「同時代の詩を読む」(66)-(70) 高瀬二音、守野麦、樋口和博、安藤徹人、高瀬二音

(66)

「宵語り」  高瀬二音

学校から暗がり道ば急いだら
小路の曲がったそん先に
ちろちろ提灯の明かりがゆれっとが見えて
菅笠被った狸が3匹、二本脚で歩んじょっの
先頭の狸が持っ提灯の明かりが
脛ほどん高さしかない茅の草を
向こからじゅんぐりに照らしっいっので
見っかいのじゃらせんかと腹這になって、必死い隠れ
素袷の胸元に顔ば埋めて
目の前をそれらが過ぎたあと、つうつ走って
帰ったや
小め兄さあの南方で死んだち
遺髪だけ届いちょった

そいかあいっとっ後に
よかおごじょが魚を天秤籠にかたげっ
そこの川沿いの坂道をのぼって売りに来ちょった
立ち話に花を咲かせるのが楽しんで時々小魚を買ちょったが
あの魚売いのものは買なち姑じょが言う
そん日の小魚はうちの猫にやった
それから浦の方で猫らが
憑き物んごつ踊りながらけ死んようになっと
おごじょは玄関口で受け取った小銭ば
バラバラバラバラよく落とすっようになり
あれあれ言て二人で笑れあった日がいくっか続いたあとぱったり来なくなり
どげんしたじゃろかち言ちょったら
いっとっして
あん猫たちんごつなったち聞いた
うちの猫はそいかあいっとっばっかい生きた

目の前のこちゃ現実で手に触っ
こん手に触っ
膝丈ばっかいの草むらに触っ手の向こから
悲惨ともののけがずるんずるん繋がって
私のよな何もわからん小んけ人の
目の前にも引き出されて
ほれ触れち言わる
じゃっで時折
振り返っと廊下の暗がりに
狸の提灯灯りが揺れていないかと
目を凝らして見っみっの

「宵語り」について   松下育男

高瀬さんの書くものの領域や方法の多様さに驚いています。こういった詩も書くのかと思いながら読みました。

方言なので、そうでない詩よりもなかなか読み取りづらく、それがむしろ、薄い布の向こうを覗き込んでいる感じがして、さらに興味を持ちました

一度目の読みは発音どおりに読みました。途中、「手に触っ」という言葉の、途中で発音が空中に浮かんでいるような感じや、「小んけ人」と言う言葉のなんとも切ない可愛らしさに惹かれました。

二度目の読みは意味をとらえようとしながら読みました。

一連目は、小学校の帰りに狸が二本足で歩いているところに出くわして、狸に見つからないように家に帰ったら、お兄さんの戦死の知らせがあった、という内容です。

それから二連目は、きれいな魚売りの娘さんから魚を買ったら、姑があの女から買ってはいけないと言われて、その魚を食べた猫が死んでしまった、とあり、さらにその娘さんも小銭をぼろぼろ落として、猫と同じような様子で死んでしまった、という内容です。水俣病のことを書いているのかと思います。

三連目は、それらを踏まえて、目の前にある現実は、ある時「悲惨ともののけがずるんずるん繋がって」いる、というふうにとらえています。

戦争と水俣病を一つの詩で書く時に、「悲惨ともののけがずるんずるん繋がって」「私のよな何もわからん小んけ人」にも襲ってくる、と記しています。個人を超えたものに翻弄される人という小さな存在の意味を、高瀬さんの思考は、鋭い眼差しで一編の詩に作り上げています。

現実の出来事をそのまま詩にすることは、時に、詩の本来の魅力をそぐ結果に終わることが多いと思います。けれどこの詩は、純粋に詩の言葉として読んでも、それが方言を通したことに拠るものかどうかは分からないのですが、ともかく、読む人の胸ぐらを掴むような力をもって迫ってきます。



(67)

