「ぼくはどんなふうに詩を書いてきたか」

「ぼくはどんなふうに詩を書いてきたか」
 
(1)詩を書くまで
 
皆さん、こんにちは、松下です。それでは少しの間、詩の話をさせていただきます。今日はどうやったらすぐれた詩が書けるか、という話ではありません。どうやったら、すぐれているとかいないとかとは違うところで、詩と幸せに付き合っていけるか、という話です。
 
昨日、こちらに着きまして、早めにホテルのベッドに入ったんですけど、早朝に目が覚めまして、今朝ベッドの中でふと考えたことからお話したいと思います。今朝のツイッターでも書いたんですけど、詩はそれぞれです。詩を書く人もそれぞれです。違った人が違った詩を書きます。当たり前なんですけど、そのそれぞれはそれぞれのところで幸せに詩を書いていけるのではないか、と思うんです。
 
それぞれは別のそれぞれよりも、才能があったりなかったり、器用であったりなかったり、センスがあったりなかったりします。それぞれですから仕方がないんです。誰もがそれぞれの内のひとつなんです。それぞれですから比べられてしまうわけです。
 
でも、詩を読み、詩を書くというのは、その喜びは、何ものとも比べられないものなのではないか、でき上がった詩は比べられても、詩を読み、書く喜びは比べられないのではないか。そうであるならば、それぞれはそれぞれにとっての詩との幸せな付き合い方があっていいのではないか、あるはずだ、ということなんです。詩とともに生きてゆく、というのは人の詩と比べられることではなくて、自分の詩とよい関係を持って生きてゆくということなのではないかと思うんです。
 
詩を書いていると、自分に限界があるということを知ります。だれにでも限界はあります。でも限界があるというのは悪いことではないんです。限界がなかったらむしろしんどいです。自分の限界に背をもたれて、もたれかからせて、限界をもいとおしむんです。楽しむんです。だって、どうしたって自分には限界があるのだから、その限界と仲良くするしかないんじゃないかと思うんです。それが詩とうまく付き合うことなのではないかなと思うんです。
 

 
今日の話は人によっては、自分がしっかり把握されていて、セルフコントロールがしっかりなされている人にとっては余計なお世話の話になると思いますので、聞きながしてください。でも、もともと気持ちが弱い人やぼくのようにすぐに心が揺れてしまう人には、聞いてもらいたいと思います。
 

 
今日は自分の詩を読みながら、これまでどんなふうに詩と付き合っていたかをお話したいと思います。それと、詩を書き続けてゆくためには、気をつけた方がよいことも話そうかと思います。その前に、最近ちょっと考えたことを少し話したいと思います。
 
(ちょっと考えたこと)
 
このところ、ぼくのことを紹介してくれているもの見ると「詩人の松下育男さん」と書かれていることが多いんです。たとえばある人のツイッターには、「松下育男さんと対談します」と書かれるのではなくて「詩人の松下育男さんと対談します」って書かれているんです。確かに歳をとって、ほかに何の肩書きもないし、あえていえば「詩人」と呼ばれるしかないのかな、とも思うわけです。でも、なんか違和感を持つんです。そうじゃないんじゃないかって感じるんです。
 
というのも、ぼくはもう72歳になりますけど、そのうち死んで閻魔様の前で、「これまでの人生、主に何をしていたか」と聞かれるとします。あるいは「生きている時にあなたは誰だったのか」と聞かれるとして、どう考えても「詩人でした」というよりも「勤め人」だったわけです。人生全体をいっぺんに見ると、「しがない勤め人」だったんです。勤め人として悩んだり、喜んだり、生活したりしていた部分の方が、詩を書いていた自分よりもずっと大きいのです。ぼくの根っこは勤め人なんです。中心はサラリーマンなんです。もちろん魂は詩の方へ持っていかれていることは確かなんですけど、魂を養うためにも「勤め人」であったわけです。
 
もちろん、もう歳をとって今は勤め人ではないですから、「勤め人の松下育男さん」でもなくなってしまった。そうしたら「詩人の松下育男さん」となってしまったわけですけど、もっと正確にぼくのことを呼んでもらうなら、「元勤め人の松下育男さん」なんです。
 
それで、勤め人のぼくの方が詩人のぼくよりもずっと、ぼくのことを表していると言いましたけど、こうやって詩の話をしてくださいと言われると、でも話をしているぼくは、隠しようもなくやっぱり「元勤め人松下育男」の頭で話すしかないわけです。カッコつけてずっと詩人でしたとは話せないんです。
 
それで、勤め人の頃のことを考えると、「大きな幸せと小さな不幸」ということをよく考えるんです。「大きな幸せと小さな不幸」というのは、今日の話全体にも関連してきます。
 
(会社のこと、詩のこと)
 
「大きな幸せと小さな不幸」って何かって言うのを説明しますと、ぼくの場合、運よく会社での人間関係も悪くなかったですし、仕事も問題のない会社で働くことができました。家族を養うだけの給料はしっかりもらっていました。ですから、それだけで大きな幸せだったんです。ぼくよりも優秀なのに、そうできない人も世の中たくさんいるわけですから、そのような仕事につけたことはラッキーだったし、大いなる幸せだったわけです。
 
