2024年1月20日(土)今の詩はわからないと感じているのなら

土曜日の朝だ。昨日は詩を読んでいた。感想を書いた。それから、講演の練習をした。これでいいんだろうかと、迷いながら声に出して練習をした。やれることをやるしかない。そこに迷いはないのだけど。

ところで、「現代詩」という言葉は、やっぱり違和感を覚える。「詩」でいいではないかと思う。

詩は時代とともにあるからだとか、それまでの詩とは区別するためにだとか、理由はわからないでもない。それと、ぼくだってしょっちゅう「現代詩」という言葉を使っている。

自分が「現代詩」と言う時には、どこかで、戦前の詩と戦後の詩を分けて考えているのかもしれない。

今さらではあるけれども、日本の敗戦とともに、詩も生まれ変わったということだ。

けれど、戦後もここまでくると、抒情詩はどう考えても抒情詩であって、戦前も戦後もない。

ただ、ぼくもそうだったけど、若い頃に、戦前の詩はどんなに難解でも、自分なりの鑑賞が容易にできていた気がする。言い方を変えるなら、戦後の詩は、肌が合わず、なかなか好きになれなかった。

先ほど、抒情詩に戦前も戦後もない、と言ったけど、見方を変えると、実はそうでもないのかもしれない。

やっぱり戦後の抒情詩は、戦前のものよりも、洗練されているし、複雑化していて、奥行きの深いものが多い。

たぶん、戦前に書かれた詩と同じようなものを、繰り返し書いていても面白くないと、詩人は考えているのではないか。

ただ、その洗練され、複雑化して、奥行きを深くしたことにより、「戦後の詩はわからない」と感じる人がいるのだろう。

とは言うものの、戦後を生きているのに、戦前の詩ばかり読んでいたくはない。

ならば、どうしたらいいだろう。

どうしたら戦後の詩を、戦前の詩のように好きになれるだろう。

これはぼくの経験から言うのだけど、戦後に書かれたすぐれた詩でも、時を超えて味わえる詩人をまず探して、その詩人の詩に、寄り添ってもらって、戦後の詩の広がりへ導いてもらうのがよいのではないか。

ぼくの場合、導き手は清岡卓行と黒田三郎だった。その辺から、少しずつ戦後の詩人に触れられるようになった。

時間のある時に、大きめの図書館に行って、詩の棚にある詩集の「最初に載っている詩」を片端から読んでみる。あっ、この詩なら好きになれるかも、と感じたら、買ってくる。

もしかしたら、生涯そばにいてくれて、つらい日には肩に手を優しく乗せてくれる詩に、出会えるかもしれない。

昔の詩も、今の詩も、ともに素敵だ。

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