「ばあさんと岩」 守野麦

近所のばあさんは
真冬に七輪で湯を沸かし
庭の岩に掛けている
傍を通ると湯気が当たってあたたかい

ばあさんは
春には鉢植えに花を咲かせて
庭の岩を飾り立てる
傍を通ると兎に角いい匂いがする

ばあさんは
夏には氷柱を立てて扇風機を回し
庭の岩を冷やしている
氷柱ってどこで買うんだろう案外気持ちいい

ばあさんは
長いこと縁側で仕立てていたシルクのドレスを
庭の岩に着せている
子供を前に立たせて写真を撮っている人が居た

ばあさんが
手塩に掛ける度に
庭の岩は段々と
ばあさんに似て行った

瓜二つになった頃
岩はゆっくり立ち上がると
ばあさんに丁寧にお辞儀をして
庭の引き戸を開けて出て行った

ばあさんは
深く息を吸って吐くと
満足そうに背伸びをして
家の中に戻って行った

「ばあさんと岩」について 松下育男

不思議な詩です。こんな詩は見たことないと感じました。そして読んだあと、ほっと温かいもので心が充ちてきました。

淡々と語りかけるような詩です。最初の、「真冬に七輪で湯を沸かし/庭の岩に掛けている」のところから、ぼくはすでにこの詩に引き込まれていました。

なんだかわからないけど、岩にお湯をかけるっていい行為だなと、感じてしまったのです。そして読んでいるこちらが岩の気持ちになって、うっとりと温かなお湯を浴びている感じがしてしまうのです。

さらに夏の氷柱のところの、「氷柱ってどこで買うんだろう」というつぶやきも、力が抜けていていいなと思うのです。

そして、岩にドレスを着せる所までいくと、これはもう読んでいて微笑みが自然と湧いてきてしまいます。

この詩の素敵なのは、四連目までは、岩を無理に擬人化していないところです。ただの岩をいつくしんでいるのです。それがなんとも不思議で、優しい気持ちにさせてくれるのです。

そのあとの、岩がおばあさんに似てきた、というのも笑えます。

「庭の引き戸を開けて出て行った」というのも、なんだか岩の後ろ姿の、盛り上がった背中が見えるようでもあります。

ところで、この岩はいったい何ものでしょう。

岩そのものなのかもしれません、あるいは、岩に喩えてはいるけれども、ずっと自分のそばにいてくれて、すでにどこかに行ってしまった人のことなのかも知れません。

そう考えたら、ちょっと切なくもなりました。

この岩は何ものか、それは読む人がそれぞれに、自由に考えてよいのだと思うのです。

(68)

「沈まないボート」      樋口和博

薄暗がりのなか 横に妻がいない
こんな夜更けにいったいどこへいったのだろう
眠りかけて、
ぼんやりとした頭で、探す
本と猫を抱えながらベッドに入った時、
そういえば妻は風呂に入ろうとしていた
それにしても 遅すぎはしないか

階段を降りて 風呂を見にいく
閉じられた引き戸の向こう
浴槽から 洗面器でお湯を汲みだす音が聞こえる
いつまでも 何杯も 
汲みだしている
沈みかけたボートにでも乗っているかのよう
なぜそんなに 汲みだしているのか
あの音では、声をかけてもとても聞こえそうにない
あきらめて階段を上がる

ベッドに戻ると、妻が寝ている
ああ、あれは娘だったか
娘の 思いつめたときの顔を思い浮かべる
仕事で初めて叱られたと漏らした、あの晩
泣きだす前の 妻そっくりの顔
こんな夜更けに 娘は何を汲みだしていたのか

目を閉じる
閉じた瞼の裏側に、暗い海が広がる
その波間を
妻と娘が横に並んで、浴槽のボートを漕いでいる
「おーい」
ボートはなぜ沈まないのだろう
「西の国へ、旅に出るの」
二人とも 交代で水を汲みだすことを楽しんでいる
「おーい」
汲みだす音と、二人の笑い声で ぼくの声は
たった五十m先の船から 取り残されそうになる

毎日、たくさんの波が
寄せては、引いていく
夜更けに 洗面器を手に、
繰り返し、お湯を汲みだせば ぼくも
西の国へ旅ができる、
波のまにまに、あの沈まないボートに乗って

「沈まないボート」についての感想 松下育男

とても面白く読みました。特に後半はどんどん引き込まれてゆきました。

最初の「薄暗がりのなか 横に妻がいない/こんな夜更けにいったいどこへいったのだろう」のところから、何が始まるのだろうとわくわくします。

それで2連目では、奥さんが洗面器でお湯を汲みだしている音を聞いて「なぜそんなに 汲みだしているのか」というあたりがなんとも不気味で、興味をひかれます。

さらに3連目で、でも先ほどまでいなかった奥さんがベッドで何事もなかったかのように寝ていて、ここまで読んで、この詩はまともに現実を書いているのではないな、ということがわかります。突き抜けた詩なのだなということが分かります。それにしても、「こんな夜更けに 娘は何を汲みだしていたのか」はすごい一行です。