でも、それなのに、これまでの日々のことを考えると、余計なことばかり考えていました。「同期のあの人よりも出世が遅い」とか、「上司からの認められ方が少ない」とか、そんなことばかりを考えて、小さな不幸に捕らわれてしまうわけです。よく考えてみれば、日々の小さな不満や悔しさよりも、きちんと家族と暮らせていける、給料をもらっていることのほうを考えて、大きな幸せをかみしめていたほうがずっとよい人生が送れるのに、つまらないことばかり考えて、自分で不幸な気持ちになっていた。
 
詩も同じなんじゃないかと思うんです。詩を読める、詩を書けるというのは大きな幸せなわけです。その大きな幸せの方をただ受け止めていればいいのに、自分の詩が思うほど認められないとか、あの人が栄誉を得たとか、そんなことを考えていらいらしてしまう。それはおかしいよと、繰り返し言っていきたいのです。詩を読み、書けるという大きな幸せを意識して、生きてゆこうということです。それが本来の、詩を読み、書くということなのではないかと思うんです。
 

 
それでは、ぼくがどのように詩と関わってきたかを、子供の頃から話そうかと思います。
 
ぼくは今年七十二歳になります。昭和二十五年に福岡県遠賀郡、筑豊炭田の長屋で生まれました。おやじがその頃炭坑夫だったんです。それから小さなときに東京のはずれの京浜工業地帯に引っ越しました。小さな工場のたくさんある町です。そこで育ちました。どこにでもいる子です。普通の家庭でした。
 
ですから小学校に行くまでは文字なんて読んだことがありませんでした。今の子と違って、小さな頃から親に教育なんてしてもらえなかったので、ただ遊んでいました。幼稚園にも行ったことがありません。僕くらいの年齢の人って、そういうひと結構いるんではないかと思います。毎日ただ外で遊んでいました。ほったらかしでしたね。息吸って、ご飯食べて、外で遊んで、眠って、それだけの子ども時代でしたが、今思えば、長くて、よい時間を過ごしました。その、長くてなんでもない時間も、今書いている詩の中に、きちんと取り込まれているのかなと思います。
 
特別、知的な雰囲気の家庭ではありませんでした。でも、両親はいつも一生懸命に働いていました。勤勉な家庭に育ちました。両親が僕たち子供に言っていたのは「おまえ達にお金は残せないけど、教育だけは受けさせたい」という言葉でした。おかげで大学まで行かせてもらいました。とても感謝をしています。ひとりひとりみんなおとなしい、仲のよい家族でした。幸せな子供時代を過ごしました。
 
(2)詩を書き始めた頃
 
(小学校)
 
詩との出会いは小学生のころです。いつの頃からか詩に惹かれて、気がつけば詩のことばかりを考えるようになっていました。小学校の担任の先生が、国語に力を入れていた先生でした。蛭田先生っていうんですけど、詩や短文をよく書かされたんです。その時に、文章を書くことの喜びを知ったのだと思います。
 
よく、自分が書いてきた詩をみんなの前で読んだことを覚えています。詩を書いていると、いつもは考えもしなかったアイデアが生まれてきて、それをみんなの前で読むときは、反応を想像すると恐くもあったんですけど、同時に大きな喜びでもありました。それって今の状況と変らないのかなと思います。
 
滑稽なことを書くのが得意でした。ぼくがおかしな詩を読むと、みんなが笑ってくれて、教室中が笑いに包まれたときの気持ちの良さは、ああ、生きているって、こんなに素敵なものがあることなんだなと感じました。
 
クラスに三人、詩を上手に書く生徒がいて、吉村君と田中君とぼくの三人だったんですけど、小学生なのに、お互いの才能を認めあったりしているところがありました。学校が終ると、よく三人で、その内の誰かの家に集まって、ずっと詩を書いているんです。何か題を見つけて、たとえば「ライオン」という題で書いてみよう、とか言って、三人で書いて。見せあって、感想を言いあったりしていました。感想と言っても、「すごいね」」とか、「面白いね」とか、褒め言葉ばかりなんです、お互いに。でも褒め言葉って、詩を伸ばしてくれるんですね。なにしろ楽しく書く、ということを、やっていました。というのも、単に楽しみのために詩を書いていたからなんです。
 
今七十二歳になって、詩は楽しく書こうとか、苦しむのはおかしいよとか、しきりにツイッターなんかで書いているのは、あの頃の思い出から来ているのかなとも思うんです。僕の原点は、詩は楽しむものだという所にあるんです。
 
確かにすごく楽しかったし、そうやっている内に、詩の技法のようなものも、小学生なりに自分たちで見つけてゆくんです。詩の方法って、別に本を読んで勉強しなくても、詩を真剣に書いていると自然に分かってくるものなんですね。
 
吉村君が言った言葉を今でも覚えているんです。「一年が経ちましたって詩に書いたって面白くない。そういうときは、朝刊を配る足音が三百六十五回、僕の耳に聞こえてきて」、とか、そんなふうに書くと詩がよくなると思うよ」。その話を聞いて、ぼくは、そうか、何でもないことでも、目に見えたり、耳に聞こえたり、想像できる行動に変えて書くと、読む人の気持ちは動くんだなと思ったんです。
 
