2023年12月9日(土) 詩は批判されることもある

土曜日の朝だ。来週の今日は「Zoomによる詩の教室」がある。それで昨日は、送られてきた29編の詩を朝から読んでいた。

読んでは、その詩についての感想を書いていたのだけど、さすがに29編を一日では読めない。一編読んでは部屋の中を歩いたり、ソファーに行ってしばらくぼーっとしていたり、つまりは小刻みに読んでいって、やっと10編を超えた頃にはもう日が陰ってきていた。

で、読みながら考えていたのは、感想を書く時に、この詩はいいなと感じる時と、この詩はそれほど面白くないなと感じる時があって、その判断ってなんだろう、ということだ。

何を言いたいかと言うと、一つの作品について何かを言おうとする時に、褒めようと思えば褒められるし、批判しようと思えば批判できる、ということなのだ。でも、読みながらその詩を、褒めるか批判するかは、どの段階でどのように決めているのだろう。自分の判断なのに、無意識でやっているから、明確に説明できないし、それがとても気になった。

さらに言うなら、これは手放しで褒めたいという詩や、これはどう読んでも面白くないなと思う詩がある一方で、褒めてもいいし批判してもいいかな、という詩もある、ということだ。

そういう評価の境界にある詩って、読む側の調子によって、褒められるか批判されるかが決まってしまう。それって、詩を提出した側から見たらたまったものではない。勘弁してよ、ということなのだろう。

そういう時に、ぼくはどうしているだろう。考えてみれば特に何の対策もしていない。評価の境界にある詩についても、その時の気持ちに正直になるしかないのかなと思っている。その時にどう感じたかをやっぱり大切にしている。それが「詩を読む」ことだからだ。だからその時だけの偏った感じ方にならないように、せめて、日をおいて最低2回は読むことにしている。

人からの評価って、もちろん褒められれば嬉しいし、やる気も出てくる。でも、ちょっとでも批判されると、自分の詩はもうダメだと思ってしまう。とことん絶望してしまう。

でも、現実は「褒められた詩」と「批判された詩」の出来の違いって、作者が考えているほど大きくはないのではないかと、ぼくは思う。どちらも頑張って書いただけの価値はあるはずなのだから。

ぼくはいつも同じことを言っているけど、自分の詩についての、人からの感想はありがたく受取るとしても、それを過度に信じてしまうのはやっぱり危険だと思う。

批判されても気にするな、と言われてもそう簡単にはいかないだろうけど、それまでに夢中で書いてきた自分の「時間」と「詩」を信じてあげることが大切なのだろうし、これからも、詩と二人でコツコツと楽しくやってゆくしかないのかな、それでいいのじゃないだろうかと、ぼくは思う。

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