突き抜けた詩ですから、ここから先は、なんでも書いていいんだという詩の魅力が存分に発揮されてゆきます。この詩はここから、さらに面白くなって行きます。

4連目「目を閉じる/閉じた瞼の裏側に、暗い海が広がる/その波間を/妻と娘が横に並んで、浴槽のボートを漕いでいる」。この情景はとても鮮やかに詩行の波の上に乗っています。見事な詩行です。詩にしか書けないところです。こういうのを読むと、詩ってやっぱりすごいな、と感じるのです。

そして最終連、この波は単なる波ではなく、あるいは空想の波ではなく、日々そのものが打ち寄せてくる波なのだということがわかります。

この詩を読む人も、詩行の間から打ち寄せてくる言葉の波を、日々の苦労とともに汲みだしている気分で、深く読んでしまうのです。



(69)

「つかれ た」 安藤徹人

疲れて泳ぐのを止めた
日常からぽっかりと浮かび
なんでもない時間を眺めている

「海月は最後は海になるんだって」
って君がいつか話していた
きっとその時は小さく溜息をつくんだと
私はなんとなく考えていた
そして溶けた海月は
海洋を渡り 海そのものになるのだと

独り日常に浮かびながら
小さく溜息をついた
私はみるみる輪郭を失い
日常へ溶けてしまった

「つかれ た」について 松下育男

よい詩です。

特になにがあったとか、こんなことを考えたとか、という詩ではありません。大げさな詩ではありません。ただ、疲れた、と感じている詩です。

いえ、そのおおげさでないところが、この詩のよいところであると思います。

それでも「海月は最後は海になるんだって」のところを読んだだけで、はっとなって、その瞬間にぼくの中では、海月と海が互いに溶け合ってゆくところを想像してしまいました。

この世にあるものはなにもかも同じ一つのモノなのだ、という感じがしてきました。

だから私も世界のもののひとつであり、全体の中に、溜息をつきながら溶け込んでゆくのだと。

ここにあることと、自分の命について、考えさせられる、とても物静かでおとなしいけれども、大事なことを書いた詩になっています。

ところで、「つかれ た」と、途中に空き文字が入っているのはなぜでしょう。「つかれた」と言い終わることもできないほどに疲れていたのでしょう。そして最後の「た」を言い終わる頃には、輪郭を失った口で、溜息とともに発せられたのでしょう。

(70)

物思い    高瀬二音

どうやら知らぬ間に
生木をのみこんでしまったようだ
無理に折られて引きちぎれたので
ねじまがったとげの束が
灰色の肌から突き出ている
落ち葉の上に横たわる間にまとった銀緑白の古苔が食道にこすりつけられて
鎖骨の少し下ががさがさする
ぼんやり、
なぜこんなことになったのか考えているけど
生木が胸から喉の腑に食い込む感覚のほうに気を取られて上手く考えられない
時間通りに
占領された明るい朝のテーブルにつき
トーストの硬い角を口にねじ込む一瞬が長引きすぎて
生木にふと気づいてしまったから
ピンクの粘膜で無理に
生木と抱き合い今日出掛けることになった
雑木林で小鳥でも鳴いて
上向いた拍子に落ちたら良いけど

「物思い」についての感想 松下育男

こういう詩はとても好きです。よい詩です。

木をのみ込む詩です。このように、ありえない設定の詩を書く時には、その設定にどのように入ってゆくかというきっかけが重要になります。この詩では、「どうやら知らぬ間に/生木をのみこんでしまったようだ」と、どこかヒトゴトのようにして、その理由も原因もすっとばして、設定そのものになってしまいます。見事だと思います。

ありえない設定の詩は、その設定を事細かく書く詩と、設定後の世界との違和感を書く詩の、二つに分かれます。この詩は前者です。

それにしても朝のテーブルに向かってトーストを食べている時、というのが、なんともありふれた時間なので、読み手の想像を容易にさせてくれます。すべては朝の明るい場所で起こっていることです。

「木」ではなく、「生木」としているところも、細かいところですが、生きている木、ということで、見事だなと思います。

そうしてこのような、ありえない設定の詩、特に肉体に絡んだ詩は、読んでいる人がどこまで切実感を持って読んでいけるほどの細部を持っているかによって、その価値が決まってくると思うのですが、その点でも、この詩はすばらしい仕上がりになっています。

言うまでもなくこの詩が言っているのは「生木をのんでしまった」顛末ではなく、「生木をのんでしまった」ような心持ちの自分のことです。

そうか、高瀬さんの精神は今、こんな感じでいるのだなということを読み取ることができるのです。

それは悲しいとか、寂しいとか、苦しいとか、直接的な日本語では到底表せない状態を書いていることであり、詩にしか到達できない場所でもあります。すばらしい詩であると思います。

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