や
祖母
みんな
川のあっち側に行ってしまったけれど

そっちにも
サイはいる?

返事はしない
ただ
水が
きらきら きらきらと 光ってるんだ

「サイの河原」について 松下育男

 ちょっとした聞き違い、というのはよくあることで、それを長年思い込んでいたなんてこともよくあります。例えば「兎追いしかの山」は、子どもの耳にはどうしても「うさぎおいしいかの山」に聞こえてくるので、兎汁のことを連想して。兎がかわいそうだなと思ってしまいます。小さな子の聞き間違いや言い間違いというのは、なんともかわいらしいもので、聞いているこっちがホッとすることもあります。そのホットとは、言葉の意味にがんじがらめにされて生きている大人の、つらさの裏返しでもあります。

 聞き間違いで出来上がってしまった世界、というのは時にシュールにもなり、滑稽にもなります。普通は間違いに気付いた時には、自分でちょっと笑ってすましてしまいます。でも高階さんはそれを笑っただけではすまさずに、詩にしてしまいます。どんな詩を書くか、ということ以前に、聞き間違いの世界を詩にしてしまうところに、高階さんの発想に対する執念深さとセンスがあるのだろうと思います。

 ところで僕は「賽の河原」を「犀の河原」とは聞き間違えませんでした。なぜかというと、「さいのかわら」という言葉を聞いたのはすでに大人になってからだったからです。高階さんだって子どもの頃に聞いたのではなかっただろうに、どうして聞き違えなんかしたのだろう。それはたぶん、大人になっていたのに、高階さんの頭の中にはキリンや象やカバや犀が、しょっちゅうウロウロしているからなのです。普通の大人とは違うのです。

 高階さんの詩の特徴は、変な発想をしたらそれを徹底的に展開してしまうところにあります。もし僕が「犀の河原」という発想を得ても、この詩ほどにしつこく書かないだろうと思います。すぐに終えてしまう。ただ、このしつこさは、もっと重大なものへ導かれてゆくということがあります。この詩では、言い間違いのおかしさから、亡くなった人への切ない思いへ詩を進めています。

 あの世のことが書かれていて、詩の後半はとても静かです。きらきらと光っている水が、言い間違いも生き間違いも、すべて流してくれているように見えます。

 この世の全体が間違いだったとしたら、そもそも「間違い」ってなんだろう、なんてことまで考え始めてしまいます。

「だぶだぶの夏」 高階杞一

昼休み
外に出て
ひとり ぼうっと空を見ていると
少しずつ僕からまわりがずり落ちていく
壁や
木や
人や車や
雲が
どんどんずり落ちていき
やがて
空には空以外何もなくなってしまう

  どうしましょう
  いつもより短めにしてください

青空の鏡台
椅子には
坊ちゃん刈りの僕がいて
まっすぐ前を向いている

(僕にもあんな頃があったんだ……)

ずり落ちたまわりを上げて
また
仕事に戻る
長い
長い
大人の時間に戻る

「だぶだぶの夏」について 松下育男

 これは、勤め人が昼休みに空を見て子どもの頃のことを思いだす、という詩です。いったい、そのような設定の詩を僕は今までにもたくさん読んできました。それなのに、同じ状況を書いているのに、高階さんの手さばきはどこかが人とは違います。とても見事です。

 詩の中には書かれていませんが、この詩を読むと、書かれていない部分(好きでもない仕事をあくせくやって、そのあげくに上司に叱られ、しょぼんと家に帰る)が、目に見えるようです。むしろ、書いていないことによって、読み手はその姿をまざまざと見ることができるわけです。不思議です。見事です。

 屋上に上がって、空を見ます。ここまでは大抵の詩人は書きます。詩の個性が出てくるのはその先です。普通なら、空に雲が浮かんでいて、あんなふうにのんびりと生きていたいものだと呟く、そんな感じでしょうか。高階さんはどうでしょう。雲も見ていますが、あらゆるものが「少しずつ僕からまわりがずり落ちていく」とあります。なくなってゆくわけです。そこにあるものがなくなってゆくというのは、今がなくなってゆくということです。自分を囲んでいる「今」がなくなったので、昔に戻っていってしまうわけです。

