2024年3月25日(月)誰のために詩を書くか

月曜日です。もうすぐお昼です。3月も末だというのに、まだまだ寒くて、おまけに今朝は雨も降っています。仕方ない、家に閉じこもっていようと思いました。

家族はみんな出かけてしまって、今日も点ちゃん(文鳥)とぼくは留守番です。

それで、先きほどnoteに「同時代の詩を読む(66)-(70)」を載せたのですが、その文章を読み返していたら、安藤徹人さんの詩の感想に、ぼくはこんなことを書いていました。

「だから私も世界のもののひとつであり、全体の中に、溜息をつきながら溶け込んでゆくのだと。」

まあ、それほど珍しいことを言っているのではないのですが、このところ考えている「命はなぜ死ぬことになっているのだろう」という考えごとの流れで、こんなことを書いたのだろうなと思ったのです。

ところで、「命はなぜ死ぬのか」という疑問は、「自分はなぜ死ぬのか」という疑問と一緒だと、ずっと考えていました。でも、そうではないのではないかと、この間から思い始めたのです。というのも、自分が死んでも、命そのものはこの世というところに、まだごちゃごちゃといるわけですから、命は死なないのです。死ぬのは自分なのです。

それで、「自分はなぜ死ぬのか」という疑問のおおもとには、「そもそもなぜ”自分”などというものがあるのか」という疑問があります。

そして先日気付いたのは、”自分”というものも、ずっとあるわけではなくて、自分があるのは、生きている間だけのことです。自分というものには、なくなる時があって、それは死ぬ時なのです。つまり、”自分”にとって”自分”が与えられているのは、生きている間だけの、期限付きなのです。期限付きの”自分”なのです。死んだ時に、”自分”はお返しするのです。

そして、お返ししたあとの僕は、自分ですらないものです。

そんなことを考えていたら、詩を書いているのは誰のためだろうと、思い始めたのです。

生きている間は、たぶん自分の楽しみや、自分のみっともない欲のためであるのかも知れません。でも、そんな自分も、死ぬまでの期限付きの自分でしかないのなら、また、自分も大きな命の一部であるのなら、自分のために詩を書いていると自分は思っていても、実はそうではないのではないか。実は、”この世の命全体”のために詩を書いているのではないか、と思えてしまうのです。

それは決して、思い上がっている、というのではないのです。死んで後に何かを残せるほどの人生を送ってきたと思うほどに、ぼくは愚かではありません。そうではなく、自分を生きていることそのものが、あるいは自分のために詩を書いていることそのものが、「自分の命」のためではなく、「自分が死んで後にもずっと続くであろうたくさんの命のためなのではないか」と思えるのです。

自分が死んだ後に、その後も生きて行くだろう多くの人のために、ほんのかすかでもその後に生きる人が心地よく過ごせるために、あるいは無駄な学びの時間を省けるように、僕は今、期限付きの自分を生きて、たいしたことのない詩を書いているのではないか。

僕が死んで、100年も200年も、あるいは1000年も経ったある日に、見知らぬ青年が、ひょんなところでぼろぼろのぼくの詩を読んで、「つまらない詩だけど、この人はさぞ必死に書いていたのだろうな」と、せめて思ってもらえますように。

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