あるいは、これは三人の内の誰が言ったのか覚えてないんですけど、「黒板をそのまま黒板として詩に書いても面白くないだろ、そういうときは黒板に似た感じの人のことを思って、その人のことを細かく書くんだよ、それで最後にそれが人でなくて黒板のことだってばらすと詩が面白くなる。それで黒板のことも、人のこともわかるんだよ」とか、まあこれは、比喩とか、擬人法のことですけど、そんな言葉は知らなくても、小学生なりに詩の見栄えをよくする方法や、人に伝わる方法を教えあっていたんです。
 
毎日一生懸命に楽しく詩を書いていました。吉村君と田中君は、今ごろどうしているかな、今でも詩を書いたりしているかなと、たまに思ったりもします。でも、繰り返しますけど、あの時の楽しさこそが、僕にとっての詩を読み、書くことなんです。全然むずかしいことではないんです。
 
(高校)
 
で、中学生、高校生になったら、もう田中君と吉村君とは疎遠になってしまって、ですからぼくはずっとひとりで詩を読んだり、書いたりしていたんです。高校の通学の電車に乗って、窓の外を見ながら、「宿題やっていないから指されるとやだなとか思いながらも、いつか自分の詩集を一冊でも持てたら、どんなに素敵な人生だろう」と考えていました。そんなことを考えているだけで、充分に幸せでした。小さな詩集で、鮮やかな赤の表紙で、とか装丁も考えていました。自分の詩集が持てたら、それを片手にぶら下げて、ぶらっと公園に行って、ベンチに座り、いつかおもむろに読み始めたいと、そんなことを夢見ていました。そうすると、生きていることに自然に涙ぐんでしまうんです。生きているっていいなと感じていました。
 
ですから、日曜日はどこにもいかずに、自分が書いた詩を並べ直して、どんな順番に並べたら人の心に入ることができるだろうとか、人は感動してくれるだろうとか、そんなことを一日やっていました。ぜんぜん飽きないんです。将来、詩集さえ持てるなら、他に何もいらないと、ホントに思っていました。
 
(大学)
 
ただ、ぼくは大学の文学部には行かなかったんです。きちんと文学や詩を学んだわけではないんです。大学では経済を学びました。ですから詩はただ単に好きで読み、自分流に書いてきただけです。なんで文学部に行かなかったんだろうと、今でも思うんですけど、なんていうか、やはり卒業後に仕事をして稼がなきゃならないという気持ちが強くあって、もちろん文学部を出ても仕事はできるわけですけど、当時はものごとを狭く解釈していて、それで経済に行ったんです。
 
それと、文学部に行かなかったもう一つの理由に、これもぼくの狭いものの見方から来たものなんですけど、「子どもの頃から詩を書いているし、文学や詩を今さら人から教えてもらうのも妙だな」という生意気な感じ方があったんです。高校を卒業する頃には、詩歴はびっしり十年くらいあったんです。ですからそれからも好きな本を読んで。自分で学べると思っていたのかもしれません。
 
よく言われるように、スイミングの教室で基礎から学んだ人はきれいに泳ぎますけど、近所の川で勝手に泳いでいた人は、奇妙な泳ぎ方をする。ぼくの詩も自分の川で泳いで覚えた詩です。だから奇妙なのかなと思うんですけど。でも、その間にいろいろなことを考えました。自己流で始めて、勝手に好きになったことだから、きちんと文学部で学んでいる人にとってはなんでもないことでも、一つずつ、つまずき、自分で時間をかけて考えてきました。
 
(詩を読み、書くことのすばらしさ)
 
詩を読んだり、書きながら生きてゆくことはホントに素晴らしいことだと僕は思います。もちろん詩を読まず、詩を書かなくても人生、なんら問題はありません。でも、詩を読むことによって、言葉の微妙なきれいさやすごさに改めて気付かされることがあります。例えばその日に嫌なことがあって気持ちが落ち込んでいても、好きな詩集を開いて読めば、詩の中には別の世界があります。生きてゆくことのまばゆさをあらためて思い出させてくれるのです。いつもの固まったものの見方とは別の角度から、自分と自分の人生を、見つめさせてくれるのです。
 
また、詩を書くことによって、もし詩を書かなかったら見えなかった自分の可能性が、不思議と現れてきます。詩を書くという行為は、詩を書く前に発想されて、それが言葉を伴って詩になる、という順序だけではないのです。多くは、詩を書いている内に、そうか、自分はこんなことを考えていたのか、とか、こんなことまで思いつくことができるのかと、知ることができるのです。つまり、自分の可能性は自分では分からないものなのです。自分の可能性を知っていて、それを広げ、伸ばしてくれるのは、詩の方なのです。自分が書いた詩が、自分の可能性を教えてくれるわけです。詩を書かなければ、自分が何を考え、何を思いつくかなんて、表面的なところしか知らずに一生を過ごしてしまうわけです。ですから、詩を読み、書きながら生涯を過ごせることはとてもすばらしいことなんです。
 