 そのあと「いつもより短めにしてください」という言葉が出されます。ここを読んだ時には、いったい何を短めにするんだろうと首をかしげます。で、次の連で床屋の椅子に座っている昔の自分が出てきて、そうか散髪をしているのだなとわかります。ここもとても見事です。明るい床屋の鏡の前で、生真面目に自分を見つめている少年の姿が見えてきます。この少年は鏡の中に、もしかしたら将来、勤め人をしている未来の自分の姿も、かいま見ていたのかもしれません。

 「ずり落ちる」という感覚は、いかにも高階さんらしいと思います。別の詩には、遥かむこうに象がいて、梃子の原理で世界が傾くという詩もありましたが、似たような不安定さ、坂を落ちてゆく感覚が込められています。詩という器を傾けて、世界を少しずらすのが、高階さんの詩の特徴であり、魅力でもあります。

「桃太郎」 高階杞一

今朝は十時に起きた
いつものように
顔を洗い
体操をして
テレビを見ながら
コーンフレークとゆでたまごを食べた
新聞を読み
トイレに行って
戻ってからまた続きを読んで
そうしてあれやこれやしているうちに
いつのまにか夕方になる

いい暮らしだな
と人は言うけれど
することがないっていうのも
つらいことだよ

鬼退治の依頼もこの頃はさっぱりないし
(鬼が減ったわけではないのにね)
まともな仕事に就こうと思っても
親が桃
ではどこも雇ってはくれない

「日本一」の幟(のぼり)を立てて
(昔はこれだけで拍手喝采されたもんだが)
営業に回っても
今は
いつまでも桃やってんじゃねえ
なんてののしられ
鬼より
人の方がこわい

あの時あんな所へ行かなきゃよかったな
と この頃つくづく思う

やさしかったおじいさんもおばあさんも死に
イヌやキジもとうに死に
サルも去年の夏に亡くなった
今はもう
訪ねてくる人もない

鬼を退治して
鬼籍に入る、か…(笑っちゃう
 笑っちゃえるよね、ホント
 えっ、笑えない?)
俺は誰としゃべっているんだろう…
何だか眠たくなってきた
どうしよう
晩ご飯までまだ時間があるし…どうしよう…

二階へあがって
窓辺にすわる
夕焼けが
  きれいだ…

「桃太郎」について 松下育男

 これは読んでいてとても楽しい詩です。読んで楽しい詩って、世の中には実はあまりないのです。
この詩は「ありふれる」ってどういうことかを考えさせてくれます。

 題は「桃太郎」ですが、一連目はどこか普通の人間のありふれた日常を描いているようです。朝起きて新聞読んであれやこれやしているうちに夕方になるって、作者のことでもあり、読んでいる多くの年金暮らしのオジサンオバサンのことでもあります。ですからこのオジサンオバサンが、題の「桃太郎」とどういう関連があるのだろうと、ここを読んでいる時点では首をかしげます。

 二連目になっても依然として、これは退屈な年金暮らしの人の呟きです。

 三連目になって、(おいおい)ということになります。「鬼退治の依頼もこの頃はさっぱりない」と言っているし、「親が桃」とも言っているので、このオジサンオバサンは、日本のどこにでもいる人ではなく桃太郎のことだと分かるのです。それにしても、親が桃だと就職できないというところで、僕は声を上げて笑ってしまいました。会社によってはむしろそれが理由で広報部かなんかに就職できるんじゃないかとか、どうでもいいことを考えてしまいます。

 で、勝手な勘ぐりですが、高階さんは一連目、二連目を書いている時には、まだ桃太郎ではなく、普通の年金暮らしの人を書こうとしていたのではないのだろうかと思います。「桃太郎」という題は、だから後でつけたような気がします。つまり三連目で桃太郎が出てきて驚いたのは、読者だけではなく、作者の高階さんもそうなのではないのでしょうか。自分が驚いたものでないと、すぐれた詩というのは成立しないように思えるのです。

 ここまで桃太郎の世界の前提が整ってしまうと、もうそこで起きる出来事を書いてゆくばかりです。営業先で「いつまでも桃やってんじゃねえ」と言われたり、「鬼を退治して/鬼籍に入る」と言ってみたり、なんだかこの詩はやりたい放題という感じです。

