「私たちはうすく酔った」 ー 池田俊晴さんのこと
「私たちはうすく酔った」
以前にもここに書いたことがありますが、私は中学生の頃、一人の少年とよく詩の話をしていました。その少年と一冊のノートに、お互いの詩を書き合って、お互いの詩を読み合っていました。ですからお互いにとっての、最初の読者であったことは間違いがありません。池田俊晴さんという名の少年でした。
その後、大人になって、一度だけ手紙のやり取りはしましたが、また会うこともなく月日はどんどん流れました。
再び会った時にはもう55歳になっていました。たぶん40年ぶりでした。その前の年に、池田さんが詩集を出したこともあり、私はむしょうに池田さんに会いたくなったのです。なぜ会わないで生涯を終えることができるだろうと思ったのです。
40年ぶりに会う場所は蒲田にしました。中学生だったわたしたちの家からさほどに遠くない駅です。その日、暖かな美しい空の下を、「40年まえ」という言葉を、自分の中に幾度もくりかえりながら、私は時々空をむいて、待ち合わせ場所に向かいました。
蒲田駅駅ビルの6階に、浮かぶようにしてある喫茶店で、「40年まえ」を待ちました。「40年まえ」はむこうから歩いて来て、ぎこちない挨拶をかわし、昼から薄暗い飲み屋へ向かいました。
知っているけど知らない人が、目の前にいました。池田俊晴さんは、半分は少年時の記憶どおりであり、半分は、その後の、私の知らない人が入り込んでいました。ビールをちびりちびり飲みながら話していた私も、ですから半分はその当時の少年であったと思います。だからはじめてのビールのように、私たちはうすく、酔いました。
昭和30年代を、貧しい京浜工業地帯で私たちは育ちました。ベークライト工場の多く並ぶ街を、詰襟に首を傷つけながら私たちは育ちました。夕方、時折池田さんがわたしを呼びに来て、二人で多摩川の土手を延々と歩きました。あれほど長い時間に、詩の、何を話していたのだったか。とにかく若い脚で、二人で延々と土手の上を歩きました。一冊の貧しいノートに、私たちは実に多くの詩を、実に多くの詩を、順繰りに書いていました。
「まさかこの歳になって、また会うことになるとはね」
「それもまだ、ふたりとも詩を書いているとは」
「うん」
その前年に池田さんは55歳にして初めての詩集を出しました。『ことばがさきにいくんだ』(七月堂)。送られてきたこの詩集を読む私も55歳であり、しかしその詩集の文字を見つめる目は、15歳の少年のものでした。
☆
バシャ! 池田俊晴
1 スプーン
暗いところから
ふっと
女があらわれて言う
「スプーンください。
死んでいった人の数と
同じ数だけ。」
頭のうえで
なにかをしきりに
掬うような感じで
ゆらゆら手が動いている
それが女の手なのか
自分の手なのか
はっきりしない
すこしづつ気分が明るくなる
誰も死んでいない
誰も生きていない
広い草原でスプーンが
光っている
2 夢のつづき
駅で並んでいると
目の前を回送電車が過ぎる
自分のしかめっつらが
ガラス窓に映って動いている
まだ小さい頃の自分の顔だ
ふっと海の匂いがする
だんだん溢れだした人たちが
溺れたようにもがいている
海鳴りの音がする
たぶん
海鳴りの
3 手
自分から
離れたり吹き寄せたりしている
いろんなものが
いっせいに声にならない唸りを
あげはじめる
かろうじて
手を延ばしてみるけど
なににも触れない
ただゆらゆら動いている
自分の手を
感じる
4 タンパク質
タンパク質という題で
詩が書きたいと思った
私はかなり酔っ払っていて
駅のホームから
ぼんやり川を眺めていた
暗い川の水面に
レンタルCDのオレンジ色の看板や
青と白の信用金庫の広告灯が映っている
そこだけ
きらきらと光っている流れの底の方に
大きな黒い影で
魚たちが泳ぎまわっている
ときどきバシャッ!っと
撥ねる音がする
ぼんやりそれを見ていて
バシャッ!っと
口の中で発音してみる
そしてまた
タンパク質という題で
いつか
詩を書こうと思った
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