 
 話を戻しますが、大学を卒業する頃に、「現代詩手帖」に投稿した詩がとられたんです。驚きました。選者は石原吉郎でした。それまで、ぼくの詩のような、わかりやすすぎる詩は「現代詩手帖」では相手にされないだろと思っていたんです。それでも、当時一番読んでいた雑誌だったので、ここに載ったらどんなに素敵だろうと思って、送っていたんです。
 
でも、まさか採ってもらえるとは思いませんでした。今でも、あの時の、家の郵便受けにちょっと厚い封筒が入っていたその様子は目に焼き付いています。なんだろうと思って手にとったら、「現代詩手帖」の入った書籍小包だったんです。それでもなんでこれが送られて来たんだろうと思って、目次を見たら、投稿欄ですから、後ろの方に、小さく自分の名前が出ていたんです。それを見たときの喜びは、一生忘れられません。
 
今でこそ、PCでもネットでも、自分の書いたものや名前が活字になることはどうということのない時代になりましたけど、当時は、めったにないことだったんです。自分の名前って、自分のへたくそな字でしか見たことなかったんです。自分の詩をわかってくれる人がこの世の中にいるんだと思いました。嬉しくて仕方がありませんでした。有頂天だったのを覚えています。たぶん、あの瞬間が、間違いなく、僕の人生の最良の瞬間でした。
 
(「顔」)
 
ずっと話を聴いているのもお疲れでしょうから、この辺で、ぼくの詩をひとつ朗読したいと思います。若い頃に書いた詩です。「顔」という詩を朗読したいと思います。この詩は、茨木のり子さんの『詩のこころを読む』(岩波書店)という詩の有名な入門書で引用されて、少し人に知られるようになりました。ありがたいことです。
 
それで今ではぼくの代表作のようになってしまっているんですけど、書いた当初はそんな感じはまったくなかったんです。よく、傑作ができると作者にはすぐにわかると言いますけど、まあ、これが傑作かどうかは別にして、僕にとっては毎日書いている詩のうちのひとつでしかなかったんです。ぼくには書いたときに、この詩がよいものかどうかわかりませんでした。
 
ですから、ノートに書いてあったんですけど、最初の詩集『榊さんの猫』(紫陽社)を出すときには、この詩は詩集の中には入れなかったんです。なんか妙な詩だなと思って、あまりにもむき出しな感じだなと思って、選ばなかったんです。
 
それが翌年も詩集を出すように編集者に言われまして、編集者って紫陽社の荒川洋治さんですけど、詩集をまた出すことを勧められて、「いついつまでに詩を用意して」と言われて、僕は急にそんなにたくさん書けないものだから、昔書いた詩をノートから探しだしてきた。その時に見つけて、ああ、こんな詩を書いたことがあったなと思い出して、一年ぶりに読んだらそんなにひどい詩ではないように見えたんです。それが「顔」という詩です。それで二冊目の『肴』という詩集に載せたんです。この詩はそういった詩です。この詩を見るたびに、自分が書いた詩の出来不出来というのは、なかなか自分には分からないものだなと思うんです。では、読んで見ます。
 

 
「顔」
 
こいびとの顔を見た
 
ひふがあって
裂けたり
でっぱったりで
にんげんとしては美しいが
いきものとしてはきもちわるい
 
こいびとの顔を見た
これと
結婚する
 
帰り
すれ違う人たちの顔を
つぎつぎ見た
 
どれもひふがあって
みんなきちんと裂けたり
でっぱったりで
 
これらと
世の中 やってゆく
 
帰って
泣いた
 
(3)詩をやめる頃
 
話を続けます。それで、まあ、ここからしばらくは詳しいことを話しても仕方がないんでざっと言いますと、社会人になりました。それで仕事をしながら、同人誌に入って、詩集を出して、賞をもらって、二十代後半に結婚もして、ハタから見たらよいことが続いていたんです。順調に見えたんです。でも世の中そんなに甘くはないわけです。
 
三十歳を過ぎて、ろくな詩が書けなくなってしまったんです。どうしてつまらない詩しか書けなくなったのだろうと、今でも考えるんです。たぶんこういうことなのかなと思うことがあります。それをちょっとお話ししたいと思います。
 
(詩がだめになった理由)
 
ものを作る、詩を書くって、本来危ういものであるはずなんだと思うんです。創作って、本来、こんなことをこんなふうに作りたいというものが自分の奥底から湧き上がってくるもので、それは発表するまで、読者が喜んでくれるかどうかなかなかわからないものなんです。だから書いた詩を人に見せるというのは、とても恐くて、自分にとっては危険なことであるはずなんです。人がどのように受け止めてくれるかわからないけど、それでもこれを表現したい、というエネルギーのようなものがあるはずなんです。ものを作るというのはそういった危険性が作品に命を与えるんだと、ぼくは思うんです。創作という行為には保険とか保証はないんだと思うんです。
 
もしかしたら自分はどうしようもない、独りよがりのものを作ってしまったのかもしれない。これを発表したらみんなから笑われるかもしれない、相手にされないかもしれない。そういった不安、こんなものは人様に受け入れられるのだろうかという疑問。その恐さを抱えている作品こそが、せっぱ詰まったところで、逆に人に深く受け入れられるのではないかと思うんです。そういった不安や疑問や恐れこそが創作物の一番の魅力にも変化するんだと思うんです。
 
