「現代詩の入り口」21 - 芯のあるわかりやすさを知りたいなら、菅原克己を読んでみよう

芯のあるわかりやすさを知りたいなら、菅原克己を読んでみよう

詩に選ばれている人なんていないのかなと、ぼくは思うのです。詩を選ぶのはいつだって人の方で、そしてだれでもが詩を選ぶことができるのだと思うのです。詩を書いている人は、詩に選ばれたのではなく、詩を選んだ人ばかりです。ですからみんなが同じなんです。

で、今日はあたりまえの話をしようかと思っています。自分の書いているような詩だけが詩ではないよ、そうでない詩をも、気持ちよく迎え入れようよ、という話です。

ところで、詩は難解だとか、いえ難解さの中にこそ詩の醍醐味があるのだとか、昔から、たぶん詩が書かれたその始めの頃から語られてきました。この問題は、もちろん考える価値のあることではあるのですが、ただ難解がいい、平易がいいと、いくら考えていたって、何も進んでいかないんです。それって、個々の詩を見ないで考えられることではないと思うのです。

一見難解に見える詩にも、心に訴えてくるものがある詩と、そうでない詩がありますし、とても平易に書かれた詩にも、心に訴えてくる詩がありますし、何も感じない詩もあります。つまりは、個別の詩がどのように書かれ、どのように読む人の中に入り込めるか、ということがすべてであり、その集積が、詩を書き、詩を読むことであると思うのです。

ですから、乱暴なことを言うならば、どういった詩が優れているとか、劣っているかとか、詩を小さなジャンルや領域にわけて、自分の書いている領域の詩こそが詩で、それ以外は劣っているとか、意味がないとか、内ゲバみたいに主張したって仕方がないのです。

どの小さな領域の詩にも、優れた詩があり、そうでない詩がある。そうであるならば、自分の領域の詩ばかりでなく、あらゆる領域の詩を真摯に読むことによって、自分の詩に何かが付け加えられるし、自分が書く詩も、より幅広い感性に基づいたものができ上がってくるのではないかと思うわけです。

さて、本日読むのは、「わかりやすさ」の筋が通った詩です。

わかりやすいから心に響く、のではなく、分かりやすくて、心に響く詩です。菅原克己の詩です。とても有名な詩をふたつ、読んでみようかと思います。だれが読んでもわかる詩なので、解説はしません。ただ、読んだあとで、きれいなため息をつこうと思います。

難解な詩を書く人も、分かりやすい詩を書く人も、ともに感動をする詩です。

「ブラザー軒」   菅原克己

東一番町 、
ブラザー軒。
硝子簾がキラキラ波打ち、
あたりいちめん氷を噛む音。
死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水食べに、
ぼくのわきへ。
色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら
細い脛(すね)だして
椅子にずり上る。
外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは
小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。
妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む。
白い氷のかけら。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。
簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん氷を噛む音。
死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
東一番町、
ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の向こうの闇に。

「ブラザー軒」について 

この詩を読むたびに、胸が締めつけられるような思いがします。それはなによりも、亡くなった肉親が目の前に出てきて、普通に動いている、という設定からきています。

この詩を読む人は、死んだ父親や死んだ妹の代わりに、その人にとっての亡くなった大切な人をそれぞれに思い出しながら読むだろうと思います。

何が悲しいといって、ずっとそばにいた人が突然亡くなること、いなくなることほど悲しいことはないわけです。それはその人を失うことであると同時に、その人にとっての自分をも失うことでもあります。

そして、人が亡くなるということの一番のつらさは、何をどんなに頑張っても、どんな奇跡が起きても、どんな宗教に入っても、もうその人が呼吸をしている姿をじかに見ることができないことです。気軽に肩をたたくことも、隣に並ぶことも、喧嘩をすることも、無視をすることも、何もしないでいることも、何もできないということです。

私たちは自分の死を想像することはできません。一度も死んだことがないからです。それはとてもありがたいことです。でも、好きな人の死は想像どころか、まざまざと見ることができてしまいます。それはとても残酷な仕打ちです。勘弁してよと言いたくなります。

勝手にこの世に生まれさせられて、好きな人の死ぬのを経験させないでくれよと、言いたくなります。

この詩で胸が締めつけられるのは、亡くなったお父さんと妹が目の前に出てきて、なんでもなく息をして、何でもなく氷を食べているのを見ることができるからです。

なんでもなくその人がそばにいること、なんでもなくその人が生きているのを見ることができること、そのことの何というありがたいことかと、気付かされます。

死んだ親父と妹は、ブラザー軒だけではなく、おそらく繰り返し菅原さんの前に現れてきたのではないかと、ぼくは思うのです。

そしてこの「ブラザー軒」という詩も、繰り返しぼくの前に現れて、そのたびに胸を締めつけるのです。

「マクシム」 菅原克巳

誰かの詩にあったようだが
誰だか思いだせない。
労働者かしら、
それとも芝居のせりふだったろうか。
だが、自分で自分の肩をたたくような
このことばが好きだ、
<マクシム、どうだ、
 青空をみようじゃねえか>

むかし、ぼくは持っていた、
汚れたレインコートと、夢を。
ぼくの好きな娘は死んだ。
ぼくは馘(くび)になった。
馘になって公園のベンチで弁当を食べた。
ぼくは留置所に入った。
入ったら金網の前で
いやというほど殴られた。
ある日、ぼくは河っぷちで
自分で自分を元気づけた、
<マクシム、どうだ、
 青空をみようじゃねえか>

のろまな時のひと打ちに、
いまでは笑ってなんでも話せる。
だが、
馘も、ブタ箱も、死んだ娘も、
みんなほんとうだった。
若い時分のことはみんなほんとうだった。
汚れたレインコートでくるんだ
夢も、未来も……。

言ってごらん、
もしも、若い君が苦労したら、
何か落目で
自分がかわいそうになったら、
その時にはちょっと胸をはって、
むかしのぼくのように言ってごらん、
<マクシム、どうだ、
 青空をみようじゃねえか>

「マクシム」について

これは語りかけの詩です。語りかけというのは、詩にとっての、人の心に入り込む魔法のようなものではないかと、ぼくは常々思っています。

自分の内面に向けて、独白のように書かれた詩もよいけれど、人に向けて語りかけた言葉は、たいてい生き生きとこちらに伝わってきます。

この「マクシム」の語りかけのさわやかさはどうでしょう。奇跡のようだと、読むたびに感じるのです。

とてもよくできた詩であることは言うまでもないのですが、

<マクシム、どうだ、
  青空をみようじゃねえか>

この2行を読むだけで、なんだか涙が出てきそうになるのです。

言葉って不思議なものだなと思うのです。この二行には、特別な言葉はいっさい入っていません。凝った装飾や形容があるわけでもありません。しゃれた比喩もありません。ただの普通の日本語のありふれた組み合わせです。

それなのに、この2行を読むたびに、いいなと感じ入り、ため息が出てくるのです。

人を元気づける言葉だと言ってしまえばそれまでなのですが、普通に元気づけられたって感動することはないのに、この2行は、普通に元気づけているのになんだかとても感動するのです。

この感動するのと、しないのとの、境目とはなんでしょか。

それが詩を作る上で最も難しくて、永遠に探し求められる秘密なのではないかと、ぼくは思うのです。

そんなこともわからないぼくですから、しょっちゅう詩に行き詰まって、悩み、元気をなくしてしまいます。そんな時は迷いなく、自分に言ってあげるのです。

<マツシタ、どうだ、
  青空をみようじゃねえか>

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