社会的な事象や事件を詩に書くということについて

詩の教室をやっていて気付くのは、社会的な事象や事件を詩に書く人が少なからずいることです。ウクライナのことや、ガザ地区のこと、あるいは気象変動のことや地震のこと、さらには原爆のこと、あるいは政治のことを詩にしてくる人もいます。

確かに、生きていて、心をじかに揺さぶられることに出会い、それを自分の言葉で表現をしたい、という欲求はわかります。ですから、社会的な事象や事件を詩にする人は、自分の思いを存分に書いていてかまわないと思います。いえ、ぼくがどのように思おうとも、それが切実に自分を突き上げてくるものであるのなら、だれになんと言われようと、書く人は書くだろうと思います。

ただ、ぼくは、何か特別な事象や事件を書いたからその詩が優れているとは、思ったことがありません。詩を読む時には、その詩が何をどのように書いているものであっても、詩として胸に迫ってくるものがあるかどうかで、その価値を受け止めます。

詩を読むとは、ぼくにとって、何を書いたからとか、どのように書いたから優れている、というものではありません。目の前にある詩が、ぼくに、個別にどれほど迫ってくるかどうかで、価値が決まるものです。

ですから、社会的な事象や事件を書いているから優れているのでもなく、あるいは、優れていないのでもないのです。

また、ぼくの場合はどうかと言えば、これまでほとんど(まったく?)社会的な事象や事件を詩に書くことがありませんでした。それは、それらを詩にしようという欲求が湧いてこなかったからです。というのも、ぼくがかろうじて詩の中に収めることのできるのは、社会的な事象や事件よりも、もっとずっと手前にあることであったように思えるからです。結果として、自分はそうなのだと知ったのです。

生きていることの、ささやかな揺れそのものをしか、ぼくは詩に書くことができません。

人それぞれの考え方があってよいと思います。人それぞれに書く内容は決められてよいと思います。ただ、ぼくはそう感じる、というだけのことです。

詩とは、おそらく作者も知らぬざわざわとしたものを、読み手が吸い上げてでき上がってくるものなのだろうと思えるのです。そうであるならば、社会的な事象や事件そのものをじかに書かないまでも、そのような世界を作り上げてしまった人というものの根源にあるものを、ぼくは目を凝らして、少しでも書いてゆければと思うばかりです。

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