 誤解を恐れずに言うならば、この詩は新作落語になりはしないだろうか、あるいは舞台劇や漫才の台本にもなりそうにも思えます。

「ありふれていない」ものが「ありふれた」世界に置かれると、これほど楽しくも嬉しい詩(世間)が出来上がるのだということを、この詩は教えてくれています。

「塩」 高階杞一


テレビを見ていると
突然名前が呼ばれ
明日は羽黒山との対戦だ
と発表された
いきなりそんなことを言われても
まわしもないし
稽古も小学校以来していない
第一、羽黒山って誰だ?
箸を置き
庭の方に目をやると
もう
裸の大きな男が塩をまいている
春場所とはいえ
外はまだ寒い
いつまでも待たすわけにはいかない
こちらも台所から塩を持ってきてまいてみる
全部使わないでね
台所から妻の声が飛んでくる
上等の天然塩だから、と
ビン入りだからいくら振ってもそんなに出ない
それより
この勝負と塩と
妻にはどっちが大事なんだろう
相手はもう腰を下ろしている
ぼくはビンを手に 立ったまま
もう一振りしようかどうか
まだ
迷っている

「塩」についての感想 松下育男

 これも、読めばだれしも愉快になる詩です。そして、この愉快さは何かに似ているなと考えます。筒井康隆のSF小説に通じるものがあります。とんでもない状況を作って、その中に入り込んでしまった本人があたふたしている、その様子を見ている愉快さです。あるいは舞台劇にもこのようなものがあります。設定を妙なものにして、どうしたらいいだろうかという思いや焦りを描いてゆくというものです。

 よく使われる言葉に言い換えるなら、日常に非日常が入り込んだ詩と言えます。そういった詩が愉快だと思われるのは、(1)設定自体が奇妙、滑稽であること、(2)ありえない世界で困惑する気持ちの切実さが読み手に伝わってきて、読む人自身が困り果てた気持ちになることの二点によるのではないかと思います。

 この詩はもちろんその二点において秀逸です。ありえない世界で困り果てている人は、普通の生活でも困り果てている人なのです。あるいは、こうなったらどうしようと、いつも未来に起こることにびくびくして生きている「か弱い心の持ち主」なのです。現実はこんなことになりたくないから、なってしまった世界の中に自分を見て、泣き笑いになってしまうのではないかと思います。

 この詩がすぐれているのは、単に設定の奇妙さだけにあるのではありません。それにともなったこまごました描写が的確に描かれているという印象を持ちます。「いきなりそんなことを言われても」のひとこと。「稽古も小学校以来していない」という妙な悩み方。「春場所とはいえ/外はまだ寒い」という変な気の使い方。「全部使わないでね」といういきなり出てきた家庭の力関係。すべて一級品のとぼけ具合です。

 特に「この勝負と塩と/妻にはどっちが大事なんだろう」という究極の選択。このような選択の迷いは高階さんの脳の中にはいつもあって、大事なものの基準が素敵にあやふやなのです。このあやふやが、高階さんの詩の重要な一部分でもあるわけです。

 まさに高階さんにしか書けない、特上の詩(塩)です。

「雨」 高階杞一

夜半から降りだした君の横で
ぼくは だまって
降り続けている君を
見ている

  ごめんなさい
  こんなに降って

と君はあやまるけれど
雨だから
しょうがない

どんなにいっぱいの悲しみが
君を降らせているのか

てのひらに受ける
君のひとつぶひとつぶに
今朝
六月のみどりが映って
美しい

「雨」について

 ちょうど梅雨の時期なので、今日は「雨」の詩です。とは言うものの、最近は季節の変わり目が少しずつ前倒しになってゆくような気がします。ホントの夏が来る前に夏のようなものが来てしまう。で、結果的に夏のようなものがその年の夏になってしまう。そんな感じがします。だから梅雨も、いつ始まっていいのか迷っているのではないかと思います。僕らは、異常気象前の時代と、後の時代の、境目に立っている気がします。

 さて、高階さんの詩にもどりましょう。誤解を恐れずに言うならば、ありふれた発想のすぐそばに詩は転がっていると、この詩を読むと思います。雨と言えば、詩を書き慣れていない人は「空の涙」とか考えてしまう。実は詩とは無関係の人生を送っていた僕のオヤジも、生前のある日、そんなことを言っていたことがあります。僕はそれに対してなんと答えたらいいのか困ってしまったことを思いだします。

 この、「雨は空の涙」的な発想のすぐそばで、高階さんは詩を書きます。それってとても危険だと思います。地雷の側を歩くようなものです。この詩では雨を擬人化して話しかけています。そして「どんなにいっぱいの悲しみが/君を降らせているのか」と書いています。これって「雨は空の涙」とそれほど違わない。違わないのに、この詩を読むとやっぱり違う。ちょっと違う。ちょっと違うだけで胸に染み入ってきます。詩は不思議です。それはたぶん、読者のみんなが知っている「ありふれた叙情」を少しずらしてくれているところに、感動をするからなのだと思います。たくさんではなくて、少しずらされると、人は感動する仕組みになっているようです。

 例えば歌を聴いて、初めて聴く歌なのに感動する時ってあって、その多くはどこかで聞いたことがあるという疑似記憶のようなものがあふれ出てくる時なのだと思います。この詩も、どこかで読んだ記憶がある(ほんとはそんなことはないのだけれども)、そんな気持ちになるからいいなと思ってしまうのです。

 書いて欲しいものを書いてくれた、そういう感じです。だれでもが書けそうな詩ほど、書けないものなんです。ありふれているものの側に傑作は生まれる。この詩を読むとホントにそう思います。

象の鼻 高階杞一

世界の端っこに
鼻のない象がいて

午後には
おばさんがきて

夜には
君が横にいて

ぼくは
長い長い夢を見る
広い砂漠を
あてどもなく歩いていく夢だ
象の鼻をひきずって
何故こんなものを借りたのか、と
考えながら
再び「象の鼻」について

 この詩についてはすでに一回目で書いたのですが、詩の中身のことには触れなかったので、再び読んでみます。

 この詩を読んでみると、高階さんの詩では地球は平らであるらしい。だから、ずっと向うには「はじっこ」があります。その「はじっこ」に象がいます。遠さと重さが一緒にいます。象と言えば長い鼻、その鼻をなくしてしまった象がいます。なんというか、兎なら耳、キリンなら首、象なら鼻と、相場が決まっているけれど、その相場を疑ってかかるのが高階さんの詩なのだろうと思います。では、人間ならなんだろう。人間なら頭、人間なら空想力。それなら人間から無駄な空想力をなくして、一から見つめてみるのが高階さんの詩なのです。

 世界のはじっこに象がいると書いて、二連目では午後におばさんが来ると書いています。ずっと遠くを見つめていた目が、二連目で急に足元にもどされます。視点の激しい動きです。気持ちがいいくらいです。それにしてもなぜおばさんなのだろう。鼻のない象のあとに登場するのがおばさんであるということの意外性が、あっけらかんと詩にしまわれています。たぶんおばさんである必要なんかないのです。高階さんがこの詩を書こうとしている日に、本当におばさんが来ることになっていたのです。詩の中身ってそんなものなのです。だからそのまま書いたのです。そのまま書くことに理由なんかいりません。理由なんかいらないことほど強い理由はありません。

 三連目は夜になって、君が横にいます。君ってたぶん恋人だろうと思います。横にいるということは、同じ方向を見ているということです。世界のはじっこを二人分の目でじっと見ています。おばさんはもうどこかに帰ってしまいました。飲みかけたお茶の茶わんを残したまま。

 四連目は夜の後の眠りです。朝(象)→昼(おばさん)→夜(君)、でそのあとの夢にまた(象)が出てきます。夢の中のことだから理屈は通っていないのですが、どうも象の鼻を借りていたらしい。でも借りた理由が思いだせません。せっかく象という手がかりがあるのに、鼻を借りた理由が思いだせません。

 四連目は夢と書いてあるけど、この詩はもともと夢の中のようなところから始まっています。現実と夢なんて区分けできない、両方がダブって存在していて、両方とももともとどこにもない。それが高階さんの詩の世界なのではないかと思います。世界は真っ平らで、それでいて丸まっています。象には長い鼻があって、鼻なんかハナからない。世界のどこにも夢なんかないし、世界にはどこを見ても夢しかない。
 それから上の方には、あっけらかんとした空があります。

 
「終わりに」 松下育男

 ということで、「高階杞一を読む」は終わりです。「なぜこの十一篇なの?」と高階さんに聞かれました。よい質問です。高階さんの詩はどれを読んでも気持ちが澄み渡ってきます。富山の薬箱みたいに、一家に一冊『高階杞一詩集』が置いてあるといいと思います。つらい時は読むのです。時々高階さんがやってきて、新しい詩に入れかえて帰ってゆきます。

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