でも、詩を書いていた30代の自分を今思い返せば、本来の「どうしてもこの詩を書きたい」というまっすぐな気持ちを忘れていたのではないかと思うんです。考えていたのはつまらないことばかりだったんです。「こんな感じで書けば雑誌に載っても恥ずかしくない詩になるだろう」とか、「これなら現代詩を読む人にはたぶん受け入れられるだろう」とか、そんな程度の気持ちで書いていたことが、当時のぼくにあったんじゃなかったかと思うんです。あったんです。
 
だからぼくの詩は目に見えてダメになってゆきました。自分の奥底から出てきた熱情で書くのではなく、どこかにありそうな現代詩を、ほどほどの詩を書こうとしていた。だから魅力の失われた詩しか書けなくなってしまった。だれが書いても書けるような詩しか書けなくなってしまった。その頃ぼくの詩は、自由詩なのに自由でなくなっていた。型にはまった現代詩っぽい詩でしかなくなっていたんです。
 
型にはまった現代詩というのはどんなものかを説明するのはとてもむずかしいのですが、言ってみれば「現代詩の面白さとはこんなところにある」というのを、それまで学んできたことから、あるいは人の書いたものから勝手に規定してしまって、でも、それはとても薄っぺらな面白さなんです。言葉遣いをちょっとしゃれてみたり、なんでも逆説的に言って見たり、なんというか、「現代詩という宗教に洗脳されてしまっているような状態が続いたんです。その頃に書いた詩を今読んでみると、ほんとにカッコつけているだけで、なにものでもない詩なんです。
 
現代詩の真のよさって、そんな薄っぺらな表面的なテクニックでたどり着けるほど単純なものではないんです。ひとつひとつの詩を書くたびに、作者が見つけ出してゆくものなんです。
 
さらに考えるなら、当時の僕も、そのことをなんとなくわかっていたんだと思うんです。でも、わかっていても、本来の詩の書き方、人がどう思うだろうという危険性を乗り越えて詩を書くということが、恐くてできなかったんだと思うんです。
 
こういう詩はそれなりに面白いと感じてくれる「詩の読者」という特別な層が一定数いるのだから、その人たちの読みの感性にもたれかかってもよいのではないか。これでもよいのではないかと、片隅で安易に信じたいと思っている。正面からしっかり見つめてみれば、こんな詩ではだめだと分かっていても、それ以外の書き方をするのが恐くてならなかったのだと思うんです。守るものなんてないはずなのに、ないはずのものを守ろうとしていたんです。
 
今思えば、現代詩という世界の中にどっぷり浸かってしまって、自分が見えなくなっていたんです。詩を書くなら、詩にどっぷり浸かるとともに、詩から離れて遠くから自分の詩を見つめる目が必要だったんです。
 
それでも、そんな僕のところにも、たまに原稿の依頼が来て、似たような詩を書いていたんです。でも、それもある出来事があって、まったく書けなくなりました。
 
(ある出来事)
 
そのことがあってから、ぼくはぱったり詩が書けなくなってしまいました。書く、ということの恐ろしさから逃げてしまったのかもしれません。しばらくはぼーっとしていました。会社に行って仕事をしている時はまだ気が紛れていたんですけど、休みの日には、つらかったです。
 
その後しばらくして、年取った両親もぼくのことを心配してちょくちょく見に来てくれましたし、いつまでもうつむいて両親に心配をかけて生きている訳にはいかないと思い、ある日、決意して立ち上がりました。
 
まずはしっかり仕事をしてゆこうと思いました。日々を丁寧に生きていました。そのうちに、今の家内と知りあいました。結婚して、子どもが生まれました。それからはずっと、家族との時間を大切にして過ごしていました。たまに本屋に寄ることはあっても、詩のコーナーは避けて歩いていました。
 
十五年ほどが経ちました。子供たちも大きくなって、ぼくも遅まきながら会社では役職について、毎日の仕事や生活はそれなりに大変ではあるけれども、家内のおかげで充実した生活を送っていました。ですから、また詩を書こうなんて思っていなかったんです。書くことは恐かったし、詩なんか書かなくても、生きていく上でなんともなかったからです。
 
(五十歳のある日)
 
それが、五十歳の頃のある日、ふっと一つの考えが湧いて出てきたんです。「もしかしたらぼくにはやるべきことがあるのではないか。」と、歳をとってから考えるようになったのです。
 
真面目に文学に取り組んでいて、それで自らを滅ぼすことがないようにするにはどうしたらよいかを、真剣に考えるべきではないかと、思うようになったんです。こんなに重要なことをそのまま忘れ去ってしまってもいいことなのか。その問題をほったらかしにして自分の命がつきてしまってもいいものなのか。そんなふうに考えるようになったんです。
 
ひとそれぞれの命です。人それぞれの性格です。人それぞれの病です。ですから、ぼくにできることに何かあるのかと思えば、暗澹たる気持ちになります。大したことはできないだろうということはわかっていました。でも、せめて詩を書くことに苦しんでいる人が目の前にいたら、そこから逃げるようにしたほうがいいよと、言ってあげることはできるのではないかと、考えるようになりました。詩なんか書かなくても、文学なんか知らなくても、愉快に暮らして行けるのだと、言っておかなければと思ったんです。それで、「詩の教室」を始めたんです。
 
