わが事として書く ― 鈴木ユリイカ詩集『サイードから風が吹いてくると』『私を夢だと思ってください』『群青くんと自転車に乗った白い花』

わが事として書く ― 鈴木ユリイカ詩集『サイードから風が吹いてくると』『私を夢だと思ってください』『群青くんと自転車に乗った白い花』(すべて「書肆侃侃房」)        
 鈴木ユリイカの詩集が出た。それも三冊がほぼ同時期に。二十九年ぶりの詩集だということだ。疑問が湧いてくる。「これほど多くの優れた詩を、この二十九年間、なぜ詩集としてまとめなかったのだろう」あるいは「ここへ来て三冊も同時期に出すことの理由はなんだろう」。その答えを敢えて探ろうとは思わない。読み取れる作品群から二十九年分の手応えを感じることができた、それ以上に何を問う必要があるだろうか。
 かつて読んだ鈴木ユリイカの詩の印象は、僕にとっては何よりもスケールの大きさだった。世界をまるごと詩の中に展開できる希有な詩人であるというのが、これまでの鈴木ユリイカ像だ。今回の詩集三冊を読んだ後でもその思いは変わらない。というのも、表現のためのちまちました技巧というものを全く感じることがないからだ。ただおおらかに書きたいように書いている、そんな感じを受ける。言葉は適切に選ばれ、伸びやかに使われている。小手先で詩を作っていない。そういう詩人はめったにいない。
 三冊の詩集はそれぞれに多くの内容を含んでいて、書評にまとめるのが難しいが、それでも大きく見渡すと、一冊目『サイードから風が吹いてくると』は広島への原爆投下に関した詩に集中しており、二冊目『私を夢だと思ってください』は主に芸術や創作に携わった人への思いを書き、三冊目は最近の出来事に目を向けて、東日本大震災の被災者や、身近な人々(自らの生涯を含めて)への思いを書いている。そしてこの三冊を貫いているのは、まぎれもなく死と、死を見据える生の美しさだろう。

 一冊目を読み始めて思いだしたことがある。かつて、僕は若い人からこんなふうに訊かれたことがある。「単なる想像で詩を書くよりも、現実とつながった作品の方が力を持つと言われましたが、実際に体験していないことでも、私たちは詩に書くことはできるでしょうか。」今回読んだ三冊は、まさにその質問に答えるような詩集だと思った。特に一冊目は原爆の悲惨さと被爆者のことをひたすら書きつづっている。原爆のことを記事や記録以外にも、詩や小説や脚本などでこれまで僕らは繰り返し知らされてきたけれども、その多くは被爆者自身か、その関係者が書いたものであったと思う。でも、鈴木ユリイカは被爆者ではない。実体験を書いているのではなく、単に(と言っていいのだろうか)歴史上の出来事を間接的に受け取った知識や情報をもとに、想像力を働かせて書いている。原爆投下の時に作者は台湾にいたのだと、詩集の中に幾度か書いているのは、これは実体験ではないということをむしろ読者にしっかりと知って欲しかったのだろう。

 その瞬間その街で〇・四秒間の高熱線と爆風と放射能で
 十四万人の人とあらゆる生物が消え去った

 それがどういうことであるか子どもは
 五十三年たった今でもよくわからない
          (「マーラーへの予感 ヒロシマ学2」より)

 間接体験、つまり新聞や書籍で読み、映画やテレビで観たものからの情報によって、いったい僕らはどれほど〝自分の表現としての詩〟を作りあげることができるだろうか。原爆投下というだれもが知っている事に、今(なぜ今だろう)詩に書いたのはなぜだろう。執筆時と詩集発行の時期は違っているとはいえ、その理由を詩の中から垣間見ることはできる。
 
 大やけどしたり 病気になったり
 不安だったり 心の傷に苦しんでいたりする人の側で
 (略)
 何にも感じなかったのか?
          (「六十年」より)
 
 という自分への問いと糾弾が理由であったのだ。理由そのものはとてもわかりやすいが、今わが事のように感じようとする想像力の鋭さには圧倒されてしまう。いったい自分が体験したことでない事実にこれほど心を託して、切実に詩が書き上がるというのはどういったことなのだろう。読み進める内に、僕は間接体験というものの持つ意味を、これまで軽く考えていたことを思い知らされた気がした。そうであるからなおさらに、この異常に研ぎ澄まされた想像力と感性には、あらためて驚かされるばかりだ。間接体験からも、自分の表現としての詩は可能であるとこれらの詩集は教えてくれている。

 二冊目『私を夢だと思ってください』は、作者が惹かれていた表現者に捧げた詩が、これもおおらかに書かれている。表題作のカフカへ憑依したかのような深い思い入れも、間接体験への鋭さから生まれ出たものだろう。

 間接体験への接近は三冊目の『群青くんと自転車に乗った白い花』の中での東日本大震災をとりあげた詩にも見える。間接であるからこそ可能であった設定、津波に流された犬の語りで構成された詩には特に胸を打たれる。さらにこの詩集には、さりげなく間接ではない(つまり自身の身内の)重大な出来事をも書いている。見聞きした情報から詩を作りあげてきた手が、実体験をおろそかに扱うわけもなく、静謐で真摯な日本語は夫の病いが伝えることをもれなく書き記している。
 
 三冊の膨大な作品群を貫くのは、生きとし生けるものへの切実な思いだ。これは、自分であろうと、身内であろうと、知らぬ人であろうと、生きている人であろうと、死んだ人であろうと、全てを均等に見つめることのできる深いまなざしに満ちた詩集だ。


 

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