2024年3月24日(日)心臓のまんなかへ直通してくる詩

今回の「詩の教室」に寄せられた詩を読んでいて思ったことがありました。詩を読んで感じることの一つの側面は、「昔からあるタイプの詩」か、「新しさを追いかけているタイプの詩」か、ということです。

読んでいると、無意識に、この詩はどちらかと分けてしまいます。

それで思い出すのが、嶋岡晨の『詩のある俳句』(飯塚書店)という本です。この本は、詩人という立場から俳句について書かれています。その中の、「異様(ことよう)の句」という章では、俳人鬼貫(おにつら)の文章を引用しています。

「異様(ことよう)の句を作りて、それを新しと思ふ人は、この道を深く尋ね見ざれば、遠き境に入りがたくや侍(はべ)らん」(鬼貫『独言』より)

これを嶋岡晨は、「新奇な表現ばかり追っかけて、イキがってるような詩人は、しょせんポエジーの深い境地にたどり着くことはできませんぞ、という警告」と解説しています。

しかし嶋岡氏は、この鬼貫の言葉に賛同しているわけではありません。まったく逆の言い方をしている芭蕉の「名人は危ふきところに遊ぶ」をも引用しています。それほど単純に割り切れるものではないと、言っているようです。

たいていの鋭い言葉は、その逆も真だ、ということなのかもしれません。

たしかに、表現上の冒険を、よいとか悪いとかいってもしかたがないだろうと思います。新しい表現方法とは、その必要性があっておのずと生まれてくるものです。読む側にとっては、方法が新しかろうが古かろうが、どうでもよいのだと思います。読者は多様でも、読む視線は一筋だけであり、その一筋は、「新しい」かどうかよりずっと深いところへ、たどり着いているのだと思います。

さらに嶋岡氏は次のようにも書いています。

「いろいろ複雑微妙なもの、ときにひどく奇怪なものを抱え込んだ現代人の、願望の根に、じつはきわめて単純明快に心臓のまんなかへぐいと直通してくる、あるしたたかに強い表現をひそかに待ち受ける要素がある……と、」(嶋岡晨の『詩のある俳句』より)

言われてみれば、わたしが長年、詩に求めて続けているのは、これだったのだと思います。

心臓のまんなかへ直通してくる詩。今回の「詩の教室」にもあったなと、思い出しています。

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