(「ねむりはね」)
 
で、話がまただいぶ長くなってしまったんで、ここで詩をひとつ朗読します。この詩は、長いあいだ詩から遠ざかっていて、久しぶりに書き始めたころの詩です。『きみがわらっている』という詩集に入っています。子どもが生まれてから一冊も詩集を出していないので、最後に記念で出そうかなと思って出した詩集です。「ねむりはね」という詩です。
 
この詩が載っている『きみがわらっている』という詩集は、ですから詩をやめてずいぶん経ってから、久しぶりに書いた詩を集めた詩集です。なにしろ、若い頃に詩を書いていた頃には、先ほども言いましたように、余計なことばかり考えて、「この詩は評価されるだろうか」だとか、「人の詩よりも見劣りがしないだろうか」とか、どうでもいいことに気を病んで詩を書いていたんです。
 
でも歳をとってこの詩を書いていたときは、もう、人のことはどうでもいい、自分が書きたいと思うものを、書きたいように書いてみようと思ったんです。全部ひらがなにしたいと思えばそうすればいい。人がどう言おうと、これは僕のために僕が書く詩なのだから。そういう思いで書いた詩です。この詩を、ぼくは好きなんです。人がどう思うか、ではなくて僕が好きな詩だから書いたんです。読ませてもらいます。
 

 
「ねむりはね」
 
 
ねむりはね 
すこしずつきみの 
かおに 
ふってきて 
かおぜんたいに つもってくる 
 
こん やはん 
こうせつはますます はげしくなり 
きみのかおの さんかんぶや 
しがいちにも 
はげしくふりつのるだろう 
 
それでね 
きみのねむりの 
しずかなさかみちの とちゅうに 
ふるぴた かんだんけいが 
つりさげられていて 
いつもおなじ やさしさの 
おんどに 
きみはせってい されているんだ  
 
 
(4)詩の教室を始める
 
話を続けます。
 
それで、66歳で会社勤めを終えて、「詩の教室」を始めたんです。もちろん自分で始めたんです。カルチャーセンターから「先生になりませんか」なんてお声がかかるような有名な詩人では僕はありません。大学の先生でもありません。頼まれもしないのに自分で始めたんです。ただ、昔、詩を書いていたことのある老人だというだけなのに、です。
 
そんな老人が詩の教室をいきなり始めても参加者はあまりこないだろうと思っていました。そうしたら最初の会から二十名ほども来てくれました。驚きました。Facebookで僕を知った人もいて、それからたぶん、廿楽順治さんとか久谷雉さんとかが、SNSで宣伝してくれたんだろうと思います。多くは、詩が好きで詩を書き始めたばかりの若者であったり、主婦であったり、勤め人であったり、老人であったりという人たちでした。
 
それで、月に一回、横浜の、とあるビルの一室で詩の教室を始めたんですけど、詩の教室をやっていると、もちろんさまざまな人が来ます。さまざまな人がくるんですけど、その内の何人かは、似たような苦しみや悩みを抱えているなと、だんだん感じるようになってきたんです。
 
で、詩を書いて、本来楽しいはずの詩作が、苦しくて仕方がないという人に、何か言ってあげられるのではないかという思いで、会社を定年後に、詩の教室を始めたわけです。というか、「詩を書いて苦しむのはおかしいよ、そんなにまでして書くことはないから詩をやめなよ」と、言うための詩の教室だったのかもしれません。詩を書きましょうという教室でもあったけれども、詩をやめましょうという教室でもあった。
 
先ほど話しましたように、ぼくのそばにいた人が急に亡くなった理由は、いろいろ複雑にあるのだろうと思います。でも、その内のひとつに、ものを書いていたということが含まれていたのだと思うのです。ものを書いていて苦しむようになるというのは、欲が深い人だけがなるんじゃないんです。だれでもそうなってしまう可能性があるんです。楽しかったはずの詩作が、気がつけば苦しいだけのものになってしまう。
 

 
話を戻します。
 
 詩の教室の参加者は徐々に増えていって、40名を超えていました。それで、横浜では日曜日の昼にやっていたんですけど、「日曜日は教室に行けないからほかの日にもやってくれなませんか」という人がいて、池袋で木曜日の夜にも教室を始めました。さらにコロナになったこともあって、対面ではなく、通信でも教室をやっています。
 
それらの教室で話をした42回分の話をまとめたのが、この本『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』(思潮社)です。ほぼ、その時々に話した通りのことが載っています。
 
(あるタイプの生徒)
 
教室をやっていると、いろんなタイプの人が来ます。人によってその態度で、「詩の教室」に何を求めているか、ということがわかります。もちろん人によって違うんですけど、あるタイプの人は、「早く詩人として有名になりたい。早く評価してください」という人です。
 
