2023年12月10日(日) 詩に権威はいらない

日曜日の朝だ。昨日も「Zoomによる詩の教室」に送られてきた詩を読み、感想を書いていた。よい詩がたくさんあった。中に、目をみはるような一編があった。思わず椅子に座り直した。

ところで、ぼくは30代から40代にかけて詩から離れていた。毎日、会社に行って仕事をしていただけだった。とはいうものの会社の仕事というのは容易なものではない。管理職にもなり、ひどく疲れ切っていた。そんな時には、気分を変えるために、詩とは遠いけれども頭がスッキリする本を読んでいた。

時代小説も読んだ。山手樹一郎に惹かれていた。通勤時に、似たようなあらすじの山手樹一郎の小説を何冊も読んだ。読んでいる時には、いっとき仕事のことを忘れられた。どの小説も痛快だった。東海道を編笠をぶら下げながら、お日様にあたって歩いている気分になれた。

ただ、山手樹一郎は井坂洋子さんのお爺さんであり、なんのことはない、ぼくが詩から離れていた時期に助けてもらったのが、結局のところ、詩人の親戚だったというわけだ。

のちに詩の世界に戻って、飲み屋(池袋のマダムシルクだったか)で井坂さんに、僕が山手樹一郎の小説をたくさん読んでいたと、感謝を込めて伝えたら、井坂さんは微笑んでいたけれども。

ところで、現実の世界は時代劇のようにはいかない。「いいもん」と「わるもん」に分かれてはいない。まったく痛快ではない。

自分が正義で、自分とは違った考え方の人は悪だからいつか滅ぼせる、なんてことはない。

だから自分が好きな詩だけが正義(高級)で、自分が好きでない詩は悪(低級)だと、決めつけられるほど、世の中は単純にはできていない。

つまり詩の世界では、だれかがだれかよりも正しい、ということはない。だれかがだれかを成敗するということはできない。だれもが自分の好きな詩を好きなふうに読み、好きに書いていてかまわない。どんな詩を読もうが、どんな詩を書こうが、誰にも成敗される筋合いはない。

もともと小さな詩の世界だ。せめていろんな人がいた方がいい。いろんな詩があっていい。いろんな書き方があっていい。いろんな読み方があっていい。人と違っていい。それぞれがそれぞれのやり方で詩を抱きしめ、慈しんでいられる。それが詩を豊かにすることでもあるのだろう。

詩に権威や権力はいらない。たったひとつの詩がここにあって、その詩を握りしめる人がいる。それだけでいい。

昨日、目をみはった一編のように。

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