「別のものを見据えていた ― 北村太郎、詩にとっての体験について」

「別のものを見据えていた ― 詩にとっての体験について」

 このところ頭の中をめぐっているのは、詩にとって体験とは何かということだ。今更の問題ではあるけれども、実際に体験したことを書くということが、詩の読み手にどれほどのインパクトを与えるものなのだろうかと、ずっと考えている。
 若い頃は、体験や知識とは別の崇高な場所に、書かれるべきことはあるはずだと考えていた。詩とは言葉そのものの可能性を探ることであり、新たな表現を探ることこそが詩の役割ではないかと思いもした。それに対して、体験はしょせん体験でしかない。人それぞれの人生ではあるけれども、生きてゆく過程には共通する大きな部分があり、それをことさら詩に書くまでもないのではないかと考えていた。
 詩にはふたつの接し方がある。ひとつは世界を向こうへ追いやって言葉そのものの中で息づこうとする(言葉の詩)であり、もうひとつは世界の中でその人生とともに書き記してゆこうとする(生の詩)だ。年を重ねるとともに(言葉の詩)から(生の詩)へ徐々に考えが傾いてゆくのはあまりにも分りやすい構図だが、私も案の定そのようになってきた。どんなに世界を追いやって言葉だけの純粋な詩を書こうとしたところで、その詩がそれ自身で出来上がるわけのものではなく、その詩を書いたなまなましい作者がいるのだという思いが、年々強くなってくる。

 それでは、詩にとっての体験とはどのようなものがあるだろう。例えば、最もよく詩に書かれる体験は、肉親の死なのではないだろうか。たしかに人の一生の中で、肉親の死、その葬式、それにまつわる思い出や遺品や心情など、詩に書けることはたくさんあるし、肉親の死を経験すると、それを詩に残したいという欲求は出てくる。
 また自身の幼年の記憶も、部分的に曖昧なところがあり、その曖昧さが現実から浮遊している感覚をもたらし、詩に書かれることは多い。あげていけば切りがないが、ある種の体験は間違いなく詩を書こうと思わせるし、そのような詩はこれまでにも多く書かれてきた。
 そしておそらく、重要な体験というのは、詩という形式にとっては根源的なテーマであり、体験がぴたっとした言葉を探り当てれば、詩は確実に読み手を揺り動かすものになりうるのだと思う。

 では、そのような体験はいつ書かれるべきだろうか。むろん、詩人によって、あるいは体験の種類によって異なってくるだろうが、抜き差しならない体験を、その渦中で詩にしてゆくというのはとてもむずかしいと思われる。これはよく言われることではあるけれども、通常、出来事を言葉に変換して詩が書けるのは、事が起きてからだいぶ時間が経ってからのことだ。詩を書くためには、相応の時間と、心の落ち着きが必要なのだ。静かな生活と冷静にさめた目がなければ、詩など書けない。

 そういえば、僕はかつて「初心者のための詩の書き方」という長い連作詩に次のように書いたことがある。

 家庭が落ち着いていないと仕事に身が入らないように
 差し迫った心配事を抱えていたら詩なんか書けない

 人に頼らずに詩を書いて行くつもりなら
 だから行き着く所は生活力と生きようとする力

 人生を手際よく処理する事務能力と
 呑気さが大事

 明るい方へ向けた顔を
 俯けたところに詩がある

 これは僕自身の体験から来た正直な思いであり、心配性で気の小さな僕にとって、詩を書くというのは、できるだけ面倒ごとや心の揺れを向こうへ押しやって、目の前にできた空き地に佇むようにして書くものだと思っていた。

 ところが、そんなことはないと体現して見せてくれた詩人がいた。北村太郎だ。今更言うまでもなく、差し迫った心配事、面倒ごと、処理しなければならないことが次々に押し寄せてくる中で、多くのすぐれた詩を書いていった。そんなことがありうるのか。僕には想像を超えた生き方のように思えた。それも、それらの面倒ごとは、周りが引き起こしたのではなく、あるいは、事件や事故のように偶然遭遇したものではなく、ほかでもない自らが自らの意志のもとで引き起こしたものなのだ。
 なぜ太郎は穏やかな状況でなくても詩が書けたのか。いえそうではなく、穏やかではない状況の中でも、穏やかな心持ちを維持し、創作に集中できたのか。わからない。そんなことはとうてい僕には無理だ。どうしてそんなことができるだろう。たぶんもともとの人間が違うのだ。太郎は僕とは決定的に違うのだという思いが湧いてくる。詩の才能のことだけを言っているのではなく、詩に向かう姿勢、あるいは人生に対する姿勢、あるいは生きるということに対する姿勢が、僕のような普通の詩人とはまったく違うのだ。その違いが、詩そのものの中にも注ぎ込まれ、作品の深みを増すことにも繋がっていたのではないのだろうか。