そういう人のことを、ぼくはいけないことだとは思わないんです。実は、多くの人は似たようなことを考えているのではないかと思うんです。早く詩の世界で有名になりたいと思っている人はたくさんいるはずです。詩の教室に通っているなら、その先生になんとか手を貸してもらって有名になりたいと思っている人はたくさんいるはずです。
 
で、そんなふうに思うことは、けっしておかしなことではないと思うんです。詩を書いていれば、詩を褒められたい、みんなから称賛されたい。詩で尊敬されたいと願うでしょう。そういった願望って普通にある願望だと思うんです。
 
さらに言うなら、ぼくだって若い頃には同じようなことを考えていました。もっと言うなら、こうして七十歳を超えても、自分が書く詩を誉めてもらいたい、詩集が好意的に受け止めてもらいたい、みんなから称賛されたいと、思っていないと言えば嘘になるんです。思っているんです。ぼくだってあさましい願いを持っているんです。
 
むしろそのような欲や願望には、詩を書いていくことのとても大きな問題が含まれていると思えるんです。詩を書いている人、あるいは表現や創作に携わっている人には、すごく重要な問題がそこに含まれていると、ぼくには思えて仕方がないんです。
 
(ジム・ジャームッシュ)
 
話はちょっと変るんですけど、何ヶ月か前に、ジム・ジャームッシュ監督の「パターソン」という映画を観たんです。
 
パターソンという町に住むパターソンという男の人が主人公です。路線バスの運転手で、毎日決まりきった生活をしているんです。朝、目が覚めて、簡単な朝食をとって、バス会社まで歩いていって、バスを運転して、家に帰って、奥さんと夕飯を食べて、犬の散歩をして、ちょっと飲んでそれで眠るんです。
 
それだけの毎日なんですが、その途中で詩を書くんです。一冊のノートに、バスの待機時間とかに、例えばハンドルの上にノートを広げて、あるいは散歩の途中で飲み屋に寄った先で、発想した詩を書いてゆくんです。いろんな場所で詩を書くんです。ノートに詩を書きためていくんです。
 
そのノートを見た奥さんが、「あなたの詩は素晴らしいからコピーをとっておけ」と言うんです。ノートをなくしたら大変だと。でもパターソンはノートをコピーもしないで、ただ詩を書いているんです。その詩を読むのは、書いた本人と、ノートをたまに覗く奥さんだけなんです。
 
どこかに発表しようという気もなさそうなんです。詩集を出そうという気もないんです。ただ書きたくなるから書いているんです。その様子を見ていて、ぼくはどうしても自分と比べてしまうんです。比べてみると、パターソンの方がぼくよりもずっと、詩を書くという行為の中心の近くにいるような気がしたんです。
 
パターソンはただ書きたいから書くんです。パターソンはもちろん好きな詩人の詩を大切に読んでいるんです。ただ読みたいから読んでいるんです。ただ書きたいから書いているんです。ただ詩を読みたいから読んでいるんです。つい忘れてしまいますけど、詩を読み、詩を書く、その純粋な姿が、パターソンの生き方の中にあるのではないかと、心の底から思ってしまうんです。
 
普通は、モノを作ると、どうしてもそれを人に見せて、誉めてもらいたいと思ってしまう。そう思う気持ちは悪いとは思わないんです。でも、そうなりすぎてしまう自分を、どこかでやせ我慢でもいいから押さえ込んで、パターソンのように、ひたすら詩を読み、感激して、ひたすら詩を書いて、喜びを感じ、それで一生を過ごしたいとも、思うんです。
 
だって、詩を読むことはホントに喜びです。小説もいいのですが、詩は、いきなり読みたいことの核心に近づけてくれるんです。説明も、前提も、なにもいらないんです。生きていることそのものの中心を、じかに言葉で掬い上げて私たちに見せてくれるんです。
 
あるいは詩を書くことはほんとに喜びです。このあいだネットで詩人三人の座談会を聴いていたんです。その内の一人はまだ大学生のようなのですが、最近詩集を出した人で、その人がこんなことを言っていたんです。
 
「この詩を思いついたのは、お母さんとショッピングに行っていたときなんです。でも、歩いていたらいきなり、このフレーズが頭に浮かんできて、どうしてもそれを詩に書きたくてしかたがなくなった。今すぐ書きたくてしかたがなかった。そうでないと、その言葉は忘れなくても、書きたいという気持ちが後では消えうせてしまうかもしれない。だから、お母さんに「先に帰るね」といきなり言って、お母さんをそこに残して家に大急ぎで帰ってこの詩を書いたんです。」
 
その言葉を聞いていてぼくは、そうなんだよな、と頷いていたんです。詩を書く喜びってそういうことなんです。その詩が人から認められたから嬉しいということもあるかもしれないけど、もっと手前には、もっと大きな喜び、その詩を書きたいという純粋な喜びがあるんです。パターソンはその喜びを知っているんです。その喜びだけで充分だと思っているんです。
 
で、今日話したかったことはそういうことなのです。
 
詩を読んで感動できる能力があるのは、それだけで大事な事なんです。自分の思いの丈を詩に書くことができるのは、それ自身が大いなる喜びなんです。それが大切なんです。自分よりも器用に詩を書く人が、どこかにいるかどうかなんて、大した事ではないんです
 
