2024年4月16日(火)長く詩を書いていて思うこと。

昨日は病院へ。それから家に帰って、いくつか詩を読んだ。いつもと変わらない。それが嬉しい。

これからいくつか人前で話をする予定があるので、その準備をしている。人前でなにが語れるか、わからないけれども、ともかく少しずつ準備をしている。時折に空を見ながら、楽しみながら、やれることをやってゆこうと、当たり前のことを考えている。

急にやる気を出すのではなく、平常心で、こつこつと準備をしてゆくことが大事だと、わかっている。

ところで、会社勤めをしていた頃に、外資企業だったせいか、トップ(社長)が数年ごとに変わった。それで、新しい社長は独自性を出すために、経営方針や社員の目指すものを示してくる。ぼくも若い頃は、社長の言葉を、なかなかいいことを言うな、と思って聴いていた。

でも、社歴30年を超す頃から、今度の社長の言っていることは、前の前の社長のと似ているな、とか、感じてきてしまう。今までの誰かと似ているなと、思ってしまう。

大雑把に言えば、経営方針も社員のあり方へのメッセージも、いくつかのパターンがあって、その内のどれかに入ると感じてしまう。どんなに新しい考えも、どれかの繰り返しだと思われてくる。

もちろん社長ひとりひとりは、自分で考えた独自のものだと信じているのだろうし、それは確かにそうなのだろう。

ただ、長く見ていると、時代が変わっても、人が変わっても、どれもが、だれもが、いくつかのパターンの繰り返しのように感じられる。

詩の世界も同じなのかなと思う。

長く詩を書いていると、詩の世界というのは、全体としてはほとんど変わらず、ただ、いくつかの問題や流行りの繰り返しのように感じる。

年々、新しい詩集や詩人が出てきて、それは確かに新しいのだけど、どの詩集も、かつてのどれかの詩集の生まれかわりのような印象を持ってしまう。どんなに新しい詩人も、かつての誰かのつながりの先のような感じがする。

また、詩の世界で語られていることも、例えば「難解な詩よりも、誰でもわかる詩であるべきだ」とか、「いや、書き手は読み手に妥協せずに思い込みに突っ走るべきだ」とか、なんだか昔から幾度も言われていることの、単なる繰り返しのように感じる。

その繰り返しをぼくは、いいとも悪いとも感じない。

そういうふうになっているのだなと、思う。

それで、たくさんの繰り返しの詩や詩人の、たった一つの小さな波しぶきとして、ぼくは潔く、ぼくの声で叫び声をあげていようと、思うだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?