 ところで、もしも生まれ変わることがあるとしたら、僕は次の世でまた詩を書くだろうと思う。でも、その時には今とは違った詩を書くのではないか。というのも、詩はあらかじめこの世にあるものではなくて、どうしたってその時に生きている「人」が書くものだからだ。もしも生まれ変わることがあるとしたら、僕は別の時間の中で生き、別の人と出会い、とうぜん別の出来事に遭遇する。そうであるならば、僕の書く詩は違ったものになるだろう。
 繰り返しになるが、だからどうしても「詩にとっての体験とはなにか」ということを考えてしまう。僕が詩を書こうとする時に、発想のとっかかりは自分の体験か記憶だ。自分とはかけはなれたものがいきなり空中にぽっと出てくるわけではない。現実があるから詩ができる。仮にその詩が一見体験とはかけ離れた内容であっても、その詩を書いた人がどこかにいる限り、詩は人の指を伝わって現実の出来事に結びつけられてしまっている。

 ただ、詩と現実の結びつきにも強さ弱さはあるのではないか。北村太郎の詩を読む時、特に五十代半ばからの突然の多作への変化を見る時、どうしても現実との結びつきの強さを感じざるをえない。もしもあの出来事がなかったら、この詩は書かれなかったのではないか。もしもあの出来事が起きなかったなら、北村太郎は別の詩を書いたのではないか。そんなことをつい考えてしまう。
 なんと言ったらいいのだろう。太郎は五十代半ばから大量の詩を書き、多くのすぐれた詩集を残した。それは事実ではあり、だから目の前には分厚な『北村太郎の全詩篇』(飛鳥新社)があるわけだが、それらの詩のいくつかは本来なかったかもしれないという気持ちになってしまう。でも、太郎が「本来」生きるはずだった人生などというものが、どこか別にあるはずのものではなく、「あの日、田村隆一の妻が勤め先に訪ねて来なかったなら」などという仮定が成り立たないのはじゅうじゅう分かってはいるのだが、やはり思いは詩の拠って立つところに向かってしまう。

 今年の三月に、太郎の長女、榎木融理子さんとZoomで対談をした時に、僕がしつこく当時の太郎の様子を聞いたのは、現実の出来事が太郎の詩にどのように影響を与えたのかを知りたかったからだ。そして今回、本誌から北村太郎の論考の依頼が来た時にまず考えたのが、よい機会なので作品と事件の関係を並べて自分なりに整理をし、確認をしたいということだった。であるならば、その時の融理子さんの話を思い出しながら、詩集発行と主な出来事を並べて眺めてみよう。

1922 北村太郎生まれる
1966 『北村太郎詩集』
1972 『冬の当直』

1976 『眠りの祈り』
1976   朝日新聞社退社。田村隆一夫人和子との恋愛事件
1977 『おわりの雪』
1978 家を出て、田村和子と川崎市に住む
1978 『あかつき闇』
『冬を追う雨』
1980 『ピアノ線の夢』
1980 和子が鎌倉稲村ケ崎の家に戻り、太郎は二階の部屋を借りる。
そのうち田村隆一が戻り、太郎は単身で転居。

1981 田村夫妻の近くに住んで三角関係を続けることに疲れ、転居。
1981 『悪の花』
1981 朗読会で看護師のアッコと出会い、交際が始まる
1983 『犬の時代』
1985 『笑いの成功』

1986 田村和子、横須賀線への投身自殺未遂
1986 太郎、このころから健康を害す
1988 『港の人』
1988 田村和子が隆一と離婚し、再び鎌倉稲村ケ崎へ転居。

1992 腎不全のため、太郎死去

 表を見れば明らかなように、詩集が頻繁に出され始めたのは一九七六年以降になる。つまり恋愛事件の始まりと、旺盛な創作の時期とがぴたりと一致している。太郎が五三、四歳の頃からのことだ。勤め人として長年実直に働き、もうすぐ定年を迎える直前に、太郎は人生の曲り角を激しく曲がることになる。不倫事件を起こし、家族を残して家を出る。それとともに大量の詩を生み始める。このことをどのように受け止めたらよいのだろう。一九七六年までの太郎の現実にも多くの私的な出来事があっただろう。にもかかわらず、現実は詩作の刺激にはなりえなかった。それなのに、一人の女性に惹かれたことが、これほどに太郎のなりふりを変えてしまうことについて、僕は十全な理解ができない。
 定年間際まで勤め人としてこつこつと働いていたそのことが、長年自分の創作欲を無理に押さえつけていたのかと思い、融理子さんに聞いたのだが、決してそうではないようなのだ。僕の安易な想像とは異なり、勤め人時代には物書きに専念したいというそぶりを見せることなく、淡々と生活をこなしていたという。それがどうして、いきなり自分の人生を変える決断に向かっていったのか。融理子さんとの対談の中でも話したのだが、太郎の中にはもともと二人の太郎がいたのではないか。学生時代も優等生である昼間の顔と、煙草を吸いながら浅草を歩く夜の顔が、矛盾なく共存していた。そのように、勤め人としての日常を守り抜く顔と、一方でそれを激しく否定しようとする顔の、二つが太郎の中に矛盾なくあったのではないか。そしてその二つの重なりが、創作物に個性的な陰影をもたらし、詩の主要なテーマである「死」についての思いの襞を深めていたのではないか。