ぼくが66歳で会社を辞めて、なぜ自分で「詩の教室」を始めたかというと、詩を書いている人に、妙な欲望に負けてはいけない、やせ我慢をしてでもそのような欲望を押さえ込んで、詩を読み、書くことの本来の喜びを享受して、詩とともに生きていってもらいたいと、そのようなメッセージを届けたいと思ったからなんです。
 
そう心がけていても、苦しくなるときは苦しくなるんです。でも、そういう時は、我慢して、じっとしていなければならないんです。乗り越えなきゃならないんです。創作をして、それなりのものができる人は、いやでも競争の世界に巻き込まれてゆくし、負けて悔しい思いをすることがあるんです。自分は競争なんかしたくないと思っていても、この社会に生きている限り、会社にいても、詩を書いていても、巻き込まれてしまうんです。
 
完璧に「パターソン」のようにはなかなかなれないんです。完璧に、ぼくの小学生時代のようにはなれないんです。でも、完璧にはなれなくても、パターソンの生き方の方へ近づこうという気持ちは忘れずに、時には周りを遮断して、スマホの電源を切って、一人きりになって、あるいは詩と二人きりになって、詩を読み、詩を書く時間に戻る必要があるんです。それが自分を生きるっていうことです。
 
いくら人に認められても、もっと認められたいと思うその悪いサイクルから早く抜け出して、一人きりになって詩を楽しむんです。小さな悩みの外にある大きな幸せの方に顔を向けるんです。向けようとするんです。
 
(5)最後に
 
だいぶ時間が経ってしまったので、もうそろそろ終わりにします。今日の話をまとめたいと思います。
 
もし詩を書いて生きていたいのなら、詩を書くという大きな幸せを手放したくないなら、その中の、「人と競争して勝ちたい」とか、「もっと早く有名になりたい」とか、「もっと評価されたい」とか、そういう小さな欲望を、行き過ぎたなと感じたら押さえ込んで、コントロールしてでも過ごした方がいいと、ぼくは思います。自分の欲望をむき出しにしないで、よりよい人生を詩とともに生きることができるならば、ひたすら詩だけと向き合って、生涯を過ごしていたいと、思います。
 
詩を書いて苦しむのはある程度は仕方がないんです。創作の悩みは正面から受け止めるしかない。でも、あまりにも苦しくなったら、詩なんか、文学なんか捨てたほうがいい。詩なんか書かなくたって生きていけます。健全に生きていけます。
 
もし詩をやめた後で、何十年か経って、もしあなたの人生にとって詩が必要なものであったとしたら、あなたの方でなにもしなくても、詩の方から、ある晩、近づいてきてくれます。本当です。ぼくがそれを体験したのですから。本当です。
 
詩は一部の有名な詩人だけが書くものではありません。書こうと思えば誰にでも書けるし、書いてみればそれまで自分が知らなかった自分をみつけることができます。あるいは、好きな詩を読んでいると、言葉にならない思いが言葉によって表されていることがわかります。詩を読み、書くことは、かけがえのないおこないです。
 
詩というのは威張っていない文学です。私たちのすぐそばにあります。手を伸ばせば、誰にでも手の届く表現です。何をやってもだめだなと自分で思っている人こそが、詩を深く読み、書ける文学です。不思議で、すばらしい表現形式です。僕は小学生の頃に詩を読んで、こんなに心ときめくものがあるものかと思って、驚いたんです。萩原朔太郎や中原中也の詩を読んでいると、僕にもなにかができるのではないかと、思えてしまったんです。優れた詩は、そう思わせてくれるんです。
 
詩の前では誰でも平等です。一篇の詩を書こうとする人は、何も持たずに詩と向き合えます。どんな地位も、学歴も、年収も、血筋も、関係ないんです。誰でもが、生きているなら詩が書けるんです。なんの資格もいらないんです。今自分がここに生きていることの不思議さを、そのまま正直に書けば、詩はでき上がるんです。自分の書いた詩を読んで、一番感動できるのは自分でもあるんです。
 
特別優秀でなくてもいいんです。器用でなくていいんです。運動神経が鈍くてもいいんです。成績が悪くてもいいんです。人であろうと思えるなら、素敵な詩が書けるんです。素敵な詩を読んでうっとりできるんです。
 
最初にも話しましたように、高校生の時に、ぼくはいつか自分の詩集を持ちたいと、通学電車の中で、そのことばかりを考えていました。いつか自分の詩集が持てるなら、他になにもいらないと思っていたんです。世界は僕にとって、詩を読み、書くことによって、ずっと美しくあってくれました。
 
僕は七十二歳です。あと何年生きるか分かりませんが、もう詩を手放そうとは思いません。
 
今日話したことをまとめれば、「生まれてきたのだから生きていようよ、言葉を話せるのだから、美しく伝えられるようになろうよ」、ということです。詩を書こうよ。でもそれは、決して人に勝つためでも、人よりも上に立つためでもなくて、単に、自分をこの世に、あるがままに残すための詩を、生涯求めて書いていようよ、読んで行こうよ、ということです。
 
今日ぼくが言いたいことは、そういうことです。
 
       (2022/10/2 神戸にて)
 
 

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