自分の詩がマンネリ化してきたら
ぼくは昔、親しい友人から、「松下さんの詩には飽きた」と面と向かって言われたことがある。
また、これは何十年も経ってから言われたことだけど、ある詩人は「初めて松下さんに会った時に、ああマンネリな詩を書いている人だな」と思ったそうだ。
ここで考えなければならないのは、当時ぼくは、たしかにマンネリで人に飽きられるような詩を書いていたけれども、自分では自分なりに一作一作、頑張っていたつもりだったことだ。
確かに、いつも似たようなものしか書けないなとは思っていた。でも、これしか書けないのだからという思いで、書ける詩を書いていた。
結局、しばらくして全く書けなくなってしまった。
それから数十年後、歳をとってからまた詩を書き始めたのだけど、あの時に、ではどうやったら新鮮な詩を書くことができただろうと、今でも考えることがある。
ただ、どう考えても、あの時はあの時のあんな詩しか書けなかった気がする。あれがぼくそのものだったし、あの時のマンネリ化した詩が精一杯のぼくだった。
それから、では今は新鮮な詩が書けているかというと、そんなことはなく、あの当時の詩と似たようなものではある。ただ、マンネリの奥底で書いてゆこうという覚悟はできている。
覚悟して書くだけで、詩の顔つきは変わるのかもしれない。
それで、自分の詩がマンネリ化していると感じた時にどうするかだけど、それはもうそれぞれで考えるしかないのだけど、ぼくの経験から言えることは、無理して新しいことを書こうとしないで、とことん自分のマンネリに付き合うのも、長い将来を考えたら、ありうる選択なのではないかということだ。
いったんダメになっても、それが自分なのだから仕方がない。キョロキョロよそを見回しても、そこには自分はいない。自分はここにしかいない。
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