 ここに一篇のなまなましい詩がある。おそらく現実の出来事がなかったらとうてい生まれることのなかった詩だ。長いので部分引用になるが読んでみよう。

 きらうなら好きなだけきらうがいいでも
 死ぬな
 きみが死んだってちっともこわくないけど
 永遠を信じていない者の死に
 意味をつけるのがとてもつらいのだ
 ぼくは少なくとも「半分の永遠」を信じてる
 死は死んだのかと冬の林に
 大声で叫びたい

 叫べるの
 ほんとうは叫びたくないのでしょう偽善者め
 あなたが取り乱すの初めて見たわ
 あなたは
 狡猾で残忍で冷酷よ
 さんざわたしを楽しんだりして
 わたしがわたしの生をどう始末しても
 あなたの知ったことじゃないでしょう
(「ハーフ・アンド・ハーフ」より)

 先に書いたように、詩の材料としての現実、ということで言えば、詩になりやすい事件というのは多くある。自分の幼児体験や記憶、父母の病や死、恋人や連れ合いへの愛。それらは直接言葉に変換され、これまで多くの詩が生まれてきた。しかし、この詩はそのような類いの体験ではない。夫婦喧嘩を詩にしている。夫婦の言葉が交互に出てくる。脚本のようだ。で、奥さんの方はかなり怒っている。眠れないのは奥さんの方だ。で、眠れなくなった原因は亭主にあると言っている。つまりこの詩は、現実に起きた夫婦喧嘩をほとんどそのまま文字にしているのではないかと思われる。
 この詩が収録されているのは詩集『あかつき闇』(1978.4)だが、書かれたのはその前年の1977年。田村和子と恋愛を始めて(1976年)太郎が家を出る(1978年)その間の出来事だ。つまりこの夫婦喧嘩の詩は、出来事が起きたその当時に、毎夜繰り返されただろう喧嘩のその熱さのままに書かれている。
 夫婦喧嘩も詩になるのだ、と感じるとともに、この時点で太郎は普通の詩(幼児体験や父母の死)を書くまっとうな人間であるふりを棄てて、あからさまに、まるで自分を罰するように、ありのままのみっともない体験を作品にしてゆくことが、書くことの本質であると感じていたのではないか。出来事も思想もあらいざらいむき出しにしてしまう。そうすることが、太郎の詩のテーマの根底にある「自分の死を考える」ことへ直接繋がる振る舞いだったのではないか。というのも、この詩は夫婦喧嘩を書いてはいるが、太郎の目は喧嘩の渦中にいる時にさえ、遠くを見ている。遠くに見ることのできる生死の原則のようなものに目を向けている。だからこの詩の最後は、夫婦喧嘩の実況から激しくズレて、次のように終わっている。

 死は死んだのか死なないのか
 死なない死って何だろう
 鳥たちゃ鳥のなかで死ぬ
 猫たちゃ猫のなかで死ぬ
 ひとはいつでもひとのそと
 生まれるときも死ぬときも
 だからいのちをたいせつに?
 だから死ぬのもたいせつに?
(「ハーフ・アンド・ハーフ」より)

 なんとも、夫婦喧嘩をしている最中にこんなことを考えていたのかと思えば、太郎は喧嘩の当事者でありながら、同時に夫婦喧嘩を外から観察をしてもいたのかと思われる。そしてこの自己分裂は、太郎の中に生まれつきあった「二人の太郎」にも通じているのではないか。あるいは、夫婦喧嘩をしながら喧嘩をしておらず、女の元へ走りながら女へ向かっていない。あの鋭い目は、いつも当事者から外れて、別のものを見据えていたのではないか。

 太郎の中の恐ろしいほど醒めた孤独感を、僕は持ってはいない。恋愛事件をきっかけに曲り角を激しく曲がろうとした刹那の深い覚悟を、いつか僕にも読み取ることができるだろうか。

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