でんすけ劇場を思い出す ー 長嶋南子詩集『猫笑う』

でんすけ劇場を思い出す ー 長嶋南子詩集『猫笑う』(思潮社)

長嶋南子さんの『猫笑う』を読みながら、だんだん気持ちがよくなってくる。この感覚はどこかで経験したことがあるな、と考えていて、そうか、昔テレビで見ていた「でんすけ劇場」のようだなと、思いつく。いつもながらの単純な舞台装置に、あいかわらずの登場人物が出てくる。『猫笑う』に出てくるのは、でんすけならぬ主人公のミナコちゃん、それから去勢された利口な猫、さらに猫ほどには利口じゃない息子、あるいは骨壷に入れられたまま押入れの中にほったらかしにされている夫。ミナコちゃんは自在に子供になったり、若い娘になったり、おばあちゃんになったりする。ミナコちゃんの体には、小判草が生えてきたり、どくだみが生えてきたりする。あるいは糸みみずが目の中を泳いでいたりする。詩集に収められた30編を超える詩のどれもが、似たような情景を広げ、似たような登場人物が出てきて、似たような寸劇をしてくれる。読者は、はじめの数編を読んだだけで、もうこの世界のとりこになってしまう。安心して「長嶋南子劇場」を楽しむことができる。
長嶋さんの詩集のすぐれているのは、一言でいえばカクゴができているところなのかなと、思う。現代詩とはこういうものである、という入れ物の中に、自分の詩をあてはめようとはこれっぽっちも思ってはいない。現代詩の枠組みを壊そうなどと、力んでいるわけでもない。現代詩などという入れ物の存在を、ハナから気にしていないように感じる。長嶋さんはどうやってこんなに素敵な舞台を手に入れることができたのだろう。なにがきっかけで、これほど見事な居直りの境地に達することができたのだろう。なにがあったから、こんなに深いあきらめを、手に入れることができたのだろう。
今回の詩集では、仕事を辞めてサンデー毎日になったことと、夫を亡くして一人ぼっちになったことが、長嶋さんの生活の大きな変化のように見える。でも、だからといって夫を亡くした詩人がみな、一流の詩人になれるわけではない。あたりまえなことを言うようだけど、おそらく、長嶋さんをここまで突き抜けさせたものとは、生活の諸事情によるものではなく、詩へのたゆまない思い入れの結果なのかなと、思う。それから単に、生来の才能の故なのかな、とも。では、不条理な長嶋南子劇場の一端を、お読み下さい。

いちじくの実を割ると
そこはわたしのかくしどころです
そこには<ふしだら>
ということばが書き込まれています
(略)
いちじくをもうひとつ割ると
実のなかで
ふしだらな娘が笑っています
スカートをたくしあげて 
 (「